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1.悪夢

 ごう、と突然の風が吹き荒れた。


 予期していた彼でも僅かに目を細めるほどの勢いで吹いたそれは、彼に向けて放たれた矢の全てを押し流した。だけに留まらず風は悪意さえ持って鋭い凶器と化し、取り囲んでいる敵の全てを刻んでいく。上がる悲鳴も噴き出た血も何もかも飲み込んで赤く染まった悪風の軌跡をぼんやりと目で追いながら、ああ、と彼は小さく心中に呟いた。


(ああ、これは夢だ)


 ついさっきまで、シズナの側にいたのを覚えている。彼女にイギサさんと呼ばれ、ようやく自分のカタチを思い出せた気がする。

 そうだ、彼は灰髪はいがみでも死神でもない。橘イギサ、という名の軍人だ。──否、それも違う。元軍人、だ。あのひどい戦争の終結後、彼は軍を辞したのだから。


(だから、これは夢だ)


 そう。夢といえば夢で、記憶といえば記憶だ。与えられた力を縦にして虐殺を繰り返していた頃の、記憶を辿っている夢。


 たった七年前、ようやく二十歳になったぐらいの頃。本来であればまだ希望に満ちて自分の将来を見据えているはずの彼の目が捉えるのは、惨たらしい戦場の光景だけだった。入隊して五年、力を得て半年。悪い意味で彼は、その生活に慣れ出していた。


 見る物全て、怖くはなかった。初陣の時は今思い出してもあまりに無様でみっともないほど、恐怖と後悔でひたすら泣き喚いていたのに。初めて得たこの力を振るった時もまた、そのあまりの威力に自ら恐れて震えを来たしたものなのに。

 向けられる刃も殺意も、呪うように浴びせられる血も言葉も、恨めしげな顔で転がる敵と味方の死体も。何も自分を傷つけられないと知っていた。

 荒んだ目つきで静かに見据え、繰り返していたのは唯一つ。


 早く終われ、と。


 戦い続けなければいけない現状か、終わる気配のなかった戦争そのものか、それとも自分自身の命かは分からない。とにかく早く終われと繰り返し、そのためだけに言われるまま力を振るっていた。


(……これは夢だ)


 だから早く終われと、遠い記憶になった今でも彼は同じ言葉を繰り返す。

 夜毎見せつけられる自らの罪だとしても、魘されて起きても何度かの呼吸と共に散らしてしまえる悪夢へと変わった。覚めても終わらない現実だった日はもう遠く、起きれば息苦しいほどの平穏が待っている──。


「っ、は……!」


 詰めていた息を吐き出すように起き上がり、そのまま大きく息を繰り返す。知らず視線を揺らしてここがどこかを探り、草匙そうしに用意された自分の家、寝室であるのを確かめる。彼を取り巻くのは粘つくような闇ばかり、独りを噛み締めるのはいつになっても、どこにいても同じだ。

 夢の残滓を振り払いたげに頭を振り、顎に伝い落ちてきた汗を不快げに袖で拭う。意識して大きく呼吸を繰り返して整え、ゆっくりと吐き出して天井を仰いだ。


 まだ赤の残像がちらつく気はするが、生きているという証には違いない。イギサの手によって無残な赤でしかなくなった命は、こうして魘されることもできないのだから。


 感傷めいた思いを振り切るようにもう一度首を振って視線を落とし、目についたのは左手の甲。

 夢の中でも、左の手の甲から肘にかけて複雑な文様があった。刺青ではなく、化粧ではなく、力を受け入れた時にその罪を記すかのように自然と刻まれていた。何をしても消えず、欠けず、それのある間は息をするほど簡単に力を使えた。


 イギサと同じようにこの力を与えられたのは七人、それぞれに使える力は異なって似たような文様は細かなところが違っていた。今は、全員がほとんど同じだ。二度とあの力が使えないようにと、文様を覆い隠すように入れられた刺青は一律同じ物だったから。

 目立つ場所に隠しようのないそれは、見るたびに自分の罪を教えてくる。けれど夏穣かじょうの人間にとっては、英雄の印として崇められているのも事実だ。


(こんな、物が)


 戦場で受けた傷痕以外には何も刻まれていない右手で左手を覆い隠し、憎々しげに呟く。


 実際に戦場に出ていない人たちには、長く続いた戦争が終結したのは彼らが振るった圧倒的な力のおかげだとだけ伝わっている。その言葉の裏にどれだけの骸が積み上げられたかも知らず無邪気に讃えてくる彼らにしても、あの光景を一度でも目にしていればきっと敵国の人間と同じくイギサを死神と呼んだだろう──。


 気を抜けば洩れそうな悲鳴をどうにか奥歯を噛み締めて堪え、彼はもう一度寝台に横たわった。暗い闇の中、見上げる天井は黒い。イギサの悲鳴も過去も何もかも呑み込んで、見ない顔をしてくれる。針の先ほどの僅かな灯りさえ許さずに、ただ黒く。


 は、と息を吐くように、イギサは皮肉がちに口許を歪めた。


 前線で戦っていたのは、十四歳からのたった六年。戦争が終わってからもう七年、戦っていた期間を悠に越してしまった。それでも未だ血塗れている気がする拳を、是、と受け入れたのも自分だ。今更、何に許しを求めたがっているのか。


「シズナ……」


 知らず紡いだ名前は彼がこの町を訪れた理由、一目見て心を奪われた相手。知り合ったのは戦争が終わってからだったけれど、彼女が暮らすこの国を守り通せたのだと思えば少しだけ報われる。

 身勝手な話だと自嘲気味に呟きながらも目を伏せて、再びとろりと包み込んでくる睡魔を受け入れた。もう一度あの悪夢に苛まれるのだとしても、繰り返すシズナの名前は少しだけイギサの心を軽くした。

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