無知故に
「……ヒ、ヒイイイイイイイィィィ!」
サイクロプスの目が自分に合うのを自覚した課長は、腰が抜けてへたり込んでいる自分の肥え過ぎた体をズリズリと必死に後退させる。
「ば、馬鹿な……あ、あの二人がやられるなんて……あり得ない」
頼りにしていた兄妹の死に、顔面蒼白となった課長はどうにかこの場から逃げようと必死に手足を動かす。
その後には、ナメクジが通ったような一筋の濡れた跡が残っていた。
どうやら恐怖のあまり、失禁してしまったようだ。
「嫌だ……わ、私は…………優秀なんだ。こんなところで死ぬはずがない……誰か…………誰か!」
自分が粗相をしてしまったことなど気付いていない課長は、迫りくるサイクロプスから逃げながら必死に助けを呼ぶ。
だが、その声に応えてくれる者は当然ながらいない。
「こ、こんなはずじゃ……わ、私はただ、長い休暇で暇になるから……異世界で女をはべらせて楽しもうとしただけなのに…………クソッ、あいつめ訴えてやるぞ」
涙を流しながら這い続ける課長は、自分をこんな状況に陥れた何者かに対して文句を言い続けるが、それは完全にお門違いだった。
この世界へと渡る前に、こういう事態に陥ることがあるという警告は既にあり、それに同意した上で異世界へと来たのだから、こうなったのは全て課長の責任であった。
「だ、誰もいい……早く誰か助けて………………」
顔を涙と鼻水で濡らしながら這い続けている課長は、自信の体に影が差すのが見え、おそるおそる後ろを振り返る。
「ヒ、ヒヒ…………ヒイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイィィィッ!!」
そこにはいつの間にか課長のすぐ後ろまで辿り着き、右手だけで棍棒を振りかぶっているサイクロプスがいた。
大きな目をギョロリと動かすサイクロプスの口の端には、人のものと思われる赤い血が付着しており、それを見た課長は首を激しく左右に振りながら土下座をすると、大声で命乞いをする。
「や、やめろ! この私が誰だかわかっているのか!? ここで私を殺したら、お前は絶対に後悔するぞ! か、金ならある……だから……だから…………」
命だけは助けてくれ。滂沱の涙を流しながら懇願する課長だったが、そもそも人の言葉を理解しているかどうかわからないサイクロプスに通じるはずもなく、
「グオオオオオオオオオオオオッ!!」
サイクロプスは、叫び声を上げながら血のついた棍棒を容赦なく振り下ろす。
その棍棒は、土下座をする課長を押し潰すかと思われたが…………、
「…………甘いな」
泣き顔から一転、課長は顔を上げると、唯一の装備品である大盾を構えて自分に与えられたスキル名を発声する。
「リフレクトシールドオオオオォォォ!」
それは課長が操っていた職業ナイトが持つ最上位スキルで、このスキル発動中に盾に攻撃を仕掛けてしまった者は、攻撃を大きく弾かれるだけでなく、強制スタン状態にされておよそ十秒間、相手に無防備な姿を晒す羽目になる脅威のスキルだった。
しかし、それはあくまでグラディエーター・レジェンズのゲーム内での話であった。
確かに用意されたスキルは、条件さえ満たせば間違いなく発動するのだが、体にかかる負担までは軽減してくれない。
「さあ、来い。私の盾に攻撃を加えた時が貴様の最後だ!」
その事実を、これまでまともに戦っていない課長は知る由もなく、迫りくる棍棒に向かって真っ直ぐ盾を構える。
次の瞬間、サイクロプスの棍棒と課長が構える盾が交錯する。
「――ッ、ウガッ!?」
課長の盾を強かに叩いたサイクロプスは、リフレクトシールドの効果で棍棒を弾かれ、そのまま雷にでも撃たれたかのように全身を痙攣させながら硬直する。
しかし、一方の課長はというと、
「あ…………あひ? ど………………ぼじ…………て?」
胴体部分が自分の掲げていた盾に押し潰され、ひび割れた地面に縫い付けられたかのようになっていた。
潰された部位は、盾によってはっきりとは見えないが、じわじわと物凄い勢いで広がり続ける血溜まりの様子と、手足があらぬ方向に曲がってしまっていることから、無事であるとは到底思えなかった。
しかも、課長にとって最悪だったのはリフレクトシールドでサイクロプスがスタン状態に陥っていることだった。
ソードファイターの兄妹の内、レイナの方は自分が死んだかどうかもわからない内に即死させられ、マサキは苦しんだものの、その時間は決して長くはなかった。
だが、課長はサイクロプスがスタン状態から回復するまで、死ぬことすらできないでいた。
「あば…………ばか…………な…………わ………………しが?」
最早虫の息となっている課長だったが、不幸なことにサイクロプスが回復するまで絶命に至ることはなかった。




