18 サボタージュですわ!
ちょっとした言葉の齟齬はありましたものの、『ジャン様と友人関係になる』という目的を無事に果たした私は、まだ熱い頬に両手の手のひらと手の甲を交互に当てて、少しずつ熱を冷ましながら、自身の教室に向かい歩いていました。
『あの言葉は、冗談じゃなかった』
そのように話したジャン様が、どの言葉を指していたのかは結局分からずじまいでしたけれど……私ともう会えないかもしれないと思った途端、強く強く抱き締められましたわ!
『嫌だ』って言われましたわ!『最後ならもう少しこのままで……』って言われましたわ!?
きゃああーー!?
ジャン様の主張は、たまには本心も言ってるということだと思うのですが……私も全部が冗談だなんて思いませんわ。ジャン様の私に対する言動は、3割くらいが本心で、残りの7割が冗談だと思いますの!
ですから、判断が付きがたい物事は、全部冗談と思ってたほうが正解率7割ですわ!
でも……先ほど、抱き締めながら言っていた言葉は全て、ジャン・ルヴォヴスキ様の偽らざる本心だと思いましたの。
私のことは少なくとも……休み時間にもう会えなくなるのは寂しい。そう思ってくださる程度には、好いてくださっていたようですわ。
そう思うと私は、やっぱり少し嬉しくて……でもうら若き男女が人知れず抱き締め合うなんて、いいいいけませんわ、不純ですわ!?
なので私は一応抵抗することにしたのですが、昨日、ロワイ様に優しく抱き締められた時でさえ、全力を出しても振りほどけなかったのに、ジャン様はもっと強く抱き締めてくるのですもの。抵抗は無駄ですわ。
それに、情熱的で強引な感じは案外まんざらでもなかったりして……ロワイ様とジャン様には、絶対に内緒ですけれど。
というわけで、無駄な力を使わずに、ジャン様の背中をトントン叩いて抵抗アピールをしていた私です。トントントトトントトトトントトン。これなんのリズムだったかしら?
そんな風に考えを巡らせながら、軽やかな足取りで貴族科3-Cクラスに向かっていると、廊下で声を掛けられました。
「ようやく戻ってきたか、イレタ」
「……ロワイ様」
廊下に佇むのは、私の婚約者、ロワイ・ド・ガグリアーノ様。
さらさらの金髪が窓の外の木漏れ日を反射してキラキラと輝き、色素の薄い碧眼は透き通った川のせせらぎのようで……昔からとてもおモテになりますの。
私にとっては学園内で、もっとも近い関係性なのに……こちらから追い掛けてやっと言葉を交わせる程度の、遠い方ですわ。
私の中で先ほどまであんなに高揚していた気持ちが、水を打ったように静かになりました。
「どうされたのですか? ……今日はマリア様は、ご一緒ではないのですね」
「ああ、イレタと2人で話したかったから。今から少し、時間を取れるか?」
「いいえ……そろそろ授業が始まりますわ」
「そうだな。じゃあ次の休み時間は?」
「次の休み時間は……先約がありますの」
ジャン様と。私とジャン様は校舎が違うし選択授業も合いませんわ。逆ざまぁをするという目的が無くなった今では、会おうとしないと会えませんの。
ですから、次の休み時間に、今後はどれくらいの頻度で会おうかを話し合うことにしたのですわ。
「じゃあ、やっぱり今からだ」
「ですから、もう授業が始まるので無理ですわっ」
「そして次の休み時間には、ジャン・ルヴォヴスキに会いに行くんだろ?」
「ええ、その通りです。なので他の時間に」
「……それじゃあ、遅いんだ」
「お急ぎの用事ですか? ……ロワイ様……?」
ロワイ様が近付いてきて、思わず後ずさるとすぐに、廊下の壁に背中が当たってしまいましたわ。
そして、ロワイ様の両腕が私を囲うように壁をつき、その距離を近付けました。
「ロワイ様……きょっ距離が、少々、近いですわ」
昨日私が転びかけた時に、私を初めて抱き止めたロワイ様の胸が、再びとっても近いですわ!?
私は緊張で息がしづらくなって、空気を求める小魚のように、パクパクと口を開け閉めしながら、必死に囁きました。
するとロワイ様は、こう言うのです。
「だが、触れてはいない……君が、嫌がるから」
ロワイ様は私の頭上の壁に額をつけて、とても苦しそうな小さな声で、そんな風に言うのです。
「イレタ……私が触れられない君に、他の男が触れるのが耐えられない。だから、今すぐがいい。時間をくれ、イレタ……話をしよう」
授業の開始時刻が近付いたからか、廊下にはいつの間にか誰もいません。私がそれに気付いた時、ちょうど本鈴の音が響き渡りましたわ。
私は……ロワイ様の要望に応じることにしました。ロワイ様がいつもと違うから……今話さなければ私は、きっと一生後悔する、と思いましたの。
「分かりました。今すぐで結構ですわ」
意識して柔らかい声でそう応えると、ロワイ様は体を離して、ほっとしたように笑うのです。
「ありがとう。君は真面目なのにすまないな」
「……いいえ、これくらい構いませんわ」
やっと心にけじめをつけて、諦めようとしたところでしたのに……私の心臓は、ロワイ様の微笑みを見ただけで、ドキンと簡単に跳ね上がるので、私は慌てて目をそらしました。
「サロンでいいか? ……密室が嫌なら、中庭とか」
質問の意図を図りかねていたら、私が口を開けるよりも前に、ロワイ様が理由を付け加えました。
ジャン様と付き合っているという嘘を真に受けたロワイ様は、少し他人行儀で、いつになく弱気で。
「嫌だなんて思いませんわ……私は、どちらでも」
「そうか。じゃあ、サロンにしよう」
ロワイ様はそう言うと歩き始め、私も隣を歩きます。サロンは新校舎の4階にありますの。
こっそりと見上げると、ロワイ様の麗しい横顔がすぐ近くにあります。
突然、どうしたのかしら。
こんなこと今までありませんでしたわ。
逆ざまぁに焦っている……?
『私が触れられない君に、他の男が触れるのが耐えられない』
先ほどそう話したロワイ様の小さな声。
私の心を取り戻したいと思っていたり、するのでしょうか。
私はふいに、ロワイ様の手に触れてみたくなって……手を伸ばして触れた瞬間、ロワイ様がビクッと硬直したのを見て慌てて手を離しました。
「あ、ち、違いますの! 今のはなしごめんなさいなかったことにしてくださいましなんでもありませんわ!?」
わわわ私ったらなんてはしたないことを……!
最近、異性に触れるハードルがものすごく低くなってしまった気がしますわ!?
必死に言い訳をしたのですが、すっかり混乱している私は、なにを言ってるのかもちゃんと理由になってるのかもよく分からなくて、恥ずかしさと後悔でいっぱいで、この場から逃げたくなりました。
「いや、違うんだ! こちらこそすまないイレタ」
「……ロワイ様は、謝らないでくださいまし」
「そうじゃなくて……!」
顔を上げると、私と同じかそれ以上に焦っているロワイ様がいました。でも、1つ深呼吸をするとすぐに心を鎮めて、私に手を差し伸べてきたのです。
「もう一度やり直そう。イレタ、手を」
「……はい」
私が恥をかかないように、差し伸べてくれたロワイ様の手をとって、私達は手を繋ぎましたわ。
ロワイ様は私の手を、温かく優しい手で包んでくれたから……私はなんだか泣きそうでした。
だってとても不思議な感じですの。
私達は、もうおしまいだと思っていたから。
こんな風に触れ合う日が再び来るなんて、想像もできなかったのです。
そうして私達は、まるで世界に2人だけ、ポツンと取り残されてしまったかのような静かな新校舎の中を、ゆっくりと歩きましたの。




