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私の名は不美愛 実の母にも娘にも愛されなかった風俗嬢 "自愛に目覚めるための本"

作者: 不美愛

はじめに


皆様は日々、過去を思い出し「あの時、ああしていれば良かった、こうしていれば違っていた」と振り返り嘆き哀しみ涙していませんか?

 

今の時代に不安を感じて、人気を避け、人に怯えて闇に隠れて生きていませんか?


私は心配性を拗らせ、コロナの流行と共に不安障害となりました。


コロナにかかるかもしれない不安、経済的不安、天災不安、娘に会えない不安、娘の病気の不安、みるみるやせ細る体の不安、更年期になり自分はもう女ではなくなってしまうかもしれない不安、数えられない不安に押しつぶされて死にたいと思う日もありました。


2021年冬、私は気が付いてしまいました。誰にも必要とされていない、誰にも愛されていないことに!!


 同時に気付きました。


 誰にも愛されていない自分を自分が愛さなくては私が生きている価値がないと!!


 そう!!自愛に目覚めたのです!!


 その日から私の人生は180度かわりました。今の私の一つ一つの行動が愛おしいと思えました。


 そうすると心も体も答えてくれるようになりました。


 私は皆様にも早く自愛に目覚めて欲しい!!


 その為に私の過去をさらけ出し、後悔し、懺悔し、涙しながら書き綴る。


 そう、自虐しながら自愛に目覚めた私の自伝本であり、皆様に自愛に目覚めて頂くきっかけ。そして愛する娘に贈る遺書でもあります。
















目次


第一章実の母に愛されなかった証拠を考察する

 

●母の噓と真実を考察する

●離婚後の母を考察する

●母のトラウマとプライドを考察する

●自己破産した母を考察する

●母に愛されていない証拠を考察する

●母が私を褒めた二つの出来事

●母を羨み妬む

●娘に愛された母のパートナーを考察する


 

第二章実の娘に愛されなかった証拠を考察する


●私は私を考察する

●私の成人後〜娘の父に会うまでを考察する

●娘の実の父と出会い別れを考察する 

●愛する娘の病気を考察する

●適応障害になり、風俗嬢、不美愛になるまでを考察する

●不美愛になり、コロナ流行前までを考察する

●不美愛、コロナ禍1年目を考察する

●不美愛、コロナ禍2年目を考察する

●不美愛、2022年を考察、妄想する

●実の娘に愛されなかった証拠を考察する


第三章実の母に愛されている弟を考察する


●弟の性格を考察する

●自己破産した弟を考察する

●弟を羨み憎む


第四章 20歳になる娘のために出来ることを考察する


第五章 自愛に目覚め、前を向く不美愛を考察する


最終章 不美愛、人生最後の夢を見る








第一章 実の母に愛されなかった証拠を考察する


●母の噓と真実を考察する


私が産まれる前の事なので、これは私の憶測でしかない。母は産まれた時から片目がなかった。幼少の頃きっと大変な思いをしたであろう。きっといじめられたりしたであろう。でも母は強かった。逆手にとり優しい祖父母を恨み我儘を言っていたであろう。

母はよく、自慢した。

「私は名を馳せた大ヤンキーだった」と。その土地で知らない人はいない大ヤンキーだったと。

「ヤンキーになるなら私を超えないと許さない」と言った。

いやならないし!興味ない!と毎回言ったものだ。

また母は自慢する。

「私はコーラ中毒だったと、一日に5本は飲んでいた」と。


ここで考察する。


戦後入荷してきたコカコーラには本当にコカインが入っていたと聞いている。母はコカイン中毒症だった。私の時代にシンナー中毒症の人がいたように多幸感を得て日常から逃げていたのであろう。その代償は大きい。

コーラ中毒だった母は三十五歳で躁鬱病。その母から産まれた私は不安障害。幼少の頃からコーラを飲み続けた母は脳に障害を持ってしまったのであろう。それは私にも弟にも影響を及ぼしたのであろう。


母はエゴイストだ。(エゴイストとは利己主義なこと、利己主義は、自己の利益を重視し、他者の善行を軽視、無視する考え方。それにより、他者が不利益や損害を被ることも少なくない。 ウィキペディア)


 母は離婚した父をとても愛していた。よく父を今でも愛していると一目会いたいと言っている。今も父の姓を名乗っているのが動かぬ証拠。


これは私の妄想でしかない。


本当のことは両親しかしらない。私は母と縁を切っているし、父は連絡先を変えている。

恋愛過程は分からないが多分“でき婚”だ。

もしかしたら母の性格からして父に黙ってばれるまで隠していたかも知れない。


私は考察する。


母は離婚した父をとても愛していた。よく父を今でも愛していると一目会いたいと言っている。今も父の姓を名乗っているのが動かぬ証拠。

母は父を離したくなかった。あの時代に堕胎すると言う選択肢はなかったかもしれないが私が父の立場なら「おろしてくれ」と言っていたかも知れない。母が私のことを本当に思っているなら尚更。私は母に利用され生まれてきた。

何故ならば母は片目だから、その時代の検査技術ではきっと私に両目がしっかりあるかわからなかったでしょう。私はもしかしたら片目で産まれ、私の人生は苦労が絶えないであろうと思えば産まない。父は多いに心配であったであろう。

偶然にも私は五体満足で産まれた。そこは神に感謝。そして弟も五体満足で産まれた。よかった。

母は私と弟を産んだことで父の愛を一心に受け束縛した。しかし、父は不倫し離婚して不倫相手と再婚した。その時の母の心境は計り知れない。でも母は離婚の際、養育費など請求しなかった。多分、父にこれ以上嫌われなくないからでしょう。


●離婚後の母を考察する


母は離婚後、弟曰く、母子手当を貰ってなかったようだ。昼間は某スーパーの寿司コーナーの店長をしながら、夜は多分パブ的なところでバイトをしていた。それでも暮らしは貧困であった。朝は一つのインスタントラーメンを延ばしたものを弟と私と母で食べ、夜はだいたい昼間働く寿司の残り物だった。

私は多くを望まなかった。当時、MDが主流だった時代に、私はラジカセでカセットテープにテレビの音楽を録音し、何度も聞き、飽きたら、そのテープにまた上乗せして違う音楽を聞いた。

逆に弟は何でも欲しがった。弟の話しは後ほどしましょう。

また母はいろんな男性を家に招き入れた。誰かに愛されないと自分の存在価値を見出せなかったのだろうか?でもその男性方はお世辞にもいい人とは思えなかった。

中でも一回だけ籍を入れた男性。顔も名前も覚えてないが細身で長身の人だった。母は父とは出来なかった結婚式を公民館で行う。何故か真っ黒なウエディングドレスで、私同様、母も変わり者だ。でもその人は私達の市営アパートで暮らすようになったが、家にはお金を一銭も入れないと母が愚痴を言ってきた。しかもその人はホストクラブで働いていた。


ここで考察する。


母は夜バイトしながらホストクラブで遊んでもいたのであろう。そこで出会ったのがその人だ。当時の私は小学5年生くらいだったと思う。当時は他の子より大きく育って勝ち気なジャイ子だった私は、母が「お金を入れないし、別れたい」と愚痴っていたので、私はその人に直接「お金入れないなら、出てってくれる?」と言った。今、思えばかなり恐い状況だ。逆ギレされて首を絞められてもおかしくない。でもその人は黙って出て行き、その後現れることはなかった。私は母を守ったと自慢げに弟に話した。その行為が本当に母にとってよかったのかはわからない。

そして今現在も家主である私の賃貸マンションを自由に行き来する三十年来のパートナーがいる。母のパートナーの話しはまた後ほどしましょう。


私は今、実感する。


母は虚言癖があると。私と弟が成人した頃、突然、都会の精神病院に入院すると半年ほど姿を消した。「家賃、水道光熱費は払っておくから食費は自分たちで何とかして」と。その時、お金のことは私には考えられなかったが、後で聞いたら母のパートナーから三百万借りて(返してないが)入院費等を出していたようだ。

因みに市営アパートの家賃は滞納していたようだ。何故ならばある日突然私の給料が振り込まれていた口座が凍結したからだ。役所に行くと月一万五千円の家賃を十年くらい滞納していたらしい。びっくりだ!!

当時、私はアパレル会社の準社員として働いていた。手取りは十三万。でも相談してくれていたら払っていた。母は笑って「ごめん」と言った。

母は今でも精神病院にもう一度入院したいと言う。その病院に私は何度か見舞いに行ったが、病棟は二棟あった。手前は母のような躁鬱病などの精神を患った入院患者。奥は鉄格子で分けられた重度の精神を患った入院患者。奥ではよく奇声や暴れる音が聞こえていたらしい。母はそこにいると私より大変な人がいると安心できたらしい。

また、母は自由に外出できた。その街は今も昔も魅力的だ。母は1日百円で何度でも乗れると言う周回バスに乗り、様々な所に行った。お気に入りの喫茶店で珈琲を飲み、煙草を吸い、好きな物を買っていたようだ。まさに天国だったのであろう。お金のこと、子供のこと、何も考えず自分の好きなことを毎日する。

でもお金が尽きたのでしょう。母は帰ってきてから仕事をしなくなった。私はお金を入れたが、弟は入れなかった。ほとんどは今もいる母のパートナーが支援していたのであろう。

母は当時、私の唯一持っていたクレジットカードでキャッシングしてくれと言ってきた。更に某有名キャッシングローン会社で「お金を借りてくれ」と言ってきた。

某有名キャッシングローン会社のやり方は汚い。私は母の言う通り某有名キャッシングローン会社でお金を借りた。最初は少額だった。もちろん返した。返した時から毎月電話がきた。携帯にも会社にも、正直うんざりした!会社にも迷惑かかる。だから「わかった!借ります!だからもう電話してこないで!」と言った。すぐお金は振り込まれた。毎月2万の支払いは大きい。だから私は1万ずつ払った。それはほぼ利息分、借りたお金はほとんど返せなかった。十三年くらい払い続け、過払い金が戻りますと言うⅭMが流れ出した頃、その制度を利用した。結果、百万以上戻ってきた。皆様、過払い金返還請求は大いに活用した方がいいですよ。

更に母は「某闇金にお金を借りて欲しい」と言ってきた。母は借りていた闇金から「誰か紹介して」と言われ闇金社員に私の携番、会社の電話番号まで教えた。勝手に娘を売ったのだ。どれだけ会社に迷惑かかるとも知らず。私は仕方なく借りることにした。怪しい雑居ビルの怪しい扉を開け、何故か上から目線の従業員に「いくら借りたいの?」と言われ、母に言われた「二十万」と伝えた。私は人生いろいろあって、販売業しているのに人見知りだ。それは後ほど書こう。その従業員は「初めての人に二十万は貸せないなぁ。何回か取引があって信頼度があがったら二十万貸せるけどね〜。でもお母さんがしっかり返済しているから、しょうがないから貸してあげる。絶対返してねー」と言ってきた。「貸してくれないならいいです」と帰ろうとしたら引き止められて結局二十万貸してきた。絶対早く返そうと思って早く返済した。

そして母はまたやらかした。私はその時すでに別のところで別の仕事をしていた。その闇金の電話はブロックして、ある日その闇金からハガキが届いた。

母!!私の現住所、勝手に教えたな!!おしゃべり好きな母は乗せられて何でも話してしまう。そしてまた「頼むから借りてくれ」と言われた。「闇金に顔が立たない。もう余分なこと言わないように従業員には伝えたからお願い!!」と頭を下げた。私も甘い。「もうこれが最後だからね!!」と、また二十万借りて速攻返した。「もう二度と借りませんので!!」と伝えて。

そう、私の母は娘からお金を搾取する毒親であった。



●母のトラウマとプライドを考察する


母はお金に対して大きなトラウマを抱えている。今もお金に執着があるのはそのせいだ。母には姉がいる。

ある時、姉の子供達に

「駄菓子屋でお菓子を買ってあげる」

と母は言った。

その子供たちが考えてこう言った。

「○ちゃんち(母のところ)は貧乏だからいいよ〜」と。

母は凍りつき、考えた。姉が子供達に

「妹(母)のとこは貧乏だからお金ないのだよ」

と言っていると。

そこで大きな怒りとお金への執着が生まれたのでしょう。その話しを私は何回も聞いている。

母はお金にも執着があるが、物に対しても執着がある。母は捨てられネーゼだ。なんでも捨てない。

これは最近の話し。2021年、私は実家の賃貸アパートから賃貸マンションに引っ越しをした。その経緯はまた後ほど話します。  その際、何度か実家に帰り、いらない物を捨てに帰った。そう、コロナ禍で私が全然帰れない間にアパートは汚部屋化していた。私の物はほとんど捨てた。

しかし母は自分の部屋のものを捨てようとしなかった。

ふと母の部屋を見た。チラシが漫画5冊分くらい溜まっていた。

「これは捨てていいよね?」と聞くと

「まだ見てないから」と言った。

「いやいや、もうそのチラシのセール終わりました」

母は「あとで見ておく」と言って結局、私がいる間に見ることはなかった。

部屋中にゴミ袋が散乱していた。他の部屋も含めて10袋くらいあった。

中身は服だった。

「いやいや〜もう着ないでしょ?」

「着るし、思い出があるから捨てられない」と言う。

福袋に入って「着られない」と言っていた物までとっておく。

私はアパレルに勤めていたから服は沢山あったが着ない物は着ない。流行もあるから次の年には着ない。捨てる。そのゴミ袋の中の服、カビだらけですよ!結局捨てられネーゼの母の部屋は汚部屋のまま。

お金と物への執着、その土地で知らない者が居なかった大ヤンキーが母のプライドである。そして母は嘘で固められた人、私を愛していない人。
















●自己破産した母を考察する


母はプライドが高い、私は多くを望まない娘だった。弟は多くを望み母は尽くした。   

母は私が二十歳になる時、私にパールのピアス、ブレスレット、ネックレスのセットをプレゼントしてくれた。私は「いらない」と言った。でも「冠婚葬祭で使えるから」と、私は瞬殺で失くした。今思えば気持ちはわかる。私の娘ももうすぐ二十歳になる娘に一生使える物をあげたいと思っている。まあその話しは後ほど。弟も金のネックレスを貰ったと言う。弟も失くした。

また、母は当時私が好きだったブランド。今はブランド名も忘れ、存在していない。そんなに高価格帯のブランドではない。靴が約1万円。

そのブランドで母は「冬のコートを買ってあげる」と言った。

私は勿論「要らない」と言った。

母は「でもせっかく市街地に来たし、防寒コート持ってないでしょ?」と言う。

私は古着を愛する女なので古着でよかった。が、せっかくなので甘えた。

当時は流行っていた襟、袖、裾にフェイクファーの付いた黒の膝丈コート、約3万円だ。  「高いからいいよ」と言ったが買ってくれた。

私は聞いた。

「カード36回払いで」と。え!3万円の36回払いって!月千円くらいで支払うの!?その時の私は恥ずかしくなり店を出た。


私は考察する。


プライドの高い母は周りの人達に

「子供達にこんなことをしてあげたよ」

と公言していたのでしょう。両親の家に引けを取らない事を二十歳になる子供たちにしたよと。

その後、母は躁鬱病になり、入院し働かなくなった。母は約20年前に自己破産している。どのくらいの負債だったかはわからないが、母のプライドの高い性格からできた負債だ。

自己破産については賛否両論ある。

ある人は言う。

「自己破産することを恥ずかしいと思わなくていい、自己破産は人生を悔い改め、一からやり直す日本国の権利だから多いに使うといいよ」と。

確かに周りの人に気づかれず負債をゼロにできるのだから母のプライドは傷つかない。

でも私は母を恥じた。

因みに弟も自己破産している。

自己破産はいい制度だが、優しすぎる。

自己破産して5年経てば、母の負債情報は抹消され、またローンが組めた。

私は「二度とカードを作るな!お金が必要なら私に言え!」と言った。

母の人生は嘘で塗り潰されている。

今現在、母はカードを持っている。それは弟が教えてくれたと言った。でもそれは嘘だった。弟は自己破産してからクレジットカードを作っていない(弟も噓をつくので真相は分からない)

弟曰く

「母が深夜の通販番組を見て欲しくて自ら電話し、通販会社からカードを勧められて作った」

そう。完全に通販会社が悪い。


私は考察する。


母はおしゃべりだから包み隠さず自分が自己破産をしていることを告げたと思う。だがもう5年以上たっている。

多分、通販会社が「それならば作れますよ」と言ったのでしょう。今現在、母はその通販会社に月2万くらい返済している。何を買っているかは分からない。働いていない。年金は月2万しか貰っていない。タバコもスマホ代も、私からの仕送りと母のパートナーからのお金で成り立つ暮らしの中、自分のために月2万の支払いを平気で作る。

それが私の母だ。

















●母に愛されていない証拠を考察する


実の母に愛されていない!と断言できたのはつい最近のこと。

私は占いを信じない。なぜならば30歳くらいの時、1番仲の良かった、今も親友と呼べる友が

「すごく当たるって有名な占い師がいるから見てもらいに行こう」と誘ってくれた。

興味があったので一緒に占ってもらった。電車で3時間ほどの田舎の喫茶店だ。

その占い師は私を見て言った。

「あなたに男運はありません」

その通りです。今まで付き合った男性、娘の父である男性、もれなくダメ男でした。わかっています。

でもその占い師は言う。

「貴方は33歳に運命の男性と巡り合います」と。

私は占いを信じないが密かに33歳を楽しみにしていた。

皆様の想像どおり、何も起こらなかった。生涯、占いは信じないと誓った。

私はメルカリ依存症だ。たまたまメルカリサーフィンを楽しんでいた時、ふと目に留まった。

気とオーラと心霊をみて貴方を鑑定しますと言う夕月さん(名前公開了承済)

私の霊感等はゼロ、でもある時バイトの後輩が「○○さんは、人とは違うオーラですね」と言った。

「怖い!何か見えんの!?」

でも私は“変わっている”が好物なので喜んだ。

だからオーラを見て貰おうと頼んだ。メルカリにしては高価な買い物だったが、とても丁寧に20ページ以上に渡り、詳しく説明してくれた。


やり取りの中で母の写真があれば見せて下さいとの事だったので一枚だけあった母の写真を提示した。

「この方は育児放棄をしてきました。昔も今も」と。

一瞬で理解は出来なかったが今ではその通りだと思う。


ここでまた考察する。


産まれた時から手が掛からず育った私、反対に産まれた時から夜泣きやら物を投げる

とにかく手がかかった弟“手がかかる子ほど可愛い”とはこの事だ。

弟は保育園からいじめられっ子。祖父母や母を困らせていたでしょう。母は自分の身を守るためにも弟に尽くした。弟のことは第三章でお話しします。

現在の私、不美愛は働かない母、糖尿病末期で働けない弟、国指定の難病を持つ娘の3人を扶養している。当時は夜勤限定の12時間勤務の工場で働いていると話して、今も娘と離れ暮らしている。

当時、母はこう言った。

「○○(30年来のパートナー)と縁を切りたい、少しずつ借りていたお金を返したい」と。

私はそれには賛成だ。私にとっては得体の知れない男性が娘の近くにいるのは不愉快だった。その為に私は仕送りを多くした。月25万。田舎の水道代、駐車場代込み家賃6万のボロアパートに光熱費いれても十万はいかない。娘の学校で必要な授業料などは別途払い、娘にお金が必要な時は多く仕送りした。 

2021年、春、母から突然のカミングアウト。

「○○(母のパートナー)から月10万貰っている。○○があと2‘3年で仕事をリタイアしたら一緒に住むと言っている」と。


私は足から崩れ落ちた。


私は何年も母に大きな嘘をつかれていた。身を削り稼いだお金はなんだったのだ。

私は母を問い詰めた「その10万は何に使っていたの?貯金しているの?」と。

母はその時は「それは聞かないで〜」と言った。いや聞くだろ普通!!

後に母は言った。娘が入院する時、荷物多いからタクシーで行き、近くにショッピングモールがあり食料買い出しの時、ついでに娘の服や母の服を買っていたと。

いやいや!!娘は確かに月3日間入院していたがボロアパートからはタクシーで1メーター、何往復しても月5万使わない。服だって、娘はほぼジャージ娘だ。

そう、母は虚言癖であり、買い物依存症だ。その話しを聞いてから私は私でなくなってきた。

そして私は墓場まで持って行こうと思っていた今の仕事を母にカミングアウトした。

「私の仕事は風俗だよ」と、すごく勇気が必要だった。

母は軽い口調で「そうじゃないかと思っていたよ」と。


私はまた崩れ落ちた。


そうじゃないかと思いながら母はお金を要求していたのだ!実の母に愛されていない一つ目の証拠となった。


更に最近、実の母に愛されていない決定的な出来事が2つあった。

それは2021年10月の出来事。それは実の母に今も愛されている弟のことだ。弟は糖尿病になってから働かず私の仕送りで暮らしていた。私は何もしない弟をもう扶養したくないと思った。

母に「弟は生活保護を受けさせ、自立させよう」と言った。

母は「私には○○(弟)を見守る義務がある」と言った。


は?


もう44歳のオジサンを、電車もバスも役所にも1人で行けないオジサンを、まだ見守る義務があると!?


そう、弟は母に愛されている。


私は問うた。「あんたは私には義務はないの!?」と。

母は言った。

「あんたは何でも1人で出来たから」と。


違う!!


それは母が私を育児放棄してきたから何でもしないといけなかった。自分でしなければ生きていけなかった!!これが実の母に愛されなかった二つ目の証拠。


私は心配性のあまり不安障害になった。私は今も崩れそうなボロアパートに娘を置いておけない。更に母のパートナーが一緒に住むなら娘と一緒の部屋にその人を居させたくない。

引っ越すことを決めた。鉄筋コンクリート、ハザードマップで津波、洪水が来ない、私の中での安心安全な賃貸マンショ引っ越した。

 娘が病死以外で生を全うできる場所にいて欲しかった。そのマンションをきっかけに私は小さな詐欺にあった。その小さな詐欺で妄想族の私はもしかしたら娘がなんらかの被害があるかと、籍を離しておいた方がいいかもと、私に好意を持ってくれていた方に嫁ごうと思い母に話した。

母は「そう、でも孫(娘)は置いて行ってね。離れたくないから」と。

そう、母は私を簡単に手離した、でも娘といる限り私は母も弟も扶養する、私から見れば娘を人質に取られた気分だ。


それが三つ目の証拠


実の母に愛されなかった動かぬ真実




















●母が私を褒めた二つの出来事


母はプライドが高く、私を育児放棄してきた。そんな私を皆に自慢した事が二つある。

一つ目、小学4年生の時、授業で描いた絵が市の絵画コンクールで金賞を取った。母はとても喜び自慢した。

今でも言う。「○○には絵の才能がある」と。実際は皆無に等しい。私には絵心は無い。でも母がとても喜んだので私もその絵を誇りに思った。当時、先生に言った「私の描いた絵返ってくる?」と、先生は「市で保管されるから返ってこないよ」と言った。当時は諦めた。

母に愛されなかった私は今1番その絵を欲している。母が褒めてくれたその絵をこの本の表紙にしようと思ったからだ。そこで市で保管されると言う手掛かりを当てに市民相談室に電話した。そして学級教育課に回された。正直、市も合併し、大きく体制も変わり三十年以上前の絵がそのまま残っているとは思わなかった。せめて画像で保管されてないかな?と思っていた。案の定なかった。「コンクール名や表彰状があればわかるかも」と言われた。あるわけない。

考えた。もしかしたら小学校には何かしらの写真などがあるかも?と、思い立ったら吉日派の私は迷惑だろうけど電話した。女性の職員さんが、わざわざ教頭先生に繋いでくれた。教頭先生は親身に聞いてくれて、私の思いも伝えた。「母が唯一誉めてくれた絵です。なんでもいいので情報があれば教えて下さい」と伝えた。私はなければ自分のその絵を思い出しもう一度書こうと思う。


私はその絵を考察する。


私は小さい時からよく言えば個性的、悪く言えば変人だった。

今も昔も人から

「変わっているよね」

と言われるのが1番嬉しい。その変人の私が絵の具をそのままの色を使うことはない。完全復刻は無理だ。

全体の記憶はこんな感じ。頭でイメージして下さい。森の中の湖で大きな鳥が水辺から飛び立とうとしているところを。水しぶきに躍動感があると絶賛されていた。


今、私は思う。


私は沼地にはまって抜け出せない鳥がもがいているところを描いていたと。まさに自分のことだった。いや当時の私はそうは思わず描いていたのでしょうけど、大人の私にはそう思える。本物の絵があれば色のイメージでだいぶ変わるでしょう。本物がなく、今、私が描くとしたらそう描く。本物の絵の画像が手に入ることを切に願う。

結果、その絵は存在していなかった。


二つ目の自慢。

これも母のプライドの高さ故のこと。私の最終学歴は医療事務専門学校卒だ。当時の親戚内では最高学歴だった。他の年上の親戚の子たちは皆、中卒か高卒だった。母は地元では名を馳せた大ヤンキー、親戚中の困り者だったのだろう。中卒後、服飾系専門学校に2年行ったが正直母が何か作ってくれた事はない。その母から最高学歴の子が出来た。母は周りに言い回った。 

私は恥ずかしいと思った。たかだか専門卒、そのうち大学卒もでるだろう。

それに私は医療事務に興味ない。ただ、その専門学校が昼間は学校で勉強し、夕方から旅館の仲居として働き、学費を払いながら寮生活ができる。18歳の少女がすでに母に愛されていないことを感じ、家を出たいと願い行動しただけ。資格は取ったが就職はしなかった。


母に愛されていない私が唯一褒められた二つ出来事。


今もそれを覚えていて絵を欲したのは今でも母に愛されたいという願望だろうか?


今の私には分からない。




















●母を羨み妬む


私は母に愛されていなかった。もうそれは受け入れている。

躁鬱病である母は平気で死を叫ぶ。でも死ぬ気はない。最初はなだめていたが、私は最近「ならば一緒に死のう」と言う。そうすると必ず「なんでそうなるの?」と言う。

母がいなくなったら娘は死ぬほど悲しむ、娘はストレスを感じると体をコントロールできない。そう言う難病を持って娘は生きている。母が死ぬショックで娘も死ぬかも知れない。母にはそれがわからない。だから娘の前でも簡単に死を叫ぶ。


娘の愛を一身に受けているのに


それでも更に心配して欲しがる。なんて傲慢な女だろう。私の娘はすでに自分がメンタル弱いことを理解している。

通販のメンタルトレーニングコースを受講しているほどだ。娘は努力している。愛おしい。社会に揉まれ嫌なことも沢山あるのだろう。それでも前を向いて生きていこうとしている。


愛しい存在。


私は娘の愛を欲しているが、それが娘にとって苦痛と感じると思えば欲しない。私を忘れ、楽しく暮らして欲しい。私は今、母に連絡せず、娘を通して連絡している。

月の仕送りを振り込んだ事を娘から母に伝えてもらった。

私は今、娘が1週間に一回して来てくれていた電話を用がないならしなくていいと伝えていた。私のことなど忘れていい。

ある日娘から電話がきた。

私は「なにかあった?」

娘は開口一番

「ママ怒っているの?」と言う。

そう、娘は私の声のトーンだけで不安を感じるようになっていた。

「そんな事ないよ。何かあったの?」と優しく言う

「ううん、別に何にもないけど、ママ、ばぁばにお金送ってくれたかな?と思って」

そう、母はとっくに送ってある仕送りをママがしてくれないことを嘆いていたのであろう。娘も忘れていたのか?それとも母は痴呆症なのか?

娘は私の声を聞きたかったわけではなく、母のために電話してきたのだ。

私は悲しくなる、虚しくなる。

「もうとっくに送ってあるよ、他に用ないなら切るね」

と言って電話を切った。


母の性格から、娘にこう言っているであろう。

「ばぁばはママに嫌われているから、ママに聞いてみて」と。


私を愛していないくせに、嫌われていると嘆く。


それを聞いた娘に私が更に愛されなくなるのを知らずに。


現に今、母は私に郵便物を送るための住所でさえ、娘に書かせている。

「ばぁばはママに嫌われているから。多分、字を見るのもいやだと思う。だから書いて」

と言っているであろう。

それは母が私に対して最低限の義務でさえ放棄していることになる。母は徹底して私を愛さなくなった。

それでも守銭奴の母は仕送りをせがむ。

正直、家賃、水道光熱費は全て私が払っている。仕送りは6万。それは娘の食費、生活費と思い送っていた。プラス、パートナーから十万貰っている。

母は毎月16万、手に持っている。

そのうち、母のクレジット払いが月2万、スマホ代、タバコ代で約5万。娘の月3日間の入院準備のために1万多く送っている。実質、食費、生活費は十万だ。

弟は「俺はほとんど食べられない。自分は通販でうどんなど頼んで食べている」と言う。

母は「私は歯もないし、硬い物は食べられない。だから対して食費はかかっていない」と言う。

どちらも本当のことか分からない。

本当だとしたら、娘の食費とよく来るようになったパートナーの夕飯代だ。

5万で余裕でしょう。

じゃあ残りの5万は母の自由だ。自分の年金も少なからずある。

どうでしょう?私にとっては十分楽しい人生だと思う。

それでも母は自分の不幸を叫ぶ。

死にたいと叫ぶ。

毎日、愛しい娘に会えるのに。

不幸だと言う。


私は母が羨ましい。


私を育児放棄したのに、私に支えられて、愛しい娘と共に生きる。


それなのに母は自分の不幸を娘に伝えて娘を悲しませる。


それが娘にとって不安になり、私みたいに不安障害に繋がらないかが私は心配だ。

もし母の行動で娘が危険な目にあったら、私は母を殺す。死という形ではなく、法で裁く、裁かなかったら死にたいと言う母を援助しよう。


私はすでに母を憎んでいる。


父を束縛するために私を産み。手が掛からないからと育児放棄し、自分のプライドのために誉めて自慢し、今なお自分のために私を利用している。娘と言う人質を置いて。お金を搾取する。

ただただ、母に利用されてきた半生だ。

私は母を憎むことでしか生きていけない。


愛する娘のために憎む母も養う。


勿論、娘に何かあれば、簡単に切り捨てる。

その時、思い知ればいい。


私は妄想する。

私を「悪魔」と母は言うかも知れない。

「実の母を見捨てるの?」と言うかも知れない。

私は言う「貴方は私を産んだ瞬間から私を見捨てている。今まで私からどれだけ幸せを搾取してきたか。私に初めから母はいない。貴方が私を守る義務がないと言ったように、私にもこれ以上、貴方を養う義務はない。」と

これからも私は母を羨み憎むことで前を向く。




















●娘に愛された母のパートナーを考察する


母には30年来のパートナーがいる。私が高校に上がるころ、突然挨拶もなく市営アパートに上がり込んできた。それ以来、毎日のように家にきた。

私は母が招き入れた男性が漏れなくダメ男だったので話などはほとんどしなかった。

私が娘を出産し難病が見つかり生後半年間入院。やっと退院し、はじめての沐浴を楽しみ帰った。何故か母のパートナーが沐浴をしていた!

啞然とした。体現するなら、口がポカンと空いた。

母のパートナーは私が出産してから一度も面会などには来ていない。人様の娘の初めてを奪った憎い男となった。

それでも私は父親代わりにお金を稼いだ。朝昼晩働き、お祝い事は盛大に行なった。両親のいる家庭に引けを取らないように。

母のパートナーは弟が建てた家にも弟が自己破産し、私が家主になったアパートにも、ついてきた。私のいない時間を狙って娘とデートをしていた。

2022年、誰にも愛されていないことに気付き自愛に目覚めた私は娘に聞いてみた。

「○○にとって母のパートナーはなに?」

娘は言った。

「うーん、家族?」

愕然とした。

更に聞いた。

「じゃあママは?」

「うーん、親?」


私はその日パニック障害になった。


家族とは「夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団。 社会構成の基本単位。」 (『広辞苑』第6版,2008)である。

おや【親・祖】父と母との汎称。子をもつ者。古くは特に、母。実の父母にも養父母にもいう。


 そう、そでに娘にとって私はただの親で家族ではなかった。


 娘はフルネームも知らない赤の他人を家族と言う。


 母のパートナーは他人なのに娘に愛された。私がこの世で一番憎む羨ましい男。













第二章 実の娘に愛されなかった証拠を考察する


 ●私は私を考察する


私は物心つく頃から勝ち気な女の子だったと考察する。

少し育つのが早かった私は小学卒業までは自称ジャイ子と思っていた。保育園から虐められる弟を守り、足も早かった私は小5の運動会のリレーのアンカーでビリから牛蒡抜きで1番を取った。

ジャイ子の私は男子が掃除をサボって遊んでいるのを「遊んでないで掃除して!」と怒った。

突然、ジャイ子でなくなった。小6で人生に3回あると言われている、モテ期、が来たのだ。

私は1人の男の子から猛烈アタックを受けていた。少し不良っぽい彼はいろんな手を使って私にアタックした。突然のプレゼント攻撃!その彼は裕福な家庭の子だった。

 初めてのプレゼントは“シンデレラのガラスの靴”次は“星のモチーフのネックレス”


今、考察する。


当時流行していた音楽。。歌詞としては正しくない別れの唄だけど、当時の彼には響いたのだろう。

そこから私は人見知りを発動した。彼から逃げる日々だが、何故か当時私が通っていた英会話教室に彼も通い始めた。私が興味のない英会話教室に通った理由は分からない。

多分、小学校までは多彩だった私にプライドの高い母が通わせていたのだろう。

その彼は子分を従え、様々なアプローチをした。時には近くの公園で、私を含めた女子の前で喧嘩ごっこをして、心配させるという演技をした。

市営アパートに住んでいて部屋番号まで知っている彼らはよく外で大騒ぎしていた。私は無視した。彼の行動はエスカレートして行った。

小6のクリスマスイヴに英会話教室があり終わったあと、最後に出て行くと彼がいて私の初キスを奪っていった。

更にエスカレートし、ある日、勝手に自宅に上がり込み、押し倒してきた。私は固まった。彼は何をするわけでもなく立ち去った。


私は考察した。


彼は何をしたかったのだろう?と。

当時の私はABCの意味くらいは知っていた。Bまで奪われたのかな?程度だった。

中学生になり、彼は私を求めるのを辞めた。リアルヤンキーになったからだ。私はヤンキーに興味がない。個性的な物を好んだ。当時は有名お笑い芸人がゴールデンにまだ出ず、深夜にやっていた名前も忘れた番組をこよなく愛し、有名お笑い芸人のファンだと言う1人の友達とよく喋っていた。

中2の時、私の人生を大きく変える出来事が起こった。中学に入り先輩の勧誘で陸上部に入った。小学生では俊足だった私の成長は終わり、身長は153㎝で止まった。今もその身長は変わらない。陸上部で速くもなく遅くもない微妙な私は、走り幅跳びや中距離を種目とした。

中距離はドSの競技として有名だ。100ⅿを走る速さで1000ⅿを走り切る。心臓破りの競技だ。まだ何かしら成長していた私の体は悲鳴をあげていた。

ある時から私は常に微熱を出すようになった。37.5度前後の微妙な怠さ。そして右足首が異常に痛く腫れてきた。

母と市立病院にいった。まず整形外科に行った。

先生は一目診て

「あーヘルニアですね。検査しましょう」と、よく分からず流されるままレントゲン室に行き、見た事もない太い注射を刺された。 死ぬほど痛かった。結果、腫れていた私の足首は大袈裟に言って10倍に腫れ上がった。そして帰る時には松葉杖だった。何日も痛かった。

検査結果、ヘルニアではなかった。

いやいや先生!誤診でしょ!痛いだけだったでしょ!今の私なら詫びをして貰っていただろう。

次に小児科に行った。イケメンの小児科医は言った。

「もしかしたらリウマチかな?血液検査しましょう」と。

当時の私はリウマチをお爺さんやお婆さんがなる病気と認識していた。それに私がなるの?と、また誤診では?と思った。結果、若年性関節リウマチと診断された。ごく稀に十代でリウマチになるらしい、当時は国の難病指定だった。

その日から私は入院し投薬、関節を常に動かすリハビリを始めた。入院生活は半年ほどだった。母は週一ほど面会に来た。職場仲間が送ってくれたり、バスで来たりと。

ある時、母が愚痴を言った。

「ここに来るにもお金かかるし、入院費もかかるのだからね」と。

私は言った。

「じゃあもう来なくていいよ」と。

国の難病指定だから多分、医療費控除は出来ていたはず、まあ勿論タダではなかったにしても普通に入院するより遥かに安くなっていただろう。私は入院している間、特に何かを求めたことはなかった。テレビカードくらいかな?それも決められた時間しか見なかった。その頃から私は自律神経失調症とも診断されていた。少しずつ母にも心を開かなくなっていった。

入院3ヶ月くらい経って私が松葉杖を引きずって歩いていたのを見た整形外科の担当医は笑いながら「もう大丈夫だね」と言った。 それから私は病院から中学校に通うようになった。まずは半日、様子見ながら、そこから私の中学生活は真っ黒だった。仲良かった友達も何回かはお見舞いに来てくれたが、もう違うグループを作り入れてはくれなかった。


私は考察する。


多分、謎の難病にかかったと噂されていたのだろう。

そして学力も中の上だった私はその3ヶ月で下になっていた。

特に数学にはビックリした。久しぶりに登校した日の数学はテストの日で先生は「分からないと思うけど読んでいて」と言った。

そのテストはほぼ白紙だった。1番上に数行の言葉が書かれていた。

○○○○○○○を証明せよ。

私は1番大事な図形を証明するための方式が分からなかった。それは多分、その後の人生も変える大事な部分だと考察する。数学だけでなく社会活動の中で証明することは大事だ。証明、根拠なくして人は動かない。そこが欠けてしまった。

そして私は約半年分の勉強の遅れを得て馬鹿になった。

それでも高校は出ておきたいと、当時お馬鹿女子校で有名なキリスト教の私立高校に入った。学費は分からないけどそこも母のプライド、高校に娘が通ったに繋がった。

 私はその高校の商業科を選んだ。何故なら服や雑貨が好きだから、いつか携わりたいと思っていたからだ。高校では普通に学んだ。 有名なお馬鹿女子校だったので同級生はヤンキーやら、ギャルやら、真面目やら、多種多様だった。私は中間。制服のスカート丈は入学前から短くしていたし、ピアスも開けていた。眼力が強いせいか、ちょっと先輩と目があったが、多分、目で殺していた。

高校生活は楽しかった。楽しい仲間たちと騒ぎ、授業は普通に聞いた。高1の春、国語の先生が余りにも騒がしいので

「じゃあこの意味わかる人」

シーン

「じゃあ分からない人」

シーン

私を含め、誰も手を挙げなかった。

先生は言った。

「じゃあ、皆分かるって事ね、じゃあ○○さん!」

私だった

私は立って答えた

先生は目を丸くした!!

「なんで分かったの?」

「いや普通に聞いてれば分かります」

教室はざわついた。

高校生活始めての中間テストは商業科でトップだった!

私も驚きだ!

先生たちは騒いだ。

「何故?何したの?」と。

書いた通り有名なお馬鹿女子校だ。私はただ授業を聞き、先生が

「ここテストに出るよ」

と言ったのを覚えていただけだ。

それで100点取れただけ。

先生が「進学科に転科する?」と言ってきた。しません。

普通に覚えてだけで私の高校生活は3年間、学級委員として縛られた。もちろん真面目にやらなかった。

私はバイト禁止の高校に内緒で母の某スーパーの寿司コーナーでバイトを始めた。バイトしていた時が1番母の近くにいたのかも知れない。

私は学校が終わればバイト、休みの日もバイト、とにかくバイトに明け暮れた。バイト代は当時ハマっていたバンドのライブに行くため、当時から古着が好きだった私はバスや青春切符を使い、1人で都会に遊びに来ていた。

そう当時から私は1人で行動できた。友達とも遊びに行ったが、趣味が違うので気遣いの私はゆっくり買い物ができなかった。

私は1人で行くウィンドーショッピングが好きだ。

でも当時出来なかった事が一つある。1人でカフェやレストランに入ることができなかった。

その日、バス都会に行き繫華街をうろついていた私はお腹が空いて死にそうだった。何処かのカフェに入ろうと思った。

どこも友達、カップルで、1人で入る勇気がなかった。

どうしてもお腹が空いたからファーストフード店に入ろう。繫華街にある、まだ私の住む町にない某ファーストフード店に入った。順番を待ちながら前の人を見て真似しようと思っていた。なんか色々聞かれていた。 私の順番になり、私は「やっぱりいいです」

と店を出た。

結局、帰りのバスまで我慢してお弁当をバスで食べた。今では某ファーストフード店ができ、リベンジに成功している。その時、私は一つ成長した。

今では焼肉屋でもピークタイム以外なら1人で入れるまで成長した。

私は高校を商業科の10位以内をキープして卒業した。卒業の前に進路を考えた。


人生で最初の分岐点だ。


私の中では就職かアパレル系専門学校に進むかの2択だと思っていた。でも私の脳はずっと家を出たいと思っていた。もう母に愛されていない事を脳は分かっていたのだ。就職してもすぐに一人暮らしはできない。アパレル系専門学校に行っても家を出られず更に母におんぶに抱っこだ。おんぶに抱っことは、母にまだ扶養されるという事だ。

出来るだけ母にお金をかけさせず家を出たい。と色々探したところ、私の最終学歴となる医療事務専門学校がヒットした。その学校は10時〜16時授業、そのあとは各自派遣された旅館の仲居として仕事をし、学費と寮費を払って生活すると言う制度だった。

この学校なら私の学力なら余裕で行けるし特待生として入学金も免除される。その代わり学力をキープすることがついてきた。学力をキープしつつ、仕事する。なかなかハードだ。

でも家を出られるならそれがいいと選んだ。18歳から2年間、仲居として働き、寮で過ごした。そこで一緒に過ごした友が私の生涯の親友になった。


私は考察する。


私はその専門学校を10位以内の成績で卒業したが医療事務には就職しなかった。

やっぱりアパレルに携わりたかった。

今思えば18歳からショップで働いていたら店長になるのがもっと早くなっただろうと、2年立っていれば貯金も貯まり1人暮らしができていたかもと、でも後悔はない。

その専門学校で生涯の親友を得た。仲居の仕事で敬語や所作、上司との付き合い方など色々学んだ。社会人としての基礎ができたからだ。

その2年で私は海外に3回行くこともできた。仲居していた旅館の社員旅行で台湾と上海に、専門学校の研修旅行でハワイ。

ハワイには私は行かないつもりだった。旅費が別途100万かかるからだ。

一応、母に話した。これも母のプライドからか母は工面してくれた。いつか何らかの形で恩を返そうと思っていた。

そして私は成人式に母が積み立てていたという振袖レンタルであえて袴で出席した。

もう私の中はファッションへの興味が溢れていた。ピンクの振袖に紫の袴、髪の毛もピンクに染めた。田舎ではかなり奇抜な格好だった。地方の新聞に載った。これが母に愛されなかった私が成人になるまでの話し。


私を考察する。


私は人と同じ事をするのが大嫌い。同じ服を着ることも嫌だから古着を愛し、今もその性格は変わらない。

















●私の成人後〜娘の父に会うまでを考察する


20歳を迎え、医療事務専門学校を卒業した私は実家の市営アパートに帰ってきた。

結局、母のスネかじりだ。まずは当時あった某百貨店の契約社員になりスポーツ用品売り場に配属された。私は2年間の仲居経験を活かし真面目に働いた。

でも半年で辞めた。自分の理想と大きく違っていたからだ。辞める前に次の仕事は自分が好きなアパレルショップに勤めようと思った。

求人アルバイト誌で偶然見つけた。運命の瞬間。

この選択で私の人生は良くも悪くも大きく変わった。


第二の人生のスタートだ。


そのアパレル会社が展開するブランドは県で初出店、しかも某百貨店が新館オープンする時の初出店!とても興味が湧いた。

そのブランドは今では多く存在するが当時は斬新なコンセプトを掲げていた。海外の市場のように華やかで賑やかで何でも揃うショップ。服は勿論、靴、バッグ、アクセサリーからちょっとした生活雑貨、お菓子まで置いていた。本当に子供から大人まで楽しめるショップだった。


私はワクワクした!!


そのオープニングスタッフとしてまずはアルバイトとして働き始めた。

その頃、私はある人と付き合い始めた。母の働くスーパーのバイトをしていた。母はアルバイトの仲間をよく家に招いた。人見知りの私にとってはいい迷惑だ。告白され、約5年間付き合った。

アパレルショップは某百貨店の新館の地下入り口の目の前にある25坪ほどの細長い店だ。すべてが木目調に作られたナチュラルな外観。壁には緑の草のイミテーションが飾られた。 正に外国の市場のような作りだった。

当時15㎝の厚底ブーツなど流行っていた奇抜なブランドが多い中では珍しいショップだ。私はそのショップが大好きだった。でも15㎝のガンダムみたいな白いブーツを履いていた。アルバイトなので服装に縛りはない。気に入った物は社販で購入できた。

気に入った服があれば購入し着販した。極力、ガンダムブーツに合う服を着用していた。   当時も妄想族だった私は店長にいろんなアイデアを提案した。

しかし、某有名百貨店には大きな壁があった。某有名百貨店のブランド力を下げない事。プチプラブランドをテナントとして入れて百貨店の気品を守る事は無理な話しだ。

当時ブランドが仕入れた古着のコートを巡り、百貨店と会社で物議が起こった。

結果、古着のコートは販売されなかった。母同様、プライドの高い百貨店だ。

私はそこで今1番の親友と呼べる友と出会った。友は私のショップに後から入ってきたアルバイトだ。その友と沢山の妄想を繰り広げた。友と私は手芸が好きだった。友は縫い物、私は編み物を得意とした。妄想を繰り広げ、私達は「いつか雑貨屋を開こう」と誓った。 

まず各自貯金と今やれる事をしようと決め  

た。出てきたアイデアが、フリーペーパーを自費で作る。当時は街にはフリーペーパーが溢れていた。私達は自分の足で自分たちのお気に入りの雑貨屋を探し撮影、コメントを頂き、許可を取り、自分達の作品をあげたりした。

当時はガラケーで写真を撮る事はできたが加工修正などできない時代、自分たちで写真にシールなど貼り、一枚の紙を作った。自費でカラーコピーをし、製本など出来ないので、妄想し考えた。

1枚の紙をまずは縦に折り、真ん中を更に折り、もう一回折る。すると8分の1になる。折り目をつけたら広げ今度は横に折る。そしてハサミで真ん中から1つ分切り込みを入れる。そして広げ山折り、谷折りするとなんと8分の1の本が出来上がり!

製本する必要の無い、とてもエコなフリーペーパーの出来上がり!

それ以外にも私は活動した。友と見つけたある雑貨屋、その雑貨屋は、今は珍しくないが田舎では珍しい手作り雑貨を委託販売してくれる雑貨屋だった。

その店長と仲良くなり、店長が開くパーティにも参加した。友はそこで恋に落ち、現在その方と結婚している。友の人生のパートナーの出会いに立ち会えて良かった。

私はその雑貨屋で自分の作った編み物を委託販売した。それは営利目的でなく自分のブランド名を挙げる為、そう、妄想族の私は自分の作る作品にもうブランド名をつけていた

よく売れたのはレインボーのスヌードに手作りの星のブローチを付けた物。セットで確か1500円。あと、ポンポンリング100円。毛糸でポンポンを作り、土台のリングは毛糸で編んだ、誰でも作れるものだ。

でもポンポンは私の指先一つで色んなカラーを出した。ツートンカラーやミックス、同じ物は二度と作れない。ポンポンリングは子供がしても怪我しない。が、すぐ壊れた。修正依頼がきたら直した。でも所詮編み物なので指にはめているうちに伸びた。そのうち、売れなくなった。

編み物は季節商品だ。でも他の作家さんの商品をみるのはとてもためになった。楽しかった。そう私と友は青春を謳歌した。

多分、生涯で1番、妄想と実行を楽しんだ5年間だった。


それは突然訪れた。


ショップのクローズだ。オープニングからクローズまでに5年。早すぎる撤退だ。そのブランドのオープニング後は順調だった。

その後、かなり迷走していた。途中で海外からの古着を入荷し、最後には長袖Tシャツ980円がメインコーナーを飾った。 めちゃくちゃだった。最後は何がしたいのか分からなかった。

ブランド自体が消滅寸前だった。

私はアルバイトから準社員になっていたが、何もできることはなかった。私はそのブランドを愛していたので、別のブランドに移る事はできたが会社を辞めた。

私は友と誓った。3年後にお互いお金を貯めて雑貨屋さんを開こうと。

同時に私は5年間付き合っていた人と別れた。いいタイミングだったのだろう。

私はその街では貯金は出来ないと思った。その街は魅力的な物で溢れていた。私は考えた。これは何も物欲を満たさない、何もない町に行き、質素に暮らそうと。そこで某派遣会社の田舎の工場勤務、寮完備、手取り30万も可能!と書いてあった。とある県にキャリーケース一つで向かった。正直、もう家には帰らないつもりで。

母と弟と母のパートナーとの暮らしに心が限界を感じていたのであろう。私は自由だ!自分の思うままに生きよう!と思った。

その派遣先の工場で娘の父に会うこととなる。










●娘の実の父と出会い別れを考察する


これは私の人生で、1番辛く、思い出すだけで涙が出る、そんな話し。


当時の私は友と雑貨屋を開くため、派遣会社に登録し、派遣先の工場にキャリーケース1つで向かった。手取り30万も夢じゃない!!は夢だった。

実際は雑費を引かれて手取り十八万だった。健康保険や年金などは分かる。酷かったのが寮費、目の前に田んぼの広がる一応エレベーター付きの2DKのシェアハウスに1人8万取られていた。同じ日に入社した女の子と2人暮らしで1人8万!家賃、水道光熱費入れても高すぎる!ぼったくりだと思った。部屋にはテレビと布団しかなく、生活の基盤を作るのにも費用がかかった。結局、貯金などできなかった。工場の仕事に慣れてきた頃、私は内緒で某回転寿司店のバイトを始めた。週5の工場勤務に加えて、19〜23時までのバイト、週末には8時間以上バイトをしていた。それでもなかなか思うようには貯金は出来なかった。


それは娘の実の父のせいであった。


私は考察する。


工場の上司であったその人に「好きだ!付き合ってくれ!!」と言われ、何となくお付き合いが始まった。


 結果


その人は愉快犯、悪く言って結婚詐欺師だった。

私の寮とその人の1人暮らししている寮は約1㎞の距離で、その人はよく泊まっていけといった。


今になり考察する。


その人は束縛男だった。徐々に私とその人は半同棲状態となっていった。その人は毎日お酒を飲んでいた。私は節約生活で近くの百円スーパーをよく使っていた。できるだけ手料理をし、食費を抑えた。その際、その人は一切お金を出さなかった。

その人はよく言った。

「面倒くさいし、飲みに行こうよ」と。

当時の私はカシスオレンジしかお酒は飲めなかった。誘われるまま飲み屋に行ったが支払いは折半だった。酒豪のその人とカシスオレンジ一杯の私では割に合わない。

その人はよく言った「バイトをやめて俺との時間を優先してくれ」と。

「いやいや、私がここにいる意味がなくなる」と、断ったが少しだけシフトを減らした。  初めてその人がデートに誘った。行き先は内緒だと言って。着いた場所は、競馬場だった、そう、その人は競馬、パチンコ好きのギャンブラーだった!!

ないなと思った。

何を隠そう、前の彼氏が5年付き合って、このまま結婚するのかな?と思っていたのに後半パチンコにハマり仕事を辞めて「俺、パチプロになる」と言って別れたからだ。

キリ良いところで別れようと思っていた。だが、中々同じ職場の恋愛は一筋縄ではいかない。その人のプライドも傷つくだろうし、タイミングを探していた。

私は性に無関心だ。私の身体に子が宿るとは思わなかった。

何故なら私は子供が嫌いだった。

だって私は可愛くない子供だったから。

母に愛された弟も可愛く思えなかった。わんわん騒ぐし、物は投げる、弟は最悪な子供だ。

もちろん避妊はしっかりしていた。

ある日その人は言った。

「一回だけ生でさせてくれ、中には出さないから」

私は断った。

その人は言った。

「大丈夫、今は排卵日ではないから」と。

性に無知だった私は年上のその人はそういう事も知っているのかと受け入れた。

その人は黙って中に放出した。


最悪だ。


私は急いで浴室に行き、できる限り掻き出した。


生理が来なくなった。


暫くは工場とバイトとその人の付き合いでストレスが溜まっているのだろうと思った。

その人が妊娠検査薬を買ってきた。


結果、妊娠していた。


産婦人科に行って私は堕胎つもりでいた。

多くの女性から批判を浴びることだろう。でも、私にはお腹の子を愛し、幸せにする自信がなかった。


産んだら私の母のようなことをしてしまうかも知れない。


その人は産婦人科についてきた。その人は街中で一目も憚らず土下座をした。


「どうか産んでくれ、結婚してくれ!!」


私は無視して産婦人科の診察を受けた。私は初めてエコーで娘と体面した。微かに感じる、私のお腹でうごめく娘を、エコーで心臓を動かす娘を見た。


診察を終わった時、私はすでに娘を愛していた。もうおろす気は無くなっていた。私はお腹で心の臓を動かす娘を愛し抜くことを誓った。


私は両親のある家庭に憧れがあった。


問題がある人だが一旦、プロポーズを受けた。結婚して子供が出来たらこの人も改心するかもと、私は出産費用を貯める為に節約を続けた。

その人は変わる事はなかった。私は働けるギリギリの7ヶ月まで工場とバイトを続けた。


ある日、突然その人からDVを受けた。

いきなりの平手打ち、私は勿論殴り返した、そうしたらその人は7ヶ月になる私の娘を思いっきり蹴ってきた!!あり得ない!!いきなりの奇行の理由を問いた!!

その人は言った。

「元カレにプロポーズされているだろ!!」

は?

そう言えば元カレと別れて3ヶ月くらいたった頃、突然メールでプロポーズしてきた。ちょっとネタに保護していた。

私は言った。

「って言うか何勝手に携帯みているのよ!」

その人は言った。

「お前だってみているだろ!!」

「見ないよ!!興味ないし!!」


シーン


その人はおもむろに同棲して運んでいた私の荷物全てをマンションの廊下に放り出し鍵をかけた!!

その中には3段ボックスなどもあった。

自分の寮まで1㎞、夜中2時、7ヶ月の妊婦が3段ボックスを抱えて歩く。とてもシュールな絵だった。


空には雲1つなく、涙に滲んだ月が田んぼに写る。生涯忘れられないシーンの一つ。


そのあと一回だけその人に合った。またしても土下座だ。この人にはプライドがないのか?

「もう酒は飲まない!!許してくれ!!」

許せる訳がない!!愛する娘を危機に晒したのだ!!その時には私のお腹はストレスでよく張り詰めた。


娘を思う。


張り詰めて身動きが取れず苦しかっただろうと。私は極力、前を見た!!娘1人を生涯愛し抜こう!!と心に誓った。


実家に戻り私は娘を思い安静にしていた。

しかし切迫早産になってしまい入院することになった。同じく切迫早産して入院していた女性達は「切迫早産で入院したら産むまで退院できないよ」と言う。

 私にはそれは許されなかった。それでは出産費用が足りなくなる。とにかく何も考えず食事以外、ベッドに横になり安静した。結果一ヶ月で退院できた。看護師さんは「切迫早産でこんなに早く退院できた人いませんよ」と言った。


 私は考察した。


 あの人を利用しようと。私の健康保険は切れる。国民健康保険に入るお金もない。ならば一時的に籍を入れ、その人の扶養家族になり、出産一時金を受け取り次第籍を外す。戸  籍は汚れ、娘が大きくなった時父親の名前がわかってしまうが仕方ない。

 私は結婚する事を伝えた。彼は喜んだが中々、結婚届けを出さなかった。

私は言った「早く結婚届けを出せ!早く健康保険証を作れ!でなければ、出産費用全額請求する!」

 その人は早々に籍を入れ、健康保険証を送ってきた。私は安心した。これで何とか出産費用はキャッシングで確保、そのお金も出産一時金請求で帰ってくる。娘を出産し出産一時金を手にしたら離婚して、その人とは離縁できる。私はこれから娘のためだけに生きる。

 

出産後、彼は口から有り得ない言霊を吐いた


「実は再婚で前妻との間に3人子供がいて養育費を払っている。あと俺は排卵日が分かる。結婚したいからわざと中出しした」


そう、全てはその人の思惑通り、しかも扶養するつもりはなく、扶養される気だった。


これが結婚詐欺と言わず何というのか?


出産一時金がでて私はすぐに離婚届を記入し、彼に最後に会った。

彼は「もう一度やり直してくれないか」と言う。

もう口も聞きたくない。顔を見たくない。

ただ首を横に振る。

離婚届に署名捺印し彼は立ち去った。

もう会うこともない、名前も忘れた、愛する娘の父親。











●愛する娘の病気を考察する


私は残暑厳しい特別な日に娘を産んだ。産声は、ほとんど聞こえなかった。私の胸に寄せられた2800gの天使は少し黒い肌をしていた。そして保育器に入れられた。暫くこの手で抱き締める事はできなかった。私の大きくなった胸は母乳を出さなかった。看護師さんから「お母さんの母乳が1番の栄養だから頑張って出しましょう」と私は泣きながら搾乳器を当てた。私の天使は様々な手を施したが痩せていった。

私がお腹にいた頃、娘を虐めてから死んでしまうのか?天使が死ぬなら私も死を選ぼう。とずっと泣いていた。

そこに救世主が現れた!!たまたま娘の病気を研究していた小児科医だ。もしかしたらと、その病気の検査をしてくれたのだ。

当たりだった!!神様は娘を救ってくれた。その病院で出産し、その先生が診てくれなかったら娘は天国に行っていた。その先生の治療で娘はメキメキ元気になり、私が初めて手に抱いた時にはぷっくり艶々の天使になっていた。


しかし、神様は多いなる罰を与えた。


娘の病名は先天性副腎過形成。20万人に1人いるかいないかの国指定の難病だ。

更に娘の先天性リポイド副腎過形成は日本で登録してある症例で100人弱と書かれている。10年で1人産まれるか産まれても20年以内に死亡していた。

当時、聞いた私はポカンとした。何の病気か全くわからなかった。

この病気をネット検索したものを抜粋する。

ステロイドホルモン合成の律速段階にあるコレステロールよ リプレグネノロンヘのステロイド合成過程に関与するコレステロール移送蛋白である。副腎及び性腺におけるほとんどすべてのステロイドホルモンが合成できない病態である。

簡単に言うと副腎と言う臓器が体の中にはあるが機能していない病気だ。副腎と言う臓器も知らなかった私は先生から説明を受ける。副腎はホルモンとストレスを司る臓器でそれを補う薬を飲まないと死に至る。もしその薬を3日飲まなければ死。高熱を出したら3倍薬を飲まないと死。ストレスを感じたら3倍飲まないと死。ホルモンをコントロールしないと死。死。死。


当時、先生は言った


「20歳まで生きられないかも」


私は心臓が止まりそうだった。私は泣きながら自分を責めこう言った。

「それは私がお腹の中にいる娘にストレスを与えていたせいですか?お腹が張るほど苦しめたからですか?私のせいですよね?」と、

先生は言った。

「違いますよ。これは染色体異常です。あなたかお相手の方の染色体が人と少し違っていてたまたま結合してしまった。」と「お相手を呼んで染色体の検査をさせて下さい」と。

私は言った

「お相手とは縁を切り、もう何処にいるかもわかりません。でも娘は百%私からできています。血液型も一緒。あの子は私の分身。だからすべての非は私にあります。」

「私の副腎を移植できませんか?私は死んでもいいので、せめて二つあるから一つを娘に移植できませんか?」

先生は

「移植してもその副腎は動きません。」と言った。


私は何一つあげる事は出来なかった。


先生は

「大丈夫。僕が一生娘さんを診ますから僕の研究してきた事、全国の研究結果を元に全て行います。だから娘さんの治療も全国の同じ病気に苦しむ人のために学会に発表させて下さい。」と言った。

私に出来る事はそれしか無かった。全国の同じ病気に苦しむ子を持つ両親の為に、娘の研究成果を発表し、1人でも多くの命を救ってもらう。そして先生に1日でも長く娘の生を全うさせて貰う。

私は先生と神様に祈った。私の天使を1日でも長く、そして笑って楽しい日々を送らせて欲しいと。紆余曲折の一言では返せないほど色々なことがあったが、娘は間もなく20歳を迎える。

同じ病気を抱えるご家族の皆様、安心して下さい。

2022年、私は先生に確認した。

「今、この病気の最高年齢は何歳ですか?娘はまだまだ生きられますか?」

先生はこう言った

「現在の最高年齢は40歳、娘さんの産まれた時20歳だった方が40歳を迎えます。医療は進歩しています。今の薬をしっかり飲み続ければ、娘さんは長生きします。」


私は心底、安心した。


娘は生きる!!

これからも自分の人生を謳歌できる!!


私は娘が毎日ストレスフリーで楽しく過ごしてくれることを切に願う。






















●私が適応障害になり、風俗嬢、不美愛になるまでを考察する


娘を出産し、病名が分かり私は出産1ヶ月後から働き始めた。だって私は貯金が底をつき、このままでは娘の入院費用を払えない。  

娘の病気は国の難病指定なので医療費は控除された。ただベッド代、私が病院に行く交通費などかかる。

私は決めていた。母子家庭で育った私が貧乏を経験した。その思いを娘にはさせたくない!!しかも難病で今後大変な思いをさせるだろう。私が父親代わりになり、両親のいる家庭よりも裕福であることを、娘には可愛い服、他の子と引けを取らない物を与えると。      まずバイトとして某カラオケ店で夜働いた。ほぼ、休みなく8時間以上働いた。昼間は娘に会いに行った。でも、まだ抱き締めることは出来なかった。出ない母乳を搾乳器で血がでるまで搾って与えた。ガラス越しで娘を見て、市営アパートに戻り眠った。

次の年の春、これも運命か、以前働いていたアパレル会社から電話がきた。

「以前働いていたブランドがまた出店するので店長として働いて頂けませんか?」

ちょうど昼間の仕事を探していた私は「やらせて下さい!」と即答した。

これにより、私は朝昼晩働くこととなる。寝る間も惜しんで入院している娘に会いに行った。

店長を務めて暫くしてやっと娘は退院することになった。やっと娘との生活が始まる。私は仕事が終わり娘のもとに自転車で走った。可愛い天使にやっと自由に抱きしめて愛せるようになった。幸せな日々。

私は娘のことを母に頼んで仕事に邁進した。娘に可愛い服を着せ、したい事をさせてあげたい。生活費を母に渡しながら貯金をした。

私は某カラオケ店と某アパレル会社の店長を約10年間続けた。10年も続ければどちらも責任が多くなり、その分給与は上がる。

生活に余裕はできるが真面目な性格、社会経験値が上がるごとに慎重な行動、数値的根拠を求められ、脳内がAI化していった。

特に某アパレル会社は一店長を個人経営者の如く数値化させた。スタッフの給与を上げるために全て結果を数値で表せと言ってきた。私は店のスタッフを子供のように育てていたので勿論、数値で論破した。

それが評価され、私は20店舗を任させるスーパーバイザー(SV)になっていた。

その頃から私はおかしくなっていった。仕事の両立は難しく某カラオケ店は辞めた。

店長時代スタッフを子供の様に育成し、育成方法、売上アップのアイデアを横展開し全体の売上貢献をしてきた私がSVになったら、5人の子供が100人になった。

その瞬間パンクした。

まだ店長の顔も名前も知らないのに、開口一番「辞めたいです」「スタッフが辞めたいと言っています」「人手不足で店が回りません」など私一人では解決できない問題が沢山浮上し、私を追い詰めた。寧ろ、自分で自分を追い詰めた。

眠る時間を惜しんで対策を考え、食べる時間を惜しみ人手不足の店舗の店頭に立ち、毎週出張の日々だった。

唯一の癒しが愛しい娘の寝顔だった。

でもきっと娘にとって私は疲れ、笑顔のない母親だったであろう。

眠れず、食べられず、仕事の優先順位がつけられない、書類提出期限に間に合わない。家に帰ってなさけなくて涙を流す。そんな私を娘が心配そうに見る。

私はストレスを感じると死ぬかも知れない娘を死に追いやると思い距離をおいた。

限界がきた私は精神科に行った。その頃には体重は10㎏減っていた。


診断結果は適応障害。


初めて聞くその病気に訳が分からず、先生が出した診断書を持って上司に電話をした。

「今日はもう帰って暫く休んで、1週間後に産業医から電話するから」

と言われた。

適応障害になった私は約1ヶ月、廃人となった。日々、振り返り後悔し、泣き崩れ、もう死にたいと何度も思った。

でも死ねる訳がない。私の人生に巻き込んでしまった、愛する娘が生きている限り。

私は死ぬ事を許されない身だ。そして娘を支える母と母が義務だと言う弟、3人の生活を私は担っている。私が私でなくていい時間は有給消化している間だけだった。

私は働かなくてはいけない!でも私はもう人と深く関わる事が出来なくなっていた。


私は考えた。


人と深く関わらず、できればその仕事で自分含めた4人の生活を支える仕事。無知で馬鹿な私はネットで高額収入など検索していた、 それが風俗業だった、ただそれだけのこと。


私は本当に性に関しては無に等しかった。でも、元々膨よかだった私が適応障害で痩せて、決して自分に自信はないが、せめて可愛い自分であろうと努力してきた。それが風俗業界で認められるならば。

勿論、妄想癖は変わらない。怖い関係のお店だったら、何すればいいかわからない、こんな私を雇ってくれるであろうか?

でもやってみるしか無かった、稼がなくては食べて行けない。娘に惨めな生活をさせたくない。ただそれだけ思って面接に向かった。


結果、採用だった


私とて無知で馬鹿だが学習能力はある。できうる最大限の予防を薬として飲んだ。その頃から私はまた太り始めた。別に食べられるようになった訳でもない。睡眠薬を飲まないとまともに眠れない。変わらず心は疲弊していた。

まともな男性経験値があるわけでもなく、どう振る舞えば男性が喜ぶのか?など考えた事もない。女性への接客は自信がある。勿論、業界用語も知らない。私はよくお客様に「そんな事も知らないの?」と馬鹿にされた。屈辱の日々だった。

でも中には応援してくれる方もいた。いろいろ教えてくれて、「マッサージしてあげると喜ぶよ」とマッサージの仕方を教えてくれた。今もそれは活用している。少しずつスキルを上げ、リピーターも増えて行った。

「風俗業は水物」と言うらしく、いろんな意味を含んでいる。雨の日は立地的に忙しい、小川のように暇な時もあれば、急流に乗り忙しい日もあった。日払いなので本当に読めない。毎日が不安と期待の繰り返し、そんな日々を送っていた。

家族には勿論、内緒で私は某カラオケ店に行き、いろんな店舗をヘルプして回っていると嘘をついていた。一つ嘘を付くとまた一つ嘘を付く、嘘はどんどん広がっていった。私は嘘を付くのが苦手なのに、適応障害は人格すら変えていくのか。


私はもう、妄想することでしか前を向けなくなっていた。


人生で2回目の夢をもった。

猫カフェを開きたい!!猫アレルギーであり飼えないのに、家族経営ならなんとかなるかも。全員働いていないが、娘にアルバイトさせてあげられる。母にも刺激が必要だ。このままでは母は痴呆になると感じていた。弟にも車を出したりする事で生きる喜びを感じるかもと。妄想し、活動した。

アパレル店での経験を活かし、事業計画書を作成し、1日の利用客、客単価、イベント単価など全て試算し、人通りの少なくなった商店街の活性化にも力を入れる案を出した。商店街の事務所に接触し、「猫カフェを開いてもいいよ」と言う物件まで探していた。それを商工会議所などに提出し、元金のローンをお願いした。金額は300万。改装などは自分達で行い、この金額でローンもしっかり支払える試算を出した。私なりの完璧なシナリオだった。

しかし、支援は得られなかった。

ならば自分で稼ぐしかない!!家族を守りつつ、貯金を貯める!!その方法は都会で風俗をする!!しか思い付かなかった。

私はとある店に体験入店することにしてみた。その時、付けられた源氏名が不美愛だ。人妻店の体験入店に人の妻になったことがない私が入店する。

私の頭は妄想する。

人妻とは?どんな格好をするのか?どんな喋り方?髪型は?下着は?当時もアパレル会社勤務丸出しの派手な髪色、服装は風俗の時は地味にしていたが、身から出る派手さは残っていた。精一杯の人妻を演じて向かった。

私は家族に「カラオケの新規オープンの手伝いに10日間行ってくる」と嘘をつき、都会に向かった。

10日間は私には地獄だった。

体験入店には“最低5万円保証”と明記してあった。イコール忙しい。そして最初の待機場所は、突然いろんな女の子が出入りする部屋だった。

朝10時から夜中1時まで眠れない、常に緊張状態だった。3日後には1人部屋に移れたが寮なので共有スペースには様々なルールがあった。10日後にはやつれていた。


結果、不採用だった。


理由は私の見た目のコンプレックスの全てだった。


●前歯が汚い、私の歯は産まれながら地層のようにボーダー柄だった。

●太っている、避妊薬を飲み始め、体重増加、ぽっちゃり体型だった。

●髪型が派手、当時、茶髪のボブでパーマをかけていたが頑張ってお団子のエクステを付けて、横に流していた。


最大の原因

●リピーターがいなかった


この情報はお客様アンケートででた事で、イコールその方たちはリピートしてくれなかったのだ。

店長は言った。

「全部直してきたら、またおいで」と。

私は誓った。もう一度チャレンジするならこのお店でリベンジすると

まず前歯は差し歯にした。他の歯もクリーニングした、歯並びも悪い私は、殆ど見えない歯は抜いた。

その頃、私が立ち上げた、愛する子供達の働くお店がクローズすると聞いた。そのブランドは全国で閉店が続いてきた。店長として任せていたスタッフの結婚、出産で店長不在のお店となっていた。私はその愛するお店の最後を見届けるために復帰を決意した。

不安だった。何も言わず消えた私をスタッフ達は受け入れてくれるのか?1年顔を出した事ないお店、子供達は受け入れてくれるか?不安しかなかった。

でもその子達は笑顔で迎えてくれた。本心は分からない。でも私が復帰したことで少しでも不安が消えてくれたら。私は復帰して良かったと思えた。

 閉店まで2ヶ月間、私は必死だった。閉店セール、閉店を惜しむお客様と時間のある限りお話しした。

閉店の日は呆気なかった。賑わうわけでもなく、通常営業、最後に来てくれた常連様に最後の挨拶をし、電気を消した。

残り二日間で店の片付けをした。

1日目。私は手際がいい。本社からは誰も助けにこなかった。SV経験者がやれない事はレジ周りだけ。それ以外は1日で全て終わらせた。

2日目、ほとんどやる事はないので店長代理をしてくれた子とゆっくりランチをして思い出に浸った。

午後、担当SVとレジ周りができる担当者が現れ「何もすることはないですね。流石です〜」と言って、テナントビルの社長にご挨拶に言った。

その後、SV達は軽い挨拶で帰っていった。本来なら最後、お茶を奢って労を労い、今後の応援をしていくものだ。酷い扱いだ。子供を迎えに行かなくてはならない店長代理を見送り、私も早々に店を出た。


その後、私はもう店長はやりたくないとスタッフとして別ブランドに異動した。

ミセスターゲットのブランド。全く面白味のない商品、会話のないスタッフ、新人店長はマニュアル通り動く、茶髪さえ許されない、私の理想の家族とかけ離れていた。

私は1ヶ月で食べられない、眠れない状態に陥って、また痩せていった。もうその頃には私の心はすぐ悲鳴を体にアピールするようになっていた。分かりやすく今では可愛い体だ。

そして、SVまで昇り給与を上げていた私のスタッフとしての給与は手取り14万だった。

普通のOLなら、私が男なら違っていたであろう。十五年かけて実績を上げてきたのに新入社員と変わらない給与。風俗を続けながら、なんとか暮らした。

その頃には私はあの店にリベンジしようと決めていた。

屈辱的な、コンプレックスである、あの言葉を良くも悪くもクリアしていたからだ。

潔く、十五年勤めた某アパレル会社を辞めた。引き留める人はいなかった。ブランドのため、お店のため、家族であるスタッフを守るため、命を費やし、障害まで抱えた私は、ただの厄介者だった。


私は家族に大きな嘘をついた。


「ママ、猫カフェのオープンのために貯金しながら仕送りするから、工場勤務で週1休みの夜勤勤務12時間の派遣会社で働いてくる。単身赴任のお父さんだと思って」

と娘に言って、都会に向かった。


そして正式に不美愛になった。


















●不美愛になり、コロナ流行前までを考察する


私の名は不美愛。


不美愛は自分で考えた当て字だ。


不美、、、美しくなく

不愛、、、誰にも愛されていない


今の私にぴったりな名前


不美愛は本当の自分とは別人格。不美愛になって約6年、不美愛はどうすれば男性に愛されるか?求められるか?喜ばれるか?ただひたすらにそれを探求していた女。そしてただ、ただ、娘を求めて続けた女。それは今も昔も変わらない。不美愛に成り立ての私は、猫カフェ経営のために貯金をし、休みの日は都会の猫カフェを巡り、癒され、経営のノウハウを学び、妄想を繰り返した。それをすることで未来を想像し、前を向く事が出来た。


娘と仲良く猫カフェ経営。それが私の未来予想図。


不美愛はとにかくお店に尽くした。タダで寝る場所を提供してくれているお店に、体で最大限恩返し出来るよう。言われるがまま従った。人手が少ない時などは朝10時〜夜中1時まで待機した。急に明日10時でと言われても引き受けた。当時はまだ体力、気力ともに追いついていたので何でも出来た。月3日間だけ帰省する。それだけを楽しみに、猫カフェ経営を妄想きて過ごした。

月3日間の連休で娘に会える。それだけが不美愛の最大の癒やし。当時、中学生だった娘、平日しか休みが取れない風俗嬢。会えるのは夕方から寝るまで、朝の数時間だった。朝早くても8時半起きの不美愛は朝起きる事が出来ない体になっていた。娘には夜しか会えなかった。

3日間、夕方から21時には眠りにつく娘を最大限に目に焼き付けた。

不美愛は娘にその3日間、欲しい物を与え、食べたい物を一緒に食べ、カラオケで歌う娘を眺め、寝た後に内緒で頬にキスしたり、匂いを嗅いだり、抱きしめたり、娘が捨てようとしたゴミを貰ったり、もう着られなくなった服を持ち帰ったり、他人だったら変態の域まで来ていた。


そう不美愛は娘依存症になっていた。


都会に戻る高速バスの中で遠ざかる娘のことを思い涙した。3日間の帰省で毎回10万ほど娘のためと不美愛のお客様とお店にお土産を買い浪費した。

不美愛になって約2年、中々貯金が出来なくなっていった。新人期間も終わり、古参となってきた不美愛は中々選ばれなくなっていた。

更に自分でも分からないが太っていった。薬のせいか?常にダイエットしていたが、規則正しくない生活のせいか?不美愛の体重は最大68㎏になっていた。もうその時には殆ど食を欲してなかったのに太っていた。それと共に娘も高校生となり学費もかかる。初期費用の学生服など揃えるのに20万以上かかった。

そして母からの一言「パートナーと縁を切りたい。お金を少しずつ返していきたい」の言葉で仕送りを25万に増やしていた。学費は不美愛が別途支払っていた。不美愛の生活もある。もうすでにコンプレックスは増えていった。


●太っている

●髪が抜ける

●美しくない


不美愛は最大限努力をした。


様々なダイエットを試した。ブラックコーヒーダイエット、無糖ヨーグルトにシリアルを入れて食べるダイエット、バナナダイエット、トマトダイエット、何も食べないダイエット、真夜中走る、ジムに通う、約5㎏は減った。

抜けていく髪に一本一本編み込んでくれるエクステサロンを見つけて編み込んだ。600本で二万五千円、毎月なのでかなりの浪費だ。それでも足りないので余裕がある月は2回行った。

美しくない不美愛はアパレル勤務の時は可愛い自分でありたいと思っていた。店長になった時ももっと若くて綺麗で可愛い子がいっぱいいたから可愛く個性的である努力をしていた。だから個性は殺して可愛い人妻を目指した「歳より若く可愛い」が1番嬉しかった。そのための努力は惜しまなかった。今となってはそれもキープ出来ていない。


もう猫カフェ経営を妄想することは出来なくなっていた。


現実を見よ!と脳は言う。


とにかく今の貯金をキープしつつ、細々と暮らす。不測の事態に現金は必要だ。とにかく貯金には触らないことを決めた。


コロナ流行前までは。

























●不美愛、コロナ禍1年目を考察する


2020年、コロナは突然やってきた。少しずつ世に紛れて、不美愛や娘に近づいてきた。

不美愛はコロナにかかるつもりは毛頭ない。不美愛は流行にとらわれない個性的な女だ。風邪は覚えていないくらい引いていない。インフルエンザは予防注射もしたことなければ、かかった事もない。劣悪な環境で育っていた不美愛の体は頑丈なほうだ。

勿論、身体が資本の仕事だし、誹謗中傷で信頼は脆く崩れる。最大限の予防をした。免疫力を高める食材を食し、取れない物は市販薬で補う。そして、休みの日でも1週間分の生活用品、食料品の買い出し以外、外に出ない。そして必要な物は通販で買う。そしてメルカリ依存になる。仕事がなければただの引き篭もりだ。それを今でも継続している。

その頃から不美愛が心配症すぎる事が分かってきた。


コロナは娘と会う事さえ許さなかった。


娘は不美愛が帰省するのを拒んだ。


「ママはコロナ菌を持っているから帰って来ないで」


娘の言霊は不美愛の心を切り刻む。不美愛は娘にとって病原菌。心も体も汚れている不美愛を否定する。それから不美愛は約1年半、直接、娘の顔を見る事はなくなった。週に一度、娘からテレビ電話をしてくれるのが唯一の楽しみとなっていった。テレビ電話は1年後にはしてくれなくなっていった。


初めて下された緊急事態宣言。そこから更に心配症は加速する。マスク、消毒薬、うがい薬の不足。誰かが言ったトイレットペーパー不足。食べ物、飲料水がなくなるなど、踊り踊らされた。そして宣言後、客足は酷く遠のく。

お店が潰れるかも?風俗店も休業させるかも?このままでいいのか?地元に帰るべきか?帰ったところで今までと同じ生活ができるのか?

一度、地元の熟女店に体験入店しようとも思った。でも、しなかった。不美愛には不美愛しか愛せなくなっている殿方様が沢山いる。きっと時がくればまた愛してくれる。今は貯金を崩して待つしかない。

結果、それで正解だった。地球上のすべての生き物は三代欲求を抑えられない。抑えると罪を犯し、中には死さえ選ぶ。三代欲求の中で性欲は1番下だが、抑えられない欲求である。宣言2週間後には逆に忙しくなっていた。


その頃には不美愛の体は自分に我儘になっていった。眠れない、食べられない、笑えない、思考をやめない、あんなに苦労してダイエットしていた体重は2020年最後には良くも悪くも10㎏痩せていた。


2020年秋には初めて体の表面に訴え出した。腰回りがピリピリして激痛と熱を帯び、湿疹ができた。何か分からず限界を感じ皮膚科に行った。


結果、帯状疱疹だった。 


初めて聞く言葉だ。先生曰く「水疱瘡の菌が腰の骨髄にあり、ストレスを強く感じると皮膚に異変を起こす」との事。母曰く「帯状疱疹が腰をひと回りすると死ぬ」との事。これは迷信だ。要は不美愛の体はストレスを感じ悲鳴をあげているのだ。1週間の投薬と仕事を休む事を余儀なくされた。不美愛にとって1週間の休みは致命的だ。不美愛は週1しか休まない。休む事でネットを見ている方はコロナに掛かったかもと妄想する。現に連絡先を交換している殿方様は心配して連絡をくれた。不美愛が嘘をつかない事を知っている殿方様は痛く心配してくれた。不美愛は申し訳ないと思う。

私は切迫早産の時同様、とにかく1週間で完全復帰できるよう、遺体の如く静かに時を過ごした。無事、菌は死んだが、後遺症のピリピリはずっと続き今も薬を飲んでいる。


コロナ1年目は娘に会えない寂しさと、コロナ、帯状疱疹、ひたすら心と体を自虐した1年となった。


















●不美愛、コロナ禍2年目を考察する


2021年は不美愛の人生で最も長く、心も体も脳も変えた。良くも悪くも忘れられない1年となった。

不美愛は占いや宗教を信じない。俗に言う、厄年や大殺界など興味はない。あえて言うなら2021年が不美愛的な厄年、大殺界であろう。


2021年の春、母から衝撃的な告白を受ける。


「パートナーから月10万貰っている。パートナーが体調悪いから2、3年で仕事リタイアして一緒に住むと言っている」


その言霊は、不美愛が不美愛である事すら否定する。


猫カフェの夢を諦め、働けない母、弟、愛する娘、3人を扶養して続けていた。それをする事で普通の家庭と同じ生活が出来ていると思っていた。不美愛であり続けた5年間を否定する言霊だ。


泣きながら考察した。


母がその言霊を発した理由。母はパートナーをもう愛していないのは事実。でも母はお金に執着がある。貰えるお金は貰い続けて自分のために使い果たした。それは事実であろう。事実であり、一緒に暮らしたくないと思ったから、不美愛に助けを求めるしかなかったのであろう。


不美愛は更に考察する。


少なからず、パートナーのお金は娘にも使われ、娘を楽しませてきた。お金を受け取ってきた母にはそのパートナーを最後まで見る義務がある。法的にはないが。そして不美愛には娘の育ての親がしでかした事を百万歩譲って恩返しする義務がある。1億歩譲って一緒に住むことを許す。

しかし、今の3DKのボロアパートに一緒に住むのは許せない。不美愛にとっては赤の他人、ましてはライバルである。そして男の人である。可愛い娘が美しい娘になり、違う目でみることも稀ではない。不美愛は風俗嬢だからよく分かる。いくつになっても男性は男性だ。それであり続けたいのも本能だ。それが1番怖い。


不美愛はすぐ引っ越すことを決めた。


4人で住むには狭すぎる3DKから最低でも4DKにする。各自プライベート空間がしっかりあるようにする。そうすれば、娘は自分の部屋を持ち、母もパートナーと一線を置く事ができる。もうすぐ20歳になり大人になる娘を赤の他人の男性と同じ空間に居させたくない。母親であれば当たり前に思う事だ。


 引越しする為に急遽、大掃除に向かった。不美愛は目を疑った。久しぶりに入ったアパートは足の踏み場もない汚部屋になっていた。不美愛は5日間で3部屋分、2トントラックほどのゴミを回収業者に依頼して捨てた。


 悲しいことに不美愛の私物で残したいものは殆どなかった。

娘の写真が入っているSDカードやネガ、

七五三の写真、お揃いで買ったTシャツ、

娘にいつか読んで貰おうと思っていた日記、

そして娘の臍の緒や初めて散髪した髪の毛が入った宝箱。それを私は持ち帰った。

掃除している間、娘は

「手を触らないで、顔をじっと見ないで、

こっち向いて話さないで」

不美愛は1年半分の娘の愛が欲しかったのに。

コロナがそうさせたのか?いや春には社会人となった娘の成長した証拠であろう?不美愛の心が娘の成長に伴ってなかっただけか?


とにかく虚しさだけが残った。


その頃から不美愛の体はどんどん我儘を言うようになっていた。毎日、不規則な催眠時間だった不美愛の体は食欲を更に減退させ、最終的には吐くようになった。

不美愛はお店にお任せしていたシフトを固定することにした。朝10時〜夜中1時や午後13時〜夜中1時だったシフトを午後13時〜夜中1時に固定。コレならば最低でも8時間は睡眠できる。出来るだけ横になる。何も考えない時間が欲しかった。

心配性な不美愛はもう娘を汚部屋で家賃がどんどん下がる今にも倒れそうな不良物件に

娘を住まわせたくなかった。地震の多くなっている日本。ハザードマップで津波、洪水のこない、耐震マンションに住んで欲しかった。それが不美愛の安心に繋がる。

 

不美愛はこの引越しで貯金を使い果たした。


乾燥機能付洗濯機、クーラー2台、ベッド、

カーテン、カーペット、布団一式、家具、何年も使ってダニの温床となるものは全て捨てて、新しく、好きな物に囲まれた娘の部屋を想像した。引越しのために作ったクレジットカード、12回払いで購入した。


不美愛は娘の部屋を自分の部屋にも再現したかった。娘と同じ物を買おうと思っていた。

娘は言った「やめて!気持ち悪い!!」

不美愛は何も言わずにやめた。

確かに他人なら気持ち悪い、既に娘にとって不美愛は他人なのだ。

2021年、夏、不美愛は更なる体の異変に気付いた。上半身は異常に熱を帯び、下半身は異常に凍りついた。そして体が思うように動かない。肌に湿疹がでたり、被れたりした。ハっと思った。


更年期かもしれない。


婦人科で検査した。女医さんは言った。

「女性ホルモンが出てないですね」

不美愛はまた何かを失ったようだ。もうすでに調べてあった。プラセンタが生成できなくなり、老化が進むと。

その婦人科ではプラセンタ注射(医学用語でメルスモン)ができ、補うことができた。1クール10回、1回2500円、私は打つ事にした。プラス漢方薬も飲み始めた。

私は不美愛。風俗嬢。少しでも美しく可愛くなくては商品価値がない。

少しでも足掻かないと、あっという間に老化は進む。自分の価値を下げないため努力した。

新居に移り暫くした頃、母が歯の手術のために入院した。その間、不美愛は娘のお世話

をするために帰省した。

娘が突然言った。

「ママ、私は20歳になったら自分の病気のこと、自分で聞く権利があるよね?」と。

あぁ、この子は賢い。難病であろうと、発達障害があろうと、20歳になれば大人になる事を分かっている。この子は私の子、私のDNAだけで出来ている。独立した子だ。

「勿論あるよ。20歳の誕生日が過ぎれば、直接先生とお話ししなさい」と伝えた。


とても嬉しく誇らしく思った。


それと同時に悲しくなった、娘に権利があれば不美愛は権利も義務もなくなる。

この3日間は不美愛が母親らしく過ごせた。楽しくも悲しい、生涯もう訪れない時間となった。


長くも短い2021年がやっと終わる。


年の瀬に考察する。


はっきりした事が沢山ある


●母は私を愛してなく、私を育児放棄した。虚言癖であり守銭奴だ。娘をも育児放棄している。

●弟は今までしてきた事は許され難い。母に愛されている弟。

●母のパートナーは娘を「自分の子供だ」と言いながら私の念書に署名捺印したくせに行動に移さない。口だけの人。娘を任すことはできない。それでも娘にとっては必要な人。

●娘は純真無垢、世界一愛しい人。それはこれからも変わらない。でも、20歳になれば私は義務も権利さえも失ってしまう。それが今はとても悲しい。


2021年の冬は生きていた中で1番寒い。


コロナ禍2年目で私は更に10㎏痩せた、骨と皮だけになった私の体に突き刺さる寒さ。


それでも前を向く。毎朝、ヨガとラジオ体操、瞑想、寝る前のヨガ、老化に贖いながら前を向く。




















●不美愛、2022年を考察、妄想する


2022年、元旦、不美愛の正月休みは元旦しかない。2021年の年末、娘が会いたいと言ってくれた。

複雑だった。会っても私は正気を保てるのか?泣いてしまうのではないか?娘が気を使うのではないか?2021年の私は正気ではなかった。でも会いたい。出来れば会って抱きしめたい。

勇気を出して会うことにした。


不美愛は後悔した。


娘は私の顔色を伺い、声のトーンで「ママ怒った?」と何回も聞いてきた。

私は悲しくなった。娘の母は、怒ると怖い人間、それが印象付いているのだ。もう会わない方がいいのだろう、密かに涙を流し、娘をタクシーに乗せて見送った、最後までタクシーを見送った、私の宝物を乗せた車が見えなくなるまで、だんだん遠く離れていく私の宝物。


私は前を向く!!不美愛を待つあの街へ向けて歩き出す!!もう泣かない!!私は不美愛であり、娘の分身!!不美愛が楽しく過ごさなくてはきっと娘も楽しく過ごせない!!そう思うことにした。








●実の娘に愛されなかった証拠を考察する


今までの内容を読み感じた方もいるかも知れません。

「貴方、母親らしい事してきていないじゃないか」と思われる方もいたかも知れない。

少しだけ、言い訳をさせて下さい。

私は娘が産まれてからとにかく働いた。母子家庭だからアレがない、コレができない、と思われるのがいやだったから

難病の娘に、もしかしたら短命かも知れない娘に沢山の思い出を作ってあげたかった。

七五三も可愛い着物を着てお宮参りした。

病気のせいで保育園に半日しか行けなかった娘を毎日送った。保育園の必要なバックなどは全て手縫いでレースをあしらい作った。

娘はいろんな習い事をしたいとねだった。流石にピアノなどは勿論買えないし、無理だったが、水泳教室やバレエなど通える場所にあるものは行かせた。

小学校に上がり、途中で引っ越ししたが運動会やらバザーにも参加した。参観日なども極力参加した。

誕生日には望む物を、クリスマスには大きなツリーを飾り、サンタさんからのプレゼントは最低でも3個はあった。


小学校卒業の記念写真が一緒に撮った最後の写真だ。


中学に入り、娘は発達障害があることが発覚した。娘は他の友達と別になるのは嫌だと通常の教室で過ごす。他の子と違う個性のある娘は虐められることもあった。娘の靴を隠した子は家が目の前の幼馴染のような子だ。娘が人を信じられなくなってしまわないか心配だった。

その頃から娘は私が参観日にくるのを嫌がった。「ばぁばに来て欲しい」と言うようになった。他の母親と違い派手な私は目立っていたのだろう。それでイジメの対象となってしまうならと行かない事にした。

その頃から私は仕事に疲れ、適応障害になった。


私は考察する。


気がおかしくなっていた私が娘にとって1番ストレスなのではないかと、ストレスを過剰に感じると痙攣を起こし、薬を3倍飲まなくてはならない。しかも思春期で治療が難しい時期だ。

このままでは私が娘を殺してしまう!

そう思いあえて単身赴任のお父さんのように都会に出た。それで娘のストレスが軽減できたと思っていた。

後日、弟からあの時、娘は「ママに捨てられた」と泣いていたらしい。どちらにしても娘を苦しめる存在でしかなかった。

中学の卒業式、私は参加したが、娘は私の顔を見て「先に帰って」と言った。

娘は中学卒業後、支援学校に行った。娘は普通の高校を望んだが、発達障害認定で支援学校を余儀なくされた。支援学校の入学式も勿論来ないでと言われた。

娘の誕生日には極力2人で出かけ、旅行なども行った。

ある時「誕生日どこ行きたい」と言ったら「某遊園地内にあるホテルに泊まりたい」と言った。「友達が行ったって言っていたから」と。

私は友達以上のことを与えたい。いろいろ調べて、何とか取れた。1泊2日食事なし、交通費、チケット代含めて2人で26万円。ホテル代だけで1人10万円。高すぎる!でもそこに行き、ディナーに1人1万円、朝食バイキング5千円を頼む。ディナーレストランはちょうど花火が見えて娘は手を叩いて喜んだ。久しぶりに一緒にシャワーも浴びた。幸せな時間だった。

娘は異常なほど顔への美に拘り始めた。そして何故か私が使ったこともないハイブランドが好きになっていった。

多分1人の友達が原因だ。その子は芸能界を夢見て某有名学園に通っていた。その子から色んな情報を得ていたのであろう。

母が言っていた。その子が「え〜このブランド知らないの?使ってないの?」など言っているらしいと。1万円もするファンデーションを母のパートナーに買ってもらったらしい。美容クリームなども私より良い物を使っている。私は反対派。若い時からそんないい物、使っていたらお金がいくらあっても足りない。日用品は身の丈にあった物を使って欲しい。

「ママには分からないよ」とよく電話を切られた。


クリスマスには限定コスメや美顔器などを求めてきた。私は望むまま送った。

コロナ禍、ずっと会えないまま心配症を拗らせ痩せていく私、会えない寂しさと闘う日々、娘は支援学校を卒業する。

介護助手として老人ホームで働くことが決まっていた。

社会人になる娘を褒めたい。が会うことは叶わない。

私は社会人になるにあたって必要なバックをプレゼントしようと思った。

娘に希望を聞いた「某有名ブランドのバック」私も持ったことがない。誰でも見た事のあるハイブランド、調べた所、最低でも35万円はした。

田舎のジャージ娘が持ち歩いたら、偽物と思われるか、盗まれる。それに成人の日でもないのにそんな高い物はあげられないと断った。娘は腑に落ちない感じだったが、普通の親でもそう言ったに違いない。

私は娘が言った某コスメブランドのバックを送った。それでも3万円。なかなかの額だ。

娘は社会人になってから変わっていった。

初めの頃は他の従業員に陰口を言われ泣いて帰ってきたらしい。

私は「辛くてストレス溜まるようなら辞めても良いよ」と言った。娘には毎日楽しく過ごして欲しい。ただ体のことだけを考えて。

娘は「大丈夫、頑張る!!」と言った。

娘は活動的で仕事が終わったあともパソコン教室や点字、バレーボールなどいろいろ行っていた。

休みの日もほとんど家にはいないらしい。

私は「体を休めることも大事だよ」と毎回いった。

その頃から娘は「ママには関係ない」と言うようになる。

私は何も言わない事にした。


そして私の心を狂わす「余計な事しないで」と言う私を闇に落とす言霊を発する。

そう私の存在すら余計なのだ。と思うようになる。そう思いながら私は更に娘を欲するようになった。

2022年に入り、私の脳は妄想するようになっていった。20歳になったら私は娘を失う。


義務も権利も失う。

娘が20歳過ぎたら私は何者だろう?


きっと娘にとっては自分を産み育児放棄した母親なのだろう。


「子は親に似る、そして繰り返す」


そう、育児放棄してきた母から産まれた私も育児放棄をしてきたのであろう。だから娘にも愛さられなかった。

実の娘に愛されなかった不美愛。


それでも前を向こう!


そして娘を愛し抜こう!


死が2人を別つまで!


















第三章 実の母に愛されている弟を考察する


●弟の性格を考察する


いじめられっ子だった弟は小学生から登校拒否児だ。今はそういう表現は適切ではないかも知れない。そのまま中学校もほぼ行かなかった。でも何故か当時流行っていた学ランの裏地に龍などの刺繍を入れていた。母にねだったのだろう。お金の無駄遣い!と当時思った。そう、プライドの高い母が育てた弟もプライドの高い男になった。中学校にほとんど行かず卒業した弟は今で言うニートになった。母は自分が店長である某スーパーの寿司コーナーでバイトさせた。私も同じくバイトをしていた。母は今でもよく話す。バイトしていた時、私は何でも率先して仕事を覚え、次にすることを考え実行したと。反対に弟は言われた事しかせず、指示がない時はボーっと立っていたと。


私は考察する。


それがあなたの大事に育てた息子ですと。


弟には今も仲のいい友達が2人ほどいる。同じ中卒だった彼等は原付を改造してよく市営アパートの周りをパラパラ言わせながら走っていた。迷惑な奴らだ。母の出したお金で車の免許を取った彼等は当時、走り屋漫画が流行っていた時代、近くの有名な走り屋スポットに行き、見たり走ったりしていた。

その時、弟は親戚が紹介してくれた工場で働いていたと認識している。私が専門学校を卒業しアパレル会社で準社員として働いていた頃、母が突然こう言った。

「弟が車を買うから保証人になってあげて」と。

「私が?なぜ?母じゃダメなの?」と言ったが、しょうがなく保証人になった。

買った車は2シートのスポーツカー、新車で300万だ。目を疑った。これは家族を乗せる気はないだろうと。

2年後、ふと弟の駐車場を見たら全く違う車に変わっていた。え!?と母に聞いたところ「新車を売ってワゴン車にした」との事。保証人の私に一言くらいあってもいいのにと思った。全ては弟のプライド、流行りに踊らされていた。

プライドの高さを物語る大きな出来事があった。それには私の運命も大きく振り回した。娘が産まれ、弟が三十歳になった頃、突然母から


「弟が家を建てると言っている」


と聞かされた。はい!?結婚している訳でもないのに?そんなお金もないのに?だいたい借金できるの?借りられたとしても130㎏級の巨体で病気にならない訳がない!絶対反対だ!と私はいい続けた。


私はその時考察した。


男の三十歳、周りは結婚し家を建て始めた。周りに言われたのだろう「男は一家の主となって一人前だ」と。ただのプライドだけで3000万くらいの人生最大の買い物をしようとしていたのだ。いや、したのだ。私以外、母も母のパートナーも家を建てることに賛成し、間取りなど考えて楽しそうだった。家を持つことは母の自慢の一つとなったのだろう。私の息子が家を持つ。親戚中に自慢できたのであろう。

私は弟と話をした。「俺がローンを払うから姉ちゃんは水道光熱費と食費を頼む。母のパートナーからも出してもらうから」と。

断固反対した!私は別の部屋で聞いた。

「姉ちゃんが反対なら娘と2人で暮らせばいい」と。私と弟の関係はそんなものだ。

しかしもう育ての親である母に娘はベッタリだ。私も朝昼晩と働く中、責任がある仕事を任されている中、娘と2人で暮らすのは無理だ。私の負けだ。

私は泣きながら「わかった!ついて行く!」と言った。私は弟の学歴、職歴、体格から見てお金を貸す銀行などないと思っていた。貸した銀行が悪い。

弟、家を買う。プライド御殿の出来上がりだ。

案の定、5年後、弟は糖尿病になり透析を受け、仕事を辞めた。でしょうね!


母にとっては待望の長男で祖父母にとっても待望の男の子の初孫、可愛がられて育った弟。
















●自己破産した弟を考察する


結局、弟は自己破産をした。


弟が直接、私と母のパートナーに相談していたらその家を失わないよう協力し合っただろう。弟は母を介して伝えてきた。

母が突然

「弟が家を出て行けと言っている」と。

私は母と娘と3人で暮らす。娘が通っていた小学校の近くに2DKのアパートを借りた。身の丈に合ったアパートだ。私は母と娘を守るため更に仕事に邁進した。母のパートナーはたまに私の借りた家にきた。娘も懐いているし、引っ越しも友達を呼んで手伝ってくれたので何も言わず許した。

こんな手酷い目に遭っているのに母はまだ弟が住む自己破産で差し押さえられている家に通った。弟が1人で寂しいと言うからと。いや貴方も捨てられたのに、と私は思った。


捨てられても母は弟を愛していた。今も愛しているように。


半年くらい経った頃、母が突然「引っ越しするよ」と言ってきた。私は「何故?」と聞く。

母は言う

「弟が自己破産でアパートが借りられなかったから」と。

「でしょうね!追い出しておいて一緒に住みたい!?あり得ないでしょ!」

ある意味、貧乏だけど穏やかだった半年、娘を近くに感じていた半年、私は幸せだった。

私は猛反対した。第一借りた時の契約もある。たしか2年縛りだ。母は「そこは何とかするから助けてあげてよ」と頭をさげた。どこまでも愚息を助けるのか?もうどうでも良くなった。

「家賃が変わらないならいいよ!」と丸投げした。その結果が築年数50年以上のボロアパートだ!!2DKの当時の家賃は7万円。

私は一回だけ弟の車で内覧したが、弟は詫びることなく、何も喋らなかった。

私は「ここでいいよ」と言った。

私は日帰り出張で2DKのアパートをでて、勝手に引っ越しされ、3DKのボロアパートに帰った。

その後も弟とすれ違うことはあっても詫びる気もなく喋りかけてくることはなかった。私は母と娘と弟を扶養することとなった。

弟は自己破産をし、私が払っているボロアパートの一室に引き篭もった。そしてひたすら沈黙した。私に会わないようにした。月、水、金は透析、その他の曜日は近くのショッピングモールで食料の買い出しに行った。

そう、弟は自己破産後も車を保有した。私の記憶では一台目には私はお金を出していない。母のパートナーからの支援だろうか?まあ、まだ娘は中学生だし、母もあまり体力はないので車はありだろうと思った。

その後は全て母を通して聞いた話しだ。


これは私が大いに納得できない、弟を軽蔑するに値する母から聞いた話し。


一つ目。弟は中学卒業後、母が店長を務める、某スーパーのお寿司コーナーでバイトをし、その後、親戚の紹介で工場勤務、そこを辞めて、他の親戚が紹介してくれたゴミ収集業者の会社に就職した。すぐに辞めてしまう弟だが、その会社には十年以上勤務し糖尿病になると共に辞めた。母曰く、弟はその社長にとても気に入られており弟は社長から100万借りていたと言う。

社長が「貸したお金は返さなくていい、でも○○(弟)をとても気に入っている取引先があるから週1日、いや半日でもいいから顔を出して欲しい」と。弟は断った。当時は糖尿病重度ではあったが、透析以外は車を出し動けていた。顔を出す事はできたはず。


弟を考察する。


弟はプライドだけは高い男だ。糖尿病になり自己破産したと知られている会社に行きたくなかったのだろう。陰で何を言われているかわからないからだ。私は借りたお金は必ず返す。義理と人情に厚い女だ。私は弟の行為を許されないと思った。いつか私にお金に余裕ができたらその社長にお金を返したいと思っている。


二つ目。今現在も継続中だ。弟の引きこもりから暫くして母から聞いた。

弟は傷病年金を月10万貰っていると。

私は絶句した。弟はそのお金を家に入れることはなかった。弟の部屋に何度か入った事はあるが、弟は太っているので年中、冷房を付けて、リビングに置くような大きいテレビ、最新アイフォン、アイパッド、そしてもう一台スマホを持ち、全てを起動させて動画やゲームを楽しんでいた。お陰で我が家の電気代の夏場は月2万8千円ほどした。母はいつも嘆いていた。嘆いたところで払うのは私なのだが。まあ別に私は弟にお金を貰おうとは思わなかった。

ただ母は度々呟いた。

「弟と買い物行くと一回で8千円くらいかかるよ」と。

弟と母は透析以外の曜日に買い物に行く。単純に計算すると週4日の買い物一回で8千円=3万2千円、月に週が4回=12万8千円!!いやいや食費だけで私がいない母、娘、弟の3人の食費がその金額!!やばいでしょ!?

買い物について行った事がある。まず、到着し、珈琲を喫煙室で飲み、一息ついたら食料買い出しに行く。私からみたら私の仕送りで生活している2人が一杯400円の珈琲を優雅に飲む。腹正しい事だ。食料買い出しもついて行く。私は食に執着がない。あるものを食べる。母と弟は別だ。食べたい物を食べ、ハマる物は毎日でも食べた。同じく娘も食べたい物を母に注文し食べた。因みに私は母の手料理は一回も口に入れた記憶がない。

母に言った。

「あんなに好き放題食べてお金払わないの?」と。

母は言った。

「たまに出す時はあるよ」と。

私は嘘だと思っている。愛する弟を守っていたのであろう。

ある日、母は言った。

「弟が先生に栄養失調だと言われた」と。知らないよ!


私は考察した。


弟を愛して長生きして欲しいと思っているならカロリー控えめの食事を提供し管理すれば栄養失調にはならなかったのでは?好きな物を食べた弟と、管理しなかった母の怠慢では?そう弟自身が選んだ道でしょう。

ある時、母は言った。

「弟の車の車検代がないから出して欲しい」と。

何故、直接言って来ないのかと思った。しかし車で買い物に行くなら、現状では車が必要と、仕方なく貯金を崩した。

また、ある時、母は言った。

「弟の車が壊れて廃車になったから中古車を買いたい。30万貸してくれ。月1万ずつ返すから」と。

今回の私は渋った。何故ならばこの話の以前、母はこう言った。

「弟の運転免許の更新、視力がギリギリだった。なんとか誤魔化して通ったよ」と言ったからだ。

私は正直、そんなギリギリ運転できるような状態の車に娘を乗せたくないし、他人様に迷惑がかかることになったら大変だ。私は弟が対人事故でも起こした時、充分に保証できる保険に入っているか?確信出来なかった。

でも母は言う。

「何とか頼むよ。弟から車をとったらストレス発散にならない。あの子の趣味は車を運転することだから」と。

私は渋々折れた。

母に「必ず月1万返してと伝えて」と言った。母はすぐ弟に伝え、すぐに折り返し電話があった。「今日中に振り込んで」と、無理だろ!どう考えても!仕事中だ。私は「明日午前中に入れるから」と伝えた。

そう弟は欲しい物は必ず欲しがる。中古車屋にでも言われていたのか?「他にも購入したがっているお客様がいる」と。

月1万の返済は。一円も私には返ってこなかった。私には?そう、母が着服していたのだ。30万を貸して半年くらいに母が愚痴を言ってきた。「弟が車代の一万円、返して来なくなったよ」と。私は言った。「はい?むしろ私に返すお金では?」母は苦笑していた。


そう母も弟も私に嘘を簡単につく。

そして母に育てられた娘も私に簡単に嘘をつく子に育っていた。


実の母に愛された弟は母によく似ていた。





●弟を羨み憎む


今までの弟のしてきた行動。現在、極限まで体重減少し風俗嬢の価値が下がり収入が減る中、私は弟が許せなくなった。

私は裸になり辱めを受けているのに月10万貰っている弟を養う必要がある?

もう母を介さず、弟に直接電話し、今後どうするか決めようと思った。

一旦、LINEで電話していいか聞く。返事は「今、入院しているから無理」だった。どうやら左足が腐敗し切断することになるらしい。

私には何の連絡もなかった。


私は考察する。


弟は足が腐敗していることを知っていながら手術が怖いから週3回通う透析の際も口にしなかったのであろう。すぐに伝えれば切断しなくて済んだだろうに、どこまでも臆病な男だ。それが弟の選んだ道。私には関係ない。


そんな弟を私は追い詰めた。LINEで私は脅迫した。


「足を切断するなら車はいらないね。借りたお金も返してないのだから車は売るよ。あと私は風俗嬢の価値が下がり仕送りが難しくなる。月2万だせ」

弟は渋った。その瞬間、私はパニックになり、更に罵った。

「娘に2万だけ渡す。お前がまだ傷病年金を貰って安楽死狙っているなら、私の家で介護されるなら娘に月2万払え!お前の病気はありがたいことに国が支援してくれて入院代もほとんどないだろう?私はすでに体重が40㎏切っている!お前が先に死ぬか私が先に死ぬかわからない。私は親にもお前にも金を搾取され続けた!今の家の家主は娘だ!まだお前の脳が動いているなら娘を守れ!それがお前の生きる価値だ!出来ないなら今すぐ安楽死しろ!そして私に謝れ!」

立派な脅迫文だ。

弟は

「感謝しているけど、謝るところが分からない、ごめんね。俺は家建てる時も反対しているのも分かっていたけどゴキブリや蜘蛛だらけの市営アパートから母と姉と○○(娘)引き出したかった。あんな汚れたアパートに比べれば○○(弟の選んだ不良物件)なんてかわいいものだ」

謝りどころが分からない?

私は泣きながら更に罵った。

「お前はプライドだけで家を建てた。私は反対した。その時お前は言った。姉ちゃんは娘と2人で暮らせればいいと私は泣きながら、わかった一緒に行くよと言った。それはLINEでお前が書いたことと矛盾している。お前はすでに一回見放している。お前の言うことが本当ならば協力して建てた家を何も言わずに追い出したのは何故だ?しかも私は何も謝られることなくお前のために引っ越した!建てた家から出て行けとも直接言われず、見放し、見放したお前を受け入れた。それはどうなのだ?謝るところがまだわからない!!??お前の口からは嘘しかでない。毒親と同じ毒弟だ。毒親に育てられた娘も平気で私に噓をつく。それは私の罪だ!!貧乏な思いだけはさせたくなくて選んだのはこの道だ!適応障害で私が娘にとって危険だから出稼ぎした。コロナで娘が帰ってくるなと言った。

そして人を傷つける言葉を簡単に吐く子になってしまった。すべては私の罪だ!!でもお前には罪はないのか?」


弟は

「建てた家の事を言うなら俺が悪い。ごめんなさい。俺の自己破産に○○が巻き込まれて学校で嫌な思いし無いように少し先に家出た方がいいから母に言った。姉に直接相談しなかったのはごめんなさい。でも○○はどうするの?今は母も俺も居るからいいけど2人とも動けない状態になったら○○は年数回病院の書類作ったり、手とか頭の検査をしたりしないとだから最後は姉が見ないとだよ。母も68歳だし、何に対して謝るか謝らないかわからない。だけど御免なさい」


私は娘の未来を弟以上に考えている。

それより今は謝りきれない弟が許せない。


「お前の言っていることはすべて後付けの言い訳なのだよ!私が朝昼晩働いて話す時間もなくてあの市営アパートで娘の体調が悪化しているのが分からなかったのなら、寝ている娘を愛でている時に現状を教えてくれなかったのだよ!聞いたら一軒家は無理でも越していたわ!お前は私が怖かったのか!?私は娘が私のいない間、お前が娘をいじめているのではないかと思って何も言わなかったわ!何に対して謝っているのだ!謝っているのは己が可愛いから謝っているのだよ!もういい!!二択だ!!毎月10日に○○に2万払って今の家に住む。出来ないなら出て行く。それだけだ!!言っておく!私は確実に望まれて産まれていない!私が父ならおろしてくれ言う!もしくは、母はお腹が大きくなって、おろせない時期まで黙っていたかもしれないのだよ!だって母は片目だから私が五体満足で産まれてくる確率は低い!でも無事産まれ、また愛してくれてお前が生まれた。待望の跡取り息子、祖父母にとっても初の男の孫、母もさぞかし自慢しただろう!そう私が五体満足で産まれたのが奇跡なのだよ!お前は44年間母に愛され続けているのだよ!二択!判断しなさい!」


弟は

「建てた家の事は迷惑かけました。見栄も有ったけど市営アパートにいて母が床で寝る、足の踏み場もないから、家を買う決断しました。ブライドも有ったけど姉はあのまま市営アパートでゴキブリと蜘蛛とカビに囲まれて○○の体調が悪くなっているのを見ていたのかなと思ったよ。それでも気が済まないのなら俺がやって来た事全部嫌なのだね。御免なさい生きていて、御免なさい○○の世話をして御免なさい、存在して御免なさい」


嫌気がした。もう分かり合えないと思った。


「お前も母もナルシストでエゴイストなのだよ!なんだ、そのセリフみたいな謝罪は!娘は私が娘を思ってした事を余計な事するな!言った。私は2回死んだ!だから娘が頼まない限りしない!娘が頼むならなんでもする!高額医療で払えないと訴えるなら私が役所に行き払う!今なお私を必要としていないなら仕送り以外しない!また余計なことをするなと言われたら今度は本当に自殺するから! お前が今の状態をキープしたいなら娘にストレスを与えるな!娘はお前と母の神だ!出来ないなら母と共に死ね!お前も母も簡単に死を叫ぶ。死にたいと言うのなら今すぐ死ね!死にたいのはこっちだ!!!!」


弟は月2万払う約束を渋々了承した。


もう生きて会うことはないであろう。


母に愛された羨ましく憎い弟









第四章 20歳になる娘のために出来ることを考察する


実の母にも娘にも愛されなかった不美愛は義務も権利も失う娘のために準備をする。


そうエンディングノートの作成だ。


2022年、忙しい年始を足掻きながら過ごし、日常に戻りつつある頃、不美愛は準備を始めた。

1月下旬に誰にも内緒で娘の担当医に会うため、そしてエンディングノートの実現に向けて、1泊2日で帰省する。泊まるのはビジネスホテル。


不美愛のエンディングノートの内容を公開する。


●親権がある内に娘の銀行口座を作る。不美愛はそこに娘のために貯金をする。

●不美愛の銀行印は母の実印だ。全ての銀行印を不美愛の銀行印にする。

母からの完全なる独立をする。

●すべての通帳と私と娘の銀行印を耐火性の高い鍵付きバッグに入れる。因みに印鑑は耐久性の高いチタン製。

●不美愛の実印を作り、役所で登録する。

●死亡保険に入り、不美愛が死んでも娘が困らないようにしておく。

●遺書、遺言書を作成し、法的に有効な物とする。

●全てが揃ったら耐火性のある鍵付きバックに入れて娘に送る。


以上の前準備を1泊2日で過ごすようにスケジュールを組む。

誰にも内緒にしていたはずなのに母から電話がきて「先生と話しに帰ってくるのだって?」と言われた。知っているのは、弟と担当医、弟には必要な物を内緒で送れと伝えていた。母に伝われば娘にも漏れなく伝わる。

以前、不美愛は母に娘が心配なあまり娘の勤め先の電話番号、発達障害である娘の後方支援をしてくれている団体の電話番号、もしも今後、娘が1人きりになってしまった時に頼れるグループホームなど聞いた。

娘には内緒にしておいてと言ったのに全て娘に知られていた。

「ママは私をグループホームに入れようとしているでしょ?」と言われた。

母がしっかり説明しておいてくれたら娘がそんな心配する必要なかったのに。

不美愛は更に母を信じられなくなる。


娘の担当医との面談の日程が決まり、娘から電話が来た。

「ママ、パパ(先生)にまた変なこと言うでしょ?」そう、娘は先生の事をパパと呼ぶ。確かに産まれた時から診ていてくれて娘を生かし育ててくれたのは先生だ。

私は言う。「言わないよ〜コロナ禍で全然、パパ(先生)とお話し出来てないから、今なら聞けるかなと思って、それに○○が20歳になったら自分で話し聞くのでしょう?じゃあママは権利がある内に聞きたいことがあるから」

娘はその日休んでついて行くと言ったが「ママは他にもしなくちゃならない事があるから」と娘をなだめた。


不美愛は先生に会うのが怖かった。


母の虚言だと思うが、2021年、冬に母は言った。「最近、先生が○○は20歳まで生きられないかもと言っていたよ」と。

はい!?あと半年しか生きられない訳がない!そうであれば、先生から電話があるはずだ!

それに先生はきっと難病の娘を捨てて、他の男と一緒に暮らす、酷い母親だと思っているであろう。不美愛は自分が今までしてきた事を全て話すつもりだ。風俗で働き、仕送りで娘、母、弟を養っている事も。自分が不安障害である事も。自分が娘にとって一番危険人物だと。全てを晒すつもりだ。

母に当日必要な書類を全て用意して当日朝一に渡してもらう事にした。たまたま先生との面談日が弟の透析の日でなく、車で駅まで持ってきて貰える事になった。


必要な物は


●母の実印

●娘のマイナンバーカード

●家族全員のマイナンバーカードのコピー両 面


何度も確認した。

不美愛は1泊2日で帰省するが家族には日帰りとしていた。1泊2日と言えば、なぜ家に泊まらないとか面倒な事になる事が分かっていたからだ。

不美愛はその時まで、息を吸って「大丈夫」吐いて「冷静」と洗脳していた。


1日目


朝8時50分〜母と弟と待ち合わせ。必要書類を貰う。すぐに別れた。

9時〜母から電話、「そういえば、娘のマイナンバーカード必要なのだっけ?」


不美愛はあれほど!何度も何度も!前日も!電話で確認したのに!もうとっくに用意していると言ったのに!!母は私の言う事を聞いてくれない!!もう駄目だ!母を信用できない!!

戻ってきた母に「あれだけ確認したのになんで!?」と言う。母は苦笑いだ。

もう母には何も頼まない事を誓った。

そして「もういいよ」と言って車のドアを閉めた。

私は娘の母として先生と面談する。冷静に。なので、一旦、忘れる事にした。先生に会うまでにやらなきゃならない事が沢山ある。一秒でも早く事を済ませ。ゆっくり落ち着けるところで冷静になりたい。

9時30分〜郵便局で娘の口座を作る。局員に「娘さんはまだ成人されてないですか?」と聞かれる。「はい」と答える。どうやら娘が成人していたら、親でも口座は作れないようだ。娘が成人する前に気がついて良かった。

10時30分〜2社の銀行を巡る。通帳作成と銀行印の変更、登録住所の変更。諸々、手続きは面倒だ。

11時30分〜役所に行き、実印登録と印鑑証明書の発行。そんなに混んでいない役所はスムーズに処理が終わる。

これで私は実質的にも母から離別できた。もともと、同じ世帯ながら住民票は別々。戸籍謄本は私と娘だけ、もう母には頼らない。いや、娘は母から離れたくないというので、私が離れるだけ、私は自分を孤独へと追いやる。

12時30分〜先生との面談は15時〜余裕を持って病院近くのショッピングモールへ着く。ここには沢山の思い出がある。何となく歩き、思い出し涙を流す。駄目だ、これでは先生と冷静に話しが出来ない。

私はカフェに入り、外が眺められるソファ席にゆっくりもたれる。そして毎日聴いている心を落ち着かせる音楽を聴く。

目を瞑り深呼吸、吸って「大丈夫」吐いて「冷静」を繰り返す。壁にもたれかかり自分を抱きしめる。その頃、ヨガにハマり始めた不美愛は正座して自分を娘と思い、ぎゅっと優しく抱きしめるポーズで心を落ち着かせていた。

14時30分〜早めに病院に向かう。病院に入る前に抗原検査を行う。陰性だ。勿論、入る前に抗菌スプレーを全身に浴びる。コロナ禍、都会にいる私を迎えてくれる先生を危険に晒す訳には行かない。受付を済ませ、待合室で待つ、目を瞑り、深呼吸する。とにかく冷静に事実を伝える。それだけを考えていた。

15時〜名前を呼ばれる。診察室に入る。先生の顔を見て、私は号泣した。泣きながら冷静に伝える。


今までの経緯、都会で風俗嬢として働き3人を養っている事。

私が娘にストレスを与えている事。

母も躁鬱病で娘に死にたいと叫び、娘を心配させている事。

母から娘が20歳で死ぬかもしれないと最近言われた事。

そして私が娘のために遺言書を作成している事。

私がもし脳死になったら余す事なく全て娘に、娘がいらなかったら全国の困っている人のために役立てて欲しい事。


先生は全て聞いてくれ、約束してくれた。そして私は娘の病気の事を聞く。


娘はあと何年生きられるか?今の私に出来る事がないか?娘の病状を学会に発表して同じ病気で困っている子供たちの役に立っているか?


先生は言う「多いに役に立っているよ」

私は良かったと思う。娘が生きている事で他の子供たちに希望を与える。両親は安心する。私は娘が誇らしい。

そして先生は言った。「今、現在40歳の方がいる。これからも適切な治療を続ければ長生きするよ。この病気で死ぬ事はないよ」


私は更に号泣した。


良かった!本当に良かった!娘はきっと私より長生きする!私は先に死んだ時のために準備する!私のしている事は間違っていない!そう思えた。

先生と面談が終わり、待合室に座る。ふと思い出し、受付にいた先生に言う。

「先生、念の為1週間分の薬を出して欲しい。娘に持ち歩かせたいから」

先生は「出しておくよ」と言った。

私は母から先生が薬を出してくれないと聞いていたから直接お願いした。

会計を済ませ、薬を貰う。


私の心はホッとしたと同時に疲弊していた。とにかく目を瞑り、冷静さを取り戻したい。明日、遺言書作成のために公証役場に行かなくてはならない。


病院からバスで駅に向かう。

何故か涙が止まらない。

駅に向かい電車に乗る。

娘が住む町が遠ざかる。 

娘がだんだん離れていく。

娘の心と一緒に離れていく。


それだけで涙が止まらない。


18時〜ビジネスホテルに着く、オプションの朝食を付ける。多分付けなければ私は食べないだろう。食べて栄養補給し、前を向かなくてはならない。

母から電話がきていた。もう母とは話しをしたくない。無視をする。

暫くすると娘から電話がきた。きっと先生と何を話したか気になっていたのであろう。

電話を取る。「先生と何話したの?」やっぱりそうだ。私は正直に話す。「ばぁばから教えてもらった内容と同じだよ」「そっか」と娘は深追いしない。「あと、1週間分の薬だして貰ったから送るね」と伝える。

娘は


「余計な事しないで!私は薬を持ち歩いているから必要ない!」


私は涙する、、、、、


「ママはばぁばが先生が薬出してくれないって言っていたから出して貰って何かあった時用に持っていて欲しかったから、ママが持っていても意味ないから送る」と、電話を切る。


その後の事は余り覚えていない。

泣き叫び!!ベッドに崩れていた。多分、弟に電話をした、私は死にたい、と心から思った。


余計な事。


娘が発する言霊は私の存在を否定する。


その言霊を聞いたのは2回目だ。


1回目は成人式の振袖のレンタル予約の時に娘が「ネイルがしたいけど仕事柄できない」と言っていたので、当日だけ付けられるネイルチップを娘の爪に合わせて作ろうと伝えた時。


「余計な事しないで!そういうのは自分で考えるから!」その時の喪失感も酷かった、死にたいと思った。


私は娘に頼まれた事しかしないようにした。

もうその言霊は聞きたくないと思った。


余計な事。


私は多分、弟に言った。

「母の言葉はもう信じない。声も聞きたくない。私は今から酒を浴びるように飲み、睡眠薬を飲む、全部あれば全部飲むが1日分しかない。もう起きたくない。」と多分、伝えた。

そのホテルはカフェ併設だ。蔓延防止措置が出ているので飲めるのは20時まで、ウェルカムドリンクでビールを飲み、私が思う1番強そうなお酒を頼み飲む、何度か頼み、食べたくないがツマミも頼む、泣きながら飲む、結局お腹いっぱいでお酒も3杯しか飲めなかった。人生で一度くらい記憶がなくなるまで飲みたかった。


どうせ誰も愛していない。

今、私が消えてもなんともない。

誰の記憶にも残らない。

同じ姓を名乗っている者たちでさえ、時が立てば忘れる。そんなちっぽけな存在だ。


私は部屋に戻り、泣き叫ぶ!ふとボイスレコーダーを手に取る。最近忘れやすくなっている脳のために先生との会話を録音しようと持ち歩いていたのだ。先生にお願いしたが、となりの診察室の声や、いろいろ入るから聞き取れないよとなだめられた。

ボイスレコーダーに最後の思いの丈を思う限り叫ぶ!!過呼吸になっていた。私は2度目のパニック障害になっていたのだ。

とにかく寝よう。

私はまだ死なない。

私のエンディングノートは完成していないのだから。明日、公証役場に行き、遺言書の準備、それ以外にやる事はある。まだ、死ねないなら前を向こう!!

私は脳を休ませるために毎日聴いていたリラックス効果のある音楽を寝ている間、繰り返し流した。起きるまでずっと。

朝方、まどろみの中、私の脳はその音楽に歌詞を付けていた。


ただ繰り返す音楽。


ちゃらららら〜ん♪ちゃらららら〜ん♪を

死にたいよ〜♪死にたいよ〜♪と。


もう脳が死を欲していたのだ。

でも私は生きる!!

死ぬなら全て準備し、母としての親権を失った後だ!!私にはまだ義務も権利もる!!娘を遠くからでも見守る義務がある!!

私は朝ご飯を食べる。それを栄養にして動く!!

準備をする!!

まだ公証役場に行くまで時間がある!!そうだ、自分を褒めてあげよう!!癒してあげよう!!近くに猫カフェがある!!そこで癒されよう!!

猫カフェに行く。時間はたっぷりある。猫を愛でよう。でも今の私は猫にも嫌われたくない。誰にも嫌われたくない。

猫に話しかける。

「隣に座ってもいい?」「ちょっとだけ触ってもいい?」「猫じゃらしで遊んでくれる?」

魂が抜けている私はかなり怪しいお客さんだったであろう。壁に寄りかかり、涙が止まらない、猫さえも私から逃げていくのか?

でも気にしてくれている猫もいた、膝に乗ってきてくれた。

私は「ありがとう、ありがとう。」と言って涙する。

私は正気を保つ!!公証役場に向かうのだ!!初めて行く所は常に緊張する。遺言書なんて書いた事もないし、それが詐欺かもしれない。私は詳しい方に書き方を教わり、手書きで持参した。


内容を公開します。


遺言書


第1条 私は○○(本名)です。


第2条 私は、下記の金融機関に貯託中の私名義の預貯金を長女に相続させます。

⑴○○銀行 ○○支店 口座番号○○○

⑵○○銀行 ○○支店 口座番号○○○


第3条 私は私の契約している下記の生命保険の保険金受取人に長女を指定していますので、私の相続開始後、下記の電話番号に連絡をして保険金を受け取る手続きをとってください。

⑴○○保険 加入者番号○○ 電話番号○○

⑵○○保険 加入者番号○○ 電話番号○○

⑶○○保険 加入者番号○○ 電話番号○○


第4条 私は、第2条及び第3条に記載の財産を除く現金等、私の有するその余の一切の財産を長女に相続させます


第5条 私は、私の未払公租公課、入院費用を含む債務の一切及び葬儀、粉骨、散骨費用を長女に負担、承継させます


(付言事項)

取得した預貯金及び保険金は、私が用意した長女名義の口座で管理して下さい


預貯金及び保険金の管理は、第1次的には弟、第2次的には祖母に任せますので、同人らの管理のもとで、生活費として大事に使ってください


弟及び祖母亡き後は、ハローワークを頼り、グループホームで生活するようにしてください。財産管理も自分でするようにしてください


以上


私はこれとは別に遺書も準備する。遺書は生前から読んでいいもの、自宅保管。遺言書は役所保管となり、手続きしないと読めない。

公証役場で手続きをし、改めてもう一回訪れて正式なものになる。

その他の物も準備、娘が20歳を迎えるまでにエンディングノートを完成させる。

でも私は生きる。娘が20歳すぎ、義務も権利も失っても、もう会えなくても影ながら支援する。

私は決めた。娘が20歳を過ぎたら、生涯、不美愛として生きる。この世で求められているのは不美愛だけだから。


早々に町を出る。もう振り返らない。不美愛を待つあの街に、不美愛として帰る、それが私の生きる証。


不美愛は妄想する。


娘の誕生日、当日

不美愛は小さな嘘をつく

娘が産まれたのは午後1時。不美愛は午後6時と嘘をつく。午後6時までは義務と権利がある。母親としての義務と権利を利用しよう。

10時〜娘と待ち合わせ、娘が望むコスメブランドでメイク一式揃える。ついでにメイクしてもらい、メイクの仕方を勉強させる。母曰く、娘のメイク滅茶苦茶らしい。5万くらいはかかるのかな?コスメブランドの価格帯がわからない。

11時〜早めのランチ

12時〜娘の20歳の誕生日プレゼントを下見。娘の望むブランドの財布を買おうと思う。いろんなところを巡り、よく考えさせて買おう。物の価値がわからない娘にお金のありがたみを知って欲しい。

13時〜成人式の振袖の前撮り撮影。娘は嫌がっているが、不美愛はお金を払ってでも一緒に撮影する。きっと最後に一緒に映る写真となるだろう。その前に抱きしめさせて欲しいとねだる。まだ不美愛には権利がある。その権利を利用しよう。お金が欲しいならあげよう。

不美愛は振袖の娘に合わせて服を一年前から用意している。全てはメルカリで購入。不美愛の1番好きな色はゴールド。それに娘の好きな色の黒をあしらった和柄のスカートと半袖シャツ、父親役らしくネクタイをしよう。

写真撮影して写真をアルバムにする予定だが娘はいらないと言うであろう。いらないなら不美愛は写真だけデータとして買おう。コンビニでいくらでも印刷できる。パソコンに保存し、いくらでも愛でられる。母と母のパートナーには成人式当日に見て貰えばいいだろう。

16時〜下見していた。娘の望むブランドの財布を買おう。バッグでなく財布なのは身の丈に合っていないからだ。バッグとして持つにはまだ若い。財布を一生使うつもりで使って欲しい。不美愛の今の財布は2万円くらいだが、かれこれ15年は使っている。不美愛は壊れなければ一生使う。思い出があれば愛着も湧く。娘にも愛着を持って大事に使って欲しい。

不美愛はその財布をあえてクレジットカードの36回払いで買う。母がしたように。

母はプライド高い女。3万円のブランドコートを36回払いで買ったのは自慢のため。

不美愛は違う。不美愛は義務も権利も失う。ならば娘の使う財布を3年間払い続ける義務を与えよう。そうすれば不美愛はまだ娘のために義務ができる。36回払いが終わったらまた娘に高価な物をプレゼントし、また36回払いにし自分に義務を与えよう。

成人する娘にできる事は今の不美愛にはそれしか考えられなかった。

17時〜娘が行きたいといっていたフレンチレストランに行く。事前に娘がサプライズして欲しいと言った、ケーキを用意しておく。サプライズを自分でしてくれと言う娘が愛おしい。お店に頼んで盛大にしてもらおう。その店で最高のディナーコースを頼もう。

そこで初めてのお酒を娘と飲もう。娘も望んでいたので軽めの写真映えするカクテルでも頼もう。


そのお店で不美愛は最後の義務を果たす。


それは娘の言霊「余計なことしないで」を人様に言わない事。


その言霊の意味を深く理解して欲しい。不美愛はアパレル店長として色んなタイプの人と触れ合ってきた。褒めて伸ばすタイプの人間だ。

娘が老人ホームで同じく発達障害の人達に教える立場になっているなら、その言霊は最も使ってはいけない。

良かれと思ってした行動をその言霊は覆す。その人は落胆し、自ら行動する事をしなくなる。その人の成長を妨げてしまう。

まずは感謝の気持ちを伝えて、アドバイスする。それで理想な尊敬される先輩になれる。

人に嫌われる、敬遠されるような行動をしてほしくない。

ストレスに弱い娘は、これからは自分自身で身を守る必要がある。

そのためにも、この言霊は封印して欲しい。


これは不美愛が義務のある午後6時までにしておきたいこと。これ以上嫌われる覚悟を持って伝えたいこと。


不美愛は娘に義務と権利を失って、もう二度と会えなくても娘のために仕送りをし、貯金をし、不美愛の死後も困らないようにする。

きっと不美愛と同じ歳くらいに分かってくれるだろうか?


不美愛が死ぬまで娘を愛し続けていた事に



















第五章 自愛に目覚め、前を向く不美愛を考察する

 

 実の母にも娘にも愛されなかった不美愛、

ずっと自虐し68㎏あった体重は現在40㎏切っている。

不美愛はやっと気がついた。


誰にも愛されなかった不美愛を、不美愛が愛さなくて誰が愛するのか?


不美愛だけは一生、不美愛を愛そう!!

それは最後に気づいた答え


そう自愛だ。


その瞬間、どんより暗い雲から光りが差した。


未来に希望が差し込んだ。

娘を勿論愛している。でもそれ以上に自分を愛そう。そうでなければ不美愛は自分を保てない。

不美愛は心配症を拗らせて痩せて言ったと思っていたが、検索したところ不安障害であることが判明。

コロナ禍の不安、地震への不安、愉快犯への不安、放火、自動車事故、この世に安住の地などない。不美愛は備える。娘のため、不美愛が生きていた時に生き残るため、備蓄品やら持ち出し用リュックなど様々用意した。

派手な色が好きな不美愛の私服は目立つ、妖怪人間のように闇に紛れるよう黒を着用した。黒を着ると更に気分が沈んでいった。


 自愛に目覚めた不美愛は考察した。


不安に怯える日々をやめよう。不安をこの世に対する不満だと考えよう。天災が起こることなど天命だ。備えはするが受け止めよう。

もう薄毛でウィッグなしでは外を歩けない不美愛は休みの日にはいろんなウィッグを楽しむ。ウィッグに合わせたメイクをする。好きな色の服を着て、目立つ。すべてメルカリ、プチプラコスメ、不美愛の個性を楽しもう。

自愛に目覚めた不美愛は痩せすぎて弛んだ体に命令する。

不美愛は商品だ。その弛んだ体で愛され続けられるのか!弛んでいる場合か!ハリを取り戻せ!このまま老いることは許さない!

不美愛は自愛に目覚めてからより規則正しい生活をする。今まで惰眠を謳歌してきたが、脳が起きてしまえば、見るのは悪夢ばかりだ。    ならば潔く目覚めよう。今までより1時間早く起きてヨガ30分、ヨガの中で自分を抱きしめて深呼吸する。

吸いながら「私は自分が可愛い」

吐きながら「もう虐めないで」と脳に訴える。

ラジオ体操からの目覚めのシャワー、コラーゲンを含ませたボディクリームを全身に塗りながら弛みに言い聞かせる。「この体で人を魅せられるのか!ふざけんな!」自愛しながら虐げる。「美しくあれ!」と言い聞かす。そんな不美愛が愛おしい。

髪を乾かしながら頭皮のマッサージ、頭が硬いと表情にも表れるとユーチューバー先生が言っていた。良い事はすべて吸収する。実行力が愛おしい。

その後、顔のマッサージ、美容液を付けてユーチューブから学んだマッサージを行う。 痩せこけた不美愛の顔は骸骨のようだ。童顔と言われた不美愛はもういない。でも可愛くいられるよう努力はしよう。

ユーチューブでクマ、頬骨、頬のこけを隠すメイクの勉強をする。何でも勉強できる便利な世の中になったものだ。良いと思った事はなんでも吸収する。まだまだ頑張る不美愛が愛おしい。

朝昼を兼ねてランチをする。基本、納豆、卵に玄米ご飯、一品惣菜、キムチ、たくわん。

それが不美愛の1日の主な栄養源。長年のダイエットで食を欲しなくなってしまった不美愛はこれでも頑張って食べる。愛おしい。

足りない物はサプリで補う。にんにく卵黄、プラセンタ、ビタミンB群、カルシウム、コラーゲン。

老いに贖うため、免疫力を高めるためのサプリ達、特にプラセンタとビタミンB群は体が欲して効いているのがよくわかった。正直な体が愛おしい。

歯磨きをしながら表情筋マッサージ、ヨガで体を捻る。少しの時間も無駄にしない不美愛が愛おしい。

身を清めて待機する。

待機中も自愛する。

横になりながらマッサージ器にかかり、瞑想アプリを聞く。自愛の精神を洗脳する瞑想を聞く。脳を自愛に目覚めさせる。途中で寝落ちしてしまう時もある。そんな不美愛が愛おしい。待機しながらブログを書く。


自虐しながら自愛する。


そう過去を振り返って涙しても過去は変えられないのだから、前を向くために自愛する。そう脳内変換できた不美愛が愛おしい。


ある日思った。不安障害である不美愛の診断は躁鬱病、不美愛の飲んでいる躁鬱病の薬はサインバルタ。サインバルタはセロトニン、ノルアドレナリンを阻害する薬。幸せホルモンと呼ばれるセロトニンを生成させないようにする薬だ。何故、その薬を投与するかというと躁鬱病で1番怖いのは躁の状態から鬱に変化した時の反動が大きくて自殺に追い込まれる人が多いからだ。だから幸せな気持ちを奪う。常に鬱状態にするのだ。

不美愛は不安障害、でも自愛に目覚めて少しずつ回復している。寧ろ幸せを欲しているのだ。不美愛はサインバルタを飲むのをやめようと思った。2錠を1錠に、1錠をゼロに、出来なかった。ゼロにした時、不美愛の体はふらふら、ふわふわしたのだ。地に足が付かない状態とはこう言う事か?

8年ほど適応障害から躁鬱病と診断され、飲んできた薬をやめることは出来なかった。もっと早く気づいていれば。もしかしたらサインバルタを飲んでなければ、鬱状態にされてなければ、不安障害にもなっていなかったかもしれない。

これこそ過去は変えられない。

他にも飲んでいる薬はある。不眠症の不美愛は、睡眠薬を飲んでいる。それも少しずつ減らそうと試みた。 でも駄目だった。減らした分、睡眠時間は少なくなる。理想は7時間半の睡眠時間。それを薬でコントロールしている。

それにデパス、不安で動悸、息切れが出てきたコロナ禍から飲み始めている。市販薬を飲んでいたが、同じ作用のデパスを処方された。デパスはまだやめられないと思う。

自愛に目覚めて前を向いたと言ってもいつまた崩れるか分からない。不美愛を保つための安定剤だ。不安障害を克服したらやめようと思う。

とにかく自愛しよう。

不美愛が愛することで私の存在価値はある。

この誰も愛されなかった私を不美愛が生涯愛する。私は生涯、私は死ぬまで不美愛であることを決めた。

病気になっても入院などしない。痛み止めを飲み、死ぬまで不美愛を貫こう。七十、八十歳でも不美愛を貫こう。

可愛い不美愛の体を美しく保つ努力をしよう。


それが不美愛の自愛の精神だ!!


最終章 不美愛、人生最後の夢を見る


自愛に目覚めた不美愛は老いと戦いつつ、生涯、不美愛を続ける事に決めた。お客様が対価を払い不美愛に時間を下さるのだから、不美愛も最高のおもてなしをする。

かりそめでも「可愛い、綺麗」と言って頂けるよう、不美愛を磨く。

不美愛には一対一のこのお仕事が1番合っている。対大人数では不美愛の心は乱れる。むしろ天職だと思っている。

その時間は2人きりの世界。何色にも染まる。不美愛は多重人格者なので何でも演じる。

不美愛にも大きなメリットがある。人生で心から男性に愛された事がない不美愛。1人で寂しい不美愛も男性の胸を借りることで守られている幸福感を味わえた。かりそめでもその瞬間、男性からの愛を感じられた。

見られる事で美を保とうと努力する。

これほどウィンウィンな事はない。


不美愛は不美愛として天命を全うする。


ふと、思った。


不美愛は死しても不美愛を愛している。

不美愛は遺書に、脳死の場合は全ての臓器提供をする。と記入した。

ではただ死んでしまったら?不美愛の体は何の役にも立たないのか?考えた上、献体提供をする事にした。不美愛の体は未来の医者の卵である学生達に手術の練習のために提供される。不美愛の体を刻んだ学生は将来、立派な名医になるかも知れない。大いなる社会貢献だ。しかも火葬代も浮く、とてもエコで地球に優しい選択だ。


でも、どちらを選んでも骨は返ってくる。


不美愛の家はお墓がない。海に害のないよう粉骨され、散骨するしかない。粉骨された骨はプランクトンの餌にも、魚の餌にもならず、海の底に沈む。


不美愛は自分の骨まで愛している。


不美愛は考察する。


骨はカルシウムで出来ている。老化してスカスカになった骨でも、最も良質なカルシウムではないのか?それは世のため、人のためにならないのか?

不美愛は考えた。誰にも愛されなかった不美愛を最後まで愛し抜くために。


検索を続け辿り着いた。


究極のエコ葬


堆肥葬だ!


これが不美愛の行き着いた骨までも愛する方法。火葬でも土葬でもない。地球に最も優しいエコ葬。


日本では火葬しか許されていない。他国は土葬が多い。でも、どちらも自然の摂理に贖っている。本来なら他の動物たちと同じく、自然と土に還るのが摂理、それが食物連鎖だから、人間だけが贖っている。


不美愛は考察する。


食物連鎖を検索すると頂点はライオン、鷲、鷹、中には人間と出てくる。不美愛は違うと思う。食物連鎖の頂点は母なる大地、地球。


人間であっても地球には逆らえない。

地球がクシャミをすれば地震が起きる。癇癪を起こせば山は噴火する。風邪を引けば氷河期に入る。地球が死ねば宇宙のチリになる。


それが自然の摂理。


きっと地球にとっては人間が最も有害。食物連鎖に贖い、土に還らない人間は二酸化炭素を多く排出して地球を汚すのに、生まれ変わり草や木にもならず光合成をして酸素を吐き出さない。更に死しても火葬する事で多くの二酸化炭素を吐き出す。そして木を切り、そこに墓を立て骨壷に入り、眠る。

時代は変わっているのでハイテクな集団墓地に入るのが現在でしょうが。どちらにしろ、墓を持たない。持っても管理する費用がかかる平成世代の若者は骨壷を自宅管理か粉骨散骨の二択でしょう。


では堆肥葬はどうでしょう。

2020年、シアトルで始まったばかりの堆肥葬。ウッドチップに包まれた体は1ヶ月で熟成されて良質な堆肥に生まれ変わる。その際にでる二酸化炭素は火葬の8分の1。それを個人の庭、もしくは神の領域である、神社や寺の指定された土地をうるおし、花や野菜になり酸素を吐き出す。


不美愛は考察する。


それが地球への恩返し、汚した分、綺麗にする。輪廻転生も早く可能になる。墓に入っている骨は本当の意味で転生できている?

堆肥になり、野菜になり、食として体に取り込まれる。それが栄養となり細胞となりDNAに取り込まれる。もしかしたら食した女性が魂を宿し産まれたら、それが輪廻転生の近道。


不美愛は夢を持つ。


人生で何度か夢を追って、夢を実現するために活動していた時、1番自分が輝いていた!


不美愛の人生最後の夢は


堆肥葬導入だ!


不美愛は堆肥葬導入、最後の夢を叶えるべく前を向いて活動する。


考えるだけでも沢山の壁がある。


●まずは法改正、火葬と堆肥葬の2択ができるようにする。

●お墓を管理する、寺、神社問題。神をも論破しなくてはならない。因みに政治の各党には大体宗教が関わっている。より多くの宗教を論破しなくてはならない。そこは慎重に行かないと不美愛が消される可能性もある。妄想族の不美愛の考えだが。そこは考えている。

●堆肥葬できる設備を国から出してもらう。そこも大きな壁がある。税金を使うのだから反感は沢山ある。「そんな事に使うなら給付金出してくれ。」が大半でしょう。でもよく考えて下さい。コロナ禍、お葬式はミニマムになっている。でも100万くらいかかるでしょう。堆肥葬は約60万。ある意味、自分達のために税金を使うのだから立派な使い道。

●不美愛がもしこの活動でなんらかのお金を得て、多額の預貯金ができたのであれば、娘が必要なお金以外はすべて堆肥葬の設備に投資する。不美愛が保有できたのであれば支援して下さった方の堆肥葬費用は無料。


他にも沢山の壁がある。


これを達成するには不美愛の残りは半生では出来ないかもしれない。でも贖う。死しても不美愛を愛するために。


不美愛は妄想する。


おばあちゃんになっても不美愛は不美愛。


堆肥葬の設備を保有しNPO法人を立ち上げて運営し、支援して下さった方に無償で提供する。堆肥葬で美しく蘇った命を法的に有効な土地を潤し、野菜を育て、育った野菜を遺族に送ろう。その僅かを頂きその方に感謝しよう。

不美愛はそれを運営しながら小さなアパートでミニマリストになり、猫を飼おう。猫アレルギーだが構わない。猫に娘の名前を付けて一から愛して育てよう。勿論、不美愛がその子より先に逝ってしまうかも知れない。困らないように準備もしよう。


それが不美愛の行き着いた最後の夢、一つでも叶えるために前を向く!死ぬまでこの夢を追い続けて前向きに生きる!


この夢は不美愛が生きていた証


不美愛が死んだ時、1人でも思ってくれる。命日には思い出してくれる。


自愛に目覚めた不美愛を骨まで愛している












おわりに


長文にお付き合い頂きありがとうございます。

私はこの自伝本に沢山のメッセージを隠しました。

私は不幸な人生を自慢したい訳ではありません。私より壮大な人生を歩み。日々、孤独を感じている方が多いと思います。

この本をきっかけにご自身の人生を振り返り、ご自身が誰にも愛されてと感じた時、自愛の精神が目覚めるのです。


私はこの本を書くためにブログに投稿していました。本を書き終わり編集し始め暫く投稿をしていませんでした。


2022年5月、何か月も更新していないブログをフォローしてくださる方が増えていきました。


私は考察し心配しました。


もしかして皆様、ご自身が不安障害ではないか?そして自愛に目覚める方法を模索してはいませんか?

風俗嬢で検索して読んでくれた方は多分、私のブログを読んでも高まりませんね

でも男性のフォロワーさんはきっと不安解消や自愛を求めていると思います。


貴方が不安障害かも?と思っていたら、まず考え方を変えてください。

不安を不満に置き換えてください。その不満を払拭する活動報告をしてください。


貴方が自愛に目覚めたいと思っているなら、頭の中で“貴方が愛している人ランキング”をつけてください。

その中に貴方は入っていますか?

入っていないなら貴方は自愛に目覚めていません。

今すぐ自分をいれてください。

勿論、守る人、愛する人がいて自分を1番にはできないと思います。

私も自分が1番ではありません。娘が1番です。

でも私は自分を2番目に愛しています。

貴方が何番目でも構いません。

“貴方が愛している人ランキング”

にご自身を入れる!

それが自愛に目覚める第一歩です!


2022年、自愛に目覚めて毎日のルーティンに、自律神経を整えるヨガ、瞑想、疲れたら横になる、外に出てリフレッシュを繰り返してだいぶ自分を洗脳しました。ぜひ参考になさってください。


最後に貴方はHSPの可能性があります。


繊細さんで生きづらさを感じている。ガラスのハートです。非繊細さんとは分かり合えないのです。


ユーチューブで調べて見てください。


私はHSS型HSPでした。


お互いに生きづらさを感じていると思います。それを逆転の発想力で乗り越え、夢を持って前を向いて下さい。


この本を手に取って頂いた方に小さなプレゼントです。


アメブロでfu37―2002と検索して下さい。そこにはここに書ききれなかった自愛に目覚めるメゾットを沢山書き込みました


 更にコメントに購入しましたと感想を頂けたらこれから始めるユーチューブチャンネルをお伝えします。

 そのチャンネルは醜い私が顔を晒して自愛を訴えるチャンネルです。

 そこで私は自虐しつつ、自愛します。


 それが皆様の勇気に繋がればと思っています。


 皆様にお願いです。書籍としてお買い上げ頂いた方は是非、回し読みして下さい。もしかしたらお友達が自愛に目覚めるきっかけになるかもしれません。


 最後までお読みいただきありがとうございます。

 皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。


 

不美愛




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