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16.不穏の誘い

 結婚した当初はシズナが母と暮らしていた家に住んでいたが、子供ができたのを契機に以前イギサが借りていた家へと引っ越した。あまりに荷物がなく殺風景だったそこは、今や空いた空間を探すのが難しいほど色んな物が詰め込まれている。そうして荷物が増えるたび、ここに住んでる気がするとくすぐったそうに笑ったイギサが忘れられない。


 今もまだ、ひどい悪夢に魘されることがある。けれどゆっくりとその回数も減ってきて、忘れることはできずともゆっくりと遠い記憶へと変わっていくのだと信じたくなる。


(もう少し……、少し、だけ)


 噛み締めるように呟いて、買って来たばかりの大きな荷物を抱え直す。俯きがちに足元を眺め、一歩一歩、確かめるようにして歩く。


「シズナ?」


 何か落としたのかといきなり後ろから声をかけられて慌てて振り返ると、不審そうにしたカギトを見つける。イギサよりもがっしりとした軍人らしい体つきと厳しい顔つきは最初こそ子供たちに脅えられたが、今は気さくな領主として広く受け入れられている。イギサにとって家族にも等しい存在だと知っているなら、シズナにも近しく感じる相手だ。


「こんにちは、領主様」

「はっ、何を他人行儀な。カギトでいいって言ってんだろ」


 今は他に人目もないだろと肩を竦められ、言い直しを待つような間を置かれるのでくすりと笑って言い直す。


「こんにちは、カギトさん」

「おう。で、何か落としたのか」

「いえ、そういうわけでは」


 立ち止まった足元へと再び視線を落としながら、曖昧に頭を振る。聞かれても説明できるような心持ではない、触れてほしくなくて沈黙すると察したらしいカギトが話を変える。


「珍しく馬鹿は一緒じゃないのか」

「反応しかねます、その表現」


 カギトがイギサをそう呼ぶのはいつもの話だが、シズナは困って眉を寄せる。通じてりゃ一緒だろと笑うように語尾を上げられ、反論できずにふらりと視線を逸らす。


「あいつがお前の側を離れるのも珍しいな」

「そうでもないですよ。最近は、子供たちの面倒を見るのが手一杯で」


 五年前、生まれたのは女の子と男の子の双子だった。家族が増えたのは喜ばしいが二人の面倒を見ながら買い物をするのは大変で、出かける時はイギサが見てくれるのが常になっている。あいつが子守りねぇと複雑そうに呟いたカギトに、いいお父さんですよと笑うと信じ難いとばかりに顔を顰められるのを見てふと目を細める。


 子供ができてようやく、イギサはシズナから少し離れられるようになった。彼女にかまけているより双子の世話を焼くほうが大変だからだろうが、いい兆候だと思っている。シズナだけでなく別の存在に目を向けてくれるのは、何よりイギサのためだろう。


 今ならシズナがいなくなっても、蹲って動けないままではいないはず──。


「……お前にも、危機感ってもんが足りねぇなぁ」


 唐突に低い声が耳を打ち、ふと我に返って向かいに立つカギトに顔を向ける。

 イギサがいねぇなら自分で警戒しろと咎めるように諭してくるカギトは不快げな顔をしているが、手を伸ばしてシズナから荷物を取って歩き出した。何度か瞬きし、ありがとうございますと礼を言うとますます顰めっ面をされる。


「イギサや俺がここに何しに来たか、知らねぇわけじゃねぇんだろう」


 なるべく口を動かさずに小声で尋ねられ、シズナは前方に視線を据えながら知っていますと頷く。そのまま言葉を繋がないことに苛立ったのか、カギトは小さく舌打ちをした。


「あれも大概だと思うが、似たり寄ったりだな。自分を殺しに来た相手の横にいて、怖くねぇのか」


 この場合、指しているのはカギトのことだろう。標的と結婚して子供まで儲けるイギサこそおかしいと言われるべきで、普通は馴れ合っている現状に苛立ちを覚えて当然だ。


「すみません」

「誰が謝れって?」

「死にたくないですし、消えたくもないですから。カギトさんにはご不快だろうなと」


 思いましたと続けると、カギトは大仰に溜め息をついた。こうもあからさまに嫌われていると、いっそ清々しい。

 カギトはがりがりと頭をかいて立ち止まると、振り返ってきて軽く目を眇めた。


「死にたくねぇなら、逃げりゃどうだ」

「逃げるって、」


 突き刺さるような言葉に、知らず足が止まる。


 逃げろと言われて、逃げる先に心当たりなどない。草匙そうしを出ればいいのか、夏穣かじょうさえ出て行けばいいのか。何もかも置いて、捨てて。逃げた先に何も見出せないのに、それをしろと言う。


 荷物を預けて空になった手で自分の胸を押さえ、シズナはどこか泣き出しそうに笑った。


「どこにも、行き場なんてないでしょう」


 噛み締めるようにそう答えると、カギトはどこでもあるだろうと事も無げに言う。


「恩人殿と同じく、お前も術式を施せるんだろう?」


 魔法を使えばいいとまるで唆すような言葉に、ゆっくりとカギトに顔を向ける。


 常に人を食ったような笑みを浮かべている印象だが今は怖いほど真面目な顔つきで、深い緑の瞳にはからかう色もない。検分するような強さで見据えてくるカギトから目を逸らさずに瞬きを繰り返すと、イギサに聞いたと聞き取り辛いほどの小声で言い添えられる。


「お前も、魔法を、与えられると」


 どこか期待したように熱を帯びた声を聞き、シズナはふと口許を緩めた。そのまま肩を揺らして小さく笑い、不審げに顔を顰めたカギトに首を振った。


「嘘をつく時は、もっと上手につかないと駄目ですよ」

「シズナ。ふざけてる場合じゃねぇ、使えるならそれを踏まえて逃がす手段も考えられるんだ」


 真面目に答えろと声を尖らせられるが、帰るべき家のある前方に顔を戻して目を細める。


「いつか、子供たちが言ってませんでしたか。ここで言う魔法は花を咲かせたり雨を降らせたり、そんな優しい物ですよ」

「世迷言だ。使えない者は畏怖するしかない、圧倒的な力。魔法の本質はそれだろう」


 あれを使えばお前たちも楽になれるはずだと強く言われるが、視線を戻す気にもなれずにもう一度首を振った。


「私には使えません。夏穣が伯父に求めたような力を与えることも、できません」

「シズナ、」


 聞き分けのない子供に言い聞かせるように、宥めるように呼びかけてくるカギトにそっと息を吐く。


 ああ、そうだ。自分はきっと一生でもこの呪縛から逃れることはできないのだと、確信を持って諦める。


「言葉だけで信用されるとは思っていません。できない証明は難しいけれど、──家族を、巻き込みたくないとは思っています」


 もう、手遅れかもしれないけれど。そもそもを質すならばイギサを受け入れた、あの時点から間違っているのだとしても。今彼女を充たす幸せを与えてくれた彼らを巻き込まないこと、それがシズナにとって何より果たさねばならない重大な使命だと、突きつけられた現実を痛く刻む。


「カギトさんが、イギサさんを心配されるのは分かります。せっかく忠告してくださってるのに、聞けなくて申し訳ありません」


 ゆっくりと頭を下げて謝罪すると、大仰に溜め息をついたカギトは乱暴に自分の頭をかきながらやめろと手を揺らした。


「二人揃って強情な、とは思うが。決めてんならそれでいい」


 俺こそ野暮を言ったなと渋い顔をしての謝罪に、いいえと僅かに口許を緩めた。


「イギサさんには心配してくれる家族がいて、羨ましいです」

「っ、それはひょっとして俺のことじゃねぇだろうな」


 冗談じゃねぇぞと身体を震わせるカギトに、イギサも以前同じような反応をしたと思い出して知らず声にして笑う。調子が狂うと首の後ろをかいて嫌そうにしたカギトは、坂を上りきりそうな位置まで来ているのを確認して持っていた荷物を返してきた。


「家まで送ると、顔を合わせる羽目になるからな。悪いがここまでだ」

「今は子供たちと一緒に出かけてますけど……、ありがとうございました」


 受け取った荷物を抱えながら笑顔を向けると、カギトは複雑そうな顔で何か言いたげに見下ろしてきたが実際には口を開かずふいと視線を逸らした。


「気をつけて帰れ」

「カギトさんも」

「は。……じゃあな」


 適当に手を揺らして背を向けたカギトを見送り、荷物を抱え直したシズナはすぐそこに見えてきた我が家に向けて足を踏み出す。


 今日は彼女が買い物に出るより早く、何だか楽しそうに三人で出かけていった。帰った気配はまだなく、帰ってくるまでにお菓子でもを焼いておこうかと考える。甘い香りと一緒に出迎えれば、飛び切りの笑顔で駆け込んでくるだろう。


 けれど胸が痛くなるような幸せな想像に目を伏せたシズナが、その予定通りに三人を出迎えることは二度となかった。

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