#2
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そこから先はよく覚えていない。どんな無様な姿でそこを去ったのか。気づけば親友の榎本が俺の部屋を訪ねて来ていた。卒業式。そんな特別な日に奴はいつもと変わらず当たり前の様にそこにいた。
黒のツルツルした天板の折りたたみテーブルを挟んでつぶれた座布団に座る榎本。ここが奴の定位置だ。もはや自分の家の様に遠慮なく足を崩している。
夏に部活を引退して以来伸ばしている前髪を一昔前に流行った馬鹿でかいピンで留めている。馬鹿にはぴったりの髪型だ。本人はイカしてるつもりの様だが俺はずっとそう思っていた。持ち込んだ極彩色のペットボトルの炭酸飲料をおもむろに口へ運び、いつもの気だるそうな声色で話す。
「なんでだよ。さっちゃん『正木くん結構好き〜』って言ってたぞ。あそこから何があって振られてんだよ。」
眠そうなタレ目と対照に釣り上がった眉毛が腹立たしい。いつもと同じ顔なのに今日はなんだか妙にムカつく。
そんな言葉を話半分に聞きながらベッドを背にして奴の対面に俺は座っている。胡座をかき、推しのVtuberの雨音スピカの等身大クッションを抱きしめ、ムカつく顔から目を離し、虚空を見つめる。
「こっちが聞きてーよ。」
壁に貼ってあるポスターの中のスピカと目が合うと、彼女は俺に優しく微笑みかけてくれたように見えた。
「なんか相手がドン引くようなこと言ったんだろ?昨日は君をオカズにしました〜とか。」
机の上に広げたスナック菓子をつまみながらとんでもない事を言う榎本に虚だった意識が急に現実に戻って来た。
「そんなこと言うわけないだろ!俺はお前と違って性欲猿じゃねーんだよ!このエロモト!!!」
自分が出そうと思っていたよりも遥かに大きな声量で出た言葉に自分自身で驚いた。榎本も驚いた様に一瞬目を見開くが、すぐにいつものニヤケ顔になる。
「で?じゃあなんでさっちゃんにこっぴどく振られたのか教えてくれよ。」
『教えてくれよ。』その言葉は答えに確信を帯びている様子だ。今までの会話の流れだって全部奴の予定通りだったはずだ。榎本のニヤケ顔が妙に腹立たしいのもそのせいだ。そしてその予定調和に何かを期待してわざと乗っかっている自分がいる。
一方で別の期待に満ちたその顔に、期待していた通りのものを差し出すと榎本は目を輝かせた。小さな便箋が2枚。
そう。俺が書いた手紙《ラブレター》だ。
榎本は待っていましたと言わんばかりにその紙を受け取る。姿勢を正し、真剣な顔をして紙に視線を落とす。
一度眉根を寄せてわざとらしく深刻な表情を作るが、それは瞬く間に崩れていった。口に変な力を入れているせいか変なところにシワができている。1枚目の紙を読み終わる頃には、肩を震わせ口を固くギュッと結んだまま、呼吸をしようと鼻がぴくぴく動いていた。
鼻からの酸素供給が間に合わなかったのか口の中央が僅かにひらくと、堰を切ったように笑い声が溢れ出た。
「ブッッッッわっはっはっはっはっ!!!!」
六畳の小さな部屋に不快な声が響き渡る。
「ちょっちょっとまって!せ…背中が痛い痛い痛い…。」
人は笑いすぎると背中が痛くなるらしい。痛みと呼吸困難と顔面の筋肉の引き攣りとで榎本は辛そうに机に突っ伏す。背中の痛みや声にできない言葉を発散するために、安っぽい光沢の机をバンバンと叩くと、そこから伸びる太めの針金を曲げた様な形の金属の脚がガタガタと揺れた。
そんな親友の姿を冷めた目で見つめ続けるが、そんな視線などお構いなしに榎本は笑い続ける。
しまいには涙を浮かべる始末だ。目尻の涙を指ですくう動作をみて、あの日以来モヤがかかっていた頭がすっきりとして来た。
そうだ。彼女はあの後顎が外れたんだ。今目の前にいる榎本と同じ様に笑いすぎて。