15.愚を重ねた報告
慣れない領主業も、さすがに二年もやれば要領が得られるようになる。草匙に来てしばらくはほとんど休みのない日々を送っていたが、今では月に何度かの休みは自分の調べ物に費やせる。偶にふらりと草匙を出ることもあるが、普段は執務室に篭って仕事をこなしている。補佐官は決まった時間にしか訪れてこない、慣れてしまえば比較的自由に過ごせるいい環境だ。
しかしまたぞろ外壁の要求を退ける以上の災難が、こっちの都合も考えずに突如として降ってくることもある。
「カギトカギトカギトちょっと聞いてよ仕事してる場合じゃないってカギト!」
自分の立場を弁えて音もなく入ってくるのはいいが、防音設備の整った執務室に入るなり遠慮なく喚き散らすのはチバしかいない。一瞥もせず帰れと冷たく言いつけるのに、聞いた様子もないチバは机に手を突いて身を乗り出させてきた。
「聞きなさいよ何なのあれ何が起きたのまさか天変地異の前触れっ!?」
息を継ぐのも忘れて大騒ぎしているチバに、手元にあった見るからに重々しい文鎮を投げつける。顔面を直撃する前に、怖いわね何すんのよと避けられるのが腹立たしい。
「見ての通り仕事中だ、帰れ」
「だから、してる場合じゃないでしょ! あれ、灰髪、イギサ! ていうかイギサなの、ひょっとして別人じゃないの?」
気持ち悪いーっと本気で身体を震わせているチバに、何を今更と鼻で笑う。
「そんな悲鳴、俺はとっくの昔に上げて慣れた」
「な、慣れたんだ……?」
「慣れるしかねぇだろが! 未だにちょいちょい顔出しやがんだ、あいつは!」
「いや、まぁ、報告は必須だしねぇ。あんな馬鹿を仕出かしたら尚更、来なかったらあんたが行けって話だし」
しかしあれに慣らされるって同情するわと、どこまでも本気らしく言うチバがまた癇に障る。
連絡役として年に何度かは訪れていたが、苦手意識のあるイギサのほうが避けていたせいで羨ましいことに今日まで直接見る機会がなかったのだろう。いきなりあれと対面させられたことを思えばこの恐慌も仕方がないと思えるほど、最近のイギサはひどい。
「あーもーとりあえず気持ち悪い、未だに鳥肌が立ったままってどれだけよ! ないわ、あれに慣れるとかないわー。寧ろもう恐怖しかなかったわよ。問答無用で処分しても許されるくらい、ひどい有様だと思うの!」
わざとらしく腕を擦り合わせて騒ぐチバにうんざりして、帰れと三度言いつける。
「やだっ。だってこんなの真寧で話したって絶対誰も信じてくれないわよ、分かってくれるのあんただけじゃーん!」
「何とか視界に入れねぇよう努力してんのに、わざわざ突きつけに来るな。迷惑だ」
「だよね、あれは直視に耐え難いよね! 第一声があれよ、ああチバか、だって。すんごい柔らかい声で! 甘ったるい笑顔で、ああチバかって気色悪いわーっ!」
いっそ罵倒されたほうがまだましよーっと顔を覆ったチバに煩く耳を塞ぎながら、思い出したくないイギサの姿を浮かべて渋面を作る。
二年ほど前に猛反対を押し切ってシズナと結婚してからというもの、イギサは人が変わったように穏やかになった。字面だけならば美談ですむのかもしれないが、今までの彼を知っている人間にとってはひどい打撃になる変わりようだ。
死神として広く知れ渡る前から、イギサは好んで一人でいた。声をかけられれば拒絶はしない、たまに酒を酌み交わすような時は馬鹿げた話をして笑ってもいたが、常に一歩引いて観察しているような印象があった。
人に合わせて楽しそうな素振りはするし、深く知らない相手なら上手に騙せていたようだが、さすがに生死を共にしてきた死遣の面々はイギサが基本的に無愛想で他人に興味がないと知っている。特にチバはその馴れ馴れしさを疎まれて距離を置かれていた、笑顔で名前を呼ばれるなんて有り得ない事態だろう。
「何かすっごい怒ってるのかと思って、嫌がらせされてんじゃないかってこっちは警戒しながら話すのに、終始にっこにこ。挙句爽やかに手なんか振ってたわよ、罠なの、これは何かの罠なのーっ!」
「罠も何も、単にシズナが側にいただけだろ」
「側ってほどじゃないわよ。子供たちに捕まってるのを遠く眺めて暇そうだから、今ならいいかと思って声かけたのよ!?」
「その程度なら、あいつの中では側の内だ。家で留守番させられてる時に会いに行ってみろ、戦場でのイギサが見られるぞ」
俺は二度と行かんと固く誓いつつ勧めると、チバは血の気の引いた顔でよろめいた。
「あ、間は。間はないの、ここに来た頃くらいのイギサでいいわよ、この際!」
「シズナに会う前まで時間を戻せ、好きなだけ会える」
「そんなの魔法を使っても無理よーっ!」
そんな極端に怖い二択ってどういう了見なのと顔を覆ってさめざめと泣くチバに、知るかと鼻を鳴らす。切実に尋ねたいのは、草匙を離れられないこっちのほうだ。
「でもこの場合、イギサの変貌を恐れるより魔女を恐れるべきかしら?」
「それはシズナのことか」
「他に誰がいるのよ。あの魔女がイギサに殺されたくなくて、惚れるように魔法でも使ったんじゃないの?」
でなきゃあの変わりようはないわ、と真剣な顔をして検討を始めるチバに目を眇める。確かに彼も一度は大分本気で疑った、気持ちは分からないではないのだが。
「そんな発言は、とりあえず俺の前ではするな」
「あら、なぁに。ひょっとしてあんたも魔法をかけられた口? やぁだ、あの魔女こわ、」
怖いーとふざけて語尾を伸ばす暇もなく、チバは即座にその場を飛び退いた。避けきれなかったのか頬から血を垂らしたチバは、仕留め損ねたと舌打ちしているイギサに震える指先を向けている。
「い、いきなり気配もなく入ってきて、本気で首を斬ろうとするってどういう了見よ!」
「誰が魔女だ」
もう一度言ってみろと、イギサはチバの抗議など聞いた様子もなく据わった目で剣先を向けている。
「イギサ、殺るなら外でやれ」
「ちょっと、助けなさいよカギト!」
「お前が好きで逆鱗に触れたんだろう、俺を巻き込むな」
何度も言うが仕事中だから出て行けと投げ遣りに言いつけると、殺すまで待てとイギサが答える。
「やめて、何でいきなり殺されなくちゃなんないのよ、あたしが何したって言うの!」
勝手に人の鎖を取り上げたチバは防御の姿勢を取っているが、カギトほどにも使いこなせないそれで本気の殺意を漲らせたイギサを凌げるとは思えない。さっさと謝ってしまえばいいのだが何が悪かったのか理解しておらず、それが余計にイギサを苛立たせている。
助ける義理はないが部屋を破壊されては堪らないと、カギトは渋々挟みたくない口を挟んだ。
「お前がシズナを魔女なんて言ったからだ。あいつに魔法は使えねぇって、隊長にも報告されてんだろうが」
「っ、そんなことで!?」
「そんなこと?」
繰り返して眉を跳ね上げたイギサは、部屋の中だというのに躊躇なく剣を振るってチバを壁まで追い詰めている。本気の悲鳴を上げながらも鎖を使って剣先を逸らせている辺り、腐っても元死遣と言うべきか。しかしこのままでは手加減する気のないイギサに殺されると悟るのだろう、ごめんなさいあたしが悪かったですもう二度と言いません! と鎖ごと左腕の刺青に触れながら誓うチバに、ようやくイギサが止まる。
冷や汗をかきながら壁伝いに蹲ったチバは、かちかちと歯が鳴るほど震えている。そのチバには見向きもせず剣を収めているイギサに、何しに来たんだと気乗りしないままも水を向けるとぱっと顔を輝かせるのを見て激しく後悔する。
いつもはいない道連れが部屋にいるのを喜ぶべきか、個人が受ける衝撃に変わりがないことを嘆くべきか。断然後者だとイギサの目を見て悟るが、耳を塞ぐわけにもいかない。
「そうなんだ、いい報告が!」
「お前にとっての朗報が、本当にいい物だった例がねぇ」
「子供ができたんだ!」
いい話だろうとさっきまでの殺意などどこ吹く風、満面の笑みでされた報告にカギトは思わず持っていた羽ペンを圧し折っていた。
「っ、子供ーっ!?」
素っ頓狂な声で反応したチバは無視して、イギサはどうするきっと可愛いぞと今から親馬鹿を発揮してでれでれしている。カギトは二つに折った羽ペンをもう二三度折りそうな勢いで力を込めながら、お前と声を震わせる。
「どうしてお前の報告は、そう碌でもねぇんだ!」
「失礼な、子供ができたって報告に祝辞の一つもないのか」
「祝える事柄か!」
どうしてそう愚を重ねると頭を抱えると、イギサは喜色を消して目を伏せた。
「俺にはこれ以上ない幸いだ」
「っ、だとしても。状況を考えろ!」
今度は子供まで巻き込む気かと声を荒らげるカギトに、何度も言うがとイギサは眉根を寄せた。
「恩人殿が亡くなられた今、もう誰もあの力を与えられない。俺たちの子ならずとも、誰も、だ」
「それが本当に通るなら、あんたらの結婚だってもっと祝福されたでしょうよ」
何を言ってるのかと後ろからようやく喋れる程度には回復したらしいチバに突っ込まれ、イギサは不愉快そうな顔つきになる。
「だ、大体さ、あんたは幸せかもしれないけど、カギトがどれだけ振り回されてるか考えてんの? 隊長だってそうよ、あんたのせいでどれだけ下げなくていい頭を下げてるか、」
ここぞとばかりに突き刺すチバにしばらく黙って耐えていたイギサは、本人をそうする代わりに執務机を蹴りつけた。耐久性の高い樫のそれが、みしりと嫌な音を立てる。
何か言いかけたようだが結局声にはしないまま口を閉じたイギサは、未だ睨んでいるカギトから逃げるように視線を落とした。
「言われずとも、」
分かっていると悔しげに口の中で続け、ゆっくり息を吐いて目を合わせてきた。
「いざとなったら俺ごと切り捨てればいい。どこにあろうと、死遣の誓いは忘れてない」
国がためと、ヒズミは決して口にしなかった。ただお前たちが守りたい者がため、と。他の何を裏切っても自らだけは裏切るなと強く言い含められた、それが死遣における唯一にして絶対。
カギトが知らず顔を顰めると、イギサは少しだけ言葉を探すような間を置いて溜め息をついた。
「とりあえず、報告だけだ」
迷惑をかけると聞き取れないほどの小声で告げてさっさと出て行く背中を見送っていると、気まずげな顔をしたチバがどこか咎めるような目を向けているのに気づく。
「……何だ」
「あたしが言うのも何だけどさぁ、あんたはちょっとくらい祝ってやればいいのに」
「はぁ!?」
正気を疑るように語尾を上げると、あたしはそこまで近くないから嫌だし無理だけどねと言い添えたチバは、無造作に鎖を投げ返すとカギトの後ろにある窓に足を向けた。
「変わりっぷりに戦く気持ちは横に置いて考えたとして、よ? あの様子だと、誰彼構わず自慢して回ってても不思議ないじゃない。そしたらこの町の性質上、とっくにお祝いお祭気分が広がってると思うのよ」
外を覗きながら、あの子はずっとこの町に住んでるんでしょうと尋ねられて頷くと、チバはまだ分からないのかとばかりに息を吐いた。
「だから、未だ町中が知らないってことは、イギサは多分最初にここへ報告に来たのよ。まぁ、自分たちの子供がどれだけ厄介かは分かってるだろうし、それに対する謝罪や対策のため、っていうのもなくはないだろうけど」
「何が言いたい」
「あんもう、勘の鈍い男ねぇ!」
あんたそんなんじゃ今戦争が起きても生き残れないわよと痛烈な嫌味を放ったチバは、顔を顰めたカギトに頭を振りながら指先で窓硝子をつついた。
「身寄りのないイギサにとって、あの子以外には死遣くらいしか身内って呼べる存在はないでしょ。中でも親友のあんたは兄弟ぐらい近く認識してるから、嬉しい報告を真っ先に伝えに来たんでしょうが」
イギサにしても、自分の馬鹿は痛感しているはずだ。事情を知る誰にも祝福されないのは承知の上で、それでも家族が増える喜びを伝えずにはいられなかったのか。
「っ、人の気も知らないで……っ」
もう二度と使えないだろう折れたペンを捨て、ぎりぎりと奥歯を噛み締めたカギトは乱暴に立ち上がって窓辺に寄る。チバがわざわざ窓を開けてから場所を譲るのを苦い気持ちで一瞥し、邸の前で待つシズナに向かって歩いているイギサの頭を見下ろす。
先に気づいたシズナが教えているのを視界の端に止めながら、幸せ自慢かくそったれと怒鳴るように言葉を投げる。驚いて顔を上げてくるイギサに、口の端を歪めるようにして笑う。
「祝いなら酒以外の物で請求しろ!」
「……ああ、考えておく」
滲むように笑って片手を上げるイギサと、ありがとうございますと幸せそうに笑うシズナに目を細めて背を向け、机に向き直る。シズナからは見えない角度でイギサを眺めていたチバが、何あの気色悪い満面の笑みと毒づいているが単なる冷やかしに近い。
愚かに愚かを重ねる行為は、それでもこの小さな町では祝福をもって迎えられる──二人が添い遂げると決めた時と同様に。




