8, 太陽の子
俺内部だけでのギネス記録の更新。一体何の陰謀あってか、一日で三度気絶するという滅多に遭遇できないイベントとのご迷惑な出会い。
第三話、知らない天井。二度ネタは受けねえって。
「気付いたか?」
大分落ち着いていたせいか、突然の呼び声に驚いた。声のしたほうを首だけ向けて見ると、うちの高校では有名な男勝りな保健室の先生が椅子に座ってこちらを見ていた。
ついでに部屋を見回した。どうやら気絶した後、ここに連れて来られたようだが……随分と可愛らしいお部屋でした。やけにピンク色が貴重なものが多い。カーテン、ベッドシーツ、じゅうたんがそれに当てはまる。頭上と学習机の上には溢れそうなほどぬいぐるみが飾られている。なんとうか、創造の世界の女の子の部屋をまんま具現化したような感じだ。少なくとも先生が住む部屋ではない。保健室、なんてのもありえないだろうから、と考えていると結論はすぐに出る。
というかだな、実は言うと俺は今まで思考を巡らすことである種の現実逃避をしていたんだ。状況を説明すると、実に至極当然のことだがベッドに俺は寝かされているわけだ。こう、クラクラするような女の子の香りがするのも今までスルーしていたことなんだが、それよりも俺の左手方向に超近接状態で何か人間サイズの物体があることが、もっとも俺が逃げたい現実だ。
「人前で恥ずかしげも無く添い寝できる彼女を持っていて良かったな」
むっちゃ恥ずかしいんですけどおおおおおおおお!!
まて、冷静に考えてみよう。俺の肘に当たっているブツは気にしないことにして、あとふともも付近に当たってるブツも放棄して、あと肩らへんに乗せられているブツもスルーして……ああぁ、寝息が、寝息があ。
「素数を数えろ、素数を」
先生がにやけた顔でそう言ってくる。
しかし一理あるぞ。素数だな、素数。
1、2、3、4、5……。素数ってなんだ。九九の1段だっけ。こんなんで煩悩退散できるのかがすげえ疑問だぜ。
「ていうか先生、見てないで助けてくれるとありがたいんですが」
「自分でどかせばいいだろう」
「いやそれがですね、なんか俺のありとあらゆる左側部分に何か当たってて迂闊に動けないんですよ」
「気にするな、お前の幻想だ」
「勇気が出てきました」
もはや何事も無かったかのようにそっと準先輩の腕と足を引き剥がし、上体を起こした。右肩に異様な鈍痛を覚えて、顔をしかめた。
「極度の疲労と軽い脳震盪だ。後遺症は無いだろうが、まあ多少頭がふらふらしたりするだろう。二日くらいは安静にしてるといい。ここで」
「ここで!?」
「文句でもあるのか」
「理性が保ちません」
「良いじゃないか。既成事実でもなんでも作ればいい」
あんたそれでも保険医かよ。
「まあそれじゃあ、あたしはご両親と少し話してくるから」
「あ、はい」
そういうと先生は部屋を出て行ってしまった。話ってなんだろうか、部屋を借りていることを説明しに行くのか。
……違うな。気をきかせてくれたんだろう。きっと先生は俺らの事情を結構知っている。少なくとも教員であるから俺の転校のことは知ってるだろう。そして、どうして準先輩があれだけ必死だったのかも。ここに運んでくれたのも先生だろう。横で静かな寝息を立てる準先輩。彼女には俺にいいたい事が山ほどあるのだろう。俺はそれを聞く義務がある。だから先生はこの部屋を出て行った。
ということは全部違って、俺が上半身半裸なのを見ていられなかったんだろうと推測する。今までこの肌に直接準先輩が触れていたと思うと……あぁ、官能的過ぎて想像できない。
とりあえずベッドの近くにある椅子の上に置いてある俺のシャツを着ようと、ベッドを出ようと片方の足を出した。
「待って……」
今にも消えてしまいそうな弱々しい声。ベルトを掴んだ力は重力を感じないほどに軽く、そのあまりにらしくない先輩の姿に俺は止められずとも動きを止めてしまった。彼女の海の瞳が俺を射てくる。ぐさりと刺さるような苦しさと、ちくちくと突くような愛しさに俺は困惑した。彼女に触れたいと願う左手が動く前に、俺は感情を歯で噛み砕いた。
「どこに、行くの?」
「どこにも行きませんよ。今は」
「いいよ、どこかに行こうとしても」
俺は準先輩の言う言葉に耳を疑った。でも、言葉とは裏腹にベルトを掴んでいる手は少しだけ震えているのが伝わる。けれど、強がりにも見えなかった。
「どうせ、逃げられないもん……」
そういうことかと、俺は理解する。理解した上で、言う。
「こんな弱っちい手、すぐに外せますよ」
「無理だよ。はるくんには」
「俺が準先輩に同情して、外さないとでも?」
「それもある。でもそれだけじゃない」
そうだ、それもある。今準先輩が俺のベルトを離しても、俺はきっとこの部屋から逃げることは出来ない。彼女の檻が俺を捕まえてしまっている。身動きなんて取れるわけもなかった。
「力ずくで、逃がさないつもりですか」
「それもある」
「また襲い掛かってくるんですか」
「それもある」
「じゃあなんなんですか」
準先輩は寝ていた身体を起こして、俺と正面から向き合う形でベッドに座った。彼女は煤けた制服のままだった。お世辞にも整っている服装とは言いがたく、どこかで乱暴に扱った形跡が見られた。よれよれの皺だらけになってしまったそれは、嵐を浴びて倒れてしまった花。
しかし、準先輩の目は見るものを射抜くものがあった。
思わず震える。萎れた花に身体を包んでいたのは、しっかりと根を張る蒲公英か。それとも天に強く伸びる向日葵か。雨にさらされた程度で元気を無くしそうな俺は、ただそれを目の前にして萎縮するしかなかった。
彼女の小さく、引き締まった口が開かれた。
「はるくんのことが、好きだから」
――なんだって?
「はるくんのことが、大好きだから」
……っ。
思わず目を逸らしてしまうほどの言葉の強さに、俺は感情を強く殴られた気分になる。
嘘だ。その言葉にそんな力はなかったはずだ。何度言われたか数え切れない。
好き、大好き。まるで茶番にもならないご機嫌取りの感情。俺たちは辞書で調べて自らの感情の形を見つけて、それを使っていただけ。
俺は彼女が好きで、彼女は俺が好き。そこには意味があっても、心が無い。俺が抱くこの複雑難解に入り組んだ迷路のような感情は、そんな言葉で表現されていいものじゃなかったはずだ。文にしたら止まらなそうなこの歯止めの利かない洪水を、たったの「すき」という二語で表せていいものじゃなかったはずだ。
「こっちを向いて」
準先輩が俺の頬を両手で掴んで、無理矢理向かせる。
彼女のガラス細工のような瞳も澄んだ川のような言葉も、すべてまとめてキモチという名の弾丸だった。
「はるくんが逃げようとしてるのは、ボクからじゃない」
「……え?」
唐突に鬼ごっこのくだりを思い出して、裏返った声で聞き返した。
「はるくんが逃げようとしてるのは、鬼ごっこ自体からだよ」
先ほどの意志に満ちた眼光が突然弱まる。
「ごめんね。ボクがなかなか捕まえなかったから、疲れちゃったんだよね。はるくんが必死に手招きしてるのに、ボクが気付かなかったから。ごめんね、本当にごめんね……」
色を失った目には大粒の涙を浮かべ、言葉より、行動より重い気持ちをタックルで俺に伝えてくる。
血を吐きそうなくらい強烈だった。なんという重さだろう。彼女の肩越しから流れてくる淡く甘く苦く鋭く大きいものの数々は、まるで爆弾のようだった。
「だからね、はるくん。もう、止めよう?」
「……何を?」
「鬼ごっこだよ」
鬼は俺をしっかりと掴んだまま、そう言った。
「だって疲れるじゃん。逃げて、追ってさ。イヤじゃん、逃げるの。もっと近くにいたいのに、もっと感じていたいのに、どうして逃げなきゃならないのさ。馬鹿じゃん、それ」
鬼ごっこをすることで、俺は何を求めていたのだろうか。暁差し込む教室で、一体俺は何を考えていたのだろうか。まさか、告白に緊張して変なことを言ったわけではあるまい。俺は各個たる意志を持って準先輩に声をかけたのだ。
「ボクははるくんを捕まえた絶対の自信が今はある。なら今度の鬼ははるくんで、ボクは大好きなはるくんから逃げなきゃならない。どうして? どうしてそんなことをする必要があるの?」
どうしてだろうか。あの日、俺は彼女にどうして鬼ごっこをしようと言ったのだろうか。俺の憧れで、恋情を寄せていた準先輩。
俺は、彼女を追いかけていた。ずっと、ずっと追いかけていた。心臓破りの坂なんて下り坂と変わらないと思えるほどに、心臓を高鳴らせていた。
そうして、あの夕焼けの下で彼女をタッチした。
「はるくんは……ボクのこと、好き?」
「……もちろんです」
それだけはあの日から何も変わらない。考え方も、状況も変わってしまったけど、その気持ちだけは心の奥に、誰にも触れられないように置いておいたんだ。
「なら、それでいいじゃん。ボクははるくんが好きで、はるくんはボクが好き。それ以上に何を望むの?」
「……互いが好き合っていても、いずれはきっと何かで仲違いしてしまうような気がして、恐いんです」
臆病だなあと、準先輩は視線を逸らしもしないで、悲しそうに笑った。
「そんな未来のことなんて、未来で考えればいいんだよ」
「でも近い未来、俺はここから遠い場所に行かなきゃならない。そうなったらどうするんですか?」
恐い。耳を塞ぎたくて仕方が無かった。でも、準先輩の温かな手がそれを許してくれない。
「逃げちゃ、ダメ」
彼女は再三、そう俺に言う。
「逃げちゃ、ダメなんだよ。はるくんの鬼ごっこは、最初からずっと、そういうものから逃げるために用意された勝手な口実だったんだよ」
……本当にそうだったか。俺は彼女との関係が壊れることを怖れて、そんなことを言ったんだろうか。
「……違う」
自分でも驚くほど乾いた声が出た。準先輩にはまるで魂のこもっていない空っぽの否定に聞こえたかもしれない。けれども、俺はその否定に力を込めた。
「俺はそんな難しいことを考えて準先輩に告白したわけじゃない!!」
怒鳴り声になった。女の子が一人暮らすには十分なほどの大きさの部屋に、埋め尽くすがごとく声が響き渡る。下の階で先生や準先輩の親が驚いているかもしれない。それでも、叫びたかった。
「俺は準先輩に好かれたいと思っただけだ! でも、自分を見ていて欲しいなんて恥ずかしい言葉も言えないから、だからっ」
「――知ってるよ」
上から優しくふたをするような抱擁感のある声。俺は思わず黙り込んでしまった。
「ずっと見てきたんだもん。はるくんのことは、もうなんでも知ってる。今まで分からなかったはるくんの気持ちを知って最後。ボクははるくんの全部を知ってる」
掴んだ頬を寄せて、準先輩は俺を抱きしめた。
「だからもういいんだよ。追いかけっこなんて止めて、ボクと一緒に、ね?」
「……俺は、引っ越しますよ?」
「大丈夫。すぐに会えるから。毎日メールもするし、電話もするから」
ああくそ、泣けてくる……。
なんなんだろうかこの人は。温かすぎて溶けてしまいそうだ。何を悩んでいたんだろうか。彼女のような太陽を放り出して、どこに行こうとしていたのだろうか。
戻ってこよう。ここは、良い場所だ。
「準先輩」
「なあに?」
「俺と、付き合ってください」
間はほとんどなかった。
「これからずっと、よろしくおねがいしますっ」
それは、太陽の子を思わせる最高の笑顔だった。
□□□
季節は冬。都会は寒いだけで滅多に雪は降らない、なんていうのは昔の話だ。異常気象も相まって、今年は雪がかなり降った。
しかし、どうやら俺の門出には出迎えてくれなかったらしい。寂しくも思うが、交通を考えれば空気を読んでくれたとも言えるだろう。
俺は現在父親が運転する車の中にいた。首都高速に入り、もう景色は見えない。夜中だったら豪華なイルミネーションも見れただろうが、昼間の都会の光景なんて面白くもなんともない。連なるビル群も見慣れ、稀に姿を現す東京タワーやレインボーブリッジに親が反応するくらいだ。
後部座席から、俺はなんとなくその光景を目に焼き付ける。田舎のほうに引っ越す俺ら家族は、もうこんな軒並みを見ることなんてないだろう。
この光景のどこかに、準先輩が受験する大学がある。そう思うと、見るのも苦じゃない。
準先輩は成績も優秀だったために、大学受験には苦労しないそうだ。推薦も十分受けられるし、中程度の大学だったらそれだけで通りそうだ。品行方正でもある彼女はやはり欠点が無い。俺も大変な人に好かれて、好きになってしまったものだと思わず笑ってしまいそうになる。
大学は既に受かったらしいが、それについての連絡は無い。特に俺が知る必要も無いだろう。俺も彼女も新しい場所で生活をする。多数の苦難に当たることだろうし、きっと挫折もするだろう。
でも、俺には彼女がいて、彼女には俺がついている。やれる。そう確信できる。
手元で握っていた携帯電話がふいに震えた。準先輩とメール中だった。
『また会うときは、はるくんお気に入りのとびっきり可愛いネコミミつけていくよー!』
……それは、冗談でもよして欲しいなあ……。
寒空の下、ちょっとした事件から始まった俺たちの鬼ごっこという恋愛戦記は、ここにて一度幕を下ろしたのだった。
あとがきです。蜻蛉です。
速筆とか言って、なんだかんだで8話に二ヵ月かけたことをまずお詫びしましょう。そして、知らないうちに何故か恋愛ものになってしまったことについては、読者さま側に判断を委ねます。私個人としては、6話辺りでこの展開を持ってくるつもりだったのですが、知らない間にもうあれよあれよと……。
しかしまあ、良くも悪くも完結してしまいましたこの作品。一応第二期の予定があります。どのようなクオリティーになって帰ってくるかはまったくの未知ですが、こんな感じのクオリティでお送りするんじゃないかと思います。
では、変態もネコミミもどこかに置いて来てしまったこの作品ですが、ここまで読んでくださってありがとうございました。またこのような雰囲気の作品でお会いしましょう。