7 頬にキ……記憶が曖昧ですわ?
ジャン・ルヴォヴスキ様が私に耳打ちしました。
「放課後になる前に、作戦会議をしましょう」
私もそのまま囁き返しましたわ。
「ええ、次の休み時間に、旧校舎に行きますわ」
「では、例の場所で」
今後の方針が決まりましたので、私は平民科3-Bクラスの女狐、マリア・ジュリアンに向き直りました。あら? マリアは先ほどよりも更にぎらついた目をしていて、餓えた狼のような顔をしていますわ?
「マリア様、放課後お会いしてもよろしくてよ」
「その余裕そうな表情がいつまで続くかしら!?
イレタ・ル・ブロシャール様、せいぜい覚えててくださいませ!」
マリアは悪役のような逃げ口上を吐き捨てて走って行きましたわ。ロワイ様を置き去りにして。
ロワイ様はあいかわらず呆然としています。
でもそろそろ次の授業が始まりますわ。
なので私、ロワイ様にお声がけをしたんですの。
「ロワイ様、そろそろ戻られたらいかがですか?」
「……イレタ」
「はい」
名を呼ばれて私が答えますと、ロワイ様は少しだけ目に力が戻り、私にいびつに微笑みましたわ。
「嘘、だろう? それか、悪い冗談だ……」
鋭いですわ!?
あっさりとバレた私は絶句しました。
さすがですわ……ロワイ・ド・ガグリアーノ様。
そういえば、貴族科の3-Aクラスでしたわ。
頭が良い人は、嘘など簡単に暴いてしまうものなのでしょうか……赤子の手をひねるかのごとく。
ちなみに私は、いたいけな赤子の手をひねるなんて残酷な仕打ち、とてもできませんわ!?
は! まさか……もしかしたらですが、これが、私が貴族科3-Cクラスたる由縁……!?
ですが、私の隣にも強力すぎる助っ人、平民科3-Aクラスのジャン・ルヴォヴスキ様がいるのです。
私の隣にいるジャン様が、余裕そうな含み笑いで、ロワイ様に話しかけるのが聞こえましたわ。
「嘘? 冗談? これを見てもそう言えますか?」
どれを見るのかしら?
ジャン様がなにを見せるのか気になったので、私はジャン様の顔を見上げましたの。
でも、誰だってそうしますわよね?
だってこんな風に言われたら気になりますもの。
そのような訳で、私が顔を上げると、ジャン様の涼やかで麗しい顔がすぐ近くにありましたわ! 私とジャン様の間にあった宙吊りノートがバサッと落ちた音がしましたわ! ジャン様が私のあごを手で固定しましたわ!? そして……。
「ちゅっ」
きゃああああああーーー!?
****
セーフです! 今のはセーフでしたわ!
すんどめでしたわ!?
ジャン様は私の右頬の近くで『ちゅっ』って言っただけでしたわ!?
それなのに……この破壊力はなんですの!?
私は右頬を触りながら、腰がくだけて床にぺったりと座り込んでしまいました。
すんどめなのに! すんどめなのに!?
あら? すんどめ……でしたわよ……ね?
ええ、すんどめでしたわ!
危ないです……油断すると本当にキスされたような気分になってしまって記憶が上書きされてしまいそうですわ……。
クラス中に、ドヨドヨドヨ、というざわめきが広がり、その騒音があまりにも大きくて、誰の声も聞こえません。
……いえ。このあとすぐに、ジャン様がかがみこんで、私の耳元で声をかけたので、それだけは私、聞こえました。
ジャン様はいともたやすく私に耳打ちをしますけれど、その度に私の耳は、ゾクゾクそわそわとして、大変ですわ。
「では、私は急いで戻らなくてはいけません。
最後までいられず、申し訳ないですが、また後ほどお会いしましょう」
ええ、そうですわね。ここから旧校舎に戻らなくてはいけないのですものね。なので私は、真っ赤な顔でこくこくとうなずきましたの。
****
「……イレタ」
ドヨドヨという騒動の中で床に座り込んだまま、呆然とジャン様が出ていったドアのほうを見ていると、私はそのように声をかけられました。
前を向くと青い顔をした私の婚約者……ロワイ・ド・ガグリアーノ様が膝をついて私を見つめておりましたわ。
「イレタ……立てるか?」
……そう言うロワイ様のほうが、具合が悪いように見えます。もしかしてそんなに、傷ついたのでしょうか?
私はロワイ様の様子に、小さな驚きを感じました。だって私は、私が普段されていることの、ほんの1/100くらいの仕返しのつもりでしたの。
それに、もし私がロワイ様の立場なら、火山が噴火するがごとく、灼熱の怒りを撒き散らしていると思いますが……ロワイ様は、私をなじるでもなく、ただ、そのように声をかけて、微かに震える手を差し出してきました。
私は、なんとなくこの手にも見覚えがあるような気がして、ぼうっと見つめておりました。
……以前はどこで見たのだったかしら?
でも私、ど忘れした時ってどれだけ頑張っても思い出せないのですよね。テスト中だって、ここは昨日勉強したところですわ! と思っても、1番肝心なところが出てこなかったりしますの。
出てこないと言えば、探しものも探している時に限って見つからないですわ? どうでもいい時はいつも目につくというのに! それで、もうこれあっても使わないですわと思って私……。
……あ。引き出しの奥ですわ。
そうして私が記憶の中から他愛ない無くしものの場所を思い出した頃、授業の予鈴が鳴って、意識を戻しましたの。
「イレタ」
ロワイ様の美しい碧眼が、今は私だけをその瞳に映しています。私、ロワイ様にこんなに見つめられて、これほど何度も名前を呼ばれるのなんて、初めてかもしれませんわ。
でも、ロワイ様の手に触れる気分には、やはり、なれませんでしたの。
「……ええ、お気遣いなく」
なので先ほどの『立てるか?』の質問にようやくそのように答えて、私は自分の力で立ち上がろうと、不特定多数の靴の裏で踏みにじられているはずの、薄汚れた床に手をつこうとしたのですが……。
「え? きゃ!?」
私、びっくりして思わず大きめな声を上げてしまいましたわ! だってロワイ様に手を無理やりつかまれて、立たされて……急に立ったものだからよろけた私は……ロワイ様に抱き止められましたの!
わわわわわ私、手を繋ぐのだって2年ぶりなのに、抱きしめられるのなんて何年ぶりかしら……って初めてですわ!?
初めてですわ!?
私、体の中から骨が抜き取られたようにヘロヘロになってしまって、今立たされたばかりなのに早くもまた床に落ちそうなんですけれども、ロワイ様の温かくも固い体に優しく抱きしめられているせいで、床に倒れることができません。
私の体がかーっと熱くなって……ロワイ様にバレたらとても恥ずかしいですわ!?
なので私は必死に暴れましたが、私の持ち得る全ての力で抵抗してもロワイ様は離してくれません。
「離して! 離してくださいませ、ロワイ様!」
「わかった、わかったから、落ち着け、イレタ」
ロワイ様は暴れる私をなだめながら椅子を引いて私を降ろしました。見上げた先にいるロワイ様は切なそうな表情で、私からそっと手を離しました。
「変に意地など、張らなければよかった。……今度、ちゃんと話そう、イレタ」
ロワイ様の言葉の前半部分は、授業の本鈴とかぶってしまってよく聞こえませんでしたわ。でも、前半部分は一人言のようでしたから、聞き取れた後半部分について私は答えましたの。
別に話すくらいは構いませんわ。
「わかりましたわ。ごきげんよう、ロワイ様」
「ああ、またな、イレタ」