#8
◇◇◇
自室のベッドでうつ伏せになり、手足をできる限り弛緩させる。「あーーーーーーーーーーーーーーーーー。」と夜中の冷蔵庫のような唸り声を出しながら心を無にする。俺の頭は
完全にバグってしまっているようだ。(あれは何だったんだろうか…。)普段のなーちゃんからは想像ができない冷たい声と表情が瞼の裏に焼きついて離れない。今でも信じがたい光景であった。
『正木君だけはダメ。』
だけと言われるほどの何かを俺は彼女にしたのだろうか。寝返りをうって今度は仰向けになる。心当たりを探ってみるがやはり何も思い当たらない。クラスメイトとして距離間は決して近いとは言えず、一緒に何かした思い出など皆無だったからだ。理不尽な怒りが湧いてくると共にまた寝返りを打つと、今度は壁に貼ったスピカと目が合う。そこで何か大切なことを忘れている事に気づく。順番に体を捻ると、無機質なスチールラックの上に置かれた、大きめのデジタル時計が目に入った。時計は22時を2分ほど過ぎた時刻を示していた。
◇◇◇
『あ゛ーーーーーーーーーーー!!!!』
1週間前から楽しみにしていたスピカの生放送の日だったのだ。開始時刻は22時00分。慌ててPCの前に座り、アクセスする。すでに生放送が始まってはいたが、オープニングの挨拶をまだしている途中のようで遅刻してきた視聴者に向けてスピカが『遅刻だぞ〜☆』と言っている所であった。
天音スピカは今徐々に人気が出ているVtuberだ。と言ってもTwitterのフォロワーは7000人くらいなので、マイナーの部類に入ると言える。明るいライトブルーの髪色をサイドテールにし、ピンクの瞳の中にはキラキラと星が輝いている。あまり話は上手くないがその絶妙な喋りのヘタさが商売っ気をあまり感じさせないので、逆に好きだったりする。そして何より歌が上手い。これが理由で俺は彼女のファンになった。Vtuberというものに今まで興味があった訳ではない。放送の頻度を上げれば爆発的にファンが増えると思ってるが、あまり人気者になってしまうのも寂しいとも思うので、生放送を不定期開催するくらいの現状維持が俺的にはベストだ。
(はぁ〜。癒される…。)うっとりとスピカの顔を見つめるとなーちゃんの顔が自然と浮かんできた。今日のことがあったから、というのもあるが、顔の造形や雰囲気が何となく似ている気がする。
頭の中でパチリと火花が散った。
(もしかして…なーちゃんは天音スピカなんじゃないだろうか…。)とんでもない話ではあるが、そうであるとするなら今日の彼女の態度に合点がいく。
というよりも他に理由がない。天音スピカのファンである俺だからこそ身バレを恐れてあのように言ったのではないだろうか?
そして俺が彼女に初めて会ったあの時感じた懐かしさにも似た恋心の正体にも合点がいく。
もはや気分は名探偵だった。胸が高鳴った。こんな何気ない日常にこんな運命的な出会いがあったなんて…。しかし、心の片隅でそんな訳あるはずがない。彼女が俺をこっぴどく振ったのは何か他に理由があるだけで、初めて会った時感じた懐かしさは勘違いで…。自分にそう言い聞かせるために頬杖を突きながら声に出してドラマのように呟いてみる。
「そんなこと、あるわけねーよなぁ…。」
その演技は三流も良いところだ。僕は自分自身も騙さずにいる。