恋人
雨が降っている。
激しくはない。
小雨な訳でもない。
しかし、一度落ちた雫は、波紋を広げて大きくなっていく。
静かに。
ただ、しっかりと。
「…………!」
桃太は飛び起きた。
(しまった、寝てた。鬼が――――!!)
「ああ。起きたのか、桃小僧」
「あ……」
あわてて牢の中を見ると、祭音は包帯だらけの体を起こして座り込んでいた。
「……逃げなかったのか」
「逃げるも何も、この体ではどうしようもないだろう。おそらく外では他の村守共が待ち伏せているだろうからな、みすみす殺される訳にもいくまい」
祭音の言葉に、桃太は唖然とした。
「……もう治ってるかと思ってた」
「……あのな、桃小僧。我々は確かに鬼だ。だが、だからといってそんな治癒力はないし、この姿と鬼瓦くらいしか違わないんだぞ」
「えぇ!?」
一際大きな驚嘆の声を上げて、桃太は座っていた木製の椅子から転げ落ちた。木が地面に叩きつけられ、乾いた音をたてる。天井から吊り下げられたロウソクの火が揺れ、桃太の影を揺らした。
「……なんだその大袈裟な振る舞いは」
「い、いや、ごめん。なんというか、その……僕、小さい頃から寝る前に鬼の話をおかあさんから聞かされてて、それを鵜呑みしてたっていうか」
「……どんな話だ」
催促された桃太は、鬼の前に座り、居住まいを正す。
「……なんか楽しそうだな」
「そ、そうかな?」
照れるように笑いながら、桃太は話し出した。
「僕が聞いたのは、そうだな……例えば『鬼っていうのは、悪いことをした子の村や町に自然と湧いてきて、その子に罪を償わせるとか、頭からガリガリと食べてしまうとか、さらって漬け物にされちゃうとか、あと……」
際限なくしゃべり続ける桃太を「もういい」と遮り、祭音はため息をついた。
「え、もういいの?」
「……いや。もういいのじゃなくてだな、うん。つまるところ、何だ。お前の村じゃ、鬼は」
「うん、子ども食べる」
鬼はますます深くため息をついて、鉄格子に頭をもたせかけた。
「……貴様等には、鬼がどこぞの怪談話に出る化け物と同類の位置づけのようだな。そこまで言われては我々もたまらん」
鬼が畳に座り直す。
「教えてやる。『鬼』について、私の分かる範囲でな」
「お、教えてくれるの!? なんかやけにあっさり……」
「当たり前だ! いくらなんでも『子どもを食べる』などという烙印をおされたままで黙っていられるものか!!」
珍しく怒鳴る祭音。
「いや、なんかもうちょっと『我らの情報? は、誰が貴様等などに渡すものか!! そのような醜態をさらす位ならば、いっそ打ち首に』いたいっ!!」
鉄格子の間から、桃太めがけて手刀が繰り出された。
「い、いたいじゃんか!」
「それ以上話すな人間! 我らにも誇りというものがある!!」
「誇りって、鬼なんかにそんな……あ」
言いかけた桃太は、気まずそうに口をつぐんだ。祭音はそれを見て、やれやれと首を振る。
「……まあ、我々の中にも人間に同じ様な印象を抱いている者が少なくないからな。深くは追求しまい」
沈黙が場を支配する。祭音は深く深呼吸すると、ゆっくりと話し出した。
「まず、我らの生まれだが……のっけからスマンな。我ら自身、何故この世界に生まれ落ちたのかは分からんのだ」
「…………? 分かんないな。鬼と人間が大して変わらないなら、産まれ方も一緒なんじゃないのか? 親がいて、兄弟がいて」
「いや。詳しくは言えんが、私達は産まれてすぐに意識を潰されるんだ。その間は何が起こっているか全く分からん。そして、気が付けば頭の前だ」
(鬼王丸、か)
桃太が頷いて続きを促す。祭音が記憶を思い起こすように顔を上げると、格子戸から見える景色はすっかり暗く、空には三日月が浮かんでいた。
「……しかし、あまり私からペラペラ話すのはいただけんな。帰ったとき、頭に何を言われるか分からん」
「あ、そっか。じゃあ、僕から質問して、それに答えるってことで」
「…………」
祭音の訝しげな目に、桃太は戸惑う。
「な、何?」
「……お前、そこは警戒するところではないのか? 仮にも私は『ここを出る』と言ったのだから」
そこまで言われて、桃太は「しまった」と顔をしかめた。その仕草に、祭音は思わず笑みをこぼす。
「な……なんだよっ」
「いやいや、一体何なんだろうな。お前からは、他の村守達とは違う何かを感じる気がする」
「な、なんだよそれ! 僕は……」
「では、何故私を助けたのかな? 桃小僧」
ニヤニヤしながら言う鬼。桃太は答えに困り言い淀んでしまう。
(……僕は、なんであの時刀を……)
刀を振り下ろした後であるにも関わらず、この鬼を生かした理由。
「あ、そうだ妖術!! ねえ、妖術って何なんだよ結局。悟空さんを元に戻す方法はないのか?」
「……? 妖術だと?」
祭音が眉をひそめる。
「何の話だ? 悪いが鬼は、少なくとも私はそんな類の術を持ち合わせてはいない」
「え……」
桃太は固まった。熱くなりすぎた脳が、考えがまとまらずに暴れている。
「『鬼は、妖術は使えない』……?」
祭音が頷く。桃太はため息をついて、背中から床に倒れ込んだ。
「……どうした? だいたい、私が少しでも『妖術』とやらを使えるような素振りを――――
」
そこまで言って、祭音は何かを思いついたように桃太に視線を合わせた。
「……? どうしたんだよ」
「もしや、お前が言う妖術とはこれのことか?」
祭音が、手刀を形作る。それを自分の目の前に『突き刺した』かと思うと、突如として空間が縦に裂かれ、桃太の目の前には格子越しに全く別の空間が広がった。
「祭音、これ……」
あの夜、逃げた鬼王丸が使っていた『妖術』。空間を裂き、全く別の場所へ通じさせる力。
「ああ。芥でない鬼なら基本皆使える『獣道』と呼ばれる力だ」
獣道。
鬼として生まれたものだからこそ扱える、人外の業。
(これが妖術……いや、違う)
少なくとも、彼が想像したものや、悟空に悪影響を及ぼした類のものではない。
「……祭音。鬼が使える妖術は、まだあるのか?」
「いや、後はさっき言った通りだ。妖術なんて使えぬし、元々この獣道も我々にしてみれば妖術などですらない」
「嘘だろ、じゃあ悟空さんを子どもの姿に変えたのは誰なんだよ? お前分かってたじゃないか、あの子どもが『孫悟空』だって」
「ああ、分かっていた。あの者との戦闘はあれで三回目だったからな」
「三回目……って、いや違う。そういうことを聞きたいんじゃない。悟空さんを子どもにしたのはお前じゃないのか? だからこそ、あの子どもが悟空さんだって分かって……」
藁にもすがる思いで桃太は迫った。しかし、祭音は煙たそうに首を振る。
「何度も言わせるな。私ではない。最初に戦った時はまだ大人の姿だったが、二度目は既に子どもだった。ふむ……そういえば奴も、何かと私を目の敵にしていようだしな。そういうことだったか」
あっさり納得する祭音。反して桃太は頭を抱え込む。
もし、こいつの言うことが本当なら。
そいつは、誰だ。
『祭音に倒された』悟空さんに『わざわざ後からやってきて術をかけた』のは誰だ?
「そうか。祭音が捕まった……」
「ええ、さっき確認した。すぐにでも助け出すつもりだったけど、独断では動けないから、こうして――――」
「いや、必要ない。村守の奴らに何を吹き込まれているかも分からん。村守から逃れ次第、殺せ」
「えっ……しかし、頭」
「異議は認めねえぞ。村守に捕まるようなヤワな野郎、俺達には必要ない。すぐに始末しろ。なんなら俺が行くか?」
「……頭が動くほどのことではありません。私が行きます。…………必ず、完遂して戻ります」
「おう、頼んだ。祭音に一番近しいお前だ、寝首をかくのくらい、簡単なことだろう」
鬼王丸の言葉に、紫の髪をもつ鬼が背を向ける。その背中を、鬼王丸は不遜に微笑みながら見送った。
「頼んだぞ――――夜姫」
「……大丈夫かな、桃太」
「あの小僧のことだ、大丈夫だろうよ。おい猿坊主、ちょっと醤油とれ」
「チッ、このクソ老いぼれが。如意棒さえ取り上げられてなきゃてめーなんか。おい舞花、風呂沸いたかー!?」
「あ、うん。沸いてるよ。入るなら、後がつかえてるからなるべく早くね」
「ほいほい、分かったよ! 食った食った!」
食器を重ね、悟空はドタドタと表へ出て行った。文句一つ言わず、舞花はその食器を片づけていく。
「舞花、手伝おっか」
「あ、いえ、いいですよ。私がやりますから」
「いやいや。弓まで教えてもらってるんだから、このくらいさせてってば。まだ体調も完全じゃないんだし、ほら休んだ休んだ!」
居間に戻り、舞花を無理矢理座らせたかぐやは、一人食器を持って簾の向こうに消えた。
悟空の家。
祭音が捕らえられた後、かぐや達は悟空の家で世話になっていた。浦島は「本部だろ」と文句を言っていたが、かぐやが嫌がった。なにより舞花たっての願いということで、桃太が帰ってくるまでの間、悟空の家に宿泊することになったのだ。
居間に残された浦島と舞花。浦島は無言で鍋から煮物をかきこんでいる。
(……なんか、気まずいなぁ……)
食器の音だけが響く。舞花が何を話したらいいか分からずに思案していると、浦島がふいに口を開いた。
「娘。もう体調はいいのか」
「え。あ……はい、大丈夫です。浦島さんこそ、傷はもう痛みませんか? 骨折なんかはなかったですけど、ひどい傷でした」
「んや、もう痛みはせん。痣はまだ残っとるがな」
事も無げに言い、煮物を更に注ぎ足す。
(……痛むんじゃないかな、痣が残ってるってことは)
そう思ったものの、口には出さず、舞花は湯のみからお茶をすすった。
そうだ、夜姫だ。
「なあ祭音。お前、僕が刀を振り下ろした時に『夜姫』って言ったよな。あれ、何だったんだ? 別の鬼の名前、とか?」
夜姫、と聞いて、祭音はすすっていたお茶でむせた。
「……どうしたんだよ」
「むづ、ぐっほ、ごほ……! 桃小僧、お前な!! 一体どこでその名前を――――」
言ってはた、と口を閉じる。自分の失言に気付いたようで、祭音は手で顔を覆ってため息をついた。
「鬼なのか? そいつも」
「……ああ、そうだ。私が頭のとこに来てまもなくやって来た鬼でな、時期が近いからということでよく話していた。いや、これが思いの外話があって――――」
祭音は桃太が唖然としているのに気づき、咳払いをしてお茶を飲みほした。
「…………」
「……なんだ。いくら間近で見る機会がないからといって、あまり凝視するものではない」
「あ。いや、聞いてもないことなのに話してくれたもんだから、なんだか意外で」
げ、という顔をして、祭音が顔を伏せる。心なしかいつもより顔の赤い様子を見て、桃太はつい顔をほころばせた。
「な、何を笑っている!! 貴様何が狙いだ、よもや鬼を相手にこんなしようもない話を――――!」
先程までの落ち着き払った態度はどこへやらといった様子で怒鳴り散らす祭音に、桃太は格子の間から替えのお茶を差し出した。祭音は一息にそれを飲み干し、深くため息をつく。
「…………」
「…………」
それ以降、祭音は話さなくなってしまった。無言の祭音に背を向け、新しいお茶を煎れる。
「……夜姫って、女の鬼なのか?」
「……聞いてどうする」
「どうあっても聞かせてもらう。思い出したんだ。どうして、僕がお前を助けたのかって。お前、僕が刀を振り下ろしたときにその人、じゃなくて鬼の名前を口走っただろ。それが気になって、僕はお前を助けたんだから」
「――――そうか。情けで生き延びてるんだ、話さない訳にはいくまいな。そうだ。夜――――夜姫は、鬼の女だ。そして、私の最愛の人だ」
今度は、桃太がむせかえる番だった。
「けほこほ、えほっ!! い、今なんて言ったの!? え、恋人!?」
「そうだが? なんだ、何を赤くなっている? ……ははあ、そうか。桃小僧、お前」
ニヤニヤしながら、祭音がにじり寄る。実際は鉄格子に阻まれて近寄れてはいないのだが、その無言の圧力に気圧され、自然と後ずさっていた。
「な……なんだよっ」
「いやいや。お前の歳ならば、生涯を沿い遂げることを約束した乙女の一人や二人、いるものだと思っていたんだが。ふむ、そうかそうか! なかなかにウブな男だったという訳だ、貴様」
「う、ウブとかじゃない!! 昔からおとうさんに『村守に色恋は邪道だ』って教えられて育てられたんだ!!」
それでもなおくくく、と笑って桃太を見る祭音。桃太は顔を更に真っ赤にしながら、なんでこんな話になったのかな、と頭を振った。
「そうだ、結局さ!! 結局…………」
口ごもる桃太を見て、祭音も話を本筋に戻す。
「……そうだ。結局、何故お前は私を助けたのだ? まさか、夜姫の一件が原因ではなかろうな?」
「う……そりゃあ、夜姫ってのが何なのか気になったしさ。いいじゃんか、勝った方の自由だろ」
「確かにお前の自由だろうが、お前のとった選択は普通ではない。普通の村守ならば、あの場で私を斬っている」
「――――っ」
外から、雨音が響く。夏であるにもかかわらず冷え冷えとした空気が窓から入り、二人をなぜていく。少し鮮明になった頭で、桃太は考えを巡らせる。
(……僕は、殺したくないから生かしたのか)
今までのような鬼ならよかった。自我のない、瞳を持たない、ただ人を殺すことを生業にする化け物。
(……でも)
こいつらは。祭音は、鬼王丸は違う。瞳を持って、言葉を話し、感情がある。
(……そうだ、それじゃ)
それはまるで。
「……人間じゃないか」
桃太の言葉に、祭音は眉を釣り上げる。
「……とんだ甘ちゃんだな。いや、ただお人好しなだけか。どちらにせよ、お前では戦いに向かん。お前のように、常にぶれることのない『芯』を持たない男が戦士を気取るな。その曖昧な決意は、いつかお前に災いをもたらすぞ」
「だ、だってお前には感情がある! 言葉だって話せる! 夜姫っていう恋人だっているんじゃないか! だったら、生きて帰りたいって思わないのか!?」
「それが戦士として余計だという。お前は父親に、『感情を持つ者は鬼ではない』などと教えを受けたと言うつもりか? 違うだろう、村守」
村守、という言葉に、桃太は確かな拒絶を感じた。どんなに言葉を交わそうと、所詮は村守と鬼。決して相容れることのない存在であるのは明白だった。
「……でも……」
それでも。
それでもこの少年は、祭音と言葉を交わしている間だけは、それを忘れていた。鬼と人間の間に、どんな歴史が刻まれてきているのかを。
「それでも、お前は……っ」
だというのに。
少年に、それ以上言葉を紡ぐことはできなかった。
「ああ。どんなに言葉を尽くそうが、私は鬼でお前は村守。殺し、殺されるだけの関係だ。今はお前の思う通りに事が進んでいるかもしれん。しかしいつか、そのツケを払うときがやって来よう。今の何倍、何十倍もの苦痛を伴ってな」
「……っ」
雨足が酷くなってくる。
激しくうちつける雨は、二人の間の溝を、最早後戻りできない程に満たしていく。
「……じゃあ、なんで逃げなかった」
桃太は俯いて、苦しげに言葉を漏らす。彼の言葉に、祭音の表情が強張った。
「な……んだと?」
「だったら、なんで逃げなかったんだ? 確かに、お前の言ってることは正しいかもしれない。でも、だったらお前は逃げなきゃ間違いだ。そうだ、僕が寝てる間に今の獣道を使って逃げられたはずだ!」
核心を突いた桃太の言い分に、祭音はたじろぐ。桃太は立ち上がって鉄格子に掴みかかり、呆然と座り込む祭音を睨み付けた。
「そもそもさっきまで僕は居眠りしてた。その時に殺しておくことだって出来たんだ!! なのにお前はそれをしなかったじゃないか! 何でなんだ、答えろよ祭音!!」
祭音は答えず、ただ俯いて歯軋りするだけだった。
雨が降ってきた。外を歩いていた村人達は、慌ててそれぞれの帰る場所へと走っていく。舞花は表で風呂に入っている悟空が気になり、外に出てきていた。
(父さん、まだ入ってるのかな……?)
家の裏手、物置のある場所から少し離れた開けた場所に移動する。
「ん、どうした舞花」
ドラム缶の風呂に、悟空は伸びをしながら浸かっていた。
「……うん。雨、降ってきたから。どうしたのかな、と思って」
「雨だぁ? 問題ないぞ、気持ちよくて寝ちまってた」
笑って言う悟空。舞花は空笑いしながら父の背中を眺めた。
「……やっぱり、行くの?」
「ああ。しょうがねえよな、なんたって俺ぁ掟破りだからな。追い出されて然るべきなんだろうよ」
悟空は、明日にはこの村を出ていかなければならない。掟を破ったことで、この村の村守としては認められなくなったのだ。
雨はどんどん激しさを増す。
「でも……父さん」
「ダメだダメだ。安土のおやっさんなんかはみんな堅物だからな。てこでも意見は変えないだろーよ」
「…………」
舞花が俯いて黙り込む。いっそう激しさを増す雨は、確実に舞花を濡らしていく。
「……なら、父さん。私も一緒に」
「もっとダメだ。ここには妙の墓がある。俺がいない分、しっかりお前が見てやってくれなきゃな」
「っ、やっぱり嫌だよ! いくら掟だからって、追い出す事なんてないのに!」
父を想っての言葉ではない。独りになる自分を、恐れての言葉。そんな舞花を見てもなお、悟空は笑っていた。
「いいさ。確かにお前は悲しいかも分からんが、俺はそうでもない。何、この村の中で俺を理解できる奴が妙しかいなかった、ってだけの話だ」
言って、雨の降る空を見上げる。
「……そう」
それは、涙であるはずはない。この男に、村への未練などないのだから。
「……結局、皆が尊敬してたのは、俺じゃない。『規範的な村守』である俺の姿だけだったんだな」
掟を遵守する、強い村守。悟空を村の英雄たらしめていたのは、ただそれだけのこと。
それがなくなった今、悟空はこの村の何でもない。
だから、彼は出ていく。
「勝手なこと言わないで。残った私はどうすればいいの? 『掟を破った男の娘』なんて、みんながどう思うかわかるでしょ!?」
「大丈夫。そこら辺おやっさんはちゃんとしてる人だ。勘違いすんなよ舞花。俺は別におやっさん達と仲違いしてるわけじゃねえ。ただ単に、掟のことがあるだけでよ」
「こんなことになるなんて思わないよ。たった一度破っただけで、こんな……!」
「……何のために掟があるか分かるか、娘」
舞花が振り返る。雨音に紛れ、暗がりから浦島が現れた。
「浦島……さん」
「掟は餓鬼の約束事とは違う。どこに行ってもあるものだから軽視しがちだが、掟は絶対なのだ。中に入ったらどうだ。雨も強くなってきたしな。というか、貴様は早く風呂から出てこんか猿坊主。おかげで入りそびれたではないか」
文句を垂れ、浦島は髭をいじりながら家の中へと入っていった。
雨は、まだまだ激しくなる。
「……動きませんね、鬼の奴」
「ふむ。彼がうまくやっているのか、はたまた何かしら鬼が策をねっているのか……」
牢がある建物の外。安土達村守勢は周辺の茂みに潜み、祭音が行動を起こすのを待っていた。
「どうします? 雨足も強くなってきました、今日はもう」
「……そうだな。今日は引き上げよう」
安土が号令をかけ、一同は引き上げていく。内の鬼ばかりを気にしていた安土達は、気が付かなかった。
外からの、無音の来訪者に。
「……馬鹿なのかしら、あいつら」
空間に、鬼の爪が突き刺される。空を引き裂き、紫の長髪を持つ鬼――――夜姫が姿を現した。
「……マツはここね」
凛とした瞳で牢のある建物を睨みつけ、小走りに近づいていく。
(大丈夫よ、マツ。……必ず助けてあげる)
腰の下まである花柄の羽織りを雨に濡らし、彼女は建物に入った。
「掟、かぁ。ウザいウザい」
「……あの、かぐやさん。あんまり不謹慎すぎませんか、それ」
居間では、かぐやを含む四人が囲炉裏を囲んでお茶をすすっていた。一際明るいランタンが揺れ、悟空の手の届かない棚の上にある如意棒が輝く。
「いいんだよ舞花、言わせとけ言わせとけ。どうせ分かりゃしねえんだからよ、こんなガキに掟の話なんて」
「バカにすんな猿顔。かぐやと舞花は同い年なんだから、掟のことぐらいかぐやも分かるわよ、舞花並みに」
「舞花並みだぁ? おとといきやがれガキ」
「む……浦島さん! なんとか言ってやってくだ」
「おとといきやがれ小娘」
「……なんかみんな冷たくない? 舞花ぁー!!」
素っ気なくに浦島に呟かれ、うわーんと舞花に泣きつくかぐや。
「ちょ、ちょっとかぐやさん! お茶こぼれちゃいますよ!」
顔をしかめる悟空をおいて、浦島は席を立って窓の外を眺めた。
(……何か、おかしい)
雨にかき消される、静かな妖気。祭音のときにも感じた、独特の気配。
浦島は立てかけられた刀を全部ひっつかむと、無言で外へ歩み出た。ただならぬ浦島の様子に気が付いた悟空が、その後を追う。
「どうした、爺さん。なんか見たのか」
「…………」
降りしきる雨を気にもせず、道を見据える。眉をひそめた浦島は、躊躇いもせずに牢へ向かって歩き出した。