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24.邂逅

 結局結論は出なかったが、しばらく冠暁かんぎょうに留まると決めた。ヒズミたちが拠点にしていた場所の二階に逗留を許されたが、ふらりと足を向けた先で不意に遭遇する危険を思えばさすがに出て行く気にはなれなかった。


 立ち尽くすしかないイギサとは反対に、会いに行くと言って聞かなかったのは事情を知らない双子。宥めて賺してようやく泣き疲れて眠ったのは、深夜とも呼べる時間になったつい先ほどだ。ヒズミたちも暴れる子供の対応で気力と体力を奪われたらしく、ぐったりと横たわっているのを確認してイギサはそっと家を抜け出した。


 こんな時間になれば、きっとシズナは出歩いていないだろう。用事を済ませて子供を寝かしつけ、その隣で一緒に眠っている時分だ──イギサと一緒に暮らしていた頃の習慣が、今も変わっていないなら。


 爪が食い込みそうなほど強く拳を作り、奥歯を噛み締める。気を抜くと今にも叫びそうで、連れ戻しに向かいかねない。今いる場所を正確には知らないのに、目についた家の扉を手当たり次第に叩いて回りそうな自分がいる。


(シズナ……)


 心に呟いた名前は、ひたすらに痛く重く圧し掛かってくる。柔らかく刺激してきた甘い時間など今は遠く、記憶を辿るごとに苦しくなる。知らず胸を押さえ、目を伏せ、足が止まる。呼吸さえ儘ならない気がしてどうにか大きく息を吸い込んでいると、よおイギサといきなり声をかけられてはっと顔を上げた。


「遅かったな」


 先に飲んでるぞとでも続けそうな、今までと何ら変わらない様子でカギトがそこに立っている。

 勿論仕事終わりに飲みに行った先ではない、どこに続くとも分からない知らない町の道端で、見慣れた姿に左腕はない。けれどいつものように人を食った笑みを浮かべてそこに立つカギトは、イギサが知るそのままにも見えた。


「……カギト」

「もう少し早く来ると思ってたんだが、どうやら買い被りだったみてぇだな。のんびりしてたもんだ」


 俺には嬉しい誤算だがと肩を竦めたカギトに、詰め寄ろうにも足が動かない。馬鹿みたいに眺めるしかできずにいると、カギトが皮肉げに唇を曲げた。


「何だ、まさか知らずに訪ねて来たわけじゃねぇだろう?」

「お前、……が、シズナを……?」

「ははっ!」


 呆然とした呟きに、カギトは身体を折り曲げるようにして笑う。嘲笑するように目を細め、相変わらずだなぁと耳に障る尖った声で語尾を上げた。


「何を聞くにもシズナシズナ、お前の頭にはそれしかねぇのか」

「っ、お前がシズナを巻き込んだんだろうが!」


 かっとなって噛みつくと、カギトは目を眇めて唇の端を持ち上げた。


「何年前の話だ? わざわざ傷口も見せてやったのに気づきもしなかった奴が、他人に教えられて今更怒り心頭に発するってか。はっ! その場で気づけよ、あれがシズナかどうかくらい。俺が自分で腕を落としたくらい!」


 できもしなかった奴が偉そうにと顔を歪めたカギトに詰め寄り、胸倉を捕まえる。


「どうしてあんなことを!」

「さあなぁ。記憶が遠すぎて忘れた」


 あの時にこうしてりゃよかったのになぁとどこまでも皮肉を紡ぐ顔を殴りつけると、よろけて座り込んだカギトは空を仰いでげらげらと笑う。


「ざまあみろ、てめぇのそんな面が見たかったんだよ!」

「なら、どうしてシズナを巻き込む必要があった!」

「馬鹿か、お前は。お前を絶望させるのに、あいつは不可欠だろ? そもそも俺が欲しいのはシズナであって、お前の絶望は単なるついでだ」


 笑いながら説明したカギトはその深い緑に殺意さえ帯びて睨みつけてくると、どうしてお前にだけ手に入れる権利が与えられたんだと噛み締めるように吐き捨てた。


「お前がさっさと殺してればよかったんだ、そうするために派遣されたんだろうが! 俺は何度も警告した、溺れる前に殺っちまえって。お前や俺が馬鹿を仕出かす前に殺しておけば、あいつはこんな目に遭わずにすんだんだ!」

「っ、何を勝手な、」

「勝手なのはどっちだ! 巻き込んだ張本人が状況を忘れて浮かれた挙句、あいつが離れようとしてたのも気づかなかったろう? シズナにはお前と違って覚悟があった、お前に殺される覚悟だ。いつ殺してくれるのかって、ずっと待ってたんだ。そのくらい分かってただろうが!」


 知らないとは言わせないと、強い弾劾に言葉を失う。


 カギトに指摘されるまでもなく、気づかない振りをしていただけでシズナが望んでいたのは知っていた。ヒズミに促されたまま逃げると決めて、それでもずるずると引き延ばしていた理由。あんまり幸せで、側にいたいと願ってくれたのも確かだろう。けれど本当は逃げる前に、イギサが殺す日を待っていたのだ。

 永遠を誓ったあの日の約束を果たしてほしいと、ぎりぎりまでそこにいた──。


「これも言ったはずだな、お前にできねぇなら俺がやると。お前が放棄したから俺が引き継いだ、文句を言われる筋合いがどこにある?」

「見ず知らずの他人まで巻き込んで、よくそんなことが言えたなっ」

「はっ、そもそも俺たちが言えた義理か。戦場で何人殺してきた、見ず知らずの他人様を。国がため、終戦のためと重ねてきた罪に今更一つ二つ加えて何を恐れる。それでシズナが楽になるなら何人でも殺してやる、巻き込んでやる」


 お前にできなかったことをやってるだけだと薄ら笑うカギトに、ふざけるなと再び掴みかかる。


「命を縮めると知りながら、廃棄された試薬まで飲ませておいて……!」

「お前も最初から、そうしておけばよかったんだろ? 口伝を知ってようと知ってまいと関係ない、お偉方が恐れるのはあいつの記憶だけだ。それなら失わせちまえばいい、殺すより寿命を縮めるほうがよっぽどましだろうが」

「っ、シズナのためが如く言うな! お前はシズナが俺たちを思い出すのが怖いだけだ、手に入れた彼女を失いたくないお前の傲慢ってだけだ!」

「そうだな。だが、何が悪い?」


 シズナのためにもなったろうと語尾を上げられ、怯んだイギサの手から逃れたカギトは立ち上がってわざとらしく服を叩いた。


「お前がのこのこシズナの前に顔を出すようなら、俺は何度でもあの薬を使う。お前に許されるのは二つだけ。俺を殺すか、シズナを殺すか、だ」

「っ、カギト!」

「どっちもできねぇなら、すごすご帰れ。どうせ死んだと思ってたんだ、このまま死んだことにしとけば平和だろう?」


 今まで気づきもしなかったんだから簡単だろうと喉の奥で笑ったカギトに、目の前が赤く染まる。いっそ望まれるまま殺すべきかと血迷いそうになった時、軍紀に背いた者の処断は私の仕事だとヒズミの声が後ろから届いた。


「っ、隊長!」

「雲居カギト。自己の勝手による領主職の放棄、並びに軍にて開発された薬剤の横領は重罪である。及び一般人の拉致殺害は、軍法会議にかけるまでもなく処断の対象だ。大人しく縛につくか、ここで死ぬか。好きなほうを選べ」

「は。隊長までお出ましとはな」


 重罪人扱いかと楽しそうに肩を震わせたカギトは、一瞬の隙を衝いて踵を返す。制止しようとしたイギサより早くヒズミの持つ長剣が閃き、僅かに急所を外してカギトの胸を貫いた。崩れるように膝を突いたカギトを冷たく見下ろしたヒズミの声が、動けなかったイギサを打つ。


「このまま連行する、」


 捕らえろと続く命令が齎される前に、カギトさん! と悲鳴じみた声が後ろから懐かしく耳を打った。咄嗟にヒズミと同じくそちらに気を取られた瞬間、カギトは身体を貫いたままの剣を握り込んで自分の急所へと導いた。


「何を馬鹿な!」


 離せとヒズミが声を荒らげるが、剣を握ったままのカギトは自分を貫く凶器でどうにか身体を支え、駆け寄ってきたシズナを迎えて微笑んだ。


「悪ぃ……、約束は守れそうにねぇな……」

「な、にを弱気なことを言ってるんですか! すぐ病院に、」


 力尽きたように倒れ込むカギトの傍らに膝を突いたシズナに、血塗れた片方だけの手が伸びて頬に触れる。すぐにもずり落ちそうな手を支えるように重ねて泣きながら呼びかけられ、カギトはどこか満足そうに唇の端を持ち上げた。


「最後に見るのがお前なのは……悪くねぇ」

「馬鹿なことを言わないで!」


 最後なんかじゃないと必死に縋るシズナに、カギトは無茶言うなと柔らかく笑った。


「楽しかった……、この三年。馬鹿みてぇに。まぁ、……続くはずねぇよなぁ」

「続きます、これからだってずっと! 今、今すぐお医者さんを呼んできますから、」

「その間に一人で死ねってか」


 どうせなら最後までついてろよと引き止めるカギトに、最後なんてとシズナが泣きながら叱りつける。自分の死期も知らないような柔らかい空気でそれを受け止めたカギトは、ひゅう、と風が通るような音を立てて息を吸い込みながら仰向けに倒れ込み、皮肉げに口許を歪めた。


「ざまぁみろ……、お前にはできねぇ……、」

「カギトさん!」


 やめて死なないでと縋るシズナの声を聞きながら満足そうに目を閉じたカギトを見下ろして、イギサは苦い思いを噛み締める。


(ああ、そうだな。俺にはできない。してはならないこと、だ)


 シズナより先に死ぬなんて、イギサにはできない。泣いて縋って崩れ落ちる彼女なんて、だから決して見られない。何故ならイギサは、シズナを殺さなくてはいけないのだから。


(お前は、俺にできないことがしたかったのか? そのためだけに、こんな馬鹿を仕出かしたのか……っ)


 咎めるように責めるように問いを重ねたところで、答えるべき相手はもういない。シズナがどれだけ懇願したところで戻って来られない場所に、自ら望んでいってしまったのだから。


「カギトさんが、何をしたと言うんですか!」


 怒りに震えた声が耳を打ち、知らず落としていた視線を上げると射殺しそうな勢いでこちらを睨んでいるシズナを見つける。


「どうしてこの人を殺したの!」


 受けなくていいはずの糾弾に、口を開きかけたが上手く声にはならない。今にも詰め寄ってきかねない血に染まって赤いシズナを、軍律を破ったからだと淡々とした声が打ち据えた。

 カギトの身体を貫いた剣の血糊を拭いて鞘に収めたヒズミは、弾かれたように振り返ったシズナを真っ直ぐに見据える。感情の分かり難い一つきりの目に軽く怯んでいるのが分かって、胸の奥がじくりと痛む。


 それは、彼女のたった一人の身寄りである兄だ。そんな目で見るべき相手ではないと、喉の奥まで言葉が出る。けれど訴えていいはずの本人は妹の青褪めた顔さえ受け止めて、淡々と続ける。


「雲居カギトは、私と同じく夏穣かじょうに属する軍人だ」

「っ、でも三年前に腕をなくして、除隊されたはずです!」

「その腕をなくした原因が、軍律に反した故だと判明した」

「だ、としてもカギトさんにだって言い分はあったはずです、軍はそれを聞く義務があるでしょう!」

「罪のない民間人を殺し、子供を二人も浚ったとしても? お前は殺された女性の遺族に、殺人犯の事情を聞けというのか。子らを浚われた親に言うのか、事情があったから仕方がないと」


 それで納得されると思うのならば続けろと促すヒズミに、シズナは顔色ごと言葉を失う。声のないまま震えた唇がそんなと呟いたのも知りながら、ヒズミは言葉を止めない。


「逆に問おう、カギトはそれをしたのか? 女性や子供たちの言い分を聞き、精査して、それでも殺すなり浚うだけの理由があったか。疚しくないのなら包み隠さず、お前にも話しているはずだ。ならば私に聞かせてみろ。それで詫びるに足ると思えば私はこの場で胸を突き、カギトに直接謝する機会を設けよう」


 表情を変えないまま追い詰めるヒズミに、シズナの顔色はもはやないに等しい。いきなり詰め込まれた罪状と、自分が知るカギトとの整合が取れずに恐慌しているのが分かる。

 そのシズナに頓着せずまだ続けそうなヒズミを、イギサは知らず制止していた。ヒズミが反論しそうに口を開きかけたが、カギトさんは! とシズナの悲痛な声が先に届く。


「カギトさんはそんなこと、……そんなことをするような人では」


 立ち上がって食って掛かってきたシズナは、けれどヒズミを捕まえる途中で苦しそうに自分の胸を押さえてよろけた。


「シズナ!?」

「違う……カギトさんは……何かの間違い……、」

「分かった、もういい。話すな!」


 崩れ落ちそうな身体を支えたイギサが言い聞かせると、シズナは苦しげにしたまま緩く頭を振った。


「……カギトさんは……」


 しない、とどうにかそれだけを告げて気を失ったシズナを複雑な気分で見下ろすと、ヒズミが僅かに眉を顰めて呟いた。


「思った以上に、時間がないようだ」

「じ、かん……」


 何を言われたのか理解したくないまま聞き返すと、ヒズミはしばらく哀れむようにシズナを見て息を吐いた。


「カギトが死んで薬を使われる危険がないなら、それの記憶を戻すことはできる。──お前は戻すことを望むか?」

「もど、せ、るんですか!?」

「お前たちが望むなら」


 だが本当に望むか? と静かな声で重ねて問われ、イギサはヒズミを見て腕の中のシズナを見下ろす。ヒズミは立ち尽くしたまま、息を整えて重い口を開いた。


「今まで何度あの薬を使われたか分からんが、試薬の段階で使用を禁止されるほどの威力だ。この様子から見て、それに残された時間はもう長くないだろう。記憶を戻すことはできるが、どれだけ負担になるかも分からん」

「戻すことでシズナの時間が縮まると、」

「可能性の話だ。だが、戻さなかったところで遠からず尽きる。なまじ戻して話す機会を作ったとして、──お前や子供たちがこの先、耐えていけるか?」


 三年をかけてようやく乗り越えた傷を抉じ開けないか、と。ヒズミが気遣うのはただ自分たちのみだと知って、イギサははっと顔を上げた。残される側のことしか考えないほど、シズナの灯火は今にも消えかかっている。


 ヒズミはイギサと目を合わせた後、ふらりと倒れたままのカギトへと顔を向けた。


「どちらにせよ、浚われた子供たちは親元に返す。記憶を戻さないのなら、それは私が引き取ろう。全てを忘れてカギトを信じたまま死ぬのも、それにとっては悪い話ではあるまい。恨まれるのは、私一人でいい」


 元より償えぬほどの罪を負う身だと苦く笑ったヒズミに、イギサは奥歯を噛み締めながらシズナを見つめた。出せる答えなど、見つからない。


「しばらくはカギトの始末と、子供たちを返す準備に手を取られる。その間、お前が面倒を見ながら考えておけ」


 医師の手を借りない以上は目を覚ますこともないだろうと言い置き、ヒズミはチバを呼びに向かった。


 残されたイギサは泣きながら昏睡しているシズナを抱いたまま、頬に触れて涙を拭う。あまりに懐かしい感触に鼻の奥がつんとして、歯を食い縛りながら項垂れた。


 戦争に魔法を使った代償がこの残酷なのだとしたら、いっそあの時に国ごと滅びていればよかったのか。そうすればカギトもこんなことを仕出かさずにすんだ、シズナも記憶を操作されることも勝手に命を縮められることもなかった……?


 ──違う。あれを終えたからこそ、イギサはシズナに会えた。守るべき家族が増え、満ち足りた時間を確かに感じられたはずだ。


「俺は、どうしたら……っ」


 懐かしい温もりを齎すシズナを抱いたまま、しばらくその場を動けなかった。

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