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—— ギャギャギャギャ
——キー!キー!キー!
—— ゴゴゴゴゴゴ
途端に耳をつんざくような音の洪水が流れてきた。真希は思わず両手で耳を塞ぐと、扉を凝視する。足は肩幅に開き、腹に力を入れて重心を落とす。いつでも動ける準備だ。
もわっとまとわりつくような空気が真希の体を包んだ。全身に鳥肌が立つ。異臭が流れ込んできた。
エレベーターの蛍光灯がチカチカと点滅すると、プツリと光が切れた。小さい非常灯だけが申し訳程度に頭上に灯っている。扉の外からは白と黒を混ぜたようなまばらな色が入ってくる。扉が20センチほど開くと、人影のようなものが見えてきた。
真希は耳から手を離すと、ファイティングポーズを決めた。音などに構っている暇はない。護身術は警察官の父親から一通り習っている。逃げるのが一番の策だが、逃げ切れないときは戦え、という父の教えは体に染み付いている。
強行突破するか。
殴るか、蹴るか。それが問題だ。
真希はぺろりと乾いた唇を舐めると、さらに重心を低くした。パンツスーツでよかった。
人が通り抜けられるくらいの幅が開いた。今だ!と真希が飛びかかろうとした瞬間、今までの比でない、つんざくような悲鳴が轟いた。音の振動でエレベーターがガクンガクンと揺れる。真希は壁に手をついて転びそうになる体を支えた。
「っ!」
「うるさい」
その男(声からして男だ)の声は、音のカオスの中で驚くほどよく響いた。冷酷に切り捨てるような声。
真希は全身の毛が逆立った。この男はヤバい。真希の本能が警告を鳴らしている。
男は扉を越えて中にひょいと入ってくると、後ろ手に扉を閉めた。閉める瞬間、何かを外に放ったのを真希の目は捉えた。真希がどれだけ力を入れても動かなかった扉は、男の手によってあっさりと閉じられた。自慢じゃないが真希は学生時代から男子顔負けの握力を誇っていたのだ。
どうする、逃げ場はない。やっぱり先手必勝か。
真希が地面をぐっと踏み締めたタイミングで、男が朗らかに話しかけてきた。
「やあ、お嬢さん。ご一緒してもいいですか?」
「…はい?」
一瞬返事が遅れたのはしょうがない。まさか話しかけられるとは思わなかったのだ。
「こんな若いお嬢さんにお願いするのは心苦しいのですが、おじさんにはおじさんの事情がありましてねえ。」
「はい?」
「しばらくの間、夜が明けるまで、申し訳ないのですが同じ空間にいさせてもらえないかと。」
「え、いや、その…」
「大丈夫です。今日は夏至。一年で一番夜が短い日ですから。あっと言う間に夜明けですよ。」
「はあ…」
にこにこと笑う男に毒気を抜かれた真希は、男をまじまじと見つめた。
薄暗い中では細部までは分からないが、男は少しくたびれたスーツを着ている。長身の真希が見上げるくらいだから、180センチは越えているだろう。電車のホームですれ違ったら、ちょっと背の高いどこにでもいるサラリーマンだと思うだろう。眉毛を下げて笑う目元、その丸メガネが間抜けだ。
だが真希は男の姿勢を見逃さなかった。なんでもない風に立ってはいるが、重心はきっちりと真ん中、体幹が強く、足腰もしっかりとしている。今、真希が殴り込んだら簡単に手首を捻られるだろう。
真希は小さい頃から父親に連れられて警察の道場に通っていたのだ。目の前の男は、筋肉量に任せて押すタイプというより、しなやかな身体と機敏性で勝ちにくるタイプだ。
こやつ、できる。
真希は解けそうになる警戒を引き締めた。
でも、その前に…
真希はこめかみに血管が浮かびそうになった。
嫌味か?ああ?嫌味なのか?
男は真希を若いお嬢さんと言ったが、この男は20代半ばか、後半に差し掛かったところにしか見えない。下手したら真希より年下だろう。
お嬢さんて。自分のことおじさんて。
「そんなに爪を立てる子猫ちゃんみたいにしなくて大丈夫ですよ。僕はあなたを傷つけません。誓います。」
「子猫ちゃんって!」
真希は抗議する。
「ああ、すみません。可愛らしくてつい。」
男はクスリと笑った。
イラッ
怖さと緊張感で強張っている真希は、怒りの動線が短くなっている。腹立ちまぎれに男に殴りかかると、案の定、あっさりと右手首を捕まえられた。
「いやー、いい身のこなしですね。なにか運動を?」
男はにこにこしながら真希を見ている。が、手首は離してくれない。
「こんなにあっさり捕まえられていい身のこなしとか言われてもうれしくないわっ!離せ!」
「すみません。でも、離したらまた殴りかかってくるでしょう?今スペアのメガネは持ってないのですよ。これがないと困ってしまいますから。」
そう言われたら壊したくなるのが人の常。やってはいけないと言われるとやりたくなるものだ。
真希は間髪入れずに左手で男のメガネを掴みにいった。が、この手もあっさり捉えられる。
「すばらしい反応ですね。レスポンスが早い。」
「嫌味かっ!」
「まさか。純粋に驚いています。」