19.もう一目
シズナを亡くして、三年が過ぎた。初めて訪れてきた時と変わらず、草匙は外壁を持たないままのんびりと穏やかな空気を湛えている。複雑な心境ではあるが、シズナの故郷が魔法使いに相応しく平和であるのは喜ぶべきなのだろうか。
(もう術式の刻まれた指輪もない……、魔法使いも絶えたけどな)
もし指輪が残っていれば子供たちの慰めになったのだろうかとぼんやりと考え、振り払うように頭を振る。
恩人がシズナから指輪を譲り受けたのは、力を与えられる時にイギサが見てしまったからだと最初は思っていた。けれどよく考えればその状況を知っていたとは思えず、ならば術式を見せて魔法使いの証明をするためかとも思ったが、恩人と判じられたのは長く状態を保った上でいきなり灰燼に帰したからだ。
シズナに聞くまで知らなかったが口伝を継いでいた恩人は自らにそんな術を施せなかったはずで、あれはどうしたのだろうと考えて一つの仮説に辿り着く。
指輪の石に刻まれていたあの術式、それが彼を魔法使いらしく葬ったのではないか。人に与えられて発揮される力だと勝手に思っていたが、物に付与しても作動するのだとしたら子供たちの手にないほうがいい。
皮肉なことに、シズナの死が早すぎたせいで双子の疑惑はかなり薄れた。複雑な文様の全てを継ぐには幼すぎる、との判断だろう。シズナにしても本当はそのくらいで継いだはずだが、知るのはイギサだけ。受け継いでいないと誰もが納得できるなら、シズナの死も少しは報われるのか。
(報われる?)
そんなはずがない。子供たちの成長を何より楽しみにしていたのに、ようやく自然に笑ってくれるようになっていたのに。魘されて飛び起きても子供たちの寝顔に安堵して再び眠れるようになったのに、それら全部を無惨に奪われて。何をして報われたと言えるのか。
知らず拳を作ったまま歩き、ふと顔を上げると通い慣れた場所に自然と足が向いていたことに気づく。
町の中央に位置する時計塔、その鐘の音がよく聞こえるから好きだと言って、シズナはよく鶫が代々受け継いできた薬草畑を訪れた。小高い丘一面に薬草が揺れ、町の半分ほどが一望できる。きっとかつての魔法使いたちは、ここから町を見守っていたのだろう。だから自分もそうするのだと冗談めいて笑った、シズナを思い出したい時はイギサもよく訪れるようになった。
(どれだけ眺めたって、君はもういないけど……)
大事な一人が欠けてしまったのに、草匙は初めて訪れてきた時とさほど変わらない姿を保っている。強いて言えば時計塔は現在改装中につき鐘の音が届かないくらいで、彼女が勤めていた私塾も誰だったかが後を継いで上手に穴を埋めて日常を過ごしている。
さすがにシズナが襲われた直後は、町を出る者も何組かはいた。警護体制が悪いだの無用心に過ぎるだの、今までイギサがどれだけ掛け合っても聞き流していた人たちまでが声高に騒いでいた。けれど結局犠牲になったのはシズナとカギトだけ、後に被害が出ないまま時が流れると皆一時の熱を忘れてまた平穏な暮らしに戻っていった。
あれを確かな痛みとして刻まれたのはイギサとその家族だけだが、他に被害がない理由に見当がつくのも自分だけなら他の住人を責める謂れはない。でも双子がシズナほどの危険に晒されずにすむのは有難いが、いつまた掌を返されるか分からない。そんな一時の安全と引き換えにするには、支払わされた代償はあまりに大きすぎた。
(シズナ……っ)
双子の世話を一人でするのは案外大変で、犯人探しや原因を追究するほどの時間もなく今に至ってしまったけれど。ようやく双子も少し手が離れ、考える時間が増えるといつでもシズナのことばかり考えてしまう。
どうしてあの日、彼女を一人にしてしまったのか。一人にして、どうしてあんな惨劇が簡単に起こってしまったのか……。
草匙にも一応、東端に出入りを管理する関所はある。正規に出入りをするならそこを通るが、外壁がないせいで林を抜ければ出入りは自由だ。ただ住人が全員知り合いのような状態で、外からの客も少ないこでは訪れてくる商隊の人数も顔もやはり全員が把握している。余所者が入り込めばすぐに分かる、接触を避けて隠れたところでとさほど広くないこの町では誰かの目には留まるだろう。
(不審者を見たなんて噂は一切なかった、あの近辺で新しく町に入って来た者もなかった。正規の出入りはカギトが把握していて、何の報告もなかった)
それならシズナを襲った犯人はどこから現れ、どこに消えたのか。
(そもそもあの遺体の状態は、一人でやれるものか?)
カギトは一人だったと言った。目の前で斬られたと。それが可能なのかどうかと考えた時、あれに似た状態の遺体をイギサは他にもどこかで見ているような気がした。
あの時はシズナの喪失と後悔で碌に頭も働かず、見ていたはずなのに見ていなかったけれど。見つけた全員が吐くほどひどい状態、この長閑な町で起きた事件としては酸鼻だったが以前のイギサには見覚えのある光景。
(……戦場、)
そうだ。階級の高い犠牲者が出た時、敵に悟られないようにと即座に顔を潰して階級章を剥ぎ取った。素早く的確にそれをする方法を、少なくともイギサと同じく戦場に出ていた者は知っているはずだ。
では、カギトの後ろを取って腕を落とせるほどの実力者は? 腕のみならず膝までも壊し、的確に動きを封じた。死遣の内でも、カギトの隙を衝けるような人間は限られている。複数でなく個人に限定するならイギサか、ヒズミか。その程度だ。
そもそもヒズミはあの時、どうして草匙にいたのだろう?
遺体が引き取られる直前にも覚えた疑問が、今更ながら頭を擡げてくる。連絡を受けてから駆けつけたにしては早すぎる、その前から草匙に来ていたのではないか。
ヒズミが草匙に入ったところで、カギトはわざわざ知らせてこないだろう。何のために訪れてきたのかと首を捻ったところで、相手は隊長だ。解散したからといって、死遣にとって隊長の絶対は変わらない。いないはずの姿を見たからと言って、報告すべき不審とは考えなくても不思議ない。
(まさか、そんなはずがない)
辿り着いた可能性は受け入れ難く、振るい落とすように強く頭を振った。
(違う。隊長にシズナを殺す理由なんてない)
理由があったなら、イギサがとっくにそうしていた。結婚を報告した時も、子供ができたと伝えた時も、ヒズミはいっそ喜んでくれたように見えた。幸せそうだなと呟くような言葉は、揶揄したのではなく本気で祝福してくれていた。
(隊長のはずがない)
ならば、誰か。イギサやカギトの目を掻い潜ってシズナを殺し、ヒズミが指揮を取った追尾の手を逃れ遂せた犯人は。シズナがいないこの三年、崩れそうになるのを必死に立て直して生きていたイギサを知らず、今ものうのうと暮らしているだろう相手は……。
息が詰まるような気分で拳を作っていると、ひょっとしてイギサさんかいと唐突に声をかけられて視線を動かした。ゆっくりした動作で丘を登ってきた男には見覚えがあり、記憶を辿りながら無礼にならないように一礼する。
「やあ、やっぱりそうだ。久し振りだねぇ」
和やかに笑って近寄ってくる相手を思い出すのに時間がかかったのは、三年前に町を出て最近では見なくなった顔だったから。シズナが勤めていた私塾の生徒、ヨシセの父親だ。
ご無沙汰していますと改めて頭を下げ、マカキの名前をどうにか記憶から掘り起こす。こちらこそと頭を下げて、懐かしいと目を細めているのを無感動に眺める。
「こちらには、いつ」
「ああ、今日の朝です。冠暁で先生にお会いして、懐かしくなってねぇ」
ヨシセに土産を買って行ってやろうかと、と袋を持ち上げて見せたマカキに、そうですかと興味のないまま頷く。目的を果たしたならさっさと帰ればいいと考えてしまうのは、シズナが死んで真っ先に出て行ったことを今でもどこか恨めしく思っているからか。
(こんなことじゃ、君に怒られるな)
死神と呼ばれるようになって他人と一層距離を置くようにしていたイギサに、シズナは何度か指を突きつけてきた。あなたの良さを知ろうとしない人はともかく自分から離れるのは言語道断ですと、イギサのために怒ってくれたのを思い出して目を伏せる。
「冠暁からだと、ここは少し遠いでしょう」
つまらない世間話もするべきかと話を振ると、マカキは一日かかりましたねと笑う。
「でもやっぱりここは、いいところですね。外では女性や子供が行方不明になったまま戻ってこないなんて話も聞きますけど、ここはそんな怖い話とは縁がなさそうで」
羨ましいと心底から首を振るマカキに、のんびりしたところですからねと気のないまま続ける。
シズナたちが襲われた以外に、目立った事件も事故もない。そこを捨てていったくせにと皮肉が口をつきそうになるのを何とか堪えていると、そういえばとマカキが話を続ける。
「あの三年前の事件、あれ、先生が殺されたんじゃなかったんですねぇ」
何方か判明しましたかと尋ねられ、イギサは何度か瞬きを繰り返した。
彼が何を言っているのか、最初はまったく理解が及ばなかった。マカキが先生と呼ぶのは、ここにいる間は一人だった。町で唯一の私塾に勤める、教師。大体の人間が、シズナを先生と呼んで慕っていた。今マカキは、何と言った?
先生ではなかった。シズナではなかった。殺されたのが? シズナではなかった?
「何、を、」
「あれ、でもイギサさんはまだこちらにいらっしゃるんですか。それとも草匙に何か用事があって?」
首を傾げたマカキは、父さーん! と呼びかけながら走ってくる双子を見つけて、何故かぎょっとした。ぎこちない動きでそれじゃあ私はこれでと踵を返しかける肩を捕まえ、何の話ですかと声を荒らげる。
「先生に会ったって、冠暁で? シズナに会ったんですか!?」
「い、やあの、見間違い。見間違いですよ、きっと」
「なら、どうしてシズナが殺されたんじゃないなんて言い出したんです!?」
会ったんですかと両肩を捕まえて詰め寄ると、マカキはいやだからそのと激しく視線を泳がせる。様子が違うと慌てて足を速めている双子に何度も目をやって言い淀んでいるのに気づき、イギサはマカキを捕まえたまま双子を見据えた。
「父さん、どうかした?」
「あれ、ヨシセ兄ちゃんのお父さん?」
こんにちはと頭を下げる双子に、マカキは曖昧に笑って返している。イギサは横目でそれを確かめて、何でもないから畑に向かえと双子に言いつけた。
「薬草を取りに来たんだろう」
「えーっと、それはそうなんだけど」
「でもお客さんなら、家に呼んだら」
ちらちらとマカキを気にしつつ話す双子に、早く行けと眉を顰める。邪魔をしてはいけない空気を察するのだろう、はぁいと答えると渋々もう少し先にある薬草畑へと向かう二人に声が届かなくなったのを見てマカキに向き直ると、困りきった顔をされた。
「すみません、先生の側にも二人のお子さんを見かけたので、てっきりあの二人だと」
「本当にシズナを!?」
「いや、見間違いかもしれません。ただよく似た人で、ああ、ご無事だったんだなぁと」
安心したかっただけかもしれないのでと気まずげに話すマカキの言葉は、もう頭に入らない。
シズナ。生きているかもしれない。冠暁にいる。本当にシズナが?
あの遺体は、確かに顔も体格も分からなかった。直後は頭が理解を拒絶していたし、少しばかり落ち着いた頃には確認する術がなかった。あれが別人であった可能性は、ある。
「シズナ……、シズナが生きて……」
「あ、あの、本当に! ちらっと見ただけだから、見間違いかも、」
変な期待をさせてはいけないと青褪めたマカキが慌てて止めてくるが、ここにきて与えられた情報は僅かな光にも似てようやくイギサを照らす。別人の可能性は高いと分かっていても、縋らずにはいられないほど。
せめて、一目だけでも。もう一度シズナに会いたい、それだけが心に満ちて支える唯一。




