十章:黒髪の戦い
ホリムの街の裏路地を一人の少女が全力で駆けていた。
最近のホリムの裏路地は治安が悪くなってきており、少女一人で出歩くなど危険極まりないのだが、今の少女にはそんなことを気にしていられる余裕はないようだった。
少女は両手で自分の両耳を塞いでしまいたい衝動に駆られていたが、そんな事をしてしまったら、もし危険が迫ってきても瞬時に対処できなくなるのでそれをできないでいた。
大通りからの絶望に嘆く声や恐怖のみで紡がれた叫び声が、塞ぐことのできない耳に纏わり付く。
少女の瞳から涙が零れた。昨日までの当たり前の日常がもう帰ってこないことと、明日を迎えることができるとも言い切れないこの身の危うさを悟り、耐えきれなくなったのだ。
少女の視界が涙でぼやけた。それでも少女は逃げ続ける。
噴水が印象的な明るい広場に出た少女はそこでも行われている惨劇を目にして、とうとう足を止めてしまい、その場に座り込んでしまった。
ふいに惨劇の主達の風を裂くような悲鳴が聞こえてきて少女はそちらに視線を向けた。
そこには金髪の戦士と黒髪の剣士が惨劇の主達を蹴散らしている姿があった。
金髪の戦士は猛々しく力強い戦斧の一撃で一気に屠っていく。
黒髪の剣士は荒々しくされど的確な剣撃で確実に戦闘不能に誘っていく。
頼れる者のいない絶望の中に現れた勇ましい二人の姿に少女は、昔、弟によく読んで聞かせた絵本に出てくる英雄の姿を重ねた。
そもそもの発端は国が突然、王都周辺の街に滞在している騎士団に王都への招集を掛けたのが始まりだった。
ホリムで勤務している騎士団にも呼び出しが掛かり、騎士団がホリムを離れて三日目、突然それは襲ってきた。
鋭い牙をもつ者、高速で飛ぶ者、驚異の膂力を持つ者、多種多様な姿をしているが一括りにして人はこう呼ぶ、『魔物』と。
「広場のやつらはこれであらかた片付いたか」
「くそっ、真剣はまだ扱い慣れないな」
そう愚痴るリークを尻目にキィルは近くで座り込んでいる一人の少女に手を差し伸べながら話しかけた。
「大丈夫かい、立てる?」
いきなり優しい口調で話すキィルにリークは気持ち悪そうな顔をした。
「は、はい、大丈夫です。 あの、……あなた達は?」
少女はキィルの手を借りながら立ち上がり、問う。
「旅人だよ、……騎士団は動いてないみたいだけど、なんでかな?」
「騎士団は今、王都に呼び出されていていないんです」
それを聞いたキィルは顔をしかめて呟く。
「騎士団がいない間を狙って魔物が? まずいな、レベル4以上の魔物がいるかもしれない」
レベルとは魔物の強さを表した数字であり、これが高いほど厄介になっていく。レベル4以上の魔物は全体的に知能が高く、魔物を統率している場合もある。
ちなみに世界最強の種族である竜族はすべてレベル8以上である。
「リーク、二手に別れよう。 お前ががここを守って、突撃力のある俺が魔物を蹴散らしてくる、途中で人にあったらここに集まるように言うから責任重大だぞ」
「……わかった。 気をつけろよ」
リークに指示を出すとキィルは少女に語りかけた。
「聞いた通り、ここはこいつが守るからここで他の人達の面倒を見てあげてくれ、」
「は、はい!!」
少女の返事を聞くとキィルは一瞬微笑んで、すぐに顔を引き締めるとリークに細かく作戦を説明して広場を出て行った。
次々と集まってくる人たちにリークはキィルに言われたとおりの指示を出していた。
広場には大小合わせて5つの入口があるので、怪我のない元気な者にそれぞれの入口の見張りをさせてリークは広場の中央の噴水に待機してどこから魔物が来てもすぐに対処できるようにしていた。
「剣士さん!! こっちにゴブリンが一匹来ました!!」
「わかりました」
リークは瞬時に報告のあった方向に走り出し、ゴブリンと呼ばれた毛皮を身体に巻き付けて最低限度の露出を控えている幼年期の子供のような体躯をした不気味な深緑色の魔物が振るう棍棒をかわしながら退治する。先程から何度もこれを繰り返している。所定の位置に戻ったリークはしばらく考え事をしていて、ふいに
「………さすがは傭兵、頼りになるな………」
そう呟き、キィルの考えた陣形に感心した。
突然、リークの耳に遠くで吠える魔物の声が微かに入ってきた。その時、
「お前が金髪の言っていたリークという剣士か? まだ子供じゃないか」
リークが振り返るとそこには十数人の軽装をした騎士が立っていた。その中の数人は少し見下すような視線をリークに向けていた。
「騎士団が戻ってきたんですか?」
「我々は念のためにと少人数で残っていた騎士隊だ。 大通りで魔物と戦闘をしていたところ、金髪の旅人に一般人が広場に集まっているから援護に行ってくれ、と言われてな、急いで駆け付けて来たが、どうやら正解だったようだな、運良く今まで魔物はこなかったようだが君一人では到底守り切れまい」
騎士隊の隊長らしき中年男の物言いに少しむっとしたリークだったが、今はそんなことよりも先程聞こえてきた魔物の鳴き声が気になっていた。騎士隊には鳴き声が聞こえていなかったのか、特に気にする様子はなかった。
「なら、ここは任せました。 俺はキィルの援護に向かいます」
リークの言葉に隊長は目を見開いて驚いた。
「何を言っている!? 君もここで我々に守られていたまえ。 キィルとは金髪の旅人のことだな? 彼は魔人のようだから心配いらないだろう」
「…………俺も魔人なんで」
リークは言葉を残すと隊長の反応を待つことなく走り出した。
――さっきの鳴き声は他の魔物とは含んでいた力強さが違う、おそらく魔物を率いる者の声――
リークがそう考えながら向かっていたのは魔物の鳴き声が聞こえてきた街の出口だった。それもただの出口ではなく、その出口の先には『憩いの森』が広がっていた。
森に入る一歩手前、そこに魔物が立っていた。
巨大な狼、それがリークの魔物に対する第一印象だった。しかし、リークの5倍はあると思われる身体の大きさ以外にも普通の狼とは違う特徴が二つあった。しっぽが三つあることと知性を思わせる眼の輝きである。
「おまえがボスだな?」
リークの言葉に魔物は唸り声で答えた。
リークはそれに少し安堵した。キィルから聞いた話で、もし人語を話すほどの知性を兼ね備えていたならば、即刻逃げろと言われていたからである。
――人語は話せないが、理解はできるようだな――
リークは両手剣を構える、魔物が足にググッと力を込めた。
「………………」
一触即発の空気が場に流れる。
先に動いたのはリークの方だった。
――他の魔物が姿を見せない内に終わらせる――
正面から斬り込みにいったリークの斜めから振り下ろされる両手剣を魔物は後ろに飛ぶことでかわし、リークが剣を構えなおす前にリークに跳びかかった。
自分の首筋に襲い掛かる鋭い牙をリークはしゃがむことによって避け、そのまま身体を回転させ、真上を飛び越えていく魔物の脇腹に一太刀の傷を付ける。その際、頬に魔物の後ろ脚の爪が掠るがリークは気にしなかった。
突如の激痛に態勢を崩しながらも着地した魔物はリークのいる方向に身体ごと振り返った。
その眼からは知性を感じる輝きはなくなり、ただ憤怒の感情と野性の鋭さのみが含まれていた。
――傷付いてからが本番ってわけか――
魔物からのプレッシャーが増したことを感じたリークは一撃を食らわせた事によって緩みかけた緊張感を引き締めた。そして、
「こ、恐い!!」
そう叫んで魔物に背を向け、森に向かって逃げだす。魔物は背を向けた者を本能で追いかける習性があるので、オオカミの魔物も例に洩れずに逃げるリークに向かって駆け出した。
これは手負いの魔物が街へと逃げないようにするためのリークのあまり上手ではない芝居だったのだが、魔物はそれに気付くことなく追いつきそうになったリークの背に向かって跳びかかった。
ときたま後ろに視線を送っていたリークは魔物が自分に向かって跳ぶのを確認した瞬間、振り返り様に両手剣を真横に薙いだ。すぐ後ろに迫っていた魔物のこめかみに剣が食い込む手応えを感じて勝利を確信したリークだったが、そこで予想外の事が起こった。
「なっ!?」
両手剣が真ん中から、ベキッと折れてしまったのだ。
急に軽くなった両手剣のせいで態勢を崩したリークに逸らし損なった魔物の巨躯が衝突する。
魔物はすでに絶命していたのでただぶつかっただけなのだが、それでも高速で跳んでいた勢いは凄まじいもので、そのまま森の木に魔物に挟まれる形で激突してしまった。
「ガハッ!…………っくそ」
自分に圧し掛かっている魔物を足蹴にして押し退けたリークは悪態をついた。
リークの腹からは夥しい量の血が流れ出していた。
魔物に食い込んだままだった折れた先端側の両手剣が、リークと魔物が衝突した際に、リークの身体を深く切り裂いたのだ。
致命傷だった。
「俺は……死ぬのか?……」
どんどん遠くなっていく意識にリークは自分の死を予感した。リークの口端が皮肉気につりあがった。
「ハハ………シャレになん………ねぇ……な」
リークの意識は深い闇へと沈んでいった。
その一部始終をずっと捉えていた瞳があった。
『憩いの森』の方角に