7, 鬼ごっこ
後書き参照。
Q「あなたはコメディ小説家ですか?」
A「本文参照」
……正直悪いと思ってる。でも後悔はしてない。きっと熱いんじゃないかと信じてる。過信だけど。
夜空を駆け抜ける音がする。白鳥準は体面も気にせず、ただ全力で恋情を向ける相手の下に走っていた。たったの一度も止まりはしない。距離にして自転車で二十分はかかるだろう道のりを、一心不乱に全力疾走している。息が荒くなり、顎が上がり、もつれる足に鞭を打つ。既に疲労を超越し、彼女の身体はハイな状態になっていた。
午後十時の気温はかなり低い。寒空の下を疾走する彼女を市民は怪訝な目で見ていた。ペースの全く落ちないスピードで歩行者の横を通り過ぎていく。その姿を馬鹿にするものはいない。注目しつつも、彼女の切羽詰った表情に気圧される。心優しい主婦は、その後姿を見て「頑張れ」と小さく心の中で呟いた。
国道高速道路が近くにあるこの地域では、信号待ちが酷い。四車線の道路が彼女の前に立ちふさがり、運悪く信号は眼前で赤になった。流石の彼女も法は犯せない。自分にもっと勇気があって、無茶できる自信があったならばと、やり場の無い憤りを自身に叩きつけた。運搬用のトラックが数台過ぎ、彼女にとって永遠とも思われた時間から解放される。普段通りの人並みなのに、今では渋谷スクランブル交差点を彷彿された。
白い息が吐き出される。耳の奥でドクンドクンと血流が脈を打っていた。水が飲みたい、素直に彼女はそう思う。しかし生憎と財布は持ち合わせていないし、そんな暇も無かった。
自動販売機の前を通りかかったとき、クラスメイトと出くわした。無視しようと思ったが、向こうから声をかけてきたので足踏みは崩さずに短く、用件は何だと聞いた。その感極まる状態に心打たれたのか、クラスメイトは自動販売機から一本のスポーツドリンクを購入し、彼女に手渡した。驚いた顔をして受け取ったが、すぐに笑顔になり、「ありがとう」と残して走り去っていく。クラスメイトは唐突に自分の彼氏と連絡を取りたくなって、携帯電話を取り出した。
遠い。はるかに遠い。
彼の家にたどり着くまでの道のりに、一本の長い坂がある。市立の小学校に通う生徒たちはここを通って通学する。かくいう彼女もよくこの道は通った。自転車で遊んでいたときなどは、よく心臓破りの坂と、ベタな名前をつけていたものだ。この急な坂は、彼女らの小さい頃の遊び場でもあったのだ。
しかし、こうして心臓が跳ねている時、下から見上げたその坂は黄泉へと続く道とも思われた。こんなものを全力疾走で駆け上がれるのは陸上部くらい。女子の身体である彼女には到底無理な話だと、専門家は笑うだろう。
だが、それでも彼女は止まらなかった。街灯がスポットライトのように彼女を照らす。汗で濡れた頬に髪の毛が張り付き、食いしばった唇に塩味のする液体が流れ込んでくる。ブレザーもブラウスも脱ぎ捨てたかった。彼女の感情だけではなく、れっきとした温度が体力を蝕んでいる。唾液が乾き、のどにべったりとしたものが粘りつく。しかし飲み込む余裕も無く、夜の空気を吸い込んで辛さをごまかした。
坂の中盤、突如足の側部に痛みが走った。学校指定の革靴は走るには向かなかった。彼女の足は靴下の下で靴擦れを起こし、真っ赤に染まっていた。雄たけびにも似た舌打ちをして、彼女は靴を脱いで手に持つ。アスファルトのごつごつした感触が感覚を奪っていく。痛みに涙を流しそうになるが、まだ早い。涙を流すのは、きっと先だと思った。
終盤に差し掛かった頃、彼女の肺が大きく悲鳴を上げた。視界が点滅し、一瞬にして彼女の意識をもぎ取っていこうとする。ぜいぜいと鳴る自分の息は他人のようで、どうでもよかった。しかし、彼女の身体は意志とは逆に崩れ落ちる。いくら運動神経の良いものでも、全力疾走を続けていれば身体も悲鳴を上げよう。もう目の前に坂の執着地点はあるというのに、彼女は地面に手を付いてしまった。
額から滴る汗を見て思い出す。鬼ごっこのことだ。
鬼ごっこは相手を追いかけている途中で休憩するのはタブーだ。相手を捕まえるにはペースを守りながら、同一の速度で相手を追い込んでいくこと。とは言え、彼女と彼の差はあまりに大きい。こんなところでへばっていては、また距離を開けられてしまうと無性に心配になる。心臓の鼓動がしきりに高鳴ってやまないのはそのせいもあった。そう思うと、彼女の身体は自然と直立する。
自分が男の子に恋をして、必死になっている。そのことが楽しくて仕方が無いし、切なくて仕方が無い。今すぐにでも捨てて、普通の学園生活でも送ればいいと思うこともある。彼女は温厚であり、厳格であり、何より乙女であって人間だった。
どうしてそんなに必死なの? そう誰かが聞いた。
なんという愚問だろうか。そんなものは彼女にはたったの一つしか答えがなく、それ以上になることも以下になることもない。
――だって、好きなんだもん。
心に言い聞かせてやると、強い支えになる。
彼の家はもうすぐだった。だが、彼女の足は一歩踏み出すために岩を動かすほどの労力を必要としていた。心なしか頭も重い。冷たいはずの夜風が熱風に感じるほど、肉体は熱を持っている。
でも、それが心地良い。分かるのだ、自分がどれだけ彼のことを慕っていて、それに情熱しているのかが。
そうして彼女は、それに酔いしれるように身を横に……。
「おい! しっかりしろ!」
途切れかけた意識が突然の一声によって首をもたげる。ふらついた身体が誰かによって支えられるのを彼女は感じた。一瞬彼かと思ったが、ふと見上げてみれば、それはこの夜道を追いかけてきた保健室の先生だった。
「ったく。青春するのは構わないがな、倒れるなら止めちまえっての」
女性のくせに本当に男勝りな言葉を使う。しかし、荒い言葉からはどれだけ心配していたのかが垣間見れる。嬉しく思う一方、反論したい部分があった。
「倒れるくらいが……ちょうど良いってボクは思います」
先生はしばらく呆けたように彼女を見つめていたが、ため息を漏らすと、自分が乗ってきた自転車を指差した。
「いっちまいな、馬鹿野郎」
□□□
やっぱり無理なんだよ。
そう呟いた彼は、もう立ち上がっていた。六畳間の部屋の中心で、自身を奮い立たせている。迷いはあるし、情けなさもある。渦巻いているのは後悔も含めて、考えれば考えるほど駄目なものばかりだった。
しかしそれでも彼は心に決めたことがある。彼女に謝ろう。そしてまた一緒に馬鹿やりましょうと言おう。朝から晩まで悩んで、結論がそれだった。
一度決めたことを曲げるのは男じゃないと思う。あそこまで彼女に悲しい顔をさせておいて、何を今更とも思う。だが、押し寄せる後悔の念は彼を突き動かすには十分すぎるものだった。何が過ちなのか確かめることもしない。とにかく、今の安心がほしかった。
壁に吊るされたジャケットを制服の上から羽織り、机の上にあった財布をポケットに入れた。彼女は学校にいると先ほどの電話で分かっている。連絡からまだ数十分ほどしか経っていない。もしかしたら帰ったかもしれない。でもまだいるかもしれない。そんな希望が、彼を我武者羅にしていた。
飛び出すようにして家を出る。夜は不気味に静まり返っており、駆け出すには十分な環境だった。
不安も何もかも、突き破ってやる。
学校までの道は約二十分程度。自転車を使い、ショートカットを使えばすぐにでもたどり着けるだろう。彼は鍵を奪うようにして掴み、車庫に入れられたマウンテンバイクに跨った。久しぶりの感触に尻が浮つく。相当なスピードを出すが、ヘルメットもつけない。心の安心が欲しい彼にとって、身の安全は頭に無かった。
心臓破りの坂の途中を横に曲がる。くだりのスピードは十分。ハンドルを切るのに身がすくんだ。ペダルに思いっきり重心をかけ、自転車が抵抗を見せなくなるまで力を込める。ギアを全開まで上げる。急ぐ気持ちが、ギアにかかっていく。
――待っててください。準先輩……。
□□□
自転車を手に入れた彼女の行動は早かった。もう目前まで迫っていた彼の家にすぐたどり着き、震える手でインターホンを押す。彼女の心情とは裏腹に、実に軽快な音が鳴った。
彼の母親が出てきた。化粧っ気の無い、若い人だ。自分も親になったらこういう人になりたいなと思った。
「あら白鳥さん。こんな時間に、はるになにか用?」
「えっと、と、とりあえずはるくんを……」
はやる気持ちが抑えきれず、ついせっかちになって催促してしまう。しかしそれに母親は気を悪くした様子は無い。無いが、おかしな様子だった。
「ごめんねえ。さっきあの子どこかにでかけていったのよ。まったく、もう十時だっていうのに」
「で、でかけたんですか?」
「ええ。ついさっきね」
なんという不運。入れ違いになったのだろう。いや、彼が何を目的として外出したのかは分からないが、自分がここにたどり着く寸前、彼はまた逃げ出した。鬼ごっこはそう簡単に終わってくれないようだ。
「どこにいったか、分かりませんか?」
「うーん。マウンテンバイク使ってどこかに行ったみたいだけど……」
それでは何の情報にもならない。近場だろうが遠場だろうが、使うときは自転車を使う。
いまや心臓はポンプと形容しても過言ではないほどの振動をしている。追いかけるとしても、そろそろ限界が近かった。自転車を使っても体力は使う。楽になるだけで、今の容態は改善されない。
息が詰まるような気分だった。
一度立ち止まってしまったせいで、足は地面に張り付いたように動かない。今にも身を投げ出して眠ってしまいたいくらいに辛い。眠いし、だるいし、何よりもここまで頑張ってきて成果が得られなかったことに精神が堪えていた。
「はるくん……」
色々な想いがある。でも今は、とにかく泣きたい。
辛い。辛いのだ。想いが届かないことが辛い。
彼は強い。逃げるにおいては、少しは手加減が欲しいくらいに強い。あれだけ色仕掛けをして襲ってこない男子がいるなんて思いもしなかった。純情少年なんて、幻想だと思っていた。
彼女は間違えた。鬼ごっこという競技を果てしなく甘く見ていた。それは自分に自信があったからでもあり、彼を舐めていたからでもある。そのツケが回ってきたのだ。
人は結局、「好き」の気持ちだけでは何にも成立しない。そんなもので鬼ごっこが成立するほど、恋愛というものは甘くなかったのだ。
……行こう、まだ終わってない。
□□□
午後十一時を回った。出歩く人もちらほらといった感じになってきて、静かな夜は完全な静寂へと帰ろうとしている。
彼は校門までたどり着いて足止めを食らっていた。あろうことか校門が閉まっている。当然といえば当然だが、固い決意を掲げていた彼にとっては拍子抜けする出来事だった。
「どうすりゃ良いんだよ……」
空に向かって空虚に呟く。明日になってしまえば、彼女との間に気まずいものが出来てしまう。そうなる前にどうにかしようと思って来たというのに、とんだ神の悪戯だと思った。
校門に背中を預けて、身体の力を抜いた。白いため息が出て、空に消えて行った。
待てばいいのだろうか。それとも走れば良いのだろうか。
まだ手は残っている。彼女の家の前で待ち続けていれば、いつかは絶対会える。しかし、十一時を過ぎた今の時間にそんなことをすれば、不審者通報を受けかねないし、何より彼女に迷惑がかかりそうで恐かった。結局自分はそういう現実から逃げてばかりだな、と自嘲の笑みを知らずに浮かべていた。
待つか。走るか。
「……いや、考えるまでもないっしょ」
決意を胸にマウンテンバイクに跨る。まだまだ心は折れていない。ヘタレである自分を叱咤激励するように、近所迷惑も考えないで大きく雄たけびを上げた。
まだ、やれるぞ、と。
□□□
眼前二百メートルも無い。保健室の先生は徒歩で学校に帰っている途中、前方から大きな叫びを聞いた。もう校門も見えている。近くにあった街灯が、自転車に乗った男子生徒の姿を映し出した。
「なんで……あいつが」
絶望するような気分だった。加えていた煙草をぽろりと冷えた地面に落としてしまった。しかし視線は以前彼に向けられたまま。やけに意気込んで走り出そうとする彼に、先生は声の一つもかけられなかった。
家で引きこもっているんじゃなかったのか?
彼女を悲しませた自分に失望していたんじゃなかったのか?
様々な思考が巡る中、追撃するように先生の後方から車輪の回る音がした。勢いよく振り返れば、それは先生が応援する彼女の姿だった。猛然とペダルを漕ぐ姿は圧巻に値する。力強い、鬼のような激走だった。
そして前方、彼はそんな彼女に気付いた様子も無く、無常にもペダルに足を置いて走り出してしまう。
――鬼ごっこだ。
唐突にそう思った。そして次の瞬間には、先生は叫んでいた。
「白鳥いい!! 死ぬ気で追えええ!!」
彼女の耳に届いたかどうかは分からない。だが、恐ろしい速さで横を通り過ぎた彼女の表情を垣間見たとき、先生は無条件で安堵した。
□□□
傍から見れば実に滑稽だ。一組の男女が死ぬ気で鬼ごっこをしている。どちらも切羽詰った様子で、まったく速度を緩めようとしない。一つのレースを見ているような気分にもなる。それほどまでに、彼らは真剣で、純粋だった。
彼女の家の近くまで差し掛かった、曲がり角。彼のマウンテンバイクは捨てられたゴミにつまずいて大きくスリップした。自転車の後輪が大きく上がり、妙な浮遊感に襲われるのを彼は感じた。
――あ、やばい。
迫った壁を避けることも出来ず、激しい衝突音だけを残して激突する。猛烈な痛みと熱さを頭に覚え、彼は身体をぐったりを横たえた。
足も動かない。手も動かない。瞼も開けられない。呼吸も苦しい。分かるのは、アスファルトの冷たさだけ。
「――っ! はるくん!」
涙の混じった音が聞こえたかと思うと、その冷たさの中に温かさが入り込んできた。
ああ、馬鹿だな俺は。
こんなにも、こんなにもあたたかいじゃないか……。
意識が落ちる。
最後に見たものはなんだったか。彼女の頭には歪な形をしたミミは生えておらず、代わりに小さな人の耳が寒さで真っ赤に染まっていた。
――ちきしょう。いてえなあ、いてえよ心が。
彼は無責任に願った。
目覚めた時、どうか彼女が笑っていますように、と。
どうも蜻蛉です。
コメディ小説ってなんでしょうか。東の方の都市伝説だった気がします。
いえ、申し訳ないとは思ったんですが、あれですね、かかっていたBGMに合わせてノリノリで書いてたらこんなことになってしまいました。満足はしていただけないよねー。だって地の文章ばっかだもんねー。コメディ小説家として失格だよねー(泣
うう……ギャグとエロは第二期に持ち越します……。