26.家族
ここしばらくずっと見上げている天井はさすがに見慣れてしまったけれど、ここは自分のいるべき場所ではない、と時々切実な焦燥に駆られる。帰りたいと望むのは、母との思い出が詰まったあの小さな家ではなく。イギサと子供たちと一緒に過ごした、坂の中腹にある家だけだ。
草匙にさえ戻れない理由は自分にあると分かっているのに、思い出すと胸がぎゅうと絞めつけられる。あまり力の入らなくなった手で毛布を握り、そっと呼びかける。
「兄さん……」
小さな声に答えるように、部屋の片隅で闇が蠢いた。じっと目を凝らせばそこにヒズミを見つけ、シズナは苦笑めいて口許を緩ませた。イギサが席を外す時は必ずそこにいてくれるが、どこか辛そうな様子は変わらない。
「無理してそこにいなくていいのに」
呆れた声を出すシズナにも何も答えず、ヒズミは傷跡の残る素顔を晒してそこに立っている。滲むように後悔を映す同じ色の目を見つめて、シズナはふと息を吐いた。
「母さんだって、責めてないよ。……帰ってきていいのに」
兄が養子に取られて出て行ったのは、母が彼女に口伝を伝えるよりも早く。起き上がるにも不自由し始めた母を見ているのが辛くて逃げたのだと、自分を強く責めているのを知っている。
母にしてもシズナにしても、それを恨んだことはない。ただ遠く離れた息子は、兄は、元気でやっているかと案じていただけだ。けれどヒズミにはそのことさえ負い目らしく、母を看取れなかった分までもと努めてシズナの傍らにいる。何もできない自分を責めながら、ずっと。
「俺は結局、母もお前も守れなかった」
「でも、この国は守ってくれたじゃない」
「っ、伯父も、お前も、巻き込んでか」
そのせいで今お前はそんな目に遭っているんだろうと顔を歪めたヒズミに、否定はできない。けれどシズナの内にある感情はそればかりではなく、緩く首を振った。
「でも、感謝してるの」
「何に」
「イギサさんと、会わせてくれたことに」
家族も持てたと微笑むと、ヒズミの顔が形容し難く歪む。それを見てくすくすと笑い、そうしただけで軋む自分の身体を持て余して緩く咳き込む。心配して駆け寄るヒズミに大丈夫と掠れる声で答え、まだ少し残る波を遣り過ごしてからゆっくりと息を吐いた。
「あの子たちは……、どうしてるか知ってる?」
三年だけ、自分の子供と偽られてきた双子。イギサたちに再会してからは一切会わなかったが、ずっと気になっていた。ヒズミはどう手助けしていいか分からず戸惑いながら、親元に返したと端的に答える。
「記憶は戻した。薬の影響については経過を見るしかないが、今のところ実害は出ていない」
「そう。……そう、よかった」
ありがとうと微笑むと、やめろと即座に否定される。
「俺はただカギトを殺し、お前を殺すだけだ。礼を言われるようなことなど、何もしていない」
「そうやって全部を負おうとするから、苦しいんでしょう。最初に兄さんが勧めてくれたまま、もっと早くに草匙を出るべきだった……。聞かなかったのは、私。あなたが負うべきなんて、本当はとても少ないのに」
私が色々持って行ってあげるから楽に生きてと手を伸ばすと、ヒズミは避けるように後退りする。けれど無理にも身体を起こそうとしたシズナに気づいて制止に手を伸ばしてくるから、その手をそっと捕まえた。
咄嗟に振り解こうとして身体に障りそうだとどうにか堪えたヒズミに、ふふと声にして笑う。
「心配しなくても、母さんが私に残したのは口伝。術式は持ってないし、使えない」
「……そんな皮肉で気が済むなら、好きにしろ」
諦めたように息を吐いたヒズミにまた少し笑い、初めてに近く兄の手をぎゅっと握った。不安そうに、同じ色の目が重なってくる。
「私の家族は、あなたの家族。イギサさんも、フウカも、リクトも。皆、あなたの家族」
つまらない意地を張っても駄目よと見つめながら言い聞かせ、逸らされないことに嬉しくなって続ける。
「私はあなたに家族を残す。だから、きっと見守ってね」
「っ、やめておけ。俺はきっと……また、間違う」
一つしか残らない目を伏せて嘆くように断ったヒズミに、何がいけないのと問い返すと慌てて目を開けて不審そうに見返される。
「私も、子供たちに教えてもらったの。間違ってもいいんだって。また、やり直してもいいんだって」
だから私は今ここにいるのと自慢げに微笑むと、ヒズミはしばらく言葉に迷った後、そうかとだけ呟いて俯いた。
「お前は……、確かに家族を得たんだな」
「そう。だからあなたに託す。間違えながら、でも見守ってね」
「……ああ。お前に代わって、最期まで見守ろう」
初めて力強く握り返された手に、よかったと心から安堵する。反対の手でどこかぎこちなく髪を撫でられ、ゆっくりと目を閉じる。
もう少し早くこうして向かい合っていれば、結末が少しは変わったかもしれない。けれど今だからこそ持てた時間であり、交わせた約束だろう。
心残りが、少しずつ片付いていく。
「──草匙に、戻りたいなぁ」
ぽつりと零れたのは、紛れもない本音だ。戻って誰かと顔を合わせることになれば生きていたと知れ渡ってしまう、だからこそ冠暁に残っていると分かっているけれど。
「無茶を言う」
「……うん。ごめん」
「だが、そのくらいなら叶えられる範疇だ。命を延ばすよりは容易い」
自嘲めいた言葉にはっと目を開けると、苦く笑ったヒズミを見つける。
「お前が生まれ、育った土地だ。お前が眠るにもまた相応しい」
あそこはこの国で唯一、魔法の恩恵が深い。鶫の一族が連綿と住み続け、ゆっくりと優しい魔法を注ぎ続けた場所だから。
「本当、に?」
帰ってもいいのと掠れる声で尋ねると、ヒズミの手が額に落ちる髪をかき上げた。
「お前が俺に望んではならないことなどない」
全てを受け入れるような発言は、償いよりは慰めに近い。自分に残された時間が短いことは承知しているが、誰かのふとした仕種で痛いほど思い知らされる。どくんと跳ね上がった心臓を宥めるように静かに目を伏せ、ゆっくりと息を整える。
遠い日、母もこんな気分でシズナの眼差しを受けていたのだろうか。最期に向けて嫌でも覚悟を決めながら、一人ではないことを喜んでくれただろうか……。
(この時間さえ、私には幸い)
一度は何もかも伝えられないまま、姿を消すしかないと思っていた。それは例えば自分の命は繋がれても、残していく家族に理解を得られる行動ではなかっただろう。世界中でたった一人になるのと変わりなく、せっかく得た幸せを自分の手で叩き壊したことを思えば今のほうがよほどいい。
有限の時間を上手に使っているとは思わないけれど、残したい、伝えたい思いをまだ紡げるのだから。




