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11.伯父

 物心がつく前から、シズナは草匙そうしで暮らしていた。幼い頃は母と兄の三人だったが、年の離れた兄はしばらくするといなくなった。後で聞いたところによると伯父に引き取られ、その後すぐに軍属したらしいが、当時の彼女はただいなくなったという事実しか知らなかった。


 母は昔から病弱で、寝台で横になっている姿しか覚えていない。けれど細い手で何度も髪を撫でながら話してくれた秘密だけは、今もまだ一つと洩らさず覚えている。

 それがどんな意味を持つのか正確に知らなかったのは、急な発作により母は自分で思うよりも早く他界してしまったから。当然ながら彼女は長く知らないまま過ごし、知らないからこそ大きな過ちを犯してしまった──。


 自分が仕出かした事の重大さにも気づかず過ごしていたある日、真夜中に激しく扉を叩く音で起こされた。まだ戦争の真っ只中にあり、ひょっとしてこんな田舎まで戦火が迫ってきたのかと飛び起きたが、それにしては周りの家々はあまりに静かだった。

 不審に思いつつも扉に近寄り、何方ですかと尋ねるとシズナかと厳しい声が届いた。遠い記憶ではあってもどうにか聞き覚えのある声だと気づいて扉を開けると、真っ青な顔色で厳しく唇を引き結んだ伯父がそこに立っていた。


「伯父さん……」

「入っても?」

「、はい、どうぞ」


 こんな時間に不躾ではないかと質せるほど、伯父の顔色はよろしくなかった。即座に温かい薬湯を出したが手はつけられず、伯父は咎めるようにシズナを見据えて詰問してきた。


「お前、誰かに術式を与えたか」


 生涯誰にも口外するなと、久し振りに訪ねてきた兄に怖い顔で言いつけられて行った秘め事。お前の力が必要だ、けれど知られてはお前の命が危ういからと、伯父にさえ話すことを禁じられた。

 しかし伯父は形こそ尋ねているが確信しているようで、答えないシズナにどうしてだと声を鋭くした。


「どうしてお前はあんな愚かを働いた! あんなことをすればどれだけ恐ろしい事態になるか、ユヅキが教えなかったとでも言う気か!?」

「母が、何を」


 教えてくれたのか。教えてくれなかったのか。


 母と共に過ごしたのは、本当に僅かな時間だ。二人きりだったからこそ濃密に覚えているだけで、喪ってから過ごした時間のほうがもう倍近い。聞いて忘れていることもあるだろうが、伯父が何に対してこんなに怒っているのかが分からない。

 だから正直にそう答えたのに、ふざけるなと強く机を殴って叱責された。その拍子に薬湯が零れ、机の上に染みが広がる。身体を竦めるようにして俯いたまま顔も上げられないシズナは、その零れた薬湯だけを眺めて震えそうになるのを必死で堪えた。


 彼女が生まれる直前に、父は他界した。兄は記憶も定かでないくらい幼い間に出て行き、身近に男性と接する機会は今までほとんどなかった。こんな風に頭ごなしに怒鳴られるのも初めてで、どう反応すればいいのか分からないというのが正直なところだ。

 ただ伯父の様子から自分が何かとんでもない失敗をしたのだろうと分かり、思い当たる節といえば兄と交わしたあの約束しかなかった。


 病床の母に、忘れては駄目よと真面目な声で諭され、聞かされた秘密。シズナたちつぐみの一族は、かつて人が自由に操っていた魔法をひっそりと口伝だけで受け継いできた。繋ぐ者自身は使えない、けれど人に齎すことのできる力。誰か一人に与えてしまうにはあまりに強大で、多くの誓約と複雑すぎる文様を駆使した術式は僅かでも間違えれば威力を発揮しない。それを正確に覚え、次に伝えるのが役目だと聞かされた。


 訳も分からず繰り返し、必死に覚える横で珍しく怖い顔をした母に言い聞かせられたことは、一つ。この先何が起きても、決して誰にも術式を与えてはいけない──。


 今まで碌な関わりもなかった伯父がこんな風に咎めてくる重大事と考えれば、それくらいしか思い当たらない。鶫の名は持たずとも母の兄である彼ならば、シズナの兄と同様にその事実を知っていてもおかしくはない。そして兄に乞われるまま手を貸したと知れば、母に代わって叱りに来るのも当然なのか。


 けれど親族として存在は知っていても家族としてずっと側にあったわけでもない伯父に、突然訪ねてきて事情も聞かず怒鳴られるのを悔しく思う程度には彼女もまだ子供だった。睨むように伯父を見据え、反論すべく口を開く。


「っ、でも、それで戦争が終えられると。例えば私が咎を負っても多くが助かるのなら、知っている物を与えるのは私の義務だと、」

「そんなことはどうでもいい!」


 必死に紡いだ言葉の途中で、再び強く机を殴って遮られた。もう半分ほどしか残っていない薬湯の入った容器は今度こそ倒れて転がり、伯父の足元に落ちて割れた。結局薬湯は口にされず、ただ彼の靴を濡らしただけ。

 またも脅えて俯くしかできなかったシズナはそれを眺めて憤り、拳を作った。


 母との約束を破るのに、葛藤はあった。圧倒的な力は人の手に余る、そんな力に頼らずとも人は生きていけると、草匙での暮らしで強く実感していた。だからこそ兄の頼みも、最初は素気無く突っ撥ねたのだ。


 しかし、お前は守られた田舎で平和に暮らしているからそんなことが言えるのだと責められ、戦地の残酷を切々と訴えられ。前線で犠牲になる兵士、それらを支えて搾取される首都近辺の民、全ての犠牲の上でのうのうと暮らしているだけだと教えられ、心が揺れた。


 必要なのは、誰も敵わない圧倒的な力。相対するなり剣を投げ捨てて逃げる、そういう絶対がなければ戦争は終えられないのだと言い聞かせられ、頼むと頭を下げられた。


 共に暮らした時間こそ短いが、兄に悪意がないことも本気で憂いていることも伝わってきた。ひどい選択を迫っているのは承知で、それでも頼むと真摯に頭を下げる兄に負けると決めた。

 同じく戦うことはできずとも、力を貸すことで少しでも兄の負担を減らせるのなら、と。


 母の懇願にも似た約束を破ったことは今も心に引っかかっている、けれど兄を助けて戦争を終わらせるのは、こんなに咎められなくてはならないことだろうか。


「私が平和に暮らしていられるのは、代わりに戦ってくれる人たちがいるからです。その彼らが一人でも多く無事に戻れるよう、一刻も早く戦争を終わらせたいと思ってはいけませんか……っ」

「そうではない、術式を付与したのを責めているのではない。私が尋ねているのは、どうしてお前の術式は完全を成しているのか、だ!」


 お前はあれの恐ろしさが分かっているのかといきなり両肩を捕んで問い詰められ、意味が分からずに眉を寄せた。


「完全を、成している……?」


 そういう物、ではないのか。全てを正しく記さねば発動さえしないはずだ、完全を成さない術式など存在しない。何を言っているのだと不審に思って見返すと、そこでようやくはっとしたらしい伯父は何故かますます顔色を失った。


「まさか……、まさか、知らないのか。ユヅキはお前に、何を教えた!?」

「何、──決して人に伝えてはいけない術式の全て。一つも間違わず覚えなさいって、」

「他には!?」

「料理の作り方とか掃除の、」

「ふざけている場合か、魔法の話だ!」


 真面目に答えていたのに怒鳴るように叱られ、シズナはむっとして声を尖らせた。


「知りません、私が聞いたのはそれが全てです。伝え終えた途端、母は急な発作に襲われて……そのまま死んでしまいましたから」


 シズナ以外に誰もいない部屋で、母は一人苦しそうに胸を押さえて死んでいった。父も兄もなく、その頃は伯父の顔さえ知らなかった。頼る身寄りもなく苦しむ母に泣きながら呼びかけるだけで手一杯、近所の人を呼ぶほどにも頭が回らなかった。

 母は苦しみながらも何度もシズナの頬を撫で、約束してと繰り返した。


「本当は伝えてはいけなかった、それでも死が迫り伝えずにいられなかった。重石を押しつけてごめんって、何度も何度もそう謝って、」


 何を謝られているのか分からず、苦しそうな姿を見ていられず、シズナは泣きながらただ頭を振っていた気がする。息を引き取る間際まで、結局母はずっと謝り続けていた。


「ユヅキ……、ああ、そうか。お前の時間が足りなさすぎたのか……っ」


 酷なことをしたと、後悔に揺れた声で呟いた伯父はシズナの肩を掴んだまま項垂れた。すまなかったと小さな小さな声で母と同じように謝った伯父は、顔を上げて目が合うと苦痛そうに顔を歪めた。


「お前は、完全しか知らなかったのだな……。ではあれがどれほど恐ろしいか、知らず与えてしまったのだろう」


 何てことをと、哀れむように泣きながら伯父はそっとシズナの頬に手を当てた。


「私が最後の最後で躊躇ったせいで、あれはお前を巻き込んだのか。何も知らないお前を、巻き込んだのか……!」

「っ、兄のせいだけでは。私は分かった上で力を、」

「いいや、お前は知らない。分かっていない。私が知る不全でさえ、あれほどひどい事態を巻き起こした。お前が与えた力は人には過ぎる……、彼はもう、人でさえない」


 嘆く伯父の言葉は衝撃的で、シズナも顔色をなくす。自分が何をしたのかと震えるほど怯えていると、伯父が肩を捕まえている手に痛いほど力を込めてきた。


「ああ、知らずともいい、幼い娘よ。伝え切れなかったユヅキも、ユヅキから教われなかったお前も責められる謂れはない。呪われるべきは戦争に魔法を持ち出したあれと、自分を止められなかった私だけだ。──そうだ、お前は私とは違う。私のような愚かを、望んではすまい……」


 暗く淀んだ目でしばらく遠く見据えていた伯父は、ふとシズナに焦点を戻すと肩の力が抜けた様子で笑った。どこか母を思い出させるそれに口を開きかけたが、機先を制するようにゆっくりと首を振られて声にすることはできなかった。


「私も、何も知らなかった。ユヅキが守ろうとしたことも、守れなかったことも、何も知らずに目を背けて生きてきた」


 自嘲するように口を曲げた伯父は、心配するシズナの頬を落ち着かせるようにゆっくりと撫でた。


「知らぬのならば、どうかお前はそのままでいろ、幼い娘よ。何もかも、私が負うべき罪だ」


 シズナを見つめているはずなのに、どこか遠く懐かしそうに目を細めた伯父はひどく穏やかに微笑んでそう告げた。訪れて来た時の怒りはすっかり形を潜め、諭すような声は落ち着いているはずなのに何故か不安を掻き立てられた。


「所詮私が口にしていた守りたいの言葉など上辺だけ、押しつけられた彼らほどにも覚悟がなかったということだ。何とも情けない話よ……」


 言って一度目を伏せた伯父は何かを決するような間を置いてそっと目を開け、強く真っ直ぐ見据えてきた。


「どれだけ望んでも、何れお前にも知る時は来よう。だが、その時に自らを責める必要はない。ユヅキの死にも立ち会えずお前を一人にした、全ては私の負うべき咎だからだ。間違えてはいけない、──確かに覚えていなさい」


 術式を伝えた時の母と同じ強さでそう言い聞かせた伯父は、名残惜しそうにそっと手を離して俯いた。足元に先ほど落ちて割れた破片を見つけたのだろう、申し訳なさそうに眉を寄せた。


「せっかく入れてくれたのに、すまなかったな」

「いいえ、気にしないでください。よければもう一度、入れましょうか」


 どこまでも母と重なる様子で謝罪する姿を見ていられずに尋ねると、伯父はほっとしたように笑ってそうしてくれと頷いた。急いで入れ直して持っていくと、受け取る時にシズナがつけている指輪に気づいたのかそっと手を取られた。


「確か、ユヅキの」


 思い出すように呟きながら術式の刻まれた石を撫でた伯父は、少し考え込んでから顔を上げて視線を合わせてきた。


「図々しい申し出とは思うが、これを譲ってくれないか」


 多分お前には必要ない物だと刻まれた術式を確認するように眺めた伯父に、躊躇ったのは少しだけ。何をすれば慰めになるかも分からず見ているだけだった母に対する償いのように、伯父の気持ちが楽になるのならとそれを手渡した。


「ああ、ありがとう。これがあればきっと、あれも少しは救われるだろう……」


 ほっとしたように笑った伯父は入れ直した薬湯を飲み干すと満足そうに息を吐き、せめて朝まで泊まっていってほしいの言葉も聞き入れずに出て行ってしまった。帰る間際にじっとシズナの顔を見つめて、色々すまなかったとだけ言い残して。


 次にシズナが伯父と対面したのは、二年後。死んで発見されたと、報告を受けた時だった。

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