旦那さまが大好きでたまらない奥さま方は、食べすぎる夫(兄)と食べなさすぎる夫(弟)に悩んでいるらしい
都合により、言語による表記ゆれがあります。
例)
カール(ドイツ呼び)=カルロス(スペイン呼び)=シャルル(フランス呼び)
フェルディナント(ドイツ呼び)=フェルナンド(スペイン呼び)
「あらー! イザベルちゃんったらお久しぶりですわ!
あなたって、ほんとうに真珠みたいにキレイ。お嫁さんにしたいナンバーワン・プリンセスと言われるだけのことはありますわ」
ベーメン・ハンガリー王ラヨシュ2世の姉アンナが、キャピキャピと飛び跳ねながら、駆け寄った。
「やだぁーっ! アンナちゃんだって、あいかわらず、とんでもない美人!
『いとも麗しく、いとも雅やか』だわー。
これってヴェネチアの使節が言い出したのでしたっけ? 言い得て妙ね」
対するポルトガル王ジョアン3世の妹イザベルもまた、くねくね身体を揺すぶりながらアンナを抱擁しに向かった。
彼女たちの関係は、義理の姉妹にあたる。
ベーメン・ハンガリー王ラヨシュ2世の姉アンナ。
その夫は、マクシミリアン先帝の孫、ハプスブルク家の大公フェルディナント。
一方、ポルトガル王ジョアン3世の妹イザベル。
その夫は、同じくマクシミリアン先帝の孫、ハプスブルク家のローマ皇帝カール。
と同時に、スペインではカルロスと呼ばれるスペイン王であった。
ふたりの若い娘は、スペインとウィーン、それぞれの宮廷名物を持ち寄り、それぞれの扈従に給仕させた。
「昔はイザベルちゃんをうらみましたわ」
弟フェルディナントの妻アンナは、スペインのイザベルが持ち込んだマーマレードに手を伸ばした。
マルメロとシチリアのレモン、セビーリャのビター・オレンジをハチミツで甘く煮てから、よく冷やして固めたマーマレードは、さっぱりと心地よい甘さで、アンナのくちもとをほころばせた。
だがアンナは、すぐさま険しい表情をつくり、口をとがらせて言った。
「だってハプスブルク家の長男カールさまと結婚するのは、この私だと思っていたのですから」
「あら。それはごめんあそばせ」
兄カルロスの妻イザベルは、悪気などみじんも感じさせず、ころころと笑った。
ジットリとうらみがましい目を向けるアンナをしり目に、イザベルは梨とマルメロの黒いケーキをつまんだ。
アンナが土産に持参したケーキである。
「おいしい!」
イザベルは思わずといった様子で、くちもとをおさえた。
「これって、生地はいったいなにでできているの? 酸味があるわね。でもアーモンドの香ばしさもある。かざりつけはクルミね。あら、これはシナモンの皮かしら」
イザベルがウィーン宮廷のケーキを褒めるので、アンナは鼻の穴をふくらませた。
「よく焼いた梨とマルメロに牛乳と卵を注いだものが、ケーキの生地でしてよ」
アンナは、まるでみずからがそのケーキを焼いたかのように、自慢げに語った。
「そしてご名答。イザベルちゃんの言う通り、裏ごししたアーモンドも入っていますの。シナモンの皮も、もちろんです」
「風味つけの香辛料、チョウジにジンジャー、胡椒は、カルロスさまの領港アントウェルペンから得たのでしょ」
イザベルも負けじと、アンナにはりあった。
「ええそうですわ。さすが香辛料貿易の大国、スペインね」
アンナは素直にうなずいた。
だがしかし、アンナの表情はふたたび、どんより暗く沈んだ。
「私がカールさまの妻だったら、いまごろ弟ラヨシュは、香辛料貿易の恩恵をいただいていたのかしら」
「そうねぇ」
イザベルはもぐもぐとケーキをほおばりながら、アンナに同情した。
「マクシミリアン先帝ったら、ハンガリーとの二重結婚で、婚約だけしておきながら、かんじんの旦那さまになる相手をハッキリさせないなんて、ずるいわよね」
アンナはイザベルの言葉に、ウンウン、とうなずいた。
「まったく。高度で慎重な政治的判断だかなんだか知らないけど、先延ばしにしすぎなのよ!」
イザベルが義理の祖父、ハプスブルク家の偉大なるマクシミリアン先帝をなじれば、「まったくですわ!」と、アンナはぷんすか憤った。
アンナの父ベーメン・ハンガリー先王ウラディスラフが、カルロスとフェルディナント、ハプスブルク兄弟の祖父マクシミリアン先帝と、彼らの子孫による二重結婚をきめたとき。
ウラディスラフは娘婿に、いずれローマ皇帝となるであろう、長男カルロスを望んでいた。
だが、のらりくらりと長らく返事をせず、ようやくマクシミリアン先帝がアンナの夫と決めたのは、弟フェルディナントであった。
ちなみにアンナの弟、ベーメン・ハンガリー現王ラヨシュ2世の妻は、カルロスとフェルディナントの妹マリアである。
そしてイザベルの兄、ポルトガル現王ジョアン3世の妻は、カルロスとフェルディナントの妹カタリナ。
わけがわからん。
二重結婚しすぎである。
「でも」
そこで言葉がとぎれたかと思えば、アンナはポッと頬を染めた。
「だからこそ、フェルディナントさまと結ばれることができたのだから、よかったのですわ」
アンナは熱くなった頬を両手ではさみこみ、イザベルをちらりと見上げた。
「フェルディナントさまってば、ほんとうに素敵な旦那さまで」
うっとりと夢見心地なアンナの目は、熱病をわずらっているかのように、トロンととろけた。
「弟ラヨシュには悪いけれど、これでよかったと思っていますの」
「そうね。あたしもカルロスさまが大好きだから、アンナちゃんがカルロスさまの妻になって、あたしがフェルナンドさまの妻になる。なんてことにならなくて、本当によかったわ」
しみじみとうなずくイザベルを、アンナはにらみつけた。
「それってどういう意味でして? フェルディナントさまの魅力がカールさまに劣ると言いたいの?」
「ちがう、ちがう。誤解よ」
あわててイザベルは否定し、それからすこしばかり、顔を曇らせて言った。
「フェルナンドさまは、スペイン宮廷人からも評判の好青年ですもの」
アンナの夫である弟フェルディナントは、彼と同名の母方の祖父、アラゴン先王フェルナンド2世に溺愛されて育った。
スペインという国は、できたてホヤホヤ、生まれたてベイベーな国だ。
アラゴンとカスティリヤという、ぜんぜん違う国がくっついてできた。
祖父アラゴン先王フェルナンド2世と祖母カスティリヤ先王イザベル1世がラブラブ結婚。
アラゴンとカスティリヤが、カトリック両王によって共同統治され、スペインとなる。
実は、カスティリヤとアラゴンの他に、カルターニャやバレンシアなどのアラゴンとの連合王国だったり、新大陸の領地、加えてナポリやシチリアなど海外の属領も含まれる。
しかし、スペインの諸国家・諸州についてうんぬんしだすと話が終わらないので、先に進むことにする。
さて祖父アラゴン先王。
彼ときたら、娘フアナより、孫フェルディナントのほうが、ずっとラブだった。
祖父アラゴン先王は「こいつやべぇ。狂ってるわ。孫にも、ちょー悪影響ジャン」と、実の娘に対して、幽閉までしでかすのである。
そのように祖父アラゴン先王から溺愛されたフェルディナントだが、彼は厳格なスペイン宮廷にあって、当然のごとく、清廉潔白で信仰心厚く育った。
それでいて陽気で気さくな、教養ある青年であり、アラゴン先王だけでなく、スペイン人によく愛された。
また彼は、享楽と官能の渦にあったルネッサンスを生きた同年代のひとびとからは理解しがたいことに、女を知らない清いカラダ――つまりチェリーボーイのままで、アンナと結婚した。
弟フェルディナントとは、快活で愛情深く、それでいて禁欲的。
童貞力つよつよな、ピュアっこ陽キャボーイだった。
「もちろん、フェルディナントさまは素敵な方ですから、どこへ行っても人気者ですけれど」
アンナはコロリと元気になり、イザベルにたずねた。
「イザベルちゃん、おつらそうですわ。どうなさったの?」
イザベルの夫である兄カルロスは、叔母であるネーデルラント総督マルガレーテの宮廷で育った。
マルガレーテは慈悲深く、古典の教養に優れ、抜きんでた政治家であることで高名だった。
彼女の宮廷メッヘルンは、当時もっとも高い教養をほどこされると人気で、数多の令息令嬢が預けられた。
預けられた子どもたちはみな、個性が損なわれることなく、子どもらしく、すくすくとのびやかに。
また同時に、マルガレーテの深い愛情と教養の手ほどきによって、優れた人材が育っていった。
なかでもマルガレーテは叔母として、甥カルロスをのちのローマ皇帝にすべく、特に気をかけて育てた。
陰キャでややコミュ障なカルロスは、そこで、敬虔で誠実なルーヴァンの司教アドリアン――のちにカルロスがスペイン不在時に王の代理人をまかせ、またそののちにローマ教皇となるハドリアヌス6世である――に学ぶ。
この司教、とてつもなくストイックで理想主義な御仁だった。
彼はローマを中心に堕落しつつあったキリスト教を、めちゃめちゃ憂いていた。
かといって、免罪符に怒髪天をつき怒り狂ったルターがしたように、プロテスタントに転ぶわけではなく。
純粋な信仰心を求める敬虔主義的精神を大事にしていた。
そういった師を持ったことで、カルロスもまた、強烈な使命感を帯びたカトリック信者となる。
これは後に、カルロスが高潔なカトリック皇帝として、教皇に敬意をはらい続ける根拠となった。
しかしながら彼は、堕落したローマを目の当たりにし、その矛盾に苦しみもした。
カルロスの人生とは、絶え間のない旅と苦悩に満ちていた。
信仰心とは、愛とは、使命とは。
といった、小難しいことを延々と悩み続け。
ある部分においてはストイックだが、ある部分においては、わけのわからない理屈を無理やり当てはめ、めっちゃルーズ。
といった、インテリ陰キャ無口な、ちょっぴり偏屈シャイボーイがカルロスだった。
容易に人を信用しないが、この人と決めたら、視野狭窄に熱烈盲信するところなど、現代人でも見かけそうである。
さて、話を戻そう。
成人したカルロスはブルゴーニュ公国の君主となり、叔母マルガレーテのメッヘルン宮廷からブルゴーニュへと居住をうつした。
豊かで派手好きなブルゴーニュ人は、質素で厳格なスペイン人とは対照的だった。
華やかな祝祭やら音楽やら。
武芸大会、きらびやかな衣装に美酒美食。
パリピなブルゴーニュ人が好むのは、金のかかるものばかりで、ちょいダサなスペイン人には理解しがたかった。
アラゴン先王フェルナンド2世は、当然、スペインの宮廷で育った同名の孫フェルディナントをスペイン王にしたいと切望していた。
なにしろ兄カルロスは、当時、スペイン語を読むことも話すこともできなかったのだ。
それにも関わらず、マドリードで生まれ、スペインで育ち。
スペインでは祖父アラゴン先王に同じく、フェルナンドと呼ばれたフェルディナントではなく。
スペイン王となったのは、兄カルロスだった。
フランドルで生まれ、メッヘルンで育ち。
ブルゴーニュではブルゴーニュ君主であった曾祖父、シャルル突進公と同名のシャルルと呼ばれ。
オーストリアではカールと呼ばれる兄カルロスが、スペイン王に。
「スペイン宮廷人はなにかと、フェルナンド王子がいかにすばらしかったか、当てこするの」
「それは大変でしたわね」
イザベルのぼやきに、アンナは同情した。
しかし内心では「それはきっと、ブルグント人(=ブルゴーニュ人)の横柄さも原因だったんだわ」と思った。
なにしろカルロスがスペイン王となったばかりのとき、要職をブルゴーニュ人でかためてしまったのだ。
采配したのは、カルロスが当時頼りにしていた宰相シェーブル侯。
だが、外国人の王を認めなくてはならなかったスペイン宮廷人にとって、カルロス憎し、になるのは当然である。
「それでも今となればスペイン人も、神聖なる皇帝陛下と、カールさまを敬っているのでしょう?」
アンナは、とりなすように言った。
「カール様の素晴らしさを、スペイン人もちゃんとわかっているのですわ。
遅くはありましたけれど、それはしかたがないでしょう。カールさまはスペインで、外国人でしたもの」
「ええ、そうね」
イザベルはほほえみ、真珠のようにきめ細やかな白い肌に血色が戻った。
シェーブル侯に代わって、サヴォイ人のガッティナラが宰相職についてから、スペイン宮廷は落ち着いた。
ガッティナラとは、祖父マクシリアン先帝と叔母マルガレーテ大公妃の補佐をつとめてきた、優秀な政治家である。
彼は身分の高い低いを問わず、能力に優れた事務家を登用し、スペインの財政を劇的に再建した。
「それにね、カルロスさまがスペインにいてくださるから、あたしだけでなく、皆が幸せそうなの」
イザベルは、はにかんで言った。
旅から旅へと駆けずりまわっていたカルロスが、ようやくスペインに、7年という長期間、腰を落ち着けられたことも大きい。
カルロスは、スペイン語を習得し、スペインの気風になじむようになった。
それでスペイン宮廷人は、カルロスを陰キャ・コミュ障、理解不能な外国人の王ではなく。
犯しがたい威厳のある、めっちゃカッコいいスペイン人の王と見なすようになった。
ちょうどそういった過渡期に、イザベルはカルロスのもとへ嫁いできたのである。
「でもね」
イザベルはテーブルの上で、こぶしをギュッと握りしめた。
「幸せだからといって、食べすぎるのはよくないと思うの」
どす黒い不穏な空気をまとったイザベルは、「ねえ。聞いてくれる?」と、たちの悪い酔っぱらいのように、アンナにからみだした。
アンナはコクコクとうなずいた。
「あのね、あのね。カルロスさまのご立派なお体は、とても好きなのよ。あたたかくて、おっきくて。おっぱいもやわらかいし」
いったいコイツはなにを言い出すんだ、とアンナは思ったが、イザベルの深刻そうな表情を見て、つっこむのはやめた。
「だけどね。やっぱり暴飲暴食はよくないのよ。からだによくない」
イザベルはウンウン、と自分自身のセリフにうなずいた。
「大好きなカルロスさまには、ずっと健康でいてほしいの」
「すてきな夫婦愛ですわね」
「そうでしょうっ!?」
アンナがてきとうに追従すると、イザベルが目を血走らせて、身を乗り出してきた。こわい。
「だからね、あたし、カルロスさまのために、精進料理をつくることにしたの。幸運にもスペインでは香辛料が豊富に手に入るし」
「香辛料に関係がございますの?」
アンナが首をかしげると、イザベルはドヤ顔で胸をそらした。
「すくなめの脂や塩でも、香辛料の風味で調和のとれた、味のいい食事が作れるのよ」
「まあ! 痩身に最適ですわね!」
「カルロスさまに、痩せる必要はない」
イザベルは即座にぴしゃり、切り捨てた。
アンナはしらけた顔つきで、「そうでしたわね」と投げやりにうなずいた。
イザベルはアンナの様子を気に留めず、ふたたび情熱的に語りだした。
「それでも、カルロスさまには、いつまでも健やかでいてほしいから、断腸の思いで痩身の品書きを考案したの」
結局、痩身じゃねぇか、とアンナは思ったが、賢明にも口をつぐんでいた。
「カルロスさまも、最初は喜んで食べてくれていたのよ」
イザベルは眉間におそろしいほどのシワを寄せて、うなった。
「アウグスブルクの豪商ヴェルザー家直伝、かわかますの酢漬け。
パセリの茎と、玉ねぎ、たっぷりのお水でじっくりコトコト、二時間煮詰めて。それからその煮汁にパンのかけらを入れて、酢とサフランと砂糖」
険悪な顔つきで、つらつらと調理法を語り出したと思えば、イザベルはがばりと顔を上げ、声を張り上げた。
「わかる? サフランよ! 超高級香辛料じゃないのよ!」
「ええ、ええ。そうですわね」
アンナはあわててあいづちを打った。
「このサフラン入り特製スープを、煮たかわかますにかけて、蒸すの。おいしいのよ」
「おいしそうですわね」
アンナは追従した。
「そうでしょうっ!?」
イザベルはますますたかぶり、熱くなった。
「それなのに、カルロスさまったら、結局、鰻のパイ、鮭のモモ肉、オイルサーディン、牡蠣、お肉、牡蠣、お肉、牡蠣、お肉……!」
イザベルは獰猛な野犬のようにグルグルとうなった。
かと思えば、つぎにはあたりいったいに響き渡るほどの大声で、大絶叫した。
「あたしに隠れてこっそり、朝から冷たいビールを飲んでいるのも知っているんだからぁーっ!」
だからぁーっ、らぁーっ、らーっ、らー、ー……。
イザベルの叫びは、エコーとなって残響した。
はぁ、はぁ、と荒い呼吸を繰り返し、イザベルは大きく肩を上下させた。
アンナはそっとイザベルに寄り添い、背中をなでてやった。
「カルロスさまったら、ぜったい! 修道院に隠遁することになっても、美食をやめないと思うわ」
義妹アンナの、同情に満ちた目を見つめて、イザベルは訴えた。
「今だって四旬節でさえ、肉を食べないだけで、けっきょく美食に舌鼓をうっているのだもの。キリスト教の守護者を名乗るくせに!」
「フェルナンドさまはいいわよね。とても禁欲的だと聞くもの。食事のせいで、なにか心配をすることはないでしょう」
イザベルは最後に、ぽつりとつぶやいた。
しかしここで、なにやらアンナも反撃に出ることにしたようだ。
「なによぅ。フェルディナントさまだって、たいがいですわよ」
「えっ?」
アンナがジットリと据わった目をするので、イザベルは驚いた。
「だってフェルナンドさまは、質素な食事を好まれるんでしょ? ブルゴーニュの破天荒な暴飲暴食を嫌悪していると聞いたけど」
「フェルディナントさまは、行き過ぎなのですわ!」
アンナは吠えた。
「彼ったら、質素な食事を一日に一回しかとらないのです!」
「えっ」
イザベルは仰天した。
一日に一食?
それはいったい、どこの皇妃だ。
とんでもない佳人で知られ、めちゃくちゃ美に執着して、夫から愛されていたものの、姑と反りが合わずに、一生を旅して回り、最期には人違いというか、なりゆきで暗殺されたハプスブルク皇妃のようではないか。
いやいや、だめだめ。
ハプスブルクの実質的な最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ、その妻エリーザベトは、まだこの時代、生まれてもいない。
「あんなに早起きなのに、朝から仕事をして、昼まで何も食べず、飲みもしないのです。そしてお昼に簡素な食事をしたら、一日の食事は、もうそれでおしまい」
アンナは嘆いた。
「同じ習慣を家族に強要しないとはいっても、やりにくいったらないですわ」
それはそうだろう、とイザベルはアンナに同情した。
「子どもたちだって『父上はお食事をされないのですか? もしかして、母上が父上にイジワルをして食べさせないんじゃ……』なんて言ってきますし。
子どもたちから見た私って、どんだけ鬼なのかしら」
ガックリとうなだれるアンナに、イザベルはかける言葉が見当たらなかった。
するとそのうち、アンナはぶるぶると震え始めた。
そして叫んだ。
「それもこれも、フェルディナントさまが、食べなさすぎるのがいけないのですわ!」
「食べすぎなくても、困ることってあるのね」
イザベルはほう、とため息をもらした。
若い娘ふたりは、どちらともなく目を見合わせた。
互いの瞳に、己と同じように、夫のクセつよキャラに悩む、あわれな妻の姿を見つけた。
「カルロスさまのことは大好きだけど」
イザベルが言った。
「わたくしも、フェルディナントさまを愛しておりますけれど」
アンナが言った。
イザベルとアンナは、同時に息を吸い込んだ。
そして。
「「愛しの旦那さまでも、こまっちゃうことは、あるのよね〜!」」
ふたりのお姫さまは、声を重ねて嘆いた。
◇ ◇ ◇ ◇
ところかわって。
こちらは、壮大なるアルプス山脈にかこまれ、きわだって自然が美しいインスブルックの屋敷である。
といっても、さきほどのお姫さまふたり。
イザベルとアンナは、すぐとなりの部屋で、今も楽しく、夫の悪口に花を咲かせている。
ふたりの笑い声は、さざなみのように、ときにはラッパのように、こちらの部屋へと届いた。
室内には、ハプスブルク家の男がふたり。
その静けさときたら、まったく。
まるで死者を悼む、葬式のようであった。
「なんと。最愛の妻イザベルは、私のことをそのように……」
兄カルロスは顔面蒼白で、息も切れ切れ言った。
「アンナ、僕が悪かったよ。今度からはひとり、食事の部屋を移して、食事内容や頻度が子どもたちにわからないようにするから」
弟フェルディナントはさめざめと泣きながら懺悔した。
そこで兄カルロスが、弟フェルディナントの言い分に眉をひそめた。
「いや。おまえの妻アンナは、そういうことを言いたいのではないと思うが」
「そう言う兄さんこそ」
弟フェルディナントは、兄の苦言に顔をあげた。
彼の頬には、涙の筋が白く残っていた。
「朝っぱらからビールって。いくらなんでも、それはさすがにどうかと思うよ」
弟フェルディナントが兄カルロスを糾弾すれば、兄カルロスは顔を真っ赤にさせた。
「う、う、う、うるさい!」
カルロスはカミカミになりながら怒鳴った。
「食事をするには、水分がなくては、飲み込めぬだろう!」
下顎が突出しがちなハプスブルク家にあって、カルロスはどちらかといえば、強烈なタイプに分類されるかもしれない顎の持ち主で、かみ合わせが悪く、食事はたいがい丸呑みだった。
しゃべりかたも、ちょっとばかり舌ったらず。
彼の妻イザベルは、カルロスのそういった鈍重そうな様子でさえも、「なんてかわいいカルロスさま♡」と愛でてくれていた。
「ビールでなくても、水分はとれるでしょうに」
弟フェルディナントが冷めた目つきで兄を見れば、兄カルロスは「父を思い出せ」と厳しく叱責した。
「我らの父フィリップは、狩りの途中で飲んだ、冷たい水に当たって客死したではないか」
「たしかにそうだったね」
弟フェルディナントは、うなずいた。
兄カルロスは、弟フェルディナントの同意を得られたことで調子にのった。
「水というものは、どのような病をもたらすかわからぬ。おそろしい」
厳めしい顔つきを、さらに険しくさせ、カルロスはことさらおそろしげに強調した。
「そうは言っても、朝からビール……」
「それにしても!」
兄カルロスは弟フェルデイナントの声を、おもいっきり、さえぎってやった。
兄カルロスへと、うろんげな目つきを向ける弟フェルディナント。
兄は素知らぬ顔で、弟にたずねた。
「彼女たちはそれぞれスペイン語にドイツ語で、なぜああも、話が通じ合っているのだろう」
「それな」
弟フェルディナントは即答した。
兄カルロスと弟フェルディナントはその出自と経歴から、スペイン語とドイツ語の両言語とも解し、しゃべった。
だが彼らの妻、イザベルとアンナは、それぞれのお国言葉でしゃべり続けていたのであった。
『妻のなす夫の悪口とは、驚くべきかな。言語を超える』
そのような仮説が、ハプスブルク家の兄弟によって立てられた。かもしれない。
◇主な参考文献
「カール五世 : 中世ヨーロッパ最後の栄光」:江村洋 著、東京書籍
「ハプスブルク 愛の物語 : 王冠に勝る恋」 : ジクリント=マリア・グレーシング 著、江村洋 訳、東洋書林
固有名詞にさまざまな言語(のカタカナ読み)が混じり、言語の統一性がないことなど、史実に忠実でないことをお許しください。
◇ ◇ ◇ ◇
最後までご覧くださり、ありがとうございました。
同企画での投稿作品「大食漢カルロス1世の胃袋をつかんで、愛妻家な彼の可愛い奥さまをつとめます(https://ncode.syosetu.com/n8723ik/)」でいただいたご感想のおかげで、今作を思いつきました。
当該読者さまをはじめに、前作や今作をご覧くださり、ほんとうにありがとうございます!