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キィィィっとハンカチを噛み締めて地団駄を踏みたい気分の真希だったが、あいにくハンカチは持っていないし両手もフリーでない。
男を睨みつけていた真希だったが、ふっと息を吐いた。男がおやっと眉毛を上げた。
「分かった。もうしないから離してよ。私はあなたと取っ組み合いの喧嘩がしたいんじゃなくて家に帰りたいの。殴りかかったことは謝らないわよ。正当防衛だから。」
「切り替えも早いですねえ。冷静な判断だ。」
男はあっさりと真希の両手首を離した。
またイラッとした真希だが、流すことにした。この男の言う通り、くやしいが真希に勝ち目はない。だったら敵対しても意味がない。
「あなた、扉を開けて入ってきたわよね?もう一回開けてくれる?外に出ましょう。」
「それはできません。」
男がきっぱりと告げた。
「なんでよ!こんな狭苦しいところにいてもしょうがないじゃないの!」
「それがですね…その、どこから説明していいやら。あ、僕の名前は榊原努です。はじめまして。」
榊原は何かを期待するような目をして真希を見た。
「…水川真希です。」
真希は不貞腐れながら答えた。一応、名乗られたからには名乗らないとフェアではない。
「真希さんとお呼びしても?」
「ドーゾー。」
「僕のことは努と呼んでください。」
「イエ、榊原さんでケッコウデス。」
「そうですか…残念ですが、また次の機会に。」
次の機会なんてねーよ、と真希は腹の中で毒吐く。さっきから榊原のペースにはまっているのが面白くない。
「で、そのですね、」
—— ガタンガタン!!!
エレベーターが上下左右に揺れた。
「っ!ちょっと!何!」
激しい揺れに真希は立っていられない。榊原が真希の体をエレベーターの角に引き寄せると、真希の頭を抱えるようにして抱きしめた。
揺れはしばらく続いた。下から突き上げるように床が揺れたと思えば、横から振り子のように揺すぶられる。
真希は放り出されないように榊原にしがみついた。榊原はびくともしない。やはり鋼の体幹のようだ。
ようやく揺れが収まると、真希は恐る恐る息を吐いた。
「…なに?地震?やばくない?エレベーターにいるの。」
「地震ではないですよ。外のものが少々悪さをしているようです。」
「外のもの?え、イタズラってこと?」
「そんなに可愛いものではありませんが…そうですね、この世の理とは外れた存在です。」
「…どういうこと?」
何言ってんだコイツ、と一蹴することはできなかった。今の時点ですでにいろいろと常識から外れている。
「うーん、そうですね。どこから話しましょうか。」
榊原は真希の頭の上に顎を乗せると、真希の髪の毛を指でくるくると遊ばせている。
仕事中はひっ詰めて後ろに一つに結んでいる髪の毛は、仮眠をした時に解いてしまっている。
っ!何でまだしがみついてるんだ!私は!
真希は榊原の胸をぐっと手で押した。くやしい、こんな得体の知れない男の胸で落ち着いてしまうとは。
体が離れた榊原は残念そうな顔をすると、真希に手を伸ばしてくる。真希はその手を思いっきり叩いた。
「で!なんなのよっ!今のっ!」
真希は噛み付く勢いで榊原を睨んだ。榊原は何でもない風にヘラッと笑っている。
おかしい、真希の睨みはそれだけで大の男もすくむ位の眼光…だと道場では言われているのに。冗談半分だけど。みんな、悪ノリするから。
「これはですね、この世の理とは外れた存在です。」
「それは聞いた。」
「今日はちょうど夏至なんで魔の扉が開きやすくなってるんですよ。」
「…は?」
話が飛びすぎだろう。やっぱり危ないやつだったか。真希は榊原との距離を取った。
この男の長いリーチなら軽く一歩踏み出せば埋まってしまう間隔だが、ないよりマシ。コンマ数秒でも反応する余裕が欲しい。
「真希さんは夏至をご存知ですか?」
「そりゃ知ってるわよ、夏至が来たら夏でしょう。」
夏に至ると書くのだ。夏至に然り、冬至に然り、この日から正式に季節が変わりますよー!みたいなお知らせでしょう。
「そう、そうなんですよ。」
榊原は神妙に頷いた。それから、ね?分かったでしょう?という目で真希を見た。
「それが?」
真希が冷めた目で見返す。この男のペースには乗ってやらない。
「夏至というのは太陽黄経が90度になる時です。」
真希はきょとんと榊原を見つめた。
タイヨウコウケイ?
「太陽黄経というのは—— 」
「ストップ。多分聞いても分かんないからいい。」
今レクチャーを受けたところで、頭に入らないだろう。まあ日中でも分かんないだろうけど。理科の匂いがする。理数系、ニガテ。