2.朝
りんどぉん。
りんどぉん。
ゆったりと鳴り響いているのは、中央広場の真ん中に立つ時計塔の鐘の音。どこか古めかしく懐かしいその音は、草匙にあればどこにいても届く。日に二度、十二時にだけ鳴り響くそれは、このところずっとイギサの目覚まし代わりだ。
夢が再び確かな形として足を引く前に覚醒を促してくれたのは有難いが、あの鐘が鳴っているということは起床予定時間を大幅に超えている。軍にいた頃からは想像もつかないていたらくに、深い溜め息をつきながら身体を起こす。
「またやった……」
戦時中は当然ながら、戦後であっても首都・真寧の砦守を勤めている間は寝過ごすなど有り得なかった。それが草匙に来てからというもの、まともに起きられるほうが少ない。気が抜けているのかと反省するが、この草匙が持つ暢気な空気にも一因はあるだろう。
「良くも悪くも、平和すぎる……」
二月前まで彼がいた真寧は堅牢な要塞都市であり、未だ軍備が解かれていない。戦争が終結して幾らか空気は柔らかくなったとはいえ町から軍人の姿が消えることはなく、一定の緊張を保っていた。他の町にしても程度の差こそあれ似たようなものだというのに、ここの無防備さと来ればどうだろう。
外壁も碌な軍備もない、裸同然の弱々しさだというのに、誰も襲われる事態など想定していない。あのひどかった大戦は、この町にだけ何の被害も齎さなかったのか。
羨むように一つ息を吐き、身支度を整え始める。そろそろ昼を告げる鐘も鳴り止む、遅くなりすぎたけれどそろそろ一日を始めなくては。
(さすがに腹も減ったしな)
ほとんど自炊をしないイギサの家には、食料の買い置きなどない。朝食兼昼食を求めに扉を開けたところで、イギサだー! と甲高い声が届いて顔を巡らせた。
彼が借りている一軒家は、比較的町外れにある。なだらかな坂の上で、彼の家を訪れる以外に通りかかる人間は少ない。わざわざ足を向けてくる物好きはさほど多くないが、中でもあまり望まない客の到来を知って苦く笑う。
「イギサ、ひょっとして今起きたのー?」
「人間、お天道様と一緒に動かないと駄目になるんだからねー!」
きゃあきゃあと知ったような口を利いて取り囲んでくるのは、私塾の子供たち。この時間に外にいるということは、午前中は教室を出て畑仕事でも手伝ってきたのだろう。昼を済ませて教室に戻るところかと見当をつけ、子供たちが走ってきた方角に顔を向ける。
子供たちを率いるのは、この草匙で唯一の教師たる鶫シズナに決まっている。坂をゆっくりと上がってくる長い栗色の髪を見つけて、知らず口許が綻んだ。
「おはよう、シズナ」
「違うよ、もうこんにちは、だよー!」
「おそよう、だ。おそよう」
「全然早くないもんねー」
けらけらと笑いながらイギサをからかう子供たちに遠慮なく笑って同意するのは、シズナではなくその後ろから顔を見せた雲居カギト。相変わらずじゃりじゃりと煩く鎖のついた軍服姿を睨みつけ、お前まで何だと声を尖らせると、くっついて来たのはガキどものほうだと面白そうに語尾を上げられる。
「ここに来る途中で、こいつらと遭遇してな。お前のとこに行くって言ったら、ついてきたんだ」
「ごめんなさい、ご迷惑になるからって止めたんですけど」
申し訳なさそうにしたシズナは、わざわざ遊びに来てやったのだと言わんばかりの子供たちを諌めて帰りを促す。
「ほら、皆もう戻るよ。イギサさんはこれから、領主様とお話しされるんだから」
「やだ! イギサ、今日こそ剣教えて!」
シズナの制止を振り解いて太い木の枝を差し出しながら駆け寄ってくるのは、子供たちの中では比較的体格のいいヨシセ。イギサが元軍人だと知ってからずっと強請られ、そのたびに断わっているのに諦める気配がまったくない。
「何度も言ってるだろう、俺は人に教えられるような剣技は身につけてない。他を当たれ」
「他って誰だよ、ここで剣を使える奴なんて誰もいないじゃん!」
噛みついてくるヨシセの言葉も尤もで、外壁を持たずに暮らせるほど安穏とした場所で人を害する技術を身につける者はいない。イギサのように外から来た人間に限られているが、そういう意味ではこの場にももう一人いるとカギトを指した。
「いるじゃないか、そこに心優しい領主様が」
軍服からも分かるように、カギトは現役の軍人だ。俺に習うより確実だろうと唆すと、ヨシセが期待にぱっと顔を輝かせる。これで解決だなと大きく頷くが、待てとカギトが声を低めた。
「俺の得物は長剣じゃねぇ以前に、こうして出歩いてんのは昼になってもお前が来ねぇからだ! 退役してぷらぷらしてるお前と違って、こっちは暇じゃねぇんだよっ」
阿呆かと声を尖らせたカギトはきらきらした目で見上げるヨシセに頬を引き攣らせ、無理だからなと断っている。おかげで再びヨシセの目がイギサに向けられてくるが、もう何度も断わっているように彼の技術は誰かに教えられるようなものではない。
「俺のは人に教えられるような技術じゃない、諦めろ」
「やだ! 何で教えてくんないのさ、敵が攻めてきたらどうするんだよ!」
俺が草匙を守るのと振り回す枝先が他の子に当たらないよう捕まえると、周りの子供たちはヨシセに同調できない様子で不思議そうに顔を見合わせている。
「大丈夫だよね、魔法使いが守ってくれるから」
「そうだよ、魔法使いは強いんだから! みんな守ってくれるって、父さんが言ってた!」
小柄なカヤクと、お転婆なネリが、ねーと嬉しそうに顔を見合わせて主張する。兄弟でもない二人がまるで当然のように口にした魔法使いという言葉に、思わず眉根が寄る。
「魔法使い?」
そんなものを信じているのかとばかりにカギトが語尾を上げると、子供たちは一斉に呆れた目を向ける。
「領主様、知らないのー?」
「魔法使いはすごいんだよ、雨を降らせたり花を咲かせたりするの!」
「ホージョーキガン、もしてくれるんだよ!」
「この町を守ってくれてるんだよ、ねぇ、先生!」
無邪気に振り仰いで同意を求めるカヤクに、シズナは穏やかな笑みを湛えたままそうだねと頷く。
「魔法使いも軍人さんも、ちゃんとこの町を守ってくれるから。皆は心置きなく、お勉強しようね」
午後の授業を忘れてるでしょうと軽く目を眇めたシズナに、子供たちはあっと口を押さえる。忘れてた、どうする、怒られると分かりやすく狼狽した子供たちは、イギサに剣の指導を強請ったのも魔法使いの話も忘れてぱっと駆け出し、坂を下っていく。
「ここから教室まで競争ー!」
「先生、早く早くー!」
自分たちが寄り道したのを棚上げしてシズナを急かし、あっと言う間に見えなくなった子供たちを見送ってカギトが緩く頭を振った。
「あいつら、シズナがいねぇと授業になんねぇって分かってねぇだろ」
「それより途中でシズナがいないのに気づいて、大騒ぎしそうだな」
「そうなると大変なので、そろそろ私も戻りますね。お邪魔して申し訳ありませんでした」
相変わらず丁寧に頭を下げるシズナに、堅苦しいなとカギトも苦笑する。
「俺たちがここに来てもう二月も経つんだ、そろそろ慣れろや」
「そう仰られても、領主様を相手に」
無茶を言うと困ったように眉を下げるシズナに、そんな大層なものじゃないとイギサが肩を竦める。
「草匙は国境からかけ離れてる、言ったら悪いが随分な辺境だ。そこの領主に封じられた時点で、軍では役立たずだって言われてるようなもんだ。要は俺と同じ、この町ではただの新参者。畏まる必要なんてないよ」
気にするなと軽く手を振ると、黙って聞いてりゃこの野郎とカギトが蹴飛ばしてくる。
「俺より役立たず認定されて、軍から放り出されたのはどこのどいつだ」
「違うね、俺は自分で辞めたんだ。見切りもつけられないお前と一緒にするな」
「結局無職で、ぷらぷらしてるだけの奴が偉そうにっ」
「お前なんか領主職もこなさずにぷらぷらしてるだろう、どっちのほうが性質悪いんだ」
「好きで出歩いてねぇよ、お前が来ねぇからわざわざ来てやってんだろがっ」
同隊にいた頃と変わらず殴り合いを始めそうな勢いで言い合っていると、堪えきれないとばかりに笑うシズナの声にはっと我に返る。ごめんなさいと震えた声で謝るシズナは楽しそうで、何だかほっとする笑顔がくすぐったい。
「……見ろ、カギトが馬鹿なせいで笑われた」
「あ? どう見てもお前のせいだろ」
見えないように片足で蹴り合う間もくすくすと笑っていたシズナは、子供たちが待ってるのでこれで、と少し柔らかくなった態度で一礼する。このままでは行ってしまうと思うと離れ難くて、送って行こうかと提案すると後ろから頭を殴られた。
「俺が何のために、ここにいると思ってんだ!」
「送って戻ってくるのにそんなにかかるか、そこで待ってろ」
今出てきたばかりの扉を指して偉そうに言いつけると、カギトが盛大に溜め息をつく。
「ああ、もういい、お前に何言っても無駄だって思い出した」
「失礼な諦めだな」
「喧しい。シズナ、鬱陶しかったら断わっていいんだぞ」
というか断わってやれ目の前でと唆すカギトにくすりと笑ったシズナは、せっかくなのでお願いしますと笑いかけてくれる。喜んで! と我ながら弾んだ声で答える背中に呆れたような視線が突き刺さったが、気づかない顔をして歩き出した。




