25.決断
子供たちが起きていないのを確認して、イギサはシズナを二階の片隅にある部屋に運んだ。記憶を戻すかどうかの決断はまだできない、だが子供たちに知らせず別に宿を取るのも違う気がした。
(何が正しい? やっぱり君は死んでいたと教えることか、生きていたけど忘れていると知らせることか。今ここで記憶を戻して対面させたとしても、君の命はいつまで持つか分からない。またすぐ別れる羽目になるのに、それを教えるのが正しいのか?)
どうすれば子供たちが傷つかずにすむのか、傷ついても浅くすむのか、シズナを見下ろしたまま結論の出ない問いを繰り返すイギサは、不意に違うと強く両手を組み合わせた。
(あの子たちはどれだけ傷ついても立ち直れる、それだけの時間が残ってる。何が正しかったのか、間違っていたのか、そんなことはあの子たちが長じてから考えればいい。重要なのは、君だ。どうすればシズナは報われる? 記憶を戻して別れを言うのか、知らないままカギトを信じていくのか。どっちがより君を救う? 他のどんな手段でもいい、君が確実に幸せだったと笑えるような、そんな道があるなら教えてくれ。そうしたら俺は必ずそれを選ぶから……!)
かつてのシズナであれば、少しは望むことも分かったのに。今は自分の望みも分からない、何をすればいいのかも分からない。立ち尽くしたまま、動けない。
「父さん……?」
いるのと声をかけながら、扉が開かれる。咄嗟に立ち上がって途中で止め、覗き込んでくる双子から寝台を隠した。
「父さん、寝てないの?」
「どこかに行ってたの?」
眠そうにしながらも問いかけてくる双子は、まだもうしばらくぼんやりした後にいきなりはっとしてイギサの足を潜るように無理やり部屋に入り込んだ。
「よせ、二人とも!」
「「お母さん!!」
お母さんだと歓喜の声を上げながら寝台に飛び乗ろうとした二人の襟首を捕まえて引き止め、やめろと声を尖らせる。
「胸が苦しくて休んでるんだ、上から飛び乗ってどうする!」
「お母さん、病気で苦しいの?」
「だから帰ってこなかったの?」
じゃあいい子にすると神妙な顔をした双子をゆっくり下ろすと即座に寝台の縁に縋りついたが、必死に身を乗り出させても止めたままよじ登ろうとはしない。
「お母さん、眠ってるの?」
「僕、手を繋いでてあげる」
「触っちゃ駄目! 苦しくなったらどうするのっ」
「でも、僕が風邪引いた時はそうしてくれたよ?」
「そんなの、そんなのフウカだってしてもらったもん!」
「じゃあ一緒に繋ごう。そしたらお母さん、起きるかも」
名案と目を輝かせた二人は、けれどすぐにはっとしたようにそろりとイギサを窺ってくる。繋いでもいいかなぁと恐る恐る尋ねてくるのは、追い出される心配よりはシズナの身体を慮ってだろう。
一瞬言葉に詰まり、かけられる言葉を探しながらイギサも寝台に寄る。そっと彼女の手を毛布の外に出させると、あんまり力を込めるなよと注意する。うん! と大きく頷いた双子は壊れ物に触るみたいにそうとシズナの手に触れ、お母さんだ……っと内緒話みたいに囁き合って零れんばかりの笑みを浮かべる。
このまま。このまま目を覚まさずに送ったほうが、三人のためになるのだろうか。起こさず、戻さず、時が尽きるまでのさほど長くない時間。双子の無邪気な言葉を眠ったまま聞きながら、ゆっくりと終えられるなら──、
「お母さん、何? どうかしたの?」
「僕ら、ここにいるよ。父さんも!」
小さく、シズナの唇が動いた。それに反応して声を張り上げる双子は気づかないが、立ったまま見下ろしていたイギサには読み取れる。
フウカ、リクト。間違いなく双子の名前。けれど、どこと不安そうに続く言葉から、彼女の傍らに望む双子はいないのだと分かる。名前こそ同じでも、今の彼女にとってはカギトが浚ってきた二人こそが自分の子供たちだ。いくら双子が慕っても応えられない、誰が寄り添っても彼女は独りのまま。
絶望で、目の前が暗くなる。彼女を独りのまま死なせるのか。イギサもフウカもリクトも、確かに側にいるのに?
耐え難く壁を殴りつけようとした手を、上から押さえるようにして止められた。振り返ると少し疲れた顔をしたヒズミがいて、覚悟は決まったか、と問いかけてきた。
人を殺す覚悟はした。虐殺する覚悟はできなかった。全てを負う覚悟はした。今するべきは、シズナに恨まれる覚悟──。
「したいはずが、ありません」
「そうか」
責めるでもなく、褒めるでもなく、ヒズミは淡々と受け入れる。このままなかったことにもしてくれると分かるから、ですがと引き攣らせるようにして口角を持ち上げた。
上手く、笑っているように見えるといいのだけれど。
「すべき、と知ってはいます」
「せずとも誰も、お前を咎めまい」
「いいえ。そんなことになれば俺が俺を、きっと一生でも許さないでしょう」
だから、します、と重い石を吐くように告げる。
シズナの手を取ったまま窺っていた双子が不安げな声を出したのを聞いて、ヒズミは分かったと一つ頷くと眼帯を外した。ひどい傷跡を平気な顔で晒したヒズミは、何をする気かと見張るようにじっと見つめる双子の視線も気に留めずシズナに近寄る。そうして片手に持っていた眼帯を彼女の胸に乗せ、裏返した。
「それ、は……」
「鶫の口伝は女しか受け継がない。母が私にと残したのは、この眼帯だ」
そこにあるのは、以前イギサの左腕にもあった術式。黒く滑らかな生地に種類の違う黒糸で縫われているせいで、知らない者が見れば単なる刺繍にしか見えないだろう。発動させると仄かに光を帯びて必要な場所だけ浮き上がった、完全を示すそれ。
「本来、魔法とは人を傷つける道具ではない。人を救うためにあるものだ」
唱えるというよりは、祈るように。ヒズミが紡ぐ声に合わせて、眼帯の帯びていた光がシズナの中へと落ち込んでいく。双子がふわあと声を上げて見守る間に光はすぐに収まり、ヒズミは無造作に眼帯を取り上げて付け直した。
「戦時にこれが使えたのは、誰かの傷を癒す時のみだった。どうやら術式には、色々と条件をつけられるらしい」
そのやり方も今では絶えてしまったがなと自嘲気味に笑ったヒズミは、お母さん! と声を揃えた双子の声で寝台から離れた。イギサは今にも出て行きそうなヒズミを引き止めるように、思いついた疑問を口にする。
「その術式でシズナの身体を癒すことは、」
「魔法が万能ではないことを、お前もよく知っているだろう」
命を延ばすのは神の領域だと目を伏せがちにして答えたヒズミは、シズナが起きるのを確かめもせず部屋を出て行った。イギサは知らず拳を作って見送った後、お母さんとはしゃいだ声を出している双子に促されるようにして顔を戻した。
「……フウカ……、リクト……?」
戸惑いがちに紡がれた名前に、二人は感極まったようにシズナの首筋に抱きつく。
「飛びつくなって言っただろう!」
慌てて襟首を捕まえて持ち上げると、しゅんと項垂れた双子はごめんなさいと声を揃える。軽く目を瞠った気配に視線を下ろすと、驚いた顔をしているシズナが真っ直ぐにイギサを捉えている。けれどシズナと呼びかけると、苦痛そうに顔を歪めた彼女は毛布を被って隠れてしまった。
「お母さん、どうしたの?」
「どうしたの、苦しいの?」
「ごめ、んなさいっ。あや、謝ってすむ、話じゃないけど、ごめんなさい……っ」
毛布を通してくぐもっていても泣いているのが分かる様子で謝罪を繰り返すシズナに、子供たちが狼狽えている。謝らないで、泣かないでと毛布の上から撫でられるたびに嗚咽がひどくなり、この三年の記憶も持っているのだと分かる。
慰めるつもりで追い詰めるだけの双子の頭をくしゃりと撫でたイギサは、申し訳なく思いながらも双子に目線を合わせて頼む。
「二人とも、少しだけ部屋を出ててくれないか」
「出て行くなんて、いや!」
「どうして僕らだけなの!」
「フウカも一緒にいるっ」
「僕だって一緒にいるっ」
離れまいとして毛布を握り締める双子に、イギサは頼むからと揺れそうになる声をどうにか立て直して説明する。
「シズナも少し混乱してるんだ、お前たちが思ったより大きくなってるから。落ち着いたら、また呼ぶから」
「だって、だって父さんだけずるい!」
「僕らが来る前にも一緒だったのに!」
どうして父さんだけと唸る双子に、そんなの俺が父親だからに決まってるだろうと殊更偉そうに断じて二人の襟首を捕まえ、毛布から引き剥がす。必死に掴んでいるせいで一緒に毛布も捲れ、嘆いているシズナを目の当たりにした双子は毛布から手を離すと動揺したように目を泳がせている。
「なぁ、少しだけ二人にさせてくれ。二度と会わせないわけじゃないから」
「お母さん……、悲しいの?」
「僕らがいたら、苦しいの?」
「ちが、」
違うと慌てて身体を起こしかけたシズナは、言葉の途中で胸を押さえて身体を折り曲げる。慌てて双子を下ろして駆け寄り、触れていいのかどうか迷って結局手を伸ばせないまま双子に振り返る。
「少しだけ、外で待っててくれ」
頼むと繰り返すと、双子は互いに泣き出しそうな顔を見合わせてぎゅっと手を取り合うと、心配そうに何度も振り返りながら部屋を出て行った。
「シズナ、大丈夫か」
扉の閉じた音で向き直り、恐る恐る声をかけると苦しげな息をしているシズナは顔も上げないまま首を横に振った。
「どう、して……」
切れ切れに発音されたそれが自分に向けられていると知り、身を乗り出させると避けるように顔を背けられた。
「シズナ」
「っ、」
呼びかけるだけで、震える肩が辛い。伸ばそうとした手を引き戻し、膝に押しつけるようにしながらごめんとどうにか謝る。
「三年前、すぐに君じゃないと気づくべきだった。そうしたら、もっと早く見つけ出せたはずだ。こんな、……薬で君の記憶を好きにさせたり、する前に」
守ると誓ったこの口で、ただ詫びるしかできない自分がもどかしい。戦場ではあれだけの威力を誇った力さえ、彼女の命一つ助けられない。否、それ以前にこの三年、勝手な絶望に浸って動かなかった自分が許し難い。
顔を合わせる資格もないと頭を下げたまま動けずにいると、どうしてと掠れた声が再び耳を打った。思わず期待したように顔を上げたが、シズナは頑なにイギサから顔を背けている。知っている頃より細く感じる肩が痛ましく、手を伸ばしそうになる前に拒絶が届く。
「お願いですから、出て行ってください……っ」
これ以上は耐え難いと、項垂れる姿に胸を衝かれる。
どんな言葉も言い訳にしかならないなら、噤んでいるのが正しいと分かっているのに。何度も零れ落ちそうになる言葉を必死に噛み殺していると、ごめんなさいと消え入りそうな謝罪が届いて眉根を寄せた。
無意識の内に自分が紡いだのかと疑ったが、こちらを見ないまま泣き続けているシズナがもう一度ごめんなさいと繰り返したのを聞いて思わず口を開いた。
「何を謝るんだ?」
どうしてシズナがと訝って眉根を寄せると、間違えるなんて、と噛み締めるような懺悔が届く。
「カギトさんはイギサさんじゃないのに……、どうして。知らないはずの子なのに、フウカとリクトに見えた。何度も違うって気づいたのに、分かってたのに、何も……できなくて……!」
「ちが、う、違う、シズナのせいじゃない!」
激しく慟哭するシズナを宥めようと手を伸ばすと、触らないでと身を捩って逃げられる。
「間違ったのに、戻れない……っ。子供たちの側にも、もういられ、な……」
激しく泣きじゃくるシズナの拒絶は、自分自身にこそ向いている。何もかもを忘れて安穏と、偽りを享受していた自分を責め続けている。
さっきから身体を起こされないのは、顔も見たくないほど憎まれているからではなく。イギサがそうしていたように、合わせる顔もないと自責の念に押し潰されそうだから?
カギトが薬を使い続けたのは、シズナのためもあったのだろうかとふと考える。
夜中に魘されて起きるシズナの憔悴しきった姿に、忘れてしまえばいいと何度も思った。彼女が幸せに生きられるなら、全部の罪と一緒に記憶を負うことも厭わない。辛いだけの記憶から解放できる術が、自分にもあったなら。例えば命を削ると分かっていても、絶対に手を出さないとは言い切れない。
それぐらい、嘆くシズナの姿は見ていて胸が抉られるほどに辛い。
「シズナが気にすることじゃない。代わりがないと誤魔化されないくらい、シズナにとって俺たちの存在は大きかったんだろう?」
「そんな……、代わりなんて!」
責めるようにようやく振り返ってきたシズナと目が合うと、抱えていた言い訳や不安の何もかもが一瞬にして遠く追いやられた。力任せに抱き締めてこの三年を言い表す言葉を探すけれど、会いたかった、と噛み締めるような言葉しか出てこない。咄嗟に抵抗するシズナを、離さないように閉じ込める。
泣いて力のない腕が、やめてとイギサを押し返そうともがく。聞けるはずもないそれに頭を振ると、
「お母さんを苛めちゃ駄目!」
「父さんはあっち行ってて!」
いきなり勢いよく扉が開かれたと思えば双子が間に割り込んできて、フウカはシズナを庇うようにして首筋に抱きつき、リクトはイギサを押し退けるべく体当たりしてくる。リクトが転ばないように支えながらもシズナが気になって窺うと、フウカに抱き締められて苦痛そうにしている姿に胸が痛む。
「は、なれて。お願い、……お母さんはもう、お母さんでいられないの……」
「「どうして!?」」
だってお母さんだよと身を乗り出させて声を揃える双子を、無理やり押さえつけるのは容易い。だがこの三年、シズナがいなくなったことに不安と怯えを感じつつも気丈に振舞ってきた二人を見てきたイギサには、止める言葉がなかった。
シズナは何か言いかけて何度か口を噤み、不安そうに見上げてくる二人の眼差しに負けたようにどうにか言葉を探す。
「間違った、から。二人を大事に思ってたはずなのに、でも、間違った……っ。もう、お母さんでいたら駄目なの」
ごめんなさいと俯いて涙を落とすシズナに、一瞬衝撃を受けた顔をした双子はけれどすぐにも反論する。
「じゃあ、フウカももう駄目なの? フウカももうお母さんの子供じゃないの?」
「僕らも間違ったよ、お母さんだと思って追いかけたら違って、迷子になった!」
「でもそのくらい会いたかったの、お母さんもフウカたちに会いたかったんだよね?」
「だから間違ったのに、どうして? 僕らももう、お母さんの子でいちゃ駄目なの?」
間違ったから? と目に一杯涙を溜めながら尋ねる双子に、そんなはずないとシズナが即座に否定する。それを聞いて二人とも泣きながら嬉しそうに笑い、ならお母さんも一緒と同時にシズナに飛びついた。
「会えないから間違うんだよ」
「一緒にいたら間違わないよ」
もうだいじょうぶと無邪気に笑う双子に戸惑うシズナを見て、イギサはいいんだってさと彼女の頭を抱き寄せた。
「子供たちがいいって言ってるのに、他の誰に許されずにいるんだ?」
「っ、けど、……でも!」
頑なに反論してきそうなシズナを見て、思わずふっと笑う。いきなり何事かとさすがに機嫌を損ねた色を浮かべたのを見て、ごめんと謝りながら額に唇を寄せる。
「あの鐘の下でも、そうしてぐるぐる言い訳を探してた。けど俺一人にだって負けてくれたのに、ちびが二人も加勢してくれるこの状況で勝てる気かい」
無理だよと笑うように告げるとぐっと言葉に詰まったシズナは逃げるように視線を落とし、その先に双子の眼差しを見つけて困惑している。
「もうどこかに行ったりしないよね?」
「もうずっと、一緒にいられるよね?」
どこかに行くなら一緒に行くと、決して離すまいとしてぎゅうと抱きつく二人の腕にほたほたと涙が落ちて濡らしていく。慌てて身体を起こした双子は何故か振り返ってきて、苛めちゃ駄目って言ったでしょう! と口を揃えて批難してくる。
「どうして俺だ。シズナが泣いてるのは、確実にお前らのせいだろう」
俺が占める割合が少なくないですかねと軽く拗ねたい気分で突き放すと、恐慌した双子が慌てて的外れに慰め出す。おかげで余計に涙を止められないシズナに、泣かないでと自分たちも泣きながら必死に涙を拭っている子供たちを見て、イギサはゆっくりと息を吐き出した。
ここは彼女が長く暮らし、彼らが家族としてずっと一緒にいた草匙の家ではないけれど。大事なのは場所ではなく、彼らがようやく揃ったということ。
「──お帰り」
やっと会えたと囁くほどの声で子供たちごとシズナを抱き締めると、か細い声が何度も何度も躊躇った末に、ただいまと小さく答えた。




