12.果たすべき義務
至急来いと連絡を受けてシズナが駆けつけたのは、草匙から大分離れた玲牙と呼ばれる小さな町だった。町をぐるりと取り囲む外壁は夏穣の中では低いほうで、以前に一度訪れた時は固く閉まっていた門も今では開け放たれている。出入りを監視する衛兵もなく簡単に入ることはできたが、果たしてどこに行けばいいのかと辺りを見回していると後ろから呼びかけられて思わず身体を竦めた。
「っ、兄さん」
物陰に立つ暗い姿を兄と見分けてほっと息をついたのも束の間、呼ばれた理由を思い出して顔を引き締めた。久し振りに会った兄はにこりともせず、こちらだと促してさっさと歩き出すのを慌てて追いかける。
三年ほど前に一度訪れただけで碌に地理も分からない中、歩調を合わせてくれる気のない兄を見失わないように必死に歩く。多分前回と同じ場所なのだろうが、普通の一軒家に見えるそこは住む人もないのか荒れた印象があった。
「ここ、に?」
「入れ」
答える気のない兄に短く命じられ、唇を噛む。躊躇っても仕方がないと分かっているからどうにか足を進めるが、一歩進むごとに握った拳に込める力は強くなる。迷うほどの部屋数もなく、廊下の突き当たりに立っていた厳しい顔つきの見知らぬ男は、目が合うと扉の前から一歩退いた。
重い足をどうにかそちらに向け、扉の前に立つ。開けるべきかと迷う暇も与えられず、場所を譲った男がさっさと開けてしまった。
部屋には簡素な寝台が一つ、それ以外には家具も置けないほどの狭さだ。寝かされている人物は上から毛布の類もかけられておらず、無造作に放置されている。
ふらりと部屋に入り、五歩も行かず辿り着いた寝台の傍らに立ち尽くした。見下ろす先には、まるで眠っているかのような顔色で横たわる伯父。その左手に見慣れた指輪を見つけ、どうして、と小さく呟いた。
「死因の話なら自殺だ。見つけた時にはもう死んでいた」
淡々と答えたのは、見張りに立っていたのだろう男を遠ざけて扉を閉めながら入ってきた兄。睨みつけるように顔を向けると、兄は表情を変えないまま伯父を冷たく見据えた。
「どうやって逃がすかと算段していたところだったんだが、先に死んでしまった。まったく潔い話だ」
「っ、そんな言い方、」
「有難い話だ、と言ったほうがよかったか」
伯父から視線を上げて淡々と言い直され、頭に血が上る。しかしシズナが感情のまま怒鳴りつける前に、兄は軽く制するように手を上げて再び伯父を見下ろした。
「この人が何のために死んだか、お前が知ってやらないでどうする」
「何……、のために、」
戸惑いながら聞き返すと、兄は視線を上げないまま答える。
「お前のため、以外にないだろう」
「、」
口は開いたが、言葉は出なかった。問いたい様々を思いつきはするのに声にはならず、震える手を自分で押さえつけるくらいしかできない。
伯父が死んだ。シズナのために、自ら命を絶った?
幼い頃から別の町で暮らしていた伯父との接点などほとんどなく、母の葬儀で初めて存在を知ったくらいだ。言葉を交わした記憶も碌になく、深夜に怒鳴り込んできたあの日しか思い出せない。そんな他人と言っても差し障りがなく、愚かを仕出かしたと糾弾してきた伯父が何故自分のために死ぬという選択をするのか。
そんなはずはないと否定しかけた言葉は、最後の姿を思い出して消える。母と同じく哀れむようにシズナを撫で、謝った。共に過ごした時間こそなかったが、あれは確かな肉親と思えばこその謝罪ではなかったか。
幼子を一人残していく不安、もう助けてやれないという後悔、何より残される幼子に対する心配。それを口にすると不安を伝染させてしまうからと、ただ謝り続けた。
「お前が責めるべきは、俺一人で十分だったんだがな」
腐っても肉親だったということかと、突き放すような言葉に涙が落ちる。兄はちらりと視線だけを向け、泣くなと短く告げる。
「この人はきっと、それを望んでいない」
「そんなの、どうして兄さんに分かるの!」
「分かるはずはない。ただ、俺ならそう思う」
だから泣くなと遺体に視線を戻して繰り返した兄は、見えるほど落ち着いているわけでもなければ冷静でもないらしい。ふと目についた、足に押しつけるようにした兄の拳は彼女と同じく震えている。
「戦争にあの力を望んだことは、後悔していない。あれのおかげで思ったより早く終結した、望んだより穏やかな日は今も続いている。……俺は間違っていなかった」
まるで自分に言い聞かせるように伯父から目を逸らさない兄は、悔いるとしたら一つ、と声を揺らした。
「この人とお前を巻き込んだこと、だ」
最初から分かっていて巻き込んだのではないかと、思わなくはない。力を貸してくれと久し振りに姿を見せた兄は、どれだけ拒絶しても聞き入れない傲慢なほどの強さがあった。大局を見ろと叱りつけてきた本人が、何を言い出しているのかと目を瞬かせる。
視線に気づいたように顔を向けてきた兄は、ゆっくりと息を吐き出した。
「こうなる前に、片をつけるはずだった。死遣は誰もこの人やお前の顔は見ていない、俺がいなくなれば誰も捜し出せずに終わる話だった」
「いなくなればって、」
どういうことと青褪めて詰め寄ると、兄は拳を作っていた手を伸ばしてそうと頭を撫でてきた。
「あの力を使うと決めた時に、責は全て負うと決めていた。それで戦争が終わるなら、安い話だろう」
ただ、と兄は視線を落とし、頭を撫でていた手で再び拳を作った。
「女親から娘に、男親から息子に受け継がれる決まり事のせいで、俺は最初から口伝を知る立場になかった。どうあってもこの人を巻き込むことになるとは思ったが、それでも俺一人で片がつくと思っていた」
予定が狂ったのは威力のせいだと、口惜しげに兄は息を吐いた。
「この人が知る術式は、お前が知る物とは違う。……聞いたか」
少し視線を上げて問われ、小さく首を振る。伯父が完全を成す術式と言っていたのは覚えているが、詳細は知らされていない。兄はそうかと呟き、目を伏せた。
「口伝を継承するのは世代に二人、男女一組だ。その時、主として伝えられるのは間違った術式、だ」
「間違った? でも、正しく記さないと効果はないって」
「そうだ、だから正しく間違わないと意味がない。威力を抑えるためにわざと間違った術式、それが本来受け継がれている口伝だ」
威力を抑えるため、と口の中で繰り返す。ひり、と喉の奥が乾いて声が掠れる。
兄は少しだけ躊躇うような間を置いて、お前も聞いたことはあるだろうと重く口を開いた。
「死遣の内には死神がいた。魔法の威力を最大限に引き出し、敵の死体を量産した──橘イギサだ」
「それ、は、ひょっとして、」
耳元で心臓が鳴っているかのように、自分の鼓動が煩い。それでも耳を塞げず、目を伏せられず、縋るように兄を見ると彼女と同じ色の目が哀れむように細められた。
「女親から伝わる口伝のみ、もう一つあった。完全を成す術式、だ。全てが正しく並んだ術式、違えて正なる術式とは威力を異にする。誰にも教えてはいけない、完璧。何があっても洩らしてはならない、秘すべき口伝」
お前が母から聞いたのはそれだと、予測していた言葉が聞こえた途端に足元がぐらついた。耐え切れず床にへたり込み、無駄に視線が揺れる。紡ぐべき言葉も探せず、口を開いても声にはならない。
「お前に罪はない。時間的に考えてお前に伝えられたのが一つだけなのも、それが秘すべき完全なのも予想がついた。知っていて望んだのは俺だ。俺に与えられた術式では、死神ほどの威力にはならなかった。数を揃えても埒が明かない、もっと圧倒的な力を欲して……知っていながら頼んだ俺にこそ、罪はある」
死神を生んだのは俺だと上から降ってくる言葉は、シズナの耳を打たない。
伯父が帰った後、遠い草匙にいても聞こえてくるようになった夏穣軍の虐殺。それが魔法によるものだと察して後悔し、脅え、戦争が終わるまで碌に食事も受けつけなかった。ようやく戦争が終わったと聞いて許されるはずのない罪が少しは拭われた気がしていたのは、無理やり見ない振りをしていただけだと突きつけられて呼吸が止まる。
伯父がわざわざ彼女を訪ね、咎めた理由をどうしてもっと深く考えなかったのか。桁外れの力で死神と呼ばれる、彼の力こそ自分のせいだ。知らなかったなんて言葉ではすまない、シズナが間違った術式を施していれば彼が死神と呼ばれることもなかった。
彼の手で生み出された犠牲の半分以上が、助かったかもしれない命。死神ではなく、シズナによって奪われた命──。
「 っ!」
声にならない悲鳴を上げて頭を抱えると、その腕ごとぎゅうと兄に抱き締められた。
「シズナ、お前のせいじゃない。落ち着け、頼むから。お前もイギサもただ俺を恨めばいい、お前のせいじゃない。……この人の思いまで無駄にする気か?」
無駄死にさせるなと耳元で囁かれた言葉は、シズナの恐慌を無理やりに鎮めた。びくりと身体を震わせてゆっくりと顔を上げると、兄が辛そうな顔で頬に手を当ててきた。
「この人は、お前のために死んだ。術式を伝えた恩人として知られているのは一人、この人が死んだとなればお前の存在は浮上しない。お前が弾劾されないよう、この人は自分で命を絶ったんだ。そのお前が壊れたら、この人の死が無駄になる」
「そ、んな、」
落ちそうになった涙を、兄の指が先に拭う。お前のせいじゃないと、最後に伯父が繰り返した言葉を同じく言い聞かされる。
「守るべきを間違えた、これは俺たちの罪だ。巻き込まれたお前が気に病む必要はない」
本当は、と兄の声が揺れるように少し低くなった。
「この人の死も、お前に知らせる気はなかった。だがお前のために死んだのに、最後の別れもさせないなんて酷だろう」
お前を嘆かせる意図があったわけじゃないと慰めるように撫でる兄の言葉に、違う、と目を伏せて俯いた。
ああ。伯父も兄も守るべきを間違えた。そして今もまだ間違え続けている、それだけが拠り所になるほど頑なに。
(私に罪がないはずがない。私だけ逃れられるはずがない。知らなかったのも、知らないまま術式を付与したのも私。その罪を他人に押しつけて、贖えるはずがない……)
彼らが負うべきも確かにある、けれど彼女自身が果たすべき義務もまた存在する。




