連鎖する激情
桃太は、うっすらと目を開けた。力尽きた目に、彼の傷を不安そうに見つめる彼女の姿が映る。傷に触れ、今にも泣きそうな表情の夜姫を、手で優しく制する祭音。
(祭音……夜姫)
それを見て、彼は悟った。
――――――自分は、二人を殺せない。
鬼に感情などない。故に情けなどかける必要は微塵もない。
彼はそう海児に教わり、常にその事実を身近に感じてきた。
鬼を殺すことに、何のためらいもなかった。
(……でも)
この鬼達は、およそ人が当たり前に持ちえるはずである感情の悉くを、当たり前のように持っていた。
鬼が、鬼を愛する。それは人のものと同じように存在し、人のものと同じように奇跡だった。
こんなにも互いを想い合う二人を、彼が殺し得ないのは自明の理だったのだ。
桃太は霞んだ目で、夜姫を連れ、去っていく祭音を捉え。
「……よか、った」
ありのままの気持ちを、口にした。
「……桃太」
村守本部で治療を終えた桃太を見るなり、かぐやは食器を放って近寄ってきた。
「大丈夫だ、お嬢さん。治療は終わったから、後はゆっくり寝かせてやってくれ」
「ええ、ありがとう……ございます」
少し遅れてやって来た舞花とともに、かぐやが頭を下げる。
「お気になさらず。それから――――舞花ちゃんには、これから本部のほうへ来てもらうよ」
村守の言葉に、舞花が身じろぐ。事態を完全に把握しきれていないかぐやは、当然の疑問を村守に向ける。
「あの――――ええと……」
「ああ、佐奈坂だよ、佐奈坂重吉。それで……どうしたの?」
佐奈坂という若い村守に催促され、かぐやは舞花も当然抱いているはずの疑問を口にする。吊り下げられた明かりが風に揺れ、細い音を鳴らした。
「何があったんですか? 牢にいた桃太がこんなになってるってことは、まさか」
「……うん、桃太君の見張ってた鬼が逃げ出した。なんでも、祭音と同じ種類の鬼がもう一体現れたみたいでね。二日前に狙われたのも舞花ちゃんだったし、また来るかもしれないだろ? だから頭領――安土さんの命令で、君達の護衛に来たんだ。……これよりあなた方の命、我ら第四小隊が命を賭けてお守り致します!!」
右拳を胸に当て、その右手でそのまま敬礼の姿勢をとる。号令のときにしか扱われない、村守の挨拶だった。
「くっ……古クサ」
が、それを無情にも笑うかぐや。
「ふ、古クサ!? 何を言うんだ、失礼だな君は!!」
「か、かぐやさん!!」
佐奈坂が顔を赤くして叫ぶ。それでも、かぐやは笑いをこらえる素振りすら見せずに腹を抱えていた。
「いや、うん、ごめ、なさいアハハ、うちの、弟がそれ、やってて。なんか懐かしいなってイヒヒヒヒヒ」
その容姿からは想像もつかない声で笑うかぐや。舞花が仕方なしに『えい』と口と鼻をふさぐと、その笑いは呼吸とともにようやくおさまった。
「ううん……やっぱりダサいかなぁ、これ。結構気に入ってるのに」
「い、いえそんな落ち込むことないですよ!! 父さんだってたまにはしてますし」
肩を落とす佐奈坂を、かぐやの口と鼻を塞いだまま励ます舞花。
「ぶっはぁ!! いつまでかぐやの気道を塞いでるかおのれはー!!」
「きゃあぁ!! ご、ごめんなさい!」
ドタバタ暴れる二人を見て、佐奈坂は苦笑いを浮かべた。
(……やれやれ。元気な娘さんだな、まったく)
顔立ちも整っているし、言動はとても上品とは言えないけれども、それを補って余りあるほどの快活さと可憐さがある。自分でも自覚しないうちに、佐奈坂はかぐやに見とれてしまっていた。
「……隊長。そろそろ本部のほうへ……」
横からの隊員の言葉で我に帰り、大げさな咳払いをしながら彼は髪を引っ張られている舞花に向き直る。
「……ええと。じゃあ準備はいいかな、二人とも」
息を切らしながら、涙目の舞花と彼女の上にのしかかるかぐやが振り返った。
「ねえマツ。どこだったら、鬼王丸の目が届かないと思う?」
「ふむ……そうだな、岩里がやられたという彼方の国などはどうだ? あそこなら、今は手薄だと思うが」
祭音に腕を絡ませ、幸せそうに頭をもたせかける夜姫。いまだ浦島たちが追いついてくる気配もなく、二人の鬼は陸伝いに村を抜けるために悠々と森を進んでいた。
「……そっか。でも、それじゃあしばらくはこっちに来れないね。だったら私、この大陸を出る前に行っておきたいところがあるんだけど」
「行っておきたい所?」
ええ、と夜姫が頷いて空を見上げるが、生い茂る木々に阻まれ、わずかに月光が差し込むだけだった。
「――――マツの、好きだった場所よ」
「! ……ああ、あそこか」
言い、祭音は目を閉じる。
目蓋の裏に浮かぶ景色。
耳を澄ませるものをまどろませるような、虫たちの鳴き声。
どんな季節にも輝いている、雪のような花をたたえる大木。
訪れたのがもうずいぶん前であるにも関わらず、その世界は彼の記憶に鮮明に記録されていた。
「ふん……そうだな、もう一度見に行くのも一興だろう」
満面の笑みを浮かべる夜姫の髪に梳くように触れる祭音。彼女は彼に身を委ねるかのように顔を傾け――――
「化け物風情が人間の真似事をしてくれるな。吐き気がするわ」
――――突如として現れた浦島によって、鬼達にとってささやかな至福のときは終わった。
「!! 貴様、なぜ気配もなく――――!!」
言いかけて、祭音は立ちはだかる老将に目を見開いた。
「あまり舐めるな。どれだけ貴様ら鬼と戦い、どれだけ貴様ら鬼を殺してきたと思う」
「……なんなのだその言い草は、ご老人。たった二日前に叩きのめされたその体で、よもや私と戦おうというのではなかろうな」
祭音が浦島を睨む。浦島はその視線に見向きもせず、後ろで金棒を抜く夜姫を凝視している。
「……私が珍しいのか? 人間」
「はっ、化け物がよくも一匹二匹と人語を口にするものだわな。虫酸が走るわ!!!」
抜刀。
先の戦いの疲労を微塵も感じさせない動きで、浦島が夜姫めがけ一閃する。
「マツ、下がっていて!!」
十分な姿勢で夜姫が迎撃する。祭音は歯軋りしながらも、今の自分の状態を一目見て、潔く茂みの中へと消えた。
「馬鹿共が。近くにはもう一人、村守が来ているぞ? あのような鬼が全力で逃げようと、死ぬのは時間の問題だと思うがな」
浦島が不遜に微笑むと、夜姫は顔を曇らせて彼を睨み付けた。
「……問題ない。貴様のような傷を負った老人など、数分とかからないだろうからな」
「その割には焦っているな。いやはや、短慮なことだわい。そのように感情を高ぶらせていては斬れるものも斬れなくなってくるぞ? 不要な感情は意思を曇らせ、剣を鈍らせる。その先にあるのは――――」
浦島が地面を蹴る。常軌を逸したその速さに、夜姫は虚を突かれた。
「な……!」
「己の……死に身だけよ!!」
鋼の軌跡が、夜姫へと襲い掛かった。
森を駆ける。
息を乱し走る鬼は、ただ己の迫る危機に怯えていた。
(来ている。もう、見つけられている……!!)
そして、こちらが既に気づいていることも知っている。
「はあっ、はあっ……!!」
しかし、その影は祭音へと迫らない。
逃げ惑う鬼の姿を楽しむように、つねに一定の距離を保ち続ける。
その不可解さが、彼の恐怖を増長させていく。
「なぜ、だ……なぜ……」
追ってこないのか。
殺しに来ないのか。
もしかして、夜なのか。
全ては自身の取り越し苦労で、実際は私に恐れをなし、迫ってこれないのか。
「…………!!」
意を決したのか、単なる体力の限界か、祭音が立ち止まる。それと同時に、彼の背後から迫る影の足も止まった。
「…………」
雨音さえ聞こえさせない狂気じみた静寂が、祭音の心を恐怖で覆う。
「誰だ……いるのなら出でくればいいだろう!!!」
必死の形相で、祭音が叫ぶ。それが合図だったかのように、影はゆっくりと茂みから姿を現す。
「あ……」
それは、人の形をした。
ひとであるはずがないもの だった。
「どこだ……どこにいる、祭音ェ!!」
悟空は既に夜姫を見つけた浦島と別れ、敵を探して彷徨っていた。
「はぁ……はぁあ……!!!」
目を血走らせ、見開き。およそ人とは呼べぬ形相で、彼は森を走り続ける。
彼は、その場所に見覚えがあった。
(ここは……ここは)
自らの妻を探した、あの夜。足に絡みつく木々を蹴散らし、踏みつけ、思考が絶望に染まりそうになるのを必死でこらえながら走った。
報われる。
妻のためにここまで走っている自分は、きっと報われる。妙は生きていて、自分は妻を連れて戻り、舞花と三人で、喜び合う――――。
視界を阻む最後の草木をかき分け、彼は妻のもとへ辿り着いた。
「……っっっっ」
血の匂い。
思い出すな
鮮やかな赤へと視線が移る。
やめろ
幸い、その『赤』は少量だった。
見るな
だが、何か。
よせ
大事な、何かが足りなかった。
いやだ
「……くっ!! ぅあっ」
知らぬ間に意識を記憶へと追いやっていた彼は、その思い出の場所から逸れた、大きな溝のようなものに転げ落ちた。
「ちっ……くしょう」
今度は逃がさん。
よくも、よくも妙をあんな――――
「……え?」
うつ伏せた悟空の手に、何か冷たいものが当たる。
何の覚悟もとらないまま、彼はその青白い『死』に目を向けた。
それは、乾いた血にまみれた。
「あっ…………あああああああああああああああああ!!!!」
『右腕のない』、妙の死体だった。
「――――――…………」
最早彼の中には、妻の死に対する何の感慨も無い。そんな、彼の中へ。
唯一つ、激情が巣食った。
「……祭音」
ゆらりと、その溝から這い出る。泥だらけになった顔を拭うこともせず、彼は駆け出した。気が狂ったようなすすり笑いをし、鋭敏になったその感覚で、一歩も違わず祭音のもとへと進んでいく。狂気を宿した瞳に、光は見られない。
その昏い感情に、如意棒さえも沈黙していった。
「……『何』だ、お前は」
その姿を見た祭音の背筋に、冷徹な死が走る。
その男は孫悟空。幾度にも渡って戦い、その都度辛くも退けてきた男。
しかし、いま彼の目の前にいる男は。
「――――――――フ、ククククク」
『孫悟空』の皮に包まれた、化け物だった。
一歩。
「っ……! 近寄るな」
鬼でさえ嫌悪する気配を放つ化け物。
一歩。
「よせ、やめろ、やめるんだ!!」
怪我を負い、疲労している鬼は、為す術も無く追い詰められていく。
一歩。
(し……死ねない)
愛しき人を思い出した祭音は、傷ついた体に鞭打ち、金棒を握る。
気に入らない。
「悪いな、小僧。私、私はこんなところでは死ねんのだ」
死ねないだと?
金棒を振り上げた祭音に、如意棒が放たれる。
ふざけるな。
伸びたそれは祭音の胸を小突くと、
貴様に。
「ぶっ……があぁぁぁあぁぁぁ!!!!!」
胴をつたい、黒く光り輝く『力』を祭音へと流し込んだ。
選ぶ権利などあるものか。
「あっ……ヴぁうあぁ……」
体内をのたうちまわる黒に、鬼の体のあちこちが内側から裂けていく。
「ああっ、ああああああああ」
まだ生きている。
黒血を撒き散らしながら地を這いずる獣を見てなお、化け物はそれへと迫る。
殺す。
「……や、メテ、くれ。……しねなイ、死ねないんだ、あぁ……」
やめろ?
獣の力なく引きずられる足に如意棒をあてがい、力を流し込む。
ほざけ。
「ぬっ……うおおぅあああああ!!!!」
黒の奔流に耐えかねた両足が、砕け散る。雨に遮られた獣の悲痛な咆哮は、かの想い人には届かない。
そう言う妙に。
森は今や、一面が黒景色となっていた。
生きたいと言う妙に。
「よ、あ……よる、ひめ」
お前は。
化け物は痙攣する獣の上半身を踏みつけ、その首に如意棒を突きつけると。
「…………」
情けをかけたのか?
最期を迎える獣に、何かを、呟いた。
「ぐぅ……おっ」
夜姫が受けた傷は、最初の一撃だけだった。直りきっていない傷を抱えた浦島は三合としないうちに膝を落とし、夜姫に敗北した。
「いくら私の腕が鈍ってようとね。あんたみたいな爺さん、その鈍った腕で十分なのよ」
刀を折られ、大木へと弾き飛ばされた浦島は今度こそ意識を失った。
(今ので十一回目……なんて頑強な老人だ)
十一度挑み、それでも老将が精神的に屈することはなかった。
その覇気によって極度に体力を削られていた夜姫は、ため息をついて金棒をしまいこむ。
「さて。マツを探さな、きゃ……」
振り返った彼女の、目の前の茂みが揺れる。
「っ、むらも、り……?」
出てきたのは、雨が降っているにもかかわらず顔が泥にまみれている悟空だった。
「……よう、二体目の新種」
「っ……残念だったな。もう、ここに祭音はいないぞ」
彼女がそう言うと、悟空はそれを鼻であしらった。
かと思うと。
「くっ……ははははははははは!!」
突然、気が狂ったように声を張り上げて笑い出した。異常に目を見開く子供に、夜姫は少なからず身じろぎする。
「な、何がそんなに……!!」
「何が、だと? は、これだよ!!」
そう言うと、彼は夜姫に何かを投げ渡した。
「ッ? 何――――」
降りしきる雨に濡らされた顔。
「―――――――ぁ」
それは生気を奪われた、祭音の首だった。
「ぃっ、いやあぁぁぁぁぁ!!!」
夜姫が崩れ落ちる。その様子を見て満足したのか、悟空は顔を狂気に歪めて如意棒を構える。
「情けねえ野郎だったぞ? お前はどうなってもいいからどうか自分だけは助けてくれ、だってよ!!!」
悦楽を求めるが故の虚言。しかし祭音を知る夜姫は、そんなものに惑わされはしなかった。
「……貴様」
金棒を握り締めて、立ち上がる。それを、口端を持ち上げながら見守る悟空。
「貴様ァァァァ!!!」
夜姫が金棒を振りかぶるより早く、如意棒は彼女の胸に到達する。
そして、金棒が振るわれた直後。
黒い光によって鋭牙となった如意棒の先が、夜姫の心臓を貫いた。
「――――――」
勢いに任せて振るわれた金棒が、悟空の汚れた額当てを砕く。夜姫の手から離れた金棒は、彼女とともに沈黙した。
「…………」
崩れた額当てを捨て置き、浦島を抱きかかえると、
「……俺の、勝ちだ」
ただそれだけ、虚言をこぼした。