前門の……
迫りくるイビルバッドのかぎ爪をどうにか回避すると、俺の髪の毛が数本舞う。
「ヒ、ヒイイイイィィィ!」
余裕をもってかわし続けるシドと違って、俺は常にギリギリの回避だった。
今もどうにか避けることができたが、僅かながら奴のかぎ爪が俺の頭皮を掠め、今もヒリヒリと熱をもったかのように熱い。
残念ながら俺の力量では、そう何度も回避できるとは思えない。
走っている通路は狭く、剝がれた石畳の所為で足場がかなり悪いのも俺にとっては速度を出すことができない要因になっていた。
「はぁ……はぁ……」
少しでも気を緩めてしまえば、イビルバッドの攻撃を回避できずに死ぬか、転んでイビルバッドに攫われて死ぬか……、
どちらに転んでも死しかない運命に、俺は既に汗でぐっしょりと濡れている背中に、冷たいものが走るのを自覚する。
だが、この時の俺は、イビルバッドから逃げることに精一杯であることを失念していた。
それは、
「いたぞ。獣人だ!」
「一緒に人間もいるぞ。報告では、ネームタグは持たないから殺して構わんそうだ」
姿が見えないからすっかり存在を忘れていた自警団の連中が、先の通路から現れたのだ。
「――っ、ヤバ!?」
顔も知らない自警団の面々に見つかり、俺は顔から一気に血の気が失せるのを自覚する。
前門の虎後門の狼とは、正にこのことだろうか。
前と後ろ、どちらに進んでも破滅しかない状況に、俺は思わず立ち止まってしまう。
「コーイチ! 止まるな」
いきなり足を止める俺を見て、シドが血相を変えて叫ぶ。
「後ろ、来ているぞ!」
「えっ? あっ……」
シドの言葉に振り返った俺の目に、イビルバッドの鋭いかぎ爪がすぐそこまで迫っているのに気付いた。
「コーイチ!」
異変に気付いたシドが俺に駆け寄ってくるのが見えたが、どう考えても間に合いそうにない。
これは……死んだ。
前にバンディットウルフに襲われた時にも体験したスローモーションの世界の中で、俺は自分の死を確信する。
ゆっくりと迫って来たかぎ爪が俺の肩に食い込むと同時に、物凄い力が肩へと加わる。
「あぐっ!?」
スローモーションの世界でも変わらない痛みに俺は顔をしかめ、このまま攫われてしまうかと思ったのだが、
そこで思わぬ奇跡が舞い降りる。
俺が石畳の調度剥がれてしまっている場所を踏んでしまい、足を盛大に滑らせたのだ。
「どおぅわっ!?」
そのままツルン、と盛大に足を滑らせた俺が足を振り上げながらこけると同時に、イビルバッドのかぎ爪が俺の衣服を破りながら外れる。
「痛っ!?」
盛大に尻もちをついてたおれてしまうが、奇跡的にイビルバッドに攫われてしまうという最悪の事態は回避することができた。
しかも、俺にとっての幸運はそれだけではなかった。
俺を攫うことに失敗したイビルバッドは、そのままの勢いで俺たちの前に立ち塞がる自警団の連中へと襲いかかったのだ。
「……えっ?」
「こ、こいつは……うわああああああ!」
突然現れたイビルバッドに、自警団の連中は手にした武器を振るうことすらできず、イビルバッドの強烈なかぎ爪に襲われ、二人の男たちの首から上が吹き飛ぶ。
「うげ……」
噴水のように赤い血を吹き出しながら倒れる二人の人影を見て、人の首を簡単にもぎ取るほどの力を持つイビルバッドの脚力に戦慄を覚える。
イビルバッドは倒れた二つの死体の上に着地すると、口を大きく開けて先の尖った鋭い歯で死体を喰らい始める。
バリバリと骨を砕く音を響かせながら人を喰らうイビルバッドを見て、俺は眩暈を覚える。
救いたいと願ったのに救えなかった。脳裏に苦い記憶が呼び起され、吐き気を覚えた俺は堪らず口元を押さえる。
「何をしている。今がチャンスだ。逃げるぞ!」
呆然と立ち尽くす俺に、シドが手を伸ばして無理矢理手を取って走り出す。
「うわっ……とと」
突然の事態に倒れそうになったが、シドが俺の腰に手を回して支えてくれたので、どうにか転ばずに走り出すことに成功する。
「……大丈夫か?」
「…………ああ、ごめん。心配かけた」
シドの問いかけに、俺は喉までせり上がってきたものを無理矢理飲み込みながら頷く。
こんなところで、死ぬわけにはいかない。
『小さな約束だが、ミーファと再び会うという約束をしたんだ。』
せっかくできた人との繋がりを……あんな純粋でいい子を泣かすわけにはいかない。
俺は代わりに犠牲となった自警団の連中に一瞬だけ黙禱を捧げると、近くの脇道へと飛び込んだ。
通りよりさらに狭く、最早二人並ぶこともできない広さの脇道を、俺はシドの後に続いて駆ける。
背後から聞こえる「キィーキィー」という不気味な鳴き声に首を竦めながら、俺は前のシドに話しかける。
「シド、地下への入口はまだなのか?」
「もうすぐだ。この先の通りを抜けたら、水路にぶつかる。後は水路に沿って真っ直ぐ進むだけだ」
「そ、そうか……」
シドの力強い言葉に、俺はホッと胸をなでおろす。
ゴールがわかれば、そこまでどうにか頑張ろうという前向きになれるものだ。
後は、何事もなく無事に地下まで辿り着くことを祈ろう。
そう思いながら俺は必死に足を動かした。




