伍章 試練の地
一
風が強く吹いている。その風を正面から受けた。足、体が重い。脆い壁のように感じる。
いや、水の中を歩いている、そんな感じだった。
初任務完遂から二年が経過していた。あの一件で、自身の未熟と甘さを痛感させられた。それからは、魔導だけでなく武術全般を学んでいた。いまだ二年の短期間ではあるが、基礎は修得していた。
数々の武器で、何が自分に合っているのか分ってきた。闇の人間である以上、大型武器は必要ない。剣と素手による格闘。魔導では、力を察知されやすいため、弓も学んだ。剣が、自分に合っていたが、それよりも投擲の巧みさに自身が驚いていた。
それからは、必ず飛剣(投げナイフ)を数本携帯するようになった。
今では、魔導師というよりも、暗殺者になっていた。
自嘲しながら、学院の荘厳な門を潜る。院内を見回す。変わることなく、熾烈な生存競争が繰り広げられている。
「久しぶりね」
建物に入ったとき、声を掛けられた。優しく透き通るような響き、自然に耳に入る。
明霞だと瞬時にわかる。
だが、そこに立っていたのは、知っている明霞ではなかった。色気が増していた。
ただの色香とは違う。色香に極上の品位が練りこまれていた。
「一年ぶりだな」
不自然さを感じる一言だったが、明霞は笑顔を向けてくれた。
歩きながら話し始めた。
「暗殺任務ばかりしているんですって?」
「志願しているわけじゃない。与えられる任務に暗殺が多いだけだ」
無表情に答えた。
「二年間で、九件の暗殺を成功させるって、普通考えられないわよ」
「明霞だって、二年前に卒院の試練を生き残った。自由の身になって、学院にいることは、普通考えられないだろ」
「仕方ないでしょ。お父様は、学院の院長だし、弟もまだ在学している。あなただっているでしょ」
そう笑顔で答えてくれた。
計算の無い自然な発言が嬉しかった。
李雲玖は、院長と明霞のことは家族だと思っている。ただ、それを伝えたことは無い。
やはり、どこか負目があった。
蔡伯鈞院長は、最も自分を認めてくれている。便宜は図ってくれるが、情けをかけられることはなかった。それでも、優遇されている。そう分かるだけで充分だった。
「そう言えば、お父様が言っていたわ。白冰の振る舞いに手を焼いているって…」
蔡白冰とは、明霞の弟であり、蔡伯鈞院長の息子であり、学院きっての天才と呼ばれている。魔力を常人より多く扱える。それは、個人の資質によるところが大きい。
魔力とは、リグターのことである。人体を濾過装置のようにして、レーテルの中からリグターを抽出するのである。蔡白冰は、その装置の大きさが桁違いで、驚異的な効率なのだ。まさに天から与えられたモノであった。
李雲玖は、同学年ではあったが接点は無かった。蔡白冰は学年の中心人物であり、将来の指導者であり、支配層の人間であることを約束されている。本人もその意識を持っているようだ。
才能も血統も選良意識のある蔡白冰は、それゆえに不遜な態度を取る。
知識もあり、常識的な判断能力もあるから、実力者、権力者、厄介な強者に対しては礼を尽くすが、自身よりも下と判断したものには手厳しかった。
院長はその事を嘆き、明霞も心配しているのだろう。
李雲玖は、家族のことには口を出さなかった。院長を父、明霞を姉のように思ってはいる。だが、現実は部外者だ。どれほど想いがあろうとも入れぬ空間なのだ。
だからこそ、その話題には触れなかった。
「お父様の所に行くんでしょ。じゃ、私は後でいいわ」
そう言うと、明霞は爽快な色香を残し別れた。
李雲玖は、院長室に向かって歩いていた。
大きな室内の中央、重厚な赤茶けた机に書類が山積していた。木目の美しい本棚には、魔導書が並べられている。
蔡伯鈞は、眼鏡を掛けて書類に目を通している。白髭を撫でている痩せた老人がそこにいた。
監視人からの報告は、既に上がっていた。
書面に目を通し終えると、頷くような息を吐き出した。
「想像以上だ」
思ったことが、言葉に出ていた。
蔡伯鈞は、李雲玖の能力に驚かされていた。
暗殺を全て成功させている。どれほど困難な任務であっても達成していた。
初任務の皇子暗殺から始まり、第三、第七の任務は、前任者は失敗している。特に、第七の任務は不可能と言われていたのだ。だが、それを成した。
それら全ての結果に、満足している。しかし、蔡伯鈞を真に喜ばせたのは、能才である事以上に、絶対的な忠誠心であった。
要求した事は、予想を上回る結果になって返ってきたのだ。それは、能力の成せることよりも、忠誠心による気遣いの成せることだった。学院に対しての忠誠心ではなく、私個人への忠誠だと、蔡伯鈞は見抜けていた。
それでいい、と思っている。それだけの便宜を図ってやってきた。
掘り出し物だった。息子白冰を後継者として育成している。まだまだ息子に足りないモノも多いが、魔導では天賦の才があった。だからこそ、白冰の犬に丁度良いと考え、経験を積ませてきた。
扉を叩く音。
「入れ」
蔡伯鈞は答えた。
扉が開くと、李雲玖が一礼して入ってきた。髪は伸び、表情には幾分の疲労は滲んでいた。しかし、眼光は鋭く輝いている。
李雲玖が、頭を深く下げた。
「任務完了致しました」
「大儀であった」
いつもの言葉。顔を上げる。
李雲玖の表情は暗い。
「許可は戴けるのでしょうか?」
蔡伯鈞には、その問い掛けの意味は分っていた。卒院試験に出場して自由を得る。
腕に自信があれば当然の帰結だ。
「今年は、白冰に受けさせる。同士討ちを避ける為に、一年耐えてくれぬか?」
「了解致しました」
無表情にそう答えた。そして頭を下げて、立ち去ろうとしたとき、院長はこちらに向かい歩いてきた。
李雲玖の肩に手を置いた。数秒の沈黙の後に口を開いた。
「ゆっくり休むのだ。私には、お前のような者が必要だ」
李雲玖は、温かさを感じていた。院長の優しい言葉以上に、手の温もりが心に響いた。自分を必要としてくれている。そう実感するだけで、胸が振るえ眼球が熱くなった。
「勿体無い御言葉です。私は、院長に救っていただきました。その恩を返しているに過ぎません」
「そうであっても、私は頼りにしている。息子のように…」
殺し文句だった。李雲玖の心は渇いている。渇ききっている。そんな心に、少しずつ潤いの言葉を、態度を沁み込ませる。大量ではない、まさに微量といえる程のものを。それでも過剰反応するだろうと分かっていた。これまで行なってきたことだ。そして、遂に『息子』という言葉を出した。その効果は絶大だった。
表面的には変化しなかったが、李雲玖の心に強く沁みこんでいた。いや、痛みを感じる程に刺さっていたのだ。
「院長…」
李雲玖からは、その言葉しか出てこなかった。数瞬の沈黙の後に、再び頭を下げて退室した。
夢が叶った。学院の殺風景な廊下を歩いているとき、熱いものが込み上がってきた。それは、目から溢れ出し、初めて心から躰に温もりを感じさせた。
嬉しさで泣くとは、こういう事だと躰で分かった。
木々の葉の擦れる音が聞こえている。日の光は斜に傾き、窓から入る光が室内を明るく照らしている。
蔡伯鈞は、李雲玖の去った室内でたたずんでいた。一点を凝視していた。口は動いたが、声は発していない。
蔡伯鈞は、認識した。
予想を遥かに超えて成長をしている。今は我が子よりは、劣っている。魔導師としては、二周りほど蔡白冰の方が優秀だろう。だが、李雲玖には得体の知れないものを感じる。
それは、生への執念というのであろうか、冷静な狂気というのか、言葉では正確には把握できないが、精神では捉えていた。一言で言えば、可能性である。
本当は、息子などと言う気は無かった。だが、言わねば絡められないと感じた。奴は、金には興味が薄い。だからこそ、一番弱い心に楔を打ち込んだのだ。
息子の敵に回すよりも、犬にすることに心血を注ぐことにした。
今年は、息子が卒院試験を受ける。学院の世襲制への一歩なのだ。
魔導学院は世界に七校しかない。当校は、下から二番目であるが、白冰の才気であれば、頂点に君臨することも可能なのだ。それをいち早く促進させる為にも、私の代で重要人物との関係を密にし、各国に対しての影響力を増しておかねばならない。
必要なものは白冰に継承させ、不要なものは李雲玖に処分させる。それで総て上手くいくだろう。
だが、不安材料は無いわけではない。白冰の才気、実力からくる慢心と尊大さが目に付いた。学院内で魔導の実力は圧倒的ではあるが、実戦では命取りになりかねない。
そのことで、頭を痛めていた。
卒院試験。生徒たちの間では、生存への試練と言われている。
卒院試験を希望した者全員を、無作為に選び一対一で闘わせる。勝敗判定は、至極簡単だ。生き残っていれば勝者である。参加者は、棄権や命乞いなどは許されない。参加すれば、相手を殺さぬ限り、自由はおろか生命すら得られない。
李雲玖は、歩きながらそんなことを考えていた。
「来年…」
実は、前々から今年の卒院試験に向けて、準備を整えてきた。参加者が誰なのかということ以前に、参加人数すら判らない。だが、対策の立てようはある。自身の実力を正確に把握して、自分よりも実力のある者だけを想定すればいい。
今年の強敵は、院長の息子白冰だろう。他者とは、魔力の強さがずば抜けていた。他は、注意力を切らさなければ勝てる者達だ。
一瞬の油断が命取りになる。任務を重ねることで骨身に滲みさせてきた。油断、慢心がどれほど死に等しい行為か、それを最も理解しているのは自分だと。
室内から、窓の外に目をやった。
「蔡白冰…」
多数の供を引き連れた蔡白冰が、前庭を歩いていた。
貴人のような振る舞いが鼻につく、連れも卑屈なまでに媚びていた。その光景、人の動作、総てが不快だった。
院長には、目をかけていただいている。それでも、その息子は、自分と真逆の人間という認識が、堪らなく不快にさせた。
院長室には、穏やかな空気が流れていた。蔡伯鈞の微笑む顔がそこにある。
明霞は、机に浅く腰掛けていた。用事は終わり、室内を出ようとした時、思い出したように言った。
「そういえば、お父様。創国の要人の口から『項』という名前が上がりました。学院の項芳琉教授のことではないかしら。もしそうなら、足元掬われますわよ」
項教授は、反蔡伯鈞派の急先鋒である。
項は、次期院長の座を狙い裏工作に余念が無かった。数年前まで、項派勢力は学院総数の一割足らずであったのが、最近では二割強まで伸ばしていた。
未だ危機的状況ではないにしろ、侮れない力を持つようになっていた。
「なるほど。外部の他勢力と結託、共闘する気らしいな…」
髭を撫でながら、そう言った。勢力倍増の理由が見えてきた。
「明霞。項の背後を洗えるか?」
「それは、依頼なの?お父様」
娘が、意地の悪い笑顔をした。父は、その笑顔に笑って応える。
「いいだろう。金一斤(六〇〇グラム)だ。決して無理はするな。いいな」
背後関係を調べるだけにしては破格の依頼料だ。
蔡伯鈞の顔や言葉は、依頼人というよりも不安な父親の姿であった。
父親の気持ちを知ってか知らずか、鼻歌を歌っている。
蔡伯鈞は、繰り返し注意を促す。
「明霞。項教授は、魔導の達人であり、知恵者だ。思考も薄汚く、手段も選ばない。決して甘く見るな」
娘は、そんな当たり前のことを言われても…、と云う様な顔をすると、華麗に礼をして退室した。
父親は、ため息を吐いた。
明霞は、四〇代半ばに出来た念願の子供だった。子供たちを甘やかし過ぎたな。
それにしても、良い子供たちを授かった。
明霞は、優しく聡明で羨まれるような美貌を持っている。
白冰は、たぐいまれな魔導の才能。知識量。指導者としての器量。総てが申し分ない。
欠点は、明霞が優し過ぎることと、わずかだが決断力に欠ける。白冰は、誇りが高い。傲慢な程に…。
二人の顔が浮かんだ。そして、悩むようにもう一度ため息をついた。
二
青々と茂っていた木々が、紅に燃えていた。山は、色彩豊かに変化していた。
学院から見る山々は美しいが、学院内は季節を問うことなく、地は赤く染められている。
そして、翌月には一年で最も血量を必要とする催しが開かれる。
卒院試験である。
今年の参加人数は、五四人。例年に比べて、二〇人ほど少なかった。やはり、蔡白冰の参加で見合わせようという意識が作用したのだろうか。
圧倒的な強者が参加したときは、こんなことが起こる。
室内から裏山を見ていると、明霞が学院本館に入って行く姿が見えた。
また院長に会いに行くのだろう。そうだとは分かったが、表情、雰囲気は、張り詰めているようだった。
藍紫色の髪が艶やかに靡き、凛々しい表情と相乗的に胸に響くほどの魅力があった。
その様な事を感じても、遠くからその姿を見送るだけだった。
明霞は、早足で歩いている。藍色の長い髪が多少乱れているが、優雅さは損なわれていない。
扉を強めに叩いた。
返事が聞こえるよりも先に扉を開けて入室する。
「お父様」
少しだけ普段よりも声量が出ていた。室内には、気配が二つあった。
「姉さん。騒がしいですよ」
厭味を過分に含んだ声。声の主は、白冰だった。六.一筝(一八三センチ)を超える長身で、血色の悪 い青白い肌。幼少の頃から誇り高く、謙虚さ、優しさに欠けていた。しかし、欠点総てを補って余りあ る魔導の才と、知識の集積は天才という単語しか当てはまらなかった。
「何か判ったのか?」
父親の優しく落ち着いた声がした。
明霞は、弟の存在を無視して話を進め始めた。
「重大な事が判明しました」
娘は、依頼人に報告する様に接していた。その態度は、父親を様々な意味で満足させた。金銭授受をした以上は、生業としての意識の高さ。親子間の甘えの無さ。依頼人への礼の取り方。
総てが、その一事で表されていた。
娘の姿勢に、父も背筋を正した。
「報告せよ」
「項教授は、国内の大商人・史宗世から膨大な金銭援助を受けています。そして、その一部を宮中にばら撒き、書示官二名を配下に押さえています。さらに、将軍たちにも高額な賄賂を贈り、関係を形成しています。将軍に関して、現在は地方の二流ばかりですが、中央軍の嶄夙将軍と関係を結びつつあります。嶄夙将軍は、帝が変わられたばかりで警戒しておりますが、関係を持たれるのは時間の問題かと思われます」
白冰が、父の顔を見た。弟も国の人物相関は、頭にあるのだろう。
項と嶄夙が手を取り、史宗世の資金力が加わると、至急を要する防衛策を打たねばならなくなる。また、書示官を押さえていることが狡猾であった。
書示官とは、国の正式文書を作成する役人のことだ。武官・文官問うことなく、帝の命を宰相の権限により書面製作することが役割だ。
平時であれは、二名の書示官の署名によって、多少強引にでも正式な許可書として偽の許可状、命令書を得ることが出来るのだ。
最悪、暗殺許可や小規模の地方軍の動員も、二名の書示官に罪を被せて切り捨てる事で可能になる。
われわれの立場、生命に直結することだ。
「なるほど。本腰を入れてきたと云うことだな」
蔡伯鈞は、目を閉じていた。
「父上。先手を打つしかありません。事は、学院を中心とした国の権力闘争です。火は小さいうちに消しましょう。今回、予防は無理でしたが、早期に発見できました。炎が燃え広がると、我が身が焼かれる事にもなりかねない」
「だが、言うよりも消火は難しいぞ」
蔡伯鈞は、目を閉じたまま答えた。
消火の仕方も様々存在する。蔡白冰は、項教授の命の灯火を消すことを言っているのだろう。それが本質ではある。しかし、項もそれを最も警戒しているだろう。
金脈を断つのも効果的だが、嶄夙将軍と連携してからでは遅い。
他は、嶄夙将軍を狙うことだが、危険が大きすぎる。失敗すれば、朝廷から討伐隊を送られかねないのだ。
嶄夙将軍に対しては、こちらから使者を出し教えればよい。力有る者は、力有る者で繋がるのが最善だと。
様々に考えながら、目を閉じたままで明霞に問う。
「何が最も有効だと思う?」
娘は、頭を下げて依頼人の意図を読み、自身の思惑も絡める。
「今は、正確に状況が掴めません。しかし、先手を打つならば、財力を奪うのが良いかと…。ですが、」
弟の白冰が、顔をしかめる。生温く場当たり的だと言わんばかりに。姉は、そんな事はまったく気にしていないようだ。
雰囲気を一変させ、口調も柔らかくなる。
「ですが、娘の立場からお父様の安全を図るなら、項教授を闇に消すのが最善かと。悪臭は、元から絶たねば今感じている不快さは消えないですから」
はじけるような笑顔で言った。
蔡伯鈞は、目をゆっくり開く。光の中、子供たちの顔が見える。指示を待っているようだったが、子供たちにさらに問い掛ける。
結論を導き出すまで、決定を口にする気は無い。
「では、項をどうやって仕留めるのだ?」
単純な問いを口にした。だが、意味は深い。
二人の子供は、思案している。様々な可能性を考えれば、意外と困難な事に気付く。
項は、ここの魔導学院の教授であり、一派閥を形成している。そういった人物を殺害する機会は、極端に少ない。しかも、一人の時を狙ったとしても、項は魔導に通じた達人である。超一流の刺客でなければ、成功する筈もない。そして、失敗は災いしか招かない。二度目の襲撃は無いのだ。護衛と警備が付くであろうし、こちらの匂いでも残せば、反攻に出てくるだろう。そうなれば、凄惨な展開しか待っていないのだ。
まだ、二人は思案している。この任務の重要な所は、人選なのだ。
白冰が、確認するように呟く。
「条件。腕が抜群に立ち、驚くほどの成功率。失敗しても良いように、忠誠心が欲しい」
忠誠心で一人の顔が思い浮かんだようだ。
「無理よ」
明霞が、結論を口にした。
「なぜだ?」
「学院生は、試練を受けないと自由に動けないわ。たとえお父様が、偽の命令で動かすにしても、学院の手続きは踏まなければならない。そこで虚偽や不正があれば、お父様の立場が問われるわ。項一派を喜ばせるだけよ…」
白冰は、さらに考えるが、苦慮しているようだ。
「私が行くしか…」
「ならぬ」
明霞の言葉に、蔡伯鈞が、短く腹に響くように声を出した。
「そうだよ、姉さん。姉さんなら失敗する可能性は少ないが、失敗した時の傷が大き過ぎる。我らのような人間は、人の上にこそ立つべきで、安易に動くべきではない。それに、姉さんの痕跡が発覚すれば、父さんの地位も危うい。ここは、失敗しても痛手にならず、成功の可能性が高い人選をするべきだ」
そんなことは理解しているとばかりに、明霞は視線を逸らした。だが、どれほど考えようとも、この任務に最適な人材はなかった。
ことの推移を見ていた父親は、ここまでだろうと思い。机の上に腕を置き、手の指を絡めた。すると、静かに父として方針を口にし始めた。
「二人の意見はもっともだ。この任務に耐えうる人材は、李雲玖しか思いつかぬ。だが、明霞の言うように問題もある。だが、今の時期の良さを活用しよう」
「父さん。まさか…」
明霞は、眉をわずかに動かしただけだが、白冰は口に出した。
「そうだ。翌月の卒院試験を受けさせる」
蔡伯鈞の声。もはや決定した様に断言していた。その言葉に、息子は笑い声を上げる。
「卒院させ、自由になったところで、本格的に飼い犬にしようという訳だ」
卒院試験は、申し込みをすると棄権出来ない。必ず闘い生死を決めねばならない。
白冰は、既に申し込みを済ませている。いくら院長の父であっても、学院の掟には介入は出来ない。
明霞が、最悪の事態を口にする。
「でも、お父様。白冰と李雲玖が、闘うことになったらどうするんですか?」
明霞が、不安そうに言う。
それについて、弟が答えた。
「大丈夫ですよ。可能性は、気にするまでもない程に低いですよ。それに、たとえ闘うことになったとしても、魔導で私が負けるわけありません」
薄皮一枚の謙虚さに、尊大さを包んだところで、不遜な感じは隠せない。
弟へ諭すように問い掛ける。
「それでも、可能性は零ではないわ。それに、なぜ仲間同士で危険を冒す必要があるの?」
「姉さんは、相変わらず面白いことを言う。李雲玖は、犬であり、消耗品だ。飼うにあたって犬の持っている運も知っておくべきだろう」
明霞は、父親の顔に視線を移した。父は、頷いていた。
父の考えも同様なようだ。それでも明霞は、ささやかだが抵抗する。
父は、そのこと自体、女特有の優しさと受け取っているようだ。弟は、私が反対している理由自体が理解できないみたいだが…。
結局、今年の卒院試験に李雲玖の参加は決定されることになった。既に、卒院試験までひと月を切っている。
相手は、いくら無作為に選ばれるといっても、それ相応の準備があるはずだ。その準備は、入念に行わねば死に直結する。
明霞は、李雲玖の顔を浮かべると心で詫びた。
三
卒院試験。
二ヶ所の特別会場で、二試合同時に行われる。学院側の高位職員が介入できぬように、複雑かつ複数の人間が分担して運営されていた。
まず全参加者を、前日にクジで南北の二つに分ける。
大会当日に、分けられた参加者は完全に隔絶された場所に入り、それぞれの待機場所で直径一示(三センチ)鉄球のクジを再び引かされる。鉄球には番号が刻まれてあり、その番号が自分の名前の代わりになるのだ。
そして、試合直前に南北の試験官がクジを引く。第一会場、第二会場の二名を一度に引く事で、最後の試合でも相手を判らせない工夫があった。
偶然の要素を、三度入れることで、たとえ生徒間や試験官が作為的に番号を選んだ所で、不可能な仕組みを作っていた。
闘う会場、相手などは、その場に行って見なければ判らない、と云うことらしい。
持ち込む物は一つだけ許されていた。
明霞から聞かされた情報は、以上だった。
随分と役に立つ情報だ。不正が無い。それだけでも李雲玖には、安心できた。
学院内の離れで、二人は塀の上に腰掛け並んで座っていた。
「間に合うかしら?」
明霞が、不安そうな瞳をこちらに向けた。
「大丈夫だ。問題ない」
「ごめんなさい。お父様を止められなかった…」
細く美麗な太腿に握った手を置き、うつむいていた。
「院長も、お考えあってのことだろう。任務では、卒院試験より過酷なものもあった。問題ない。それに、明霞が謝ることでもない」
自分は、院長と明霞の為に生きる。それだけだった。自分を必要としてくれている。それだけで幸福感に満たされる。この凄惨な場所で得ることの出来た、人としての温かさ。それを感じることの出来る唯一無二の相手だ。
明霞は、艶のある髪から清楚な匂いを漂わせて歩き出した。
「勝ちなさいよ。絶対に」
その言葉に真心を感じ、李雲玖は胸が熱くなった。
対決当日。李雲玖は、三閂(九.九メートル)もある南待合室で木製の丸椅子に座っていた。手には、一示(三センチ)の大きさの鉄玉が握られている。玉に、十二と刻まれている。
室内を見渡した。二六人の生徒が、無言で室内全体に散っていた。この二六人とは、闘うことはない。
闘う可能性があるのは、見えない二七人だ。その中には、蔡白冰も含まれている。
参加者で、見えない顔を思い浮かべていた。
「大丈夫だ」
心の中で呟く。最悪の事態を想定して準備をしてきた。
蔡白冰と闘うことになる最悪…。それすら仮定していた。肩に担げるだけの荷をまとめ、学院内の裏門付近の建物の陰に隠してある。
だが、すぐに考える事をやめた。なってもいない最悪の事態を思い悩むよりも、考え、実行しなければならないことが、まだ多くあった。
この場にいない顔を思い浮かべていると、昨日の事も思い出していた。
試験前日、組み分けのくじ引き直前に、院長から呼び出されていた。
院長室に入ると、院長は背を向け立っていた。威厳に満ちた背だ。その背に、頭を下げた。
「急なことになって、すまない」
「いえ、大丈夫です」
「問題が起こり、その解決には、お前の力が必要なのだ。力を貸してくれ」
院長からの頼まれごとなど初めてだった。これまで総て、命令であり指示であった。息子と思っている、その言葉が蘇った。
自分も父と思っています、と言いたかった。非人の身分の自分が、身分が学士階級の院長に言って許されるものだろうか、と葛藤があった。
「私も父と思っております」
口にしていた。その言葉に、院長は振り返った。笑顔だった。その笑顔は、作り物ではないように思えた。
少なくとも、負の感情に敏感な李雲玖には、微塵も感じ取らせなかった。
「そうか。頼りにしている」
思っていることを伝えられた。それが拒絶されなかった。そのことは、李雲玖の体を幸福感という甘美な刺激が駆け巡った。
それから、卒院試験が終わった後に話が及んだ。卒院して自由になったら、私の元で働いて欲しいと言われた。願ってもない事だった。学院に関係なく、蔡伯鈞様の命だけで動けばいい。
答えは決まっていた。
「喜んで」
床に片膝を着き、口に出していた。蔡伯鈞の目の光が増した。
「李雲玖。もう一つ、気になることがある」
「なんでございましょう」
「この書面に目を通せ」
机上に積まれている書類の山から、一枚の紙を渡された。
「これは…」
紙には、蔡白冰の問題が多く書き込まれていた。能力の精査、学院任務の過程から結果、生徒たちの風評に国の高官の評価もあり、その緻密さに驚かされた。
「白冰は、いや。息子が、高慢であることは知っておる。それは、私の悩みの種でもある。それにしても、これほど悪評であるのか?」
李雲玖は答えない。いや、答えられないのだ。肯定すれば、院長批判にすらなりかねない。だからといって、否定すれば現実認識が甘いととられかねない。
ただ黙すしかなかった。
「困ったものだ。もう一つ、願いがあるのだ」
その声は、誠の父親の声だった。自分に掛ける声とは違いすぎることを、否応なしに認識させられた。
「白冰を頼む」
言われたのは、その一言だけだった。
ひんやりとした鉄球が温まり、手に重さだけが伝わっている。
「頼むか…」
声にならない声で呟いていた。
試験管理官が現れた。時間は、三刻(一時間)が経過しようとしている。
既に、六人が呼ばれ、会場に向かって行った。南北合わせて一二名。その半数は既に死んでいるのだ。
試験官は、木箱の中に手を入れ、引き抜いた。
『十二番!』
立ち上がった。一同の視線が集まった。気にせず、出口に向かう。
「十二番、何を持ち込むのか?」
「この小剣を」
李雲玖が手にしていた剣は、護身用に枕元に置く小型の剣であった。二筝(六〇センチ)の長さで、重さは一斤ほどで扱い易い。
その場の全員が、驚いていた。魔導学院の生徒が、魔導具を選ばずに通常の武器を持ち込もうというのだ。これまでに前例が無い為に、試験官は瞬間戸惑ったが、禁止事項に記載されておらず、持ち込めない理由も思い浮かばないので、認めるしかなかった。
李雲玖は、外衣を羽織った。その行動に、試験官は質問する。
「これから闘いに向かうのに、なぜ外衣を纏う?」
「服装、衣裳に規定は無い筈ですが…」
小剣を腰に着け、外衣を調えた。その仕草と格好で試験官は、総てを察した。
小剣を見せたくないのか…。見せない武器だからこその『切り札』だと。
試験官の男は、最後の説明を始めた。
「四半刻(五分)以内に第一会場に到着しろ。でなければ、逃亡と見なされる」
それだけだった。だが、それだけで充分だった。
待機室を出た。
暖まっていた室内と違い、廊下は冷気で満ちていた。
無人の廊下を歩く。石床を叩く足音だけが、廊下に響いている。
小剣の柄を触った。そして、腰の後ろに隠し持っていた飛剣(投げナイフ)を左胸に移した。
不安だった。一応、飛剣は巧妙に隠したが、細かく身体検査をされればバレている。だが、身体検査は無く命綱になるであろう得物は持ち込めた。
魔力を感じぬ物は役に立たないという先入観が、魔導師の管理官らしくその目は節穴だった。
これで、最悪に対しての準備が整った。
前方に、光が漏れている。その光の中に吸い込まれる様に入っていった。
四
光。眩いばかりの光量だった。ざわめきが聞こえる。音量、大きくなる。
目が慣れてきた。足からは、石と砂の感触が伝わっている。目が光に慣れた。
岩場の会場だった。身長よりも高い巨石や肩までの石など、大小様々な石が転がり、重なり合っている。
前回の死闘が繰り広げられたのだろう。石や岩々に血飛沫が散っていた。そして、絶命した場所なのだろう、約一.二閂(約四メートル)先に大量の血が溜まっている。
観声。四方に設けられている見学席から狂気が流れ込んでいる。この試験は、他生徒への不満解消と見せしめも兼ねている。だからこそ、全生徒に公開されているのだ。
正面に、顔を向けた。対戦相手は、存在を皆に訴えるかのように大岩の上に立っていた。
紫色の法衣を着た蔡白冰が、赤砡が嵌め込まれた銀杖を手に持ち立っていた。
最悪の展開になった。
高位学士の衣裳を着て、蔡白冰が笑っている。
「やはり、犬の運は悪かったな。飼犬になり損ねた」
蔡白冰が、笑いながら言う。蔡白冰の背後に、院長の姿があった。
院長は、前列の見学席に座り、顔をしかめている。
「お前、父上に『自分も父と思っている』って、言ったんだってな」
李雲玖の眉が動く。
蔡白冰の言葉は続く。
「身の程知らずも甚だしい。非人が、上三位の学士の方を父と思うなど、狂気の沙汰だ。実の息子からすれば、唾棄すべき振る舞いだ」
李雲玖は、沈黙している。
「少しばかりの幸運に恵まれて、任務の数を遂行できたからって、図に乗るんじゃない。非人であり、蛇虫であることには変わりがない」
動かなかった李雲玖が、初めて口を動かした。
「無駄口が多いな。さあ、始めよう」
「外衣をとらないのか?」
「取らせたらどうだ?」
その発言に、蔡白冰は笑い出した。
「男の衣服を脱がせる趣味はない。その汚い衣裳が、きさまの死装束だ」
蔡白冰の指先から、白銀の閃光が放たれる。素早く右に避けると、後方の壁面にぶつかる手前で消滅した。
(壁面には、魔滅石が埋め込まれていのか…)
魔滅石とは、魔力成分リグターを吸収する石である。正確に言えば、石ではないのだが、傍目には石にしか見えない。魔滅石は、魔力を変質させても、分解、解体し吸収する。
大勢の人間を前にして闘うのだ。当然といえば当然だ。埋め込まれた魔滅石は、作用に方向性をつられている。見学者席の方向に強烈に効果を向けられているが、それでも多少の影響はあるだろう。壁に衝突する前に消滅したのが、何よりの証拠でもあった。
そうなると壁際に近づくだけ不利になる。それは、生成した魔力を吸収され、魔攻威力が減少し、非効率になるだけなのだ
複数の光。
右方向へ旋回するように避けていく。戦闘会場は考えていた以上に広く、二五閂(八二.五メートル)四方はありそうだ。
奴の魔導の才。嫌と言うほど見せつけられる。
低位魔攻といえども、繰り出す早さは通常の四半以下の時間だ。その早さで繰り出されると、反撃の隙すら見出せない。
「どうした、李雲玖。逃げてばかりでは勝てないぞ」
見下したように笑いながら、魔攻を繰り出してくる。
足元は、砂利や石が転がり走りにくい。この地面では、李雲玖の長所でもある速さを活かし難い。
雨のように繰り出される白銀の冷鑓を、動きでかわす事には限度があった。目の前の大石に隠れ、盾にした。
蔡白冰の放つ魔攻は、横殴りの雨のように地をえぐっている。
「岩陰に隠れたか。きさま、蛇虫ではなく蜚蠊だったのだな」
李雲玖に投げかけた。穏やかな感情の水面に、歪んだ一石を投じられた。荒れる感情を抑える。戦闘では、我を忘れ感情に支配されれば負けなのだ。
屈辱には、慣れている。これまで、ジッと耐えてきたのだ。なんの為に耐えてきたのか。こう云う時こそ、耐えて蔡白冰の首を刎ねるべきだった。
一瞬、蔡白冰の猛攻が止んだ。大石から片腕だけ出し、一撃を放った。
蔡白冰と同様の魔攻を放っていた。淡く青い槍のような閃光は、蔡白冰の形成していた魔壁に阻まれ、消滅した。
「馬鹿か、低位魔攻が通用すると思っているのか?この私に」
咄嗟に、白冰に攻撃したが、院長の顔が思い浮かび見学席に目をやった。
院長は最前列の席に腰掛け、蔡白冰を見ていた。その顔には、不安の色は無い。いつもの蔡伯鈞院長だった。
前日の出来事を思い出した。院長の慈悲深い顔。認めてくれた人の言葉。
「白冰を頼む」
言葉が繰り返し、心の中に広がった。やはり、院長に刃向かうことはできそうにない。
だが、生き残るために、どうするか懸命に考える。
『頼む』とは何なのか、記憶を遡る。明霞から、蔡白冰の素行の悪さを悩んでいることを聞かされた。蔡伯鈞院長も『困ったものだ』と言っていた。
これまで、実力を持って立場を作ってきた。初任務に出るとき、蔡伯鈞院長に言われたことを思い出した。
「人は、自身の力で生きる場を確保なければならない。実力を見せろ。他人を追いやってでも、自身の立場を手に入れろ」と。
そして、自分のことを『息子と思っている』と言ってくれた。それぞれの言葉が、全てを繋げた。
『白冰を頼む』その言葉の真意が見えた。
これまで、我が力ですべてを手に入れてきた。過酷な状況、絶望的な事態からも死を退けてきた。それは蔡伯鈞の教えの通りに、他者の命を奪い、己を生かしてきた。そして、認めてくれて『息子』とまで言ってくれた。明霞から蔡白冰の事を言われ、院長からも同様に言われた。なぜ自分に言うのか理解できなかった。
だが、試練直前に呼び出され『白冰を頼む』と言われた意味が、いま理解できたのだ。
実力で白冰を排撃し、己の力で息子の立場を得よ、と云う事だと解釈した。それは渇望からくる極解であった。
奴を殺せば、院長の息子になれる。明霞の弟になれる。それは、無言の蔡伯鈞を見て確信に変わった。そう思うと、この状況になったことを感謝したかった。
李雲玖は、覚悟を決めると笑みを浮かべた。
李雲玖は見誤っていた。関係が薄い親子でも、息子を殺されて殺した人間に情が沸くことなどない。だが、そういう考えに至ってしまうほどに、親子だけではなく、人間関係というものが欠落していた。
蔡白冰までの距離、約八閂(二六.四メートル)。しかも、相手は大岩の上に立っていて、狙い打つ態勢が出来ている。
「逃げ隠れして、隙を襲おうという魂胆だろうが、キサマがこれまで戦ってきた者達と同じと思ったら大間違いだ。お前は、ここで死ぬのだ」
好き勝手言っている隙に、岩を飛び出した。跳躍し、前進する。
左右に動き、狙いをつけさせないようにしながら、最大限の速さで近づいていく。
石に足を掛け、踏み込む。跳んだ。
蔡白冰、嗤っていた。指をかざす。李雲玖は左手をかざし、魔壁を形成した。受け止めるのでもなく、中和するのでもなく、ただ弾き流そうとするだけの半球形の魔壁だった。
蔡白冰の指先から細長い氷柱が放たれると、李雲玖は魔壁に力を込めて砕きながら弾いた。
無数の氷の破片は、太陽の光を乱反射させる。その光は、幻想的な空間を作り、見学者に命の輝きを見せていた。
「火焔!」
右手を突き出した。炎に見える熱波が、蔡白冰を捉える。
この至近距離からでは、避けられない。それでも、蔡白冰の表情は変わらない。熱波を放つ。右手から三示(九センチ)手前に魔壁が形成されていた。その魔壁に中和される。
すぐさま後ろに跳び距離を保つ。
右手を外衣内に隠し、冷刃の魔攻を放った。
「これでは、どこを狙ったか分かるまい」
心の中で呟いた。氷の刃は外衣に半示(一.五センチ)ほどの穴を開け、蔡白冰に襲い掛かる。
至近距離から、蔡白冰の左脚を狙った。この至近距離で、体全体を魔壁で覆うことなど、常人では不可能だ。しかし、冷刃は砕消した。瞬時に、蔡白冰は体全体に魔壁を形成していたのだ。
「馬鹿かキサマ。私を舐め過ぎだ」
落ち着き払った声だった。蔡白冰は、岩の上から動くことなく、岩下の李雲玖を見下すように言った。
「キサマがこれまで戦ってきたのは、名は知られているといえども凡人だ。だが、俺は天才だ。キサマの外衣の意味など分かっていた。どうせ、魔攻の狙いを絞らせないことで、魔壁形成を遅らせようということなのだろう。だが、その手は優秀な凡人には通用しても、優秀で名家の天才には通用しない」
確かに蔡白冰の魔力は膨大だった。周囲に魔壁を形成して足すら動かしていない。だが、あれほど僅かな時間で、完璧に魔壁を展開するなど人間の成せる技ではい。おそらく、手に握られている赤砡の銀杖の力だろう。
赤砡銀杖の大きさは長さ七筝(二一〇センチ)、重さ二貫(七.四キロ)はあるように見える。そう簡単に、動きは取れないだろう。
逆を言えば、動く必要がないのだろう。これだけの魔力差だ。奴に向かい合う方は、絶望的でもある。
だが、その為の策を講じてきた。
強大な魔力。それは、蔡白冰にとぐろを巻いているように見えた。
駆け出していた。
広範囲に魔力の光を浴びせると、光が当たった小石が砕ける。
「そらそら、次はどうする?」
笑っていた。無言で、閃光を避ける。その光の雨は、宇宙の輝きのように美しく華やかに見えた。
「これほどに美しい魔攻で死ねるのだ。ありがたく思ってもらおう」
勝利を確信したような振る舞いだ。
全速力で駆け回る。避けられない魔攻の一閃は、魔壁で弾く。弾いた魔攻が、魔滅石を埋め込まれた壁に当たって消滅した。
瞬時の出来事だった。魔壁を形成したまま、素早く飛び込む。蔡白冰の左脇腹に右手を着けて叫んだ。
「この距離からでは、魔壁を作れまい!炸毀!」
李雲玖の右手が輝いた。
「白冰!」
院長の声が会場に響いた。蔡白冰は、笑みを浮かべている。魔力を放ったが、何も起こらない。
蔡白冰は、言葉にならない声で笑っていた。確かに、魔力は放った。その感覚はある。不可解な顔をしている時に、魔攻を放たれた。瞬時に後方に飛び、大岩から降りた。
魔力の凝縮。李雲玖、爆発の衝撃を間一髪でかわした。
蔡白冰は口を開く。
「愚人、凡人の考えそうな事だ。魔壁は、人体内にも出来るのだよ。私は、皮膚の下に中和魔壁を形成し魔力吸収したのだ」
これが天才の成せる、最先端の魔導技術だと言った。
李雲玖は驚いていた。表情を変えないことが精一杯の抵抗だった。
想像以上に厄介な相手だった。そして、それを見越して小刀を選び持ち込んでいてよかった。
これ程とは思っていなかった。魔導では、魔力でも技術でも勝てないのだ。
すぐさま、大石や岩に体を隠して安全を図り、呼吸を整えた。
蔡白冰は、戦闘開始時と寸分違わぬ場所に立っている。その後方の見物席に蔡伯鈞院長が冷や汗をかいて座っていた。
院長は、立ち上がり叫んだ。
「白冰、奴を殺せ!目を掛けてやった恩を忘れ、お前を殺そうとしたのだ!」
観声で対戦者同士の言うことすら聞きにくいが、その言葉は李雲玖の耳に流れ込んだ。
李雲玖の躰の動き全てが止まった。その言葉は、心を深く傷つけた。
蔡伯鈞は、院長としての立場で我慢していたのだろう。息子の方が、絶対的な優勢を保ちつつも、零距離からの一撃は院長の顔色を蒼白にさせたらしい。
もはや、院長の立場の中正的態度ではなく、父としての振る舞いしか出来なかった。
荒げた声は、李雲玖の心を刺し貫いた。眩暈がすると、体の感覚が消え、姿勢の均衡を保てず体が岩にもたれていた。心に痛みは感じないが、他の感覚すべてが消えていた。
長く無防備な状態だったと感じたが、実際は数瞬だった。
李雲玖の内にある何かが毀れた。
悲しみが溢れ出したと感じたと同時に、心は絶望に支配されていた。自分を認めてくれる人、愛してくれる人は存在しないことが分かった瞬間でもあった。自分の母にすら捨てられたのだ。他人であれば尚更だ。
自嘲っていた。もしかすると、と思っていた自分を。考えの甘い自身を。内で毀れたものが、何かは分からないが、その瞬間に李雲玖は変わった。
それとも、本来の自分を取り戻したのだろうか。
蔡白冰は、このことで初めて振り返り父を見た。父を鬱陶しく感じ、ため息を一つ吐いた。
李雲玖は、低位魔攻を放った。低位と云えども、鋭く強力な光閃。こちらを見ていない蔡白冰に襲い掛かるが、弾かれ魔壁に消滅させられた。
「このような攻撃、通用する筈がないだろう」
蔡白冰は、透明な魔壁を展開していた。ゆっくり振り返り目が合った。
恐怖。
初めて感じた。李雲玖の目に殺気が漲り、まるで怜悧な刃の様だった。絶対的な優位を確信しながら、恐怖を感じていた。その恐怖を消し去るべく、無数の攻撃を仕掛ける。数十の緑色氷柱が空を切り裂く。
捉えたと思ったとき、李雲玖の姿が視界から消えた.
「どこだ!?」
右側に気配がした。火焔を撃つ。直撃軌道。
李雲玖も、盾のように腕に形成した魔壁で弾く。驚異的な数の魔攻を放った。十数撃の光閃。蔡白冰の反撃で、爆発力と大音に変わった。
「クッ」
やはり、魔力勝負では勝ち目がない。
隙は、無くなっていた。近づくことすら難しくなっていたが、一撃の隙ぐらいなら蔡白冰自身が作ってくれるだろう。そして、それが己の命を奪うことになる。
李雲玖は、長期戦の戦い方をしていた。自身の素早さを最大限に活かし、会場の岩も味方にした。奴は、魔道具・赤砡銀杖を持っている為に、動きは制限される。その上、あんな強力な魔具で、長期戦を戦うのは後日に身体に影響が出しかねないのだ。だからこそ、李雲玖は千日手の戦い方をする。
そうなれば、蔡白冰の取りうる行動は容易に想像がつく。上位魔攻を放ち、一撃のもとに勝負を決めるしかないのだ。
そう意図を読んだからこそ、蔡白冰も動いた。低位魔攻でしか攻撃をしてこない李雲玖には、光子魔壁を展開したままで、さらに皮膚の下に中和魔壁を形成していれば、中位魔攻でも防げると判断した。魔壁を二重に展開すれば天才に魔具・赤砡銀杖の作用をもってしても、数瞬は防備のみになる。
奴が思いつく中位魔攻への対処法は、共倒れするだろうと思い至近距離でまとわりついてくるのが関の山だろう。そうなれば、自分の頭上に魔攻を放ち、その直後に全力で魔壁形成を行うしかなかった。その速さでの魔壁形成では、奴はついて来れないだろう。
蔡白冰の考えは、固まった。
左手を胸の前に仰向けにして、魔力を溜め始めた。
「そうだ。それで良い。お前の方が、才能も血統も上なのだ!」
親のように慕っていた蔡伯鈞院長からの言葉は、すでに李雲玖の迷いを消し去らせていた。
「そうだ、息子よ。岩ごと虫ケラを消し去ってしまえ!」
院長の息子だけあって、才能もあり、さぞ英才教育されてきたのだろう。高位魔法の呪文を唱え終える段階に入った。隙はない。念のために、動けるような姿勢だった。
高位魔法を唱えさせない為にも、低位圧縮系爆破魔法・炸毀を放ったが、緑光子魔壁を破る事は出来なかった。
それは、足掻く演技だった。動きを止めるには、魔力が練り上がる直前を狙わなければ意味がない。軽々と懐に入れば、妙な危機感を与え赤砡銀杖を捨てて、本当に千日手になりかねないのだ。そうなれば、命の削り合いになり、その後の行動が取れなくなる事は容易に想像がつく。
外衣の中で、隠し持っている小剣を抜いた。地を蹴る。念には念を入れて、攻撃を受けないように左右に飛び接近する。
「痴れ者が!私に、キサマの魔攻など効くか!」
手には、強大な魔力が凝縮し、急いでいる為か波動は乱れ荒れている。その膨大な魔力を見ると背筋に冷や汗が流れる。
光子魔壁をすり抜ける。前回の零距離の警戒をしているようだ。中和魔壁で、高度とされる結晶化を警戒していた。
「たとえ魔力結晶化をしたとしても、私に傷をつけることなど不可能だ」
蔡白冰は叫んでいた。魔力の流れを感じ、魔壁が強化される。
外衣が翻る。銀の一閃。右腕を突き出した。手の先に刃物が見えた。やはり、魔力を結晶化していた、と思った。その先入観が一瞬の判断を鈍らせた。
その剣は、魔力の結晶化した物ではなく、本物の物質の剣であった。認識した時には、既に咽喉を貫いていた。
発動前の巨大な魔力は霧散した。
咽喉から血液は流れ出なかった。それよりも、膨大な魔力が暴出していた。あまりの魔力集積量に、様々なモノに変化し血と肉の焼ける臭いがしていた。おそらく、魔力の暴走で、体内は完全に破壊されているだろう。
李雲玖は、即座に距離を取り、出口を背にして立った。
会場では、驚愕の観声が起こっていた。皆、蔡白冰が勝つと思っていたのだ。
その会場内で、唯一声を失っている人間いた。蔡伯鈞院長であった。
院長は、目の前で起きた光景を信じる事が出来ないでいた。
「白冰…」
地に倒れている息子に、声を掛けていた。しかし、言葉を掛けても、死人の特徴を完全に備えた息子から返事はない。
事実を受け止める事に、わずかな時間を要した。
「この虫けらが…。とんでもないことをしおって」
ゆったりとした口調だが、溢れんばかりの怒りに満ちていた。
蔡伯鈞は、魔滅石の結界壁を飛び越え、息子の亡骸に近づくと、李雲玖を見た。
「よくも息子を!目をかけてやった恩を仇で返すとは!!殺してくれるわ!」
本来、卒院試験での仇討ちは厳禁であったが、怒り狂っている学院最高位の蔡伯鈞を止める者は、この場には誰もいなかった。
盛り上がっていた見学者達も、院長の気迫に押されたのか、会場全体が異様な静けさに包まれている。普段、温厚な院長が、常軌を逸した怒りを見せているだけでも、冷水を浴びせた様な感覚だろう。
強力な魔力!
高熱で風景が歪むようだった。肌がチリチリと熱痛を感じる。
蔡伯鈞は、中位魔法を基礎魔法のように、いとも簡単に繰り出した。院長の魔攻は、李雲玖に強烈な恐怖を与えた。
あまりに圧倒的だったのだ。蔡白冰が、赤砡銀杖を手にしていた時の数十倍の違いを感じた。
避ける。その選択しかなかった。
高温の柱は、巨岩に当たった。巨岩は砕け散り、その一部は蒸発するほどであった。
李雲玖は素早い接近戦で、如何ともし難い魔力差を埋めようとしたが、低位魔攻の小火球の飛礫を放たれ、近づくことすら不可能だった。
せめて、防御体勢を取らせることで、逃走を計ろうとしたのだが、院長の桁違いの実力の違いに逃走すらままならない。
万が一の為に考えていた。こうなることを。だが現実を目の当たりにすると足が震えた。一応、策は用意してある。それでも、院長の強さは、想像を遥かに超えていた。
李雲玖は考える。生き残る為の策を…。逃げきるだけの時間を稼ぐ、それだけを考えていた。
この場を去ることが出来れば、逃走準備は整っている。裏門に、少量の荷をまとめて馬を繋いでいる。そこまで行けば、一〇日間逃げ切る自信があった。
巨石をも砕くような、大きな円錐形の氷柱が数本降り注ぐ。命中しないように駆け回るのが精一杯だ。
「連・炸毀!」
李雲玖は、地面に三撃の爆破魔攻を撃ち込んだ。小石が砕け、砂が舞う。李雲玖と院長の間に煙幕が出来上がった。
院長は、白煙の壁を前に笑っていた。
「笑止。そんな小細工で、逃げ果せると思っているのか」
蔡伯鈞は、相手の魔攻を警戒して三筝(九〇センチ)手前に薄紫色の魔壁を展開しながら、煙幕に突っ込んだ。小剣は、蔡白冰の首に突き刺さったままだ。
煙幕の向こう側では、すでに走り出そうと背を向けているだろう。見えないからといって、追えない訳ではない。出口は一ヶ所しかない。
李雲玖は、精神を研ぎ澄ませる。蔡伯鈞の強烈な魔力の中心を感じた。
右手に飛剣を持ち、左で魔力を溜める。
呻くような、一声。
飛剣を持つ右手も魔力を溜め、飛剣を光球で包んだ。右手で、放出魔攻と共に飛剣を放つ。光の尾を引きながら、光の弾が煙幕に隠れた。
蔡伯鈞は、少量の魔力を二つ感じた。予想通りだった。煙幕の中で、攻撃を仕掛けて、わずかな時間稼ぎ、逃げる気だと察知していた。
「向かってくる魔攻は微弱だ。もう一つは、機会を図っているように未だ左手で溜めている。何かを狙っているのだろう…」
そう心の中で呟いた。前面には、紫色をした円結晶の魔壁が展開されている。光球が見えた。魔壁に衝突する。魔力が霧散した。光球の中から、長さ四示ほど(一二センチ)の飛剣が現れた。
「何!」
蔡伯鈞が認識した時には、もはや何もできなかった。
飛剣を発光魔法で隠し、放出系魔攻で投げることで、速さが数倍になっていた。その上、煙幕に飛び込んだ事により、自身の体は飛剣に向かっていた。
飛剣が、蔡伯鈞に襲い掛かる。飛剣の刃、煌めいた。迫ってくる。
鮮血が、四方に散った。飛剣は、蔡伯鈞の左眼に突き刺さった。
煙幕が、薄くなる。
李雲玖は、飛剣を投げた瞬間、出口に向かい走っていた。飛剣が、命中するとは思っていなかった。だが、飛剣を弾くだけでも、逃げ切れると踏んでいた。
それ故、李雲玖にとって、その結果は十分な時間が稼げた幸運なことであった。
李雲玖は、魔滅壁を飛び越え、出口へ向かい階段を駆け上がった。
出口の両脇を固めている院生は、防戦する間もなく顔を殴り飛ばされた。
蔡伯鈞院長は、李雲玖の背を右目で見送りながら叫んでいた。
「追え!奴の首を。命を断て!」
会場の者たちは、院長の気に押され席から立ち上がったが、李雲玖の後を追うまでには至らなかった。蔡伯鈞院長でも殺せなかったのだ。参加する度胸もない見学者が、追うはずもなかった。
李雲玖は、建物内の通路を全力で駆けながら明霞のことを考えていた。
別れも言えなかった。その思いだけが胸に残っている。だが、弟を殺したのだ、院長と同じ反応をすることなど分かっていた。既に、どうしようもない。生きる為だった。
そして、会場の外に出ると、すぐさま荷を担ぎ、馬に跨った。
どこに向かおうとか、そういった考えはなかった。ただ、この場からと少しでも遠くへ向かわなければ、命がない。それだけを考えていた。
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