13.二人だけの誓約
「私が、あなたを死神にしてしまった……。あんな思いをさせた元凶は、私なんです」
紡ぎそうになる謝罪を必死に噛み殺すのは、それがイギサにとって何の意味もないと知っているからだろう。自分が楽になるだけの行為を堪えて震える姿を眺めながら、イギサは恩人の遺体を前にして覚えた違和感が何だったのか、ようやく理解した。
性別も容貌も分からなかった、けれど恩人を彼と呼ぶことに感じた抵抗は間違っていなかった。
力を与えられた時、イギサは彼女の言葉を聞いた。実際には声にされなかったけれど、腕から浸透していったのは力だけでなく守りたいという鮮烈な願い、誓い。
例え罪の意識で自分の心が押し潰されても、何れ自らの命で贖うことになっても構わない、守りたい。自分を育んでくれた優しい人たちを、彼らの住む町を、国を。何もできずに震えているだけ、守られているだけが耐え難く、平和を齎せば不要と切り捨てられることになっても。
守りたい、誰か、どうか、この罪と引き換えにこの国を──。
自分の願いだと勘違いするほど強く、深く、根を広げていった想い。イギサの中にあった願いに寄り添い、知らない間に同化した感情は、あまりに幼く純粋で熱を帯びすぎていた。物言えぬ状態で対面した父親ほど年の離れた男より、目の前で罪の意識に苛まれている少女のそれだったと思えば得心がいく。
一目で彼女に落ちた理由も、今なら分かる。シズナは戦場で震えていた自分そのものであり、唯一心に添ってくれた存在だ。自らの力に怯え、それでも守ることを選び、魘される夜をどうにか乗り越え。断罪の日を待ち侘び、そのためだけに生きている。
「伯父の死が──必要、だったのは、……分かりたくはないけど、分かります。伯父にとっては私の存在を隠すため、国にとっては魔法使いを絶やすため」
震える手を押さえつけるようにして組み合わせ、シズナが俯く。納得していないのだと分かる様子に口を開くこともできず、イギサは少し躊躇ってから手を伸ばした。
触れる直前にびくりと身体を竦めたシズナは戸惑ったような視線を上げて目を合わせると、泣き出しそうに顔を歪めて再び俯く。
「でも伯父が死んでしまったら、イギサさんは恨む相手をなくしてしまう。あなたの怒りほど正当で、晴らすべきは他にないのに……っ」
「、」
そんなことはないと言いかけて口を閉じたのは、言ってしまえば嘘になるからだ。
虐殺の覚悟を問われ、何もかも分かった上で受け入れたはずの力。けれどカギトたちとはあまりに違うその絶対に、自分でさえ怯んだ。初陣の時ほど表には出さずとも確実に魘された、あれを恩人のせいにして恨んだことがないとは言えない。
けれど恩人の遺体と対面した時、覚えた憤りは怒りの矛先を失ったからではない。自分も彼と同じく、簡単に切り捨てられる存在だと痛感したから。何より彼らこそが最も権利を持つはずの平穏から早々と追い出されたことに対する、眩むほどの怒りだった。
シズナはイギサの沈黙をどう受け取ったのか、小さくなるように肩を窄めた。
「だから、私が負うと決めたんです。謂われなく伯父に向けられるより、私が受けて当然ですから。だから、……あなたが草匙に来られた時に、ようやくその日が来たのだと」
期待していたのにと、どこか自嘲気味な呟きにイギサもふと息を吐く。
「そうだね。死ぬのはとても簡単だ、そこで終われるんだから。──終わりたかった?」
囁くように尋ねると、シズナの肩が震えた。ゆっくりと目を合わせ、涙で滲んだ瞳はいつもより赤が強い。彼には最初なかった覚悟を秘めて逸らされず、同じようにじっと見つめたままイギサはそっと手を伸ばした。
「それなら、俺が必ず君を殺そう。苦しまないように、できるだけ優しく殺そう。だから君は、その日まで俺を助けてくれ」
縋るように伸ばした指先が、震えている。気づいてぎゅっと強く握り込んで、もう一度広げる。
まだ少し、震えている。
「俺にできるのは戦うことだけ。戦争が終わるよう望んでいたのに、実際に終わった今は何をしていいのか分からない。俺には守るべきがないと駄目で、今守りたいのはシズナだけなんだ」
「っ、でも私は、」
「俺を死神にしたのが心苦しいなら、その罪滅ぼしでいい。負い目がある間、無理をしてでいいから側にいてくれ」
愛情ではなく、罪悪感につけ込んでいるだけでもいい。シズナが側にあってくれるなら、脅迫でも懇願でも何でもする。
シズナは正気を疑うようにイギサを見て、恐れたように頭を振る。
「だ、って、私は夏穣にあってはならないもの、なのに」
「その時は俺が殺すって言ったろう」
「っ、イギサさんがあんなに苦しんだのは、私のせいで!」
「だったら今度は、シズナが俺の側で苦しんでよ」
それなら等価だろうと手を差し伸べたまま目を細めると、シズナの目から涙が落ちた。
これからの一生、贖いに差し出せと言っているも同然だ。けれど疎まれても恨まれても、それがイギサの願いであることに変わりはない。
シズナは目を伏せ、もう一つ二つ滴を落とし、震えそうな唇を噛んだ。どれだけ無理を強いているのかとちらりとした後悔は走るが、伸ばした手を戻すことはできない。
「そんな……」
ひどいことをと耐え切れず顔を覆って嘆かれ、突き刺さる言葉に知らず視線は揺れる。
「どうしてそんな、イギサさんばかり負わされるんですか。殺して、終わらせてしまえば早いのに」
私を生かしておく必要がありますかと涙を溜めたまま見据えて聞き返され、イギサは理解しきれず一度、二度、大きく瞬きをした。
「俺の側で生きるより、そんなに死にたい?」
「イギサさんが押しつけられる必要なんか、ないじゃないですか!」
「押しつけられるって、何を」
無理を強いているのも押しつけているのも自分のほうだ、何の話をしているのかと眉根を寄せる。シズナもイギサが理解できていないと察するのだろう、もどかしそうな顔をして続ける。
「イギサさんが、私を負わされる必要はないでしょう。私を見張るために、一生を台無しにする気ですか」
「どうして俺の一生が台無しに? シズナが側にいてくれることが、俺の望みなのに」
分からないことを言い出したとますます不審を表にすると、シズナも噛み合っていないと言葉を止める。お互いに戸惑ったまま改めて顔を合わせ、やり直すように想いを紡ぐ。
「守るために罪を負うと決めた君の覚悟は、あの時くれた力と一緒にまだ俺の中にある。俺に力をくれたのが、君でよかった。俺を死神にしたなんて、自分を責めなくてもいいんだ。望んで力を振るったのは俺だから。──シズナが俺を許せなくても、俺は君を愛してる。君の側で生きていきたい……、シズナを、生涯守り通したい」
素直な気持ちだけを真っ直ぐに伝えると、シズナが苦しそうに眉根を寄せて目を伏せた。けれどすぐに視線を重ね、まだ少し躊躇ってから口を開いた。
「ずっと、後悔してました。私の浅慮のせいで、多くの人生を狂わせてしまった。何よりあなたにばかり罪を押しつけて、のうのうと生きていることを……っ。あなたがこの町に来た時、やっと殺してもらえるとほっとしました。結局私はまた、あなたに罪を押しつけて逃げたかっただけなんです。あなたの側にいる資格なんてない」
「罪くらい幾らでも押しつけていいよ、でも逃げるのだけは許さない。ようやく見つけたのに、……会えたのに。俺から君を奪うのだけは許せない」
ぎゅっと唇を噛み、そのまま俯いてしまうシズナにイギサはもう一度手を差し伸べた。今度は震えない。
「シズナ」
呼びかけに、シズナは髪を横に揺らす。伸ばしかねない手を堪えるようにお腹の前で組み合わせ、顔を上げない彼女にもう一度呼びかける。泣き出しそうに口を開きかけるのを見て、俺が聞きたいのは言い訳じゃないと強く遮った。
「俺を好きか、嫌いか、それだけだ」
どこまでも逸らしようのない問いかけに、シズナの視線が揺れる。震えそうな唇を噛んだまま、答えを洩らすまいとした姿にもどかしく重ねる。
「頼むから言ってくれ、このままだと俺も動けない。もしシズナが俺の顔も見たくないほど恨んで嫌って、側にもいたくない、」
言いながら自分の言葉が突き刺さって蹲ったイギサは、気を取り直すように頭を振って勢いよく立ち上がった。心配そうに窺っていたシズナは慌てて体勢を戻し、三度出された手に竦んでいる。
「だから、そんな、どうしようもなく俺を受け入れ難いって言うんじゃないなら。俺の、手を、取ってくれ」
どれだけ長い時間、言葉もなく向き合っていただろう。拒絶こそしないがシズナは何度も何度も躊躇い、手を伸ばせないままそこにいた。
イギサは急かすでもなく待ち続けていたが、どこか諦めたように目を伏せたシズナに耐えかねて口を開いた。
「シズナ」
強く呼んだ名前にはっと目を開けた彼女は反射的に手を伸ばしかけ、拳を作り、繰り返された名前に負けたようにおずおずと指先を向けてきた。その指がイギサの出した手に触れるなり腕を捕まえて引き寄せ、強く抱き締めていた。
「シズナ……!」
「イギサ、さん」
今にも謝りそうに震えた声で呼ばれた名前は、ようやく望んだ熱を帯びていて。だいじょうぶ、と子供を宥めるように優しくその背を撫でた。
「何からも守る。それでもどうしようもない時は、俺がこの手で殺すから。シズナは俺がここにいる意味を与えてくれ」
「、」
シズナが何かを紡ごうと口を開きかけた時、りんどぉん、と頭上から荘厳な鐘の音が降ってきた。
この町の象徴たる時計塔が日が変わったのを教えて鳴り響かせているだけだと分かっていても、イギサたちを寿ぐようなそれに知らず口許が緩む。
「ずっと側にいよう。俺はいつまでも変わらず、シズナだけを愛すると誓うから」
後悔に揺れて、涙に濡れて、でもイギサを捉える目を覗き込むように顔を寄せる。静かに目を伏せ、額をそっとつけて、互いの呼吸を感じながら手を重ねて囁く。
「死が二人を別つまで」
共に生きよう。
鐘の音に守られて誰にも聞こえない二人だけの誓約は、この日確かに交わされた。




