17 ジャン視点。イレタ・ル・ブロシャール
「これ以上の逆ざまぁは、少しばかりやり過ぎですわ。だから、おしまいでいいと思いましたの」
ほんの少し仕返ししただけで、長年の執着を手放して、すっきりと前を向いていた。
「……でも、ジャン様の冗談をもう聞けなくなるのは、少し寂しいですわ」
彼女は契約程度では縛れなかった。
偽りの恋人も不要だと、明るい顔で別れを告げようとしている。
「……嫌だ」
「ジャン様?」
2人きりの教室で、美しい彼女が首をかしげた。
ゆっくり、仲良くなっていけばいいと思っていた。偽りの恋人として、秘密の共有者として。
周りに恋人と認識されるほどに、このぬるま湯のような関係は、抜け出しにくくなるはずだった。
それなのに、なぜ。
急速に近付いた関係は、それ以上の速度で終わろうとしていた。
「冗談じゃない」
後悔をしていた。昨日、沈黙に耐えられず、変に言葉を付け足してしまって、冗談と思われたこと。
このまま動かなければ、終わる。
そんな焦燥が、後先を考える余裕を失わせた。
夢中で手を伸ばし、イレタ様を掻き抱いた。
「きゃっ……ジャン様、なんですの!?」
「……冗談じゃない。少なくとも、あの言葉は……冗談じゃなかった……っ」
つややかな髪の感触と、柔らかく華奢な体。そして、控えめな薔薇の香りがした。
もう、後戻りはできない。
この人を好きになってしまった。
「イレタ様……」
喉から絞り出すように、名前を呼んだ。
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貴族と平民が通うこの学園は、身分の平等を謳いながらも、実情としては明確に区別されている。
例えば、校舎が貴族用と平民用の2棟あるものの……もしも『校舎裏に来い』と言われたら、貴族科の新校舎を指している。
新校舎は専任の清掃スタッフがいて、早朝に隅々まで掃除をしているけれど、旧校舎は平民科の学生が当番制で掃除をしているからだ。
旧校舎裏は長年放置されていて、人が入れる状態ではない。
その代わり授業料やその他諸経費が、平民は全て無料だから、高い授業料を払っている貴族と区別されることには全く不満はない。
ここで言いたいのは、旧校舎裏は、雑草だらけで人が入れる場所ではなく、悪い景観をまじまじと見る学生もいないということだ。
でも、ある日廊下を歩いていると、旧校舎裏の木の上でなにかが光った気がした。カラスでもいるのだろうと思ったもののなぜか気になって、わざわざ外に出て裏まで確認しに行った。
木の上にいたのは、イレタ・ル・ブロシャール。
銀杏の枝葉が彼女を覆い、彼女は上手く風景に溶けていた。気をつけて見ないと見過ごしてしまう。
人が来るとも思っていなかったのだろう。
安心しきっている彼女は、声を出さずに泣いていた。
普段と違うその姿は儚くて、その日から、彼女が今日も泣いてはいないかと、雑草だらけの旧校舎裏を、気にするようになってしまった。
あの日の姿が、忘れられなかった。
彼女をあの場所で見たのは、あの日の1度限りだったけれど。
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その人の名前は学園内では非常に有名で、主に『ロワイ・ド・ガグリアーノ』や『マリア・ジュリアン』と共に語られる。
曰く、美しく高飛車なお嬢様。
婚約者は浮気性で、今は平民科の女子生徒とうつつを抜かしている。彼女はそれが我慢ならないようで、度々浮気現場におもむいては、騒がしく戦っている。
ロワイ・ド・ガグリアーノとマリア・ジュリアンの浮気は、浮気と呼ぶには余りにも堂々としているから、イレタ・ル・ブロシャールを含めて何度か目撃した。
以前は『今日も平和だな』といった気分で、横目で見ては、すぐに興味を失っていた。
なんせ、イレタ様とマリアはそこそこ本気で戦っているけれど、ロワイ様は明らかにイレタ様も好きである。構ってほしくて、わざと見せびらかしているように見える。
例えば、マリアがロワイ様にもらったアクセサリーを自慢している横で「……イレタも欲しいか? まあ可愛くおねだりするのなら買ってやらないこともな「い」いえ、自分で買えるので結構ですわ!」みたいな感じだ。
それが彼らなりのコミュニケーションなのかもしれないし、見ようによっては仲睦まじいと言えなくもない。
「……はあ」
「いっつもいっつも同じようなやり取りばかり。
よく飽きないですよねー。ですよね、ジャン様?」
思わずため息をついたら、知らない女子生徒に、話し掛けるきっかけを与えてしまった。
「ああ、そう」
「……」
基本的にクラスメイト以外の女子からの話は切り捨てることにしている。油断すると瞬く間に囲まれて動けなくなるからだ。
ため息1つから会話に繋げようとする心意気は見事だが、そもそも急な馴れ馴れしさが好きじゃない。ゆっくり距離を詰めてほしい。
奥ゆかしい女子とエンカウントしたい。
……でも今回は利用するか。
女性を惹き付けるこの見目を。
以前と変わらないやり取りを、以前のようにはスルーできなくなってしまったから。原因はイレタ・ル・ブロシャール。あの日、隠れて流していた涙。
彼女達の関係は、外部からの働きかけで簡単に変わりそうだった。たぶん、イレタ様にちょっかいを出せば、ロワイ様は危機感を持ち、なんらかの反応をするはずだ。その起爆剤になってもいい。
懸念点は、イレタ・ル・ブロシャールに想いを寄せられる可能性があることだが……有責はロワイ様にあり、おとがめはなさそうだ。
それに、彼女と付き合えば貴族と縁を繋げるし、寄り集まる女子も減るだろう。メリットでかいな。
……いっそ寂しさにつけこみ積極的に惚れさせる方向で。これまでの経験と感覚的に、微笑みかければ7割落ちる。万が一惚れない場合は、ロワイ様との仲を取り持つほうに舵をきって報酬を貰おう。
どちらに転んでも良さそうだ。そう結論付いたから、早速行動に移すことにした。
話のきっかけにいくつか女性向けの小説を手に取り、イレタ様に近いイメージの悪役令嬢が出てくる本を買った。
そうして、休み時間に会いに行く。身分が違い過ぎるから、好意をもたれるまでは多少の不審や嫌悪感を抱かれるものだと思いきや、話し掛けてみるとイレタ様は、人当たりがよく丁寧だった。
本来はなにか用事がある様子だったけれど、時間を取ってしまったことを謝ると、少し困った顔を見せたものの『いいえ、とても有意義な時間でしたわ』と言って教室に戻っていった。
早めに読んで欲しいと渡した本は、その日の放課後には返しにきて、こちらが逆に心配になるほどに易々と話を信じた。しかし惚れたわけではなさそうで、手を取っても握手と思われた。
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異性に慣れてなさそうで、恥ずかしくなると、ぷいっとあからさまに目をそらす。体が近いとノートを挟んでガードする。それでいて離れると目で追ってくる。それに気付いて振り返るとぷいっ。
可愛くて微笑ましくて笑ってしまう。
もっとツンツンしている人だと思っていたから、会う度に見つける意外性が可愛い。
離れると見せかけて目を合わせてみたり、わざと耳元で話し掛けたり、つい遊んでしまう。
しつこくやると怒られる。けれど、あまり怒りを引きずらない人のようだ。
ロワイ様達にも、過去の話を蒸し返すところは見たことがない。基本的に、現行犯の時しか文句は言わないそうだ。曰く『過去は直せませんもの』
早い段階で契約を結んでよかった。金が絡めば元を取りたくなるだろう。彼女に会う口実にできる。
目的が変わってきていた。
もっと話したい。この関係性を少しでも長く続けたい。そう思うようになっていた。
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「あの言葉……? どれのことですの? ってそ、そんなことよりも、離してくださいませ!」
先ほどから、早く離してアピールとして、背中を痛くない力加減で叩いてきていたイレタ様は、今はリズミカルに、トントントトトントトトトントトンと、2・3・4・2拍子で叩いている。顔を真っ赤にしているわりに、ずいぶんと余裕そうだ。
休み時間も終わりそうだし、いつまでも抱き締め続けることはできないし、質問に応えないわけにもいかない。だから仕方なく、ノロノロと答えた。
「……離れたらもう、この関係も終わるのでしょう? 最後ならもう少し、このままで……」
そう言うとイレタ様はピタリと動きを止めた。更に強く抱き締めても今度はもう抵抗されなかった。
そのまま再び無言に戻り、今この場で告白する場合の成功率はどれくらいだろうと試算していたら、イレタ様が非常に気まずそうに話し出す。
「なるほど……確かにお別れの言葉みたいなところで区切ってしまいましたわ……」
……ん? お別れの言葉『みたいな』?
予想外の言葉に、思わず腕を緩めてイレタ様と向き合った。イレタ様は急に目が合ったことにギクリとして、ぷいっと顔をそらす。
「あの……逆ざまぁは終わりにするつもりですが、もしジャン様がよろしければ、これからは普通の友人として、一緒に残りの学園生活を楽しめたらと思いましたの。その……ジャン様も……このまま離れるのは寂しいと、思ってくださっているということですよね?」
話の内容が一瞬理解できなくてフリーズし、聞いた言葉を聞いたままに頭の中で反芻してから質問した。
「……えっと……契約関係を止めて友人関係になりたい、ということですか?」
「そういうことですわ! ……いかがかしら?」
期待と緊張の目を向けられながら、猛烈な脱力感に襲われた。あと、ほっとした。少しだけ関係性を変えて、イレタ様との交流はこれからも続く。
「ああ……はい、ではそれで」
とりあえず、腕は離した。




