弐話 夜天の霹靂
念の為に言っておきますが、
正しい諺は【青天の霹靂】です。お間違いないように。
意味は突然おこる事件や変動といった感じの意味です。…多分
「はぁはぁはぁ…」
外見からして高校生ぐらいであろう少年が夜の帳が下りた町の中を全速力で走っていた。喧噪から少し離れ、道路を走り、人気のない公園の入り口を飛び越える。少年に急がねばならない理由はない。しかし何かから逃げるかのように少年は足を緩めることなく必死に夜を駆ける。
(どうしてこうなった……)
時は少し遡る。
その少年―――鹿賀 古太郎は少々ツキのない男だ。夕食後、いつものように妹がデザートにアイスを食べようと冷蔵庫を開けると何も入っておらず機嫌を損ねた。何でも、古太郎がなんとなく食べたのが最後の一つだったらしく、既に陽は沈んでいるにも関わらず今から買って来いと我儘を言ってきた。我慢しろよで済めば良い話なのだが、言えばお使いの難度が上がる事を理解している為(以前言ったときは季節限定にレベルアップされた)、古太郎は渋々買い出しに行った。其処までは別によかった。買いに行くぐらいで済むのだから安いものである。
だが、古太郎がいざ外に出てみると、冬が終わり少しずつ気温が上がっている筈なのに背中には悪寒を感じる、後ろに誰も居ない筈なのに妙な視線を感じる等、珍しく不安感が溜まる一方であった。ビビりではないと自覚している故に其れが古太郎にしては不思議だった。
必死に走りながらも自身の現状を考えている古太郎の隣を、何かが通り抜けて正面の地面に小さい火柱が上がった。
いやいや何の冗談だと古太郎が振り返ると、明らかに何かが古太郎目がけて飛んできていた。照準は其程良くないものの流石に明確な危機感を感じた古太郎は反射的に走り出した。
そして今に至る。
もう外に出た目的も忘れて古太郎は無我夢中に走る。不可解な事は沢山あれど、今は何よりも自身の命が惜しかった。
「俺が何をしたって言うんだ!いや、心当たりと言うか、ラス一のアイスは食ったけど…こんな怪奇現象に出くわすようなことはしてない筈だぞ!」
そう叫びながらも古太郎は走るが、走れども走れども全く引き離せてる気がしない。背後から何かが飛んでくることは無くなったが、其れでも妙な感覚が無くなった訳ではない。古太郎の勘は未だに危険を知らせ続けていた。
だが、そんな時、古太郎は自分の背後が一瞬輝いたように感じた。
―――――――!!
輝きを認識すると同時に背後から感じていた視線が消えた。
「なんだ…一体何が…」
古太郎が後ろを振り返ると、暗いだけで何も見えない訳では無いのに何故かはっきりとは目視出来ないが明らかに其処には何かが存在していた。恐らく今迄古太郎が危険を感じていたものの正体であろう。
それは怪しげに光る瞳、鋭い牙、生物らしい体毛。現実でも見かける特徴を兼ね備えた其れは明らかに狼の其れだった。だが狼にしては色々と妙ではあった。何故このような住処とも違う場所に居るのかも謎であれば、そんな異様な狼が堂々と三匹も迷い込んでいるのに何処も騒ぎにならなかった事も謎である。
流石に狼となれば気付く筈なのに先程迄は確実に居なかった上、狼を引き連れてくるような場所を通った記憶は古太郎には無かった。
「(どこから湧いてきたんだよ…!未だになんか狼の輪郭がぼやけるしなんだこりゃ!?)」
古太郎はその存在を更に凝視した。其れにより、狼たちが始めは古太郎を追っていた筈なのに、その古太郎を無視して此方ではなく木の上を睨み付けていることに気付いた。
その視線を追って古太郎も木の上へと視線を移動させると、其処には一つの影が…
「(…って、おまえ人間じゃねぇ?!)」
古太郎が驚いているのも無理は無い。其処に居るというだけでも驚きだが、その影は翼のある人だったのだから。
古太郎が驚いている間にもその人影は懐から紙らしきものを取り出して狼に向かって飛ばした。すると不思議な程真っ直ぐに飛んでいった紙は次の瞬間黄色い閃光となって狼たちを襲う。
「今のは…!」
先程背後で光ったものと同じ閃光なのだろう。閃光は立て続けに放たれ牽制のように狼たちを古太郎から引き離していく。ある程度距離が空くと、その人影は狼たちの前に飛び降りた。
地面に立ったその姿は、後ろ姿からして少女であることが分かり、身長は恐らく古太郎より低く、風に靡く髪は闇夜に溶け込む黒、巫女のような装束を身に纏い、そして背中からは人ではないことを主張する小さな黒翼。其れもその翼は本物である事を証明するように動いていた。
先程までの状況を忘れて暢気に観察している間にも、その少女は狼たちに対して攻撃を行っている。閃光が迸り、時に真っ赤な火柱が立ち上がり、狼たちを退けていく。
古太郎自身、何を目の当たりにしているのかよく分からない。自身が知っている世界ではない別の現実。
「(にしても、あの女の子どっかで見たことあるような気がする…。なんかこう…凄く最近に。羽の生えた人なんて一度見たら忘れない気がするんだが心当たりがない。というかあんな知り合いは居る筈がない。なんで見たことある気がしたんだ?)」
―――グルル―――ガアッ!!―――
「――! しまっ!?」
状況を忘れて思考に集中していた古太郎に向かって死角から狼が襲い掛かった。完全に油断していたこともあり反応するのが遅れる。今から動き出しても遅く古太郎はやられたと思った。そんな時、飛来してくるものがあった。
―――シュンッ
襲いかかった狼に対して紙手裏剣のようなものが飛来し、その身体に触れた瞬間、紙は紅炎へと変わって狼を弾き飛ばした。
一瞬、紅炎が弾ける際の明かりで古太郎の居る方を向いた少女の顔がちらりと照らされたが、暗いこともあって眼鏡らしきものをかけていること以外、古太郎には分からなかった。
少女が現れてから少しの時間が経った。
狼たちはこちらに威嚇しながら一か所に集まり、少女は古太郎と狼の間に入るような位置で狼たちの様子を窺う。少しの睨み合いの後、狼たちはついに諦めたのか一匹残らず同化するように闇夜へと消えていく。
それを確認した少女は持っていた紙を仕舞い、古太郎の方をちらっと見たかと思うと一瞬にして姿を消した。何事も無かったかのように残されたのは古太郎だけ。
「一体何だったんだ……」
古太郎は一人呟いた。
近くに先程のようなものが居る気配も音も聞こえない。古太郎は安心しながらも注意してこの場から立ち去ることにした。またあんなのに絡まれるのは御免だ。彼の顔にはそんな気持ちが浮かんでいた。
「…ただいま」
警戒も取り越し苦労だったようで、古太郎は何とか自宅に帰ってくることが出来た。何か忘れている気もするが命の危機に比べれば大したことでは無いだろう。これで一安心だ、そう思って古太郎は自分の部屋に戻ろうとすると、奥から誰かが近付いてきた。
「おかえり。で、アイスは?」
奥から出て来た妹がそんなことを言った。その瞬間古太郎から先程とは違う汗が出た。
「(あ…そういえばそんなことありましたね。一安心かと思ったが、これからもう一つの危機に直面しそうだ…)」
「で、アイスは?」
古太郎が答えを言わなくとも、古太郎のその手に何も無い事から既に結果を悟っているのだろう。その顔を見れば分かる。妹の顔は笑顔であるにも関わらず怒っている事は分かるのだから。この様子では何をしても許してくれるという道はないようだ。
「(せめて外に出ている間に気が変わったぐらいしていてくれれば良かったんだが…執念深いことだな!)」
こうなれば取れる道は一つ。
「……グッバイ!」
「おいこら逃げるな!!」
もう逃げるしかなかった。
ついでにアイスを買ってくれば何とかなるだろう、そう決めた古太郎は靴を高速で履いて、先程逃げていた時以上の速度で家を飛び出したのだった。
◇
「ふぅ。一応これで今夜は大丈夫かな」
開放したままのベランダから葵が自宅の中へと戻る。開けたままの戸を閉じるその姿は、消える前には無かった装束に身を包んでおり、その背中からは異質な黒翼を生やしていた。
葵は途中のままにしていた紙束以外の道具を片付けてからゆっくりと腰を下ろした。すると次の瞬間、まるで絡みつく煙が引き剥がされるかのように纏っていた装束が消えていき、その下から部屋の中で着ていた元の服が現れた。装束が消えると背中から生えていた翼も無かったように一緒に消えていた。
葵はそれに対して何の戸惑いなどは無い。
葵にとってはその変化は普段通りであった。
妖。
妖怪や物の怪などとも呼ばれ、人間のように長い歴史の中で存在し、人間の理解を超える現象などを起こすと言われる、不可思議な力を持つ人ならざる存在。
葵はただの人間ではない。葵はその中でも烏天狗の力を持ち、人と妖の血を引く半妖である。その為、葵が内なる力を表に出した場合に先程のような黒翼と装束の姿になり、それを止めれば普段通りの人間の姿に戻る。
「それにしても…」
葵は先程のことで少し気になることがあった。先程出くわした狼たち。人気の無かったとはいえあんな町中にまで狼が出るということも妙ではあるが、それ以上にアレが本当に狼だったのか疑問が残った。
妖の血を引いている葵は離れていてもそれなりに他の妖の力や気を感じ取ることが出来る。だが、妖ではない狼の気を離れた位置から感じ取ることは出来ない。現に葵は狼の存在を察してあの場に訪れたのではない。
しかし実際に対峙してみれば、あの狼たちは狼の形を取ってはいたが生命体にある筈の生気とでも言えるものが少し妙であった。輪郭がずれているとでも言うべきか、外見と中身の差に違和感が生じていた。言うなれば雑味がある。
妖としても只の狼としても捉え辛い異様な存在。
「後ろで誰かが糸を引いている…?」
仮に目的があったとしても先程の具合からして割り出すのは難しい。
命が目的だったとしたならば、(襲われていた者には悪いが)只の人間を相手にあの数と速度差ならより早くに果たしていても不思議ではない。だが実際には仕留め切れてはいなかった。
命では無いとすれば動き回る事が目的だったと考えられなくも無いが、そうする意味が理解出来ない。
考えれば考える程に疑問が浮かぶ。
「狼か…」
目的は不明だが、少しぐらいは情報があったのは確か。本物の狼でなかったとしてもその形を取っていたということは、後ろに居るのはそれに関する妖怪かもしれない。もしも式神だったら其れはまた別の話になるが接触していたところ、葵はその手の気配を感じなかった。
「(とりあえず警戒しておくことに越したことは無い。何かあってからじゃあ間に合わないからね。そうと決まれば、一度話しておきたいところだけど…)
今朝行ったところだからなぁ…」
葵の脳裏に過ぎった選択は、別に躊躇う理由は無かった。
あの場所へは身内のようなものだから何度訪れてもいいのだから。ただ、そう何度も訪れると言うことは流石に遠慮しておきたいというだけであった。
補充はしたばかりなだけあってまだ必要は無く、何よりあちら側と接するならば極力行動に気を付けないといけない。
「それはまた今度でいいか」
警戒しておくことではあるが、まだ急ぐべきところ迄は達していない。故に葵は次に補充が必要になった時にでもついでに話そうと向かう事を保留した。
「…狼の件は明日から巡回することにして、今日のところは休もう」
そうして葵は布団を敷いて、明かりを消したのだった。
葵が就寝したであろう頃。
葵との戦闘で撤退していった狼たちが雑木林の中を力なく進んでいた。目的地があるかのように進む狼たちの身体が、少しずつぼやけていっていた。身体の輪郭は揺らぎ、足取りが徐々に草木に妨げられなくなっていき、実体がまるで幽体のように変わっていく。その眼だけが闇に輝いていた。
―――グルル……―――
―――グルル…―――
―――グル…―――
狼たちが雑木林の中で立ち止まった。その場は先程とあまり変わらない景色が広がっていた。だが、一つだけ違うものがあった。
それは狼たちの正面の闇の中に存在した。闇に紛れて姿ははっきりとしないであるにも関わらず怪しげに存在感を放っている眼が狼たちを見ていた。
狼たちは静かにその闇の下に歩み寄る。
「……収穫ハ無シか」
狼たちを一瞥して、その存在は呟いた。
そしてその存在は暗闇の中から獣の如き手を出して、狼たちに向けた。
すると、手を向けられた先の狼たちの身体が崩れていき、塵のようになってその手の中に吸収されていく。全てが集まり終えてから開かれていた手を握りしめる。
吸収されたことで狼たちが持っていた情報がその存在に還元されていく。狼たちが見た景色、感じた空気、狙った獲物、敵対する存在。
「…半妖、妖気を持ッテいながら人の姿ヲ保ツ者か。皮肉なモノダ。唆サレ動いタ我が目的ノ前ニ、《《その到達点にも似た存在》》が立ち塞ガルとはナ…」
その存在は狼たちの記憶にあった烏天狗の半妖に対して、薄い関心を現していた。
「今ノ我ではアレを相手取るノハ骨ガ折レヨウ。ナラバ順序ハ変わるガ時間ヲカケテ蓄えるトしよう…」
遠吠えのような音と共にその存在は闇の中へと包まれていった。その時に闇の中へ向かう瞳が鮮血のように紅く、揺らめき消えた。