肆話 放課後黄昏
製菓部でのお茶会が終わって解散した頃にはそれなりに時間が経っていた。外で活動しているのが一目で分かる運動部ですらもう切り上げようと校舎に戻ろうとしている者も確認出来る。
「思ったより時間が経ってたのね」
葵の隣を歩く紫乃はその手に製菓部からのお土産を持っていた。製菓部でのお土産なだけあってその中身は余った生地で簡単に作ったカステラもどきであるが、余り物で作った割には少し手を加えて微妙な違いを付けており、部内ではあるが評判は良い。葵も貰っている。それどころか製菓部の中でも欲しい人が居て持って帰ったぐらい。
今回の経験で紫乃がどう選択するかは謎で有るが、少なくとも葵は製菓部には入らない。部活に問題があるという訳ではない。部活内の空気で言えば少々の無理でも通りそうで良い方で有る。ただ今回は付き添いで来たという要素が多い。その上製菓部側も其処まで部に入れようという動きも無かった。紫乃を誘ったであろう子も忘れてたのか、その手の事をあまり言わなかった。代わりに「またおいで」とは言ったが。
「早く帰らないと夜になってしまいますね」
窓から見える夕陽すら静かに降りようとしている。
その景色を見ながら葵の頭の中にとある言葉が過った。
逢魔ヶ時。
黄昏、誰そ彼などとも言われる、昼から夜へと移り変わる頃合いで、何やら怪しいものに出会いそうな不吉な時間と民間信仰などでは昔から言われている。
最近は古い言い伝えと言われていたりするが、実際はあながち間違いではない。
黄昏は妖が動き回るのに其処まで適しているという訳ではなく、力の性質的にも行動に適しているのはどちらかと言えば真夜中である。
それでもこの時間帯が妖に都合が良いと言う最大の理由は、夕暮れ時は境界が曖昧になり易いという点である。境界とは人間たちが住むこちらの世界と妖たちが潜むあちらの世界の間である。境界が曖昧になるという事は、こちらとあちらが混ざり合ってこちらに妖が増えるということ。
何故この時間帯に境界が曖昧になるのかは、正直解明されていない。ただ一つ言えることはその時間の陽光だけが他の時間と違って影響を与えるということ。
妖にも色々居るが、そういった経緯で現れる妖は大抵が人に害意を与える者であったりする。だからこそ、葵のような立場の者が対応している。
「あ、私、少し連絡してきますね」
葵が夕暮れに警戒を強めていると紫乃が隣でそう言った。
言った後に紫乃は携帯端末を取り出して少し離れて誰かに連絡しようとしていた。誰かとは言うが十中八九家の者であろう。可能性で言えば執事の藤堂だろう。
普段なら時間を伝えているのか、連絡を取らずとも下校時間には外で待機しているのだが、今日は見学をする予定であったからか珍しく連絡が必要となった。
紫乃が連絡をしている間、一人にするのも心配という事で葵は大人しく待っている事にした。未だに道に慣れていないのは確かだが、気にし過ぎな葵であった。
待っている暫しの時間、葵は静かに周りを見ていた。そして少し引っかかった。静かに観察が出来ている事が返って妙であった。人が少ないどころか居なくなったように静かである。時間が帰宅時間な為少ないのは当たり前ではあるが其れでもまだ人は残っている。其れなのに、校舎に戻って来ている筈の運動部の声やまだ残っているであろう教室からの声も全く聞こえなかった。
おまけに、引っかかったのは其れだけでは無く――――
「この感じは…」
微かながら校内に妖の気配が感じられた。それも普段から学園の中に感じるものでは無い。覚えのない気配であった。
「この気配は半妖ではない…けれど純血にしては何かが…」
感じられた気配は動いており、気配だけでは目的が分からない。だが人が居ないという事は何かがあった可能性がある。人払いにしろ、周りに危害を加えたにしろ、今葵たちが相手の術中にあるかもしれないのは確かである。
近くには紫乃がいる。紫乃は妖の気配は勿論のこと人が異様に少ないことにすら気付いた様子も無く連絡をしている。
葵のみだったならば妖の目的がどうであれある程度の対処は出来ただろう。しかし紫乃が居る状態では下手な行動も取れない状態であった。
「すみません。待たせてしまって」
そんな状況とは露知らず、紫乃が連絡を終えて戻って来た。
幸いにも謎の気配は二人の場所には向かってはおらず、今のうちに紫乃を校門まで送って行こうと葵は考えた。少しでも脱しようと歩き始めて階段へと差し掛かった。
すると背後の廊下からその気配は感じた。
―――バチィッ!
「な、何!?」
音に気を取られて紫乃が振り向いた時、通ってきた方向から何かが飛んできた。其れは丸めた紙など遊びの類いではなく、言うならば明確な敵意。葵は咄嗟に携帯していた呪符を取り出して其れを防ぐ。
突然のことに何が起きたのか分からない紫乃は目をぱちくりさせていたが、葵はそれに説明をすることはなく、次の襲撃に備える。
襲撃者の影は見えない。だけど確かに気配は正面に留まっている。其れを証明するかのように、留まっていた存在感は二人の下へと真っ直ぐに突撃してくる。葵は先程と同じように呪符で防壁を張ってそれを防ごうとするが、向かってきたものは防壁の直前で分かれて違う方向へと飛んでいった。
「(分裂した…!?だけど此れは…)」
攻撃では無く存在自体が分裂しており気配も二つ分感じられた。だが不思議な事に分かたれた後の一つあたりの気配は先程よりも弱くなっていた。其れが影響しているのか其れからの攻撃は素早いながらも勢いは先程よりも劣っていた。
しかし、葵にとっては威力よりも数が増えた事の方が厄介であった。
「(一人ならこの程度何ともないけど…、この状況は…ッ)」
軽くあしらう事は不可能では無いが、紫乃の存在が取れる行動を狭めていた。しかし葵は怯むことなく、廊下の床、壁の隅の四方に呪符を飛ばして、防御の結界を形成して空間ごと遮断する。
結界にボンとぶつかる音が響く。幾ら素早かろうと攻撃はそれに阻まれ、葵たちには届いて来ることは無かった。
結界によって攻撃が届かないと判断したのか、その後に攻撃が行われる様子は無く、気付けば相手の気配が消えていた。
「(退いた……?)」
気配を探って周囲にも居ない事を察すると葵は気を緩めた。其れに伴って形成していた結界が効力を失って空間が元に戻る。
終始状況を把握出来ない紫乃は当然ながら状況の変化を感じ取れないでいたが、葵の様子から終わった事を察して、力が抜けたようにその場に崩れた。
「さっきのは一体……」
「…帰ろっか」
落ち着いてから当然の疑問を漏らす紫乃であったが、葵は其れに答える事は無く、座り込んでいる紫乃を立ち上がらせてはそのまま帰路につくことにした。
其れでも紫乃は何かを言いたげな雰囲気であったが、葵の様子を見て其れを言えずただ静かに足を進める。
葵は一人考えていた。考えているのは当然先程の襲撃。
この学園はとある理由のお蔭で学園に居る間は学園及び学園内の生命に危害を加えるような物好きな妖はあまり寄り付かないようになっている。しかし例外もあり、今回はそういう例外が来てしまった訳である。
とはいえ学園側もそう簡単では無く、知ってか知らずか手を出してきた妖には何かしらの影響が降りかかるだろう。其れを分かっている葵であるが念には念を入れておこうと決めた。
そうして二人が会話も無いままに校舎を出た頃には、周りからの声も普段通りに戻っており、その声たちも帰路へと付くところであった。
学園で襲撃が起こった日の夜。葵は夜の巡回として外に出ていたがやはり気になったのか、確認として学園を訪れていた。
巡回の流れで訪れている為、その姿は学生としての制服では無く、半妖としての黒翼と装束に加えて眼鏡を掛けた姿である。
飛翔したまま高等部校舎の屋上に着地し、そこから学園を見渡す。
「特に変わった気配はないか…」
放課後に襲撃していた相手の正体は未だに分かっていない。だが相手が取った行動は奇襲である。成功だろうと失敗だろうと同じ場所に居座っている訳は無い。そもそも襲撃自体が目的だったかさえ不明である。襲撃が目的ならば葵には敵の正体に心当たりがあるが、違っていたならまた別の問題が生じる。
「さて……」
葵は半妖状態のまま校舎の中へと入っていく。校舎の中は時間故に当然ながら人が居る筈もなく、気にせずに進んでいく。たとえ人が残っていようと人払いで対処すればいいと考えながら。
階段を降りて着いた階から確認していく。とはいえ気配を読んだ結果、妖が居るとは思っていない。確認するのは先の出来事に関する何かしらの痕跡。其れさえあれば特定は出来ずとも予想の正誤は確認出来る。
「奇襲とはいえ、人払いのようなものが有った以上何かが残っていても不思議じゃない」
葵は順番に確認をしていく。
確認場所は隅から隅までという訳ではなく、あまり確認されないであろう物の陰などを重点的に。前もって仕込んでいたならば他の生徒にも気付かれないようにしている可能性があるからだ。見えないようにしたり、認識阻害の術式を併用したり。
葵は感覚を研ぎ澄ませて周囲を探る。しかし、此れと言って手掛かりとなりえるものは見つからない。
襲撃があった階に降りてきて、存在があった筈の場所の周辺を確認してみるが、痕跡のようなものも無ければ仕掛けていたようなところもない。残っているのは葵が結界を張るのに使った呪符の残りのみ。
葵は壁に貼りついたまま残っている呪符を回収する。回収しても内包している術式は使い切っているので使えないが、残している訳にもいかない。
回収しながら葵は考える。
「(それにしても、妙な動きをした形跡が少ない…)」
相手の目的は現時点では分かってはいない。しかし何か目的があって行動していたのならそういった接触が多いものだが、今回は其れが極端に少なく、捜索などの線は薄くなった。其れと同時に予想していた相手の可能性は強まる。
葵が初めに気配を感じた時はまだ距離があった。しかし少し移動してからは待ち構えていたかのように先回りしていた。あの時間にはまだ葵の他にも妖絡みは他にも残っていた筈である。たとえ葵たちが相手の術中にあったとしても、他の妖絡みもその場には居た筈であるにも関わらず、他には行かずに真っ直ぐに接触してきた。となれば始めから葵を狙っていたと考えられ、そういう相手ならば葵が予想している相手が浮かぶ。だが、葵は少し引っかかっていた。
「(でも、少し波長が違ったような…)」
葵が襲われるとするならば先の狼と考えるのが自然であるが、其れだと少し噛み合わない部分が存在する。
あの件の狼にしては攻撃行動に違いが見られる。以前の狼は数の利を活かして獲物を追い詰めるような動きをしていたのに対して、今回の襲撃犯は視覚的に姿を惑わしながら分裂と合体を行っていた。姿に関しては少しの技術がある妖なら可能であるが、分裂と合体で数を変動させるというのは異質である。妖の正体を特定出来れば話は早いが情報が少なく葵は其処まで至っていない。
其れに人払いに関してもまだ分かっていない。
「(そうなると……)」
葵は職業上敵対されていても不思議ではなかったりする。もしかすると過去の因縁が関係しているかもしれない。しかし其処まで考えるとキリが無い。
「(…ん?)」
有るかも知れぬ因縁を思い出せずに居ると、ふと葵の探知領域の中に妖の気配が入って来た。妖側も葵の気配を認識しているのか気配はゆっくりと葵の居る場所へと向かっている。妙な動きをしていたりするが、ゆっくりと確実に向かってきている。そしてそれは間もなく葵の背後の延長上に到達する。
しかし葵は武器を構えるどころか警戒すらしていなかった。其れは覚えのある気配だったからである。
「やっぱり居たのね」
「やっぱりってなんですか?せつ姉さん」
背後に現れたのは白雪せつであった。しかもその姿は、学園内で見かける制服姿ではなく、白い着物を纏った姿であり、更に白みが増した髪が暗がりでも十分映えていた。こちらが本来とも言えよう。
白雪せつはその姿で分かるように雪女の半妖である。雪女だからこその白さを持っているが、其れが人間時のミステリアスさを醸し出していたりする。
余談ではあるけれど、実は雪女にはその名称で察せるように男性は居ない。故に雪女は人間と交わることが珍しくなく、半妖が多い傾向にある。だが其れでは世代が続く毎に血縁は次第に薄まっていき妖としての種も危うく思えるが、雪女が未だに存在し続けているのには訳が有る。
雪女には交わらなくても自然的なり人為的なりの発生という増やし方が存在する。とはいえ、それはそれで個体の質等の問題もあるようだが。
「少し前に学園関係者ではない気配を感じたのと、廊下に殺傷性の低い呪符が張られていたところから、今夜辺り来るのではないかとは思ったわ。目的は証拠隠滅の為の回収と確認辺りかしら?」
白雪せつは簡単に葵の目的を言い当てていた。そんなに分かり易いかなという風に言い当てられた葵は苦笑いする。
「それで何か収穫はあった?」
「お陰でさらに状況が分からないように…」
特定するどころか、下手に考える程に可能性は増えていってキリが無い。
「ところで、せつ姉さんはこんな時間にどういった御用が?」
「私?私は単なる散歩よ」
「え?」
散歩でわざわざ学校に入るのか、と思っても口にしない葵であった。
「冗談よ」
そう言って、白雪せつは徐に指を動かしては小さな雪の結晶を作りだした。雪女の半妖である白雪せつにとっては造作も無い事であるが、今其れを行う意味は特にない。単なる息抜きぐらいの事。
「私も確認といったところかしら」
「…そんなに問題があった?」
人目が有っただけに半妖状態になってはいなかったものの校内で抗戦したのは軽い程度では済まない問題があったか、と葵は思ったが、白雪せつの表情はそういった面倒事があるような表情では無かった。
「そういう事ではないわ。
特に理由が無くても学園関係者は度々夜に来ていたりするのよ」
「え、そうなの?」
「ええ。偶に校長が廊下に浮かんでいるのも見かけたりするわ」
幾ら夜には普通の人間が居ないといえど校長として其れはどうなのか。とはいえ其処まで意見する者はこの学園には居ないだろう。立場上言えないというよりは、類は友を呼ぶような者たちであるから。
「そういえば、其方の方々はお元気?」
「其方……あー、元気と言えば元気ですかね。アレもそう簡単に消える様な性格ではないですから…」
話は世間話へと切り替わり、確認へとやって来た筈の二人はそのまま校内を暢気に歩き出した。
黒白の集うた夜はまだまだ続く。