肆章 過去の地
一
この玄雲王国の北東に位置する聯王朝は、大陸で東の超大国と言われている。
その国は、八つの身分に分かれていた。上から貴・僧・学・武・伎・凡・下・非と分けられ、上位四身と下位四身では超えられぬ隔たりがあり、さらに非になると人間扱いされることはない。
上位七位が横暴であっても、非人が口答えすれば、殺されたとしても文句は言えなかった。
その底辺で、リューク(当時の名・李雲玖)は生まれた。ろくに食べ物すら無い生活。父親は殺され、母親は五歳の子を背負い、町を彷徨っていた。子は痩せ細っていたが、それ以上に母親は痩せ、骨と皮になっていた。
当てなど無く、ただ気が向くままに歩いていた。
躰は汚れ、異臭を放っている。子を抱えている力すら無くなる寸前だった。
そんな時、眼前に広大な建物が聳えていた。
重厚な門。その前に、門番が二人立っている。女は、生気無く門を見ていた。
しばらくすると、門の奥から中年の男が出てきた。全身を隠すように黒衣を纏っている。
声を掛けてきた。
「売りに来たのか?」
母親は、聞いた直後は言葉の意味が分からなかった。数瞬後、正確に理解した。わずかな沈黙のあと、口を開いた。
「お願いします」
虫の息のわが子を、差し出した。
男が無造作に抱えると、腕を苦しめていた重りが消えた。
その代わりに、わずかな金銭を受け取った。
死にそうな子供が、高額で売れるわけも無く、角銅六枚を受け取り去って行った。
この建物は、全大陸に七院ある魔導学院の一つであった。
魔導七院と呼ばれているが、それぞれに特色がある。貴族・上位民しか入れぬ院や、富裕であれば入れる院などがあるが、この院は誰でも入れた。通常の魔導学院は、最下身分の人間は入れなかったが、この東衡魔導学院は特殊で、非人も取り込んでいたのだ。
表向きには魔導学院であったが、実質的には魔法を教え込み人材を各国に売る。または、汚れ仕事を請ける組織でもあった。それは、他の魔導学院では考えられぬ下劣さであった。しかし、それ故に莫大な利と益が転がり込んでいる。
たとえ親が、そんな学院だと知っていたとしても、売っていただろう。母親からすれば、我が子に食糧が与えられるだけマシだと思うだろう。
現状では、親の愛情はおろか、生きることさえ困難な状況下だ。親の心理など容易に想像が出来る。さらに、子を手放せば少なからず小金が入り、自身も生き残れる可能性が出てくるのだ。自己弁護などいくらでもでき、仕方なかったと納得も出来る。
ここに至っては、子供を売らない親の方が稀である。
親はそれで良かっただろう、だが院内の暮らしは死ぬよりも辛く苦しいものだった。
動けるようになると、すぐに知識と魔法を教え込まれ熾烈な生存競争を生き抜くことになったのだ。
魔導とは、知・法・術の三種から形成されている。
この世界には、レーテル(存在可能成分)という目に見えぬ原質があり、無も有もその中でのみ存在している。そのレーテルの中には微量のリグター(原資形成成分)という元素成分含まれている。その成分を人体内で取り出すことで魔力となる
本来リグターは、無色透明であり質量は微小だ。それが、体内抽出することにより、抽出した人特有の色が付く。そして、魔力を魔法として発動するには、体内でリグターの変質作業が必要なのである。
はじめに魔力を放出系・凝縮系のどちらかに変え、放出系であれば、熱化か光化させる。
熱であれば、火を始めとする高温化か、冷気のような低温化がある。
凝縮系であれば、圧縮化か硬質化に別れ、圧縮化は爆発力を生む。硬質化はリグターを物質化するのだが、リグターを小石ほどの大きさと硬さに硬質化するためには、膨大な時間と体力が必要となるため、実戦的ではなかった。
それら魔導のすべては、発動者の心象化したものが、魔力の形として可視化できるのだ。
これらの全ての作業を体内で完全に変化させて、はじめて魔攻となる。
その他には、魔防などがある。
学院では、そう説明を受けた。
注意点として例を挙げれば、自身の体の淋巴線をレーテル濾過装置にして、魔力抽出をする。発動させる為には集中力と体力を消費する。
例えば、火球を三閂(約十メートル)先に撃つよりも、石を同距離投げた方が体力の消耗が遥かに少ない。そして、魔力で形成したものは、具象化したように見えているが実体が無い。
考えなければならぬのは、淋巴線を使い魔力抽出をするということだ。身体に傷を負った場合、その場所で魔力抽出すれば、魔力が漏れ出し傷口から魔力暴発が起こる。
右腕が傷ついた場合、その箇所に魔力を流さないようにしなければならない。そうしなければ、暴発、暴走し体内で炎が形成されたり、冷却され細胞を破壊されたりしかねないのだ。
そのような基本的なことを、学院で多数吸収していく。
親に売られ、友などいない李雲玖は、生き残る為には絶えず結果を出さなければならなかった。
優秀であるという事を学院に認めさせなければ、生きる権利は与えられない。買われた無能者には、悲惨な死が待っているのだ。
先月、買われた少年は魔導の才が無いと判断され、魔導研究棟に移され人体実験をされたと聞く。
だからこそ、死人すら出る授業に生き残り、その上で結果も出す。
生きる。それだけが目的だった。そして、その執念が結果的に優秀という評価を李雲玖に与え、それがきっかけで十一歳の春に院長の目に留まったのだ。
そして、院長室に呼び出された。
扉を叩き、室内に入る。
二閂(約六.六メートル)四方の部屋の中央に重厚な赤茶けた机があり、その向こう側に白髪白髭の痩せた早老の人物が、窓を背に立っていた。
「君かね。李雲玖とは」
「はい。御用件は、何なのでしょうか?」
李雲玖は、無表情に尋ねた。
「非常に優秀だと聞いている。今後も、励みたまえ。期待している」
院長は、抑揚なく言った。よく口にする言葉であったが、李雲玖には思いがけない言葉だった。己の身分は非。そして親に売られ、皆に見下され認められず生きてきた。学院のなかでは、自分は蛇虫と蔑まれていた。気に掛けられることすらなかった人間に、形式だけの言葉であったが、乾きひび割れた心に沁みこむ潤いの言葉だった。
初めて認められた。認めてくれる人が現れた。それだけで、幸福感が心に満ちる。
院長に一礼し、退室すると熱いものが込み上げてきた。
初めて、情というものに触れた瞬間であった。
「期待している」
何気ない言葉であったが、初めて瞬間的にではあったが、心が潤った。
それから院長の為に、李雲玖は懸命に期待に応えようと行動する。
蔡伯鈞院長に呼び出されてからの一年間で、李雲玖は魔導の才能を開花させていた。
十二歳にして、低位魔法を全て修得し、中位魔法もほぼ覚えていた。
もはや学院内で、李雲玖を知らぬ者はいなかった。天才でも秀才でもないが、能才であった。
蔡伯鈞院長は、この頃から特に目を掛けるようになっていた。李雲玖を呼び出し、必要な物を聞き出し与えるなどしていた。
李雲玖は、物よりも院長に会えることが嬉しかった。肩に大きな手を置かれ、褒められることが堪らなく嬉しかった。
天涯孤独で、最下身分の自分には、こんな人間的なことなど起こらないと思っていた。何の為に生きているのか、生き続けるのか解らなかった。だが、昔から死ぬことは嫌だった。誰にも望まれぬなら、誰も自分を害せ無い程になりたかった。
今は、院長の為に生きたい。そう思う。
蔡伯鈞のあの言葉が、どれだけ李雲玖を救ったか知れなかった。
それからの李雲玖は、蔡伯鈞院長の関心を欲しがった。愛情の無い暮らしから、紛い物と分かっていても院長の微笑を得たくて無理を重ねる。
悲しい程の代償行為であったが、温もりに似たものはそれだけだったのだ。
その温もりを苦しいほどに求めるようになるには、そう時間はかからなかった。
二
蔡伯鈞院長との出会いは、殺伐とした李雲玖の生活に、有形無形問わず潤いを与えていた。
非人の身分とは、他の身分と比べても雲泥の差があった。それは、幼少の頃から骨身に染み込んでいる。
謂れなき誹謗中傷、暴力、なにより社会的に非人道的な扱いを子供の頃から受ける。李雲玖も例外ではなく、罵声を浴びせられ、石を投げられ、無慈悲の中で生きてきた。
学院内でも、『蛇虫』と言われ、蔑まれ卑しめられた。
それでも、この学院で生きる為に成績は上位を維持した。他者には、絶えず気も遣った。だが、好意は踏み躙られ続けた。ついに、努力や気遣いなどでは、皆の態度が変わることはないと悟らざるをえなかった。
それは、自身ではどうしようもない、身分という懸絶であった。
それから、自身以外は信じることは無い。学院という組織すら信じる気は微塵も無い。蛇虫と呼ばれようと、実力が付くまで耐えるしかなかった。
そして現在、圧倒的な実力が付いた。今となっては、面と向って蛇虫と呼ぶ者はいなくなった。
自分を見る目に変化は無いが、少しだけ生き易くなった時に、院長に呼び出されたのだ。
嬉しかった。堪らなく嬉しかった。
自分を見てくれている人がいる。そう思うだけで嬉しく、さらに力を認めてくれた。それはまるで、自分の存在を認めてくれたように思えた。
その日から、蔡伯鈞院長は様々な便宜を図ってくれるようになった。他者よりも良い食事を、良い服を、その他多くの品物を与えてくれた。
それは自信になり、蔡伯鈞への想いへと等しく変わっていった。
週に一度は、院長室に呼び出されている。
今も、院長室の椅子に腰掛けていた。呼ばれても、大方たいした用では無かった。しかし、それでも呼ばれる事が嬉しい。この人は、分かってくれている。そう思えるだけで、満たされる。
蔡院長と会うと、いつも言われていることがあった。
「李雲玖。契約とは神聖なものなのだ。我らは、魔導師は信用を生きる糧としている様なものだ。契約を交わせば、たとえ依頼人が死んでも事を果たさねばならぬ。よいな」
いつも院長は、優しく意思の強い口調で言ってくれた。だからこそ、この言葉が心に焼きついた。
通常の魔導学院は、どこの国にも組織にも属すことなく独立している。だが、この学院は、聯王朝から膨大な資金援助を受けていた。理由は、複数ある。だが、優秀な人材育成と学院の価値を高めるには、国力による後押しが必要だったのだろう。少なくとも、対立しているよりは効率的である。
魔導という武器は、知識と武力の両面の有効性があった。
基本的には、王国に優秀な人材を入れていた。だが、この学院は、二〇年前に蔡伯鈞が院長になることで方針を一転した。
学院というよりも、武力組織という色が濃くなったのだ。それは、魔導師を兵士・刺客として使うことである。
魔導学は、軍事・殺人術にも通じるものがある。魔力を使えば、武器の修練度も武術の技量も必要ないのだ。
その意外な活用法に、当学院では様々な依頼を受けるようになっていた。それは、大部分が表沙汰には出来ないことばかりなのだ。
扉を叩く音。
「入れ」
院長が、短く答えた。
扉が開く。細身の女が立っていた。
「失礼いたします」
藍色の髪をした女の子だった。
「明霞、よく来た」
明霞という子は、一礼すると室内に入る。美少女と呼ぶに相応しく、振る舞いも上品だ。
「お父さま。用事とは何でしょうか?」
笑顔で院長に言った。こちらに気づいたのか、院長は娘に視線を送った。
「明霞、そこに座っているのは、李雲玖と云う。十二歳だ。その年齢で、全低位魔法を習得している。誠に、優秀な生徒だ」
李雲玖は、その説明に恐縮していた。
明霞に笑顔を向けられた。
「すごく優秀なのね。よろしくね」
端整な顔だ。明るく、可愛いい。こんな子が、なぜこんな地獄のような場所にいるのか不思議に思った。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ去った。
その時間に、まるで家族のような温かさを感じていた。心地よかった。ゆったり流れる時が。李雲玖の体験した初めての快楽であり、愛情に近い温もりであった。
その時を節目に、李雲玖は少しだが変わった。院長と明霞には、素直に接するようになった。
そうすることで判ったことは、彼女は身分や位などで人を判断しない人間だと言うことだ。
蛇虫と呼ばれ、忌み嫌われた自分に、積極的に接してくれた。
どうしようもなく嬉しかった。
李雲玖も、最大限の誠実さと気遣いで答えた。結果、友好を深め、明霞とは友のようであり、姉と弟のような関係になった。
院長と明霞の為に、更なる苦行で才能を磨く。
その両者への思い自体が、結果至上主義の学院内での立場を作ったと言っても過言ではなかった。その血の滲むような努力は、これから三年後(十五歳の時)に八杖慧に名を連ねる事で最上の花が咲いた。明霞は、半年後に八杖慧第四の地位へと先にのぼることにはなるのだが。
八杖慧とは、全学院生徒で実力者八名を指している。それは、魔導の力と知恵を修め、実戦での戦力が群を抜いているとして、そう称されているのだ。
学識、魔力の才があっても、実戦の結果が伴わなければ、その地位には上がれない。ここの魔導学院は他院とは違い、闇の任務を完遂してこそ一流とされているのだ。
いまの李雲玖と蔡明霞は、そんな事とはまったく関係なく、二人に信頼の絆が形成されている時であった。
その任務は、卒院するならば、必ずやり遂げねばならぬものだった。
李雲玖の初任務は、蔡明霞との出会いから二年後のことである。
三
初任務は、十四歳を二ヶ月過ぎた時だった。
任務を命じられ、その日に出立を許された。
日が沈んでから、肌に密着する黒衣を身に付けると、学院の裏口から闇夜に紛れるように北への街道を歩いていた。
右腕には腕輪が嵌められている。魔力増幅効果は少ないが、移動の邪魔にならない魔導具の腕輪だ。自身の足音だけが闇に溶け込んでいる。
学院から与えられた十分な金銭に、目的地までの通行札、保存食を数種に、飲み水などを担いでいる。
口元に笑みがこぼれる。後ろを振り返り声を出した。
「明霞。隠れていないで、出てきたらどうなんだ?」
辺りに人の気配は無い。鳥の鳴き声が耳に入ってくる。
反応は無いが続ける。
「見送りにしては、この距離は長いだろう。監視役に選ばれたんだろ?一緒に行かないか?」
茂みの方だった。草木が擦れる音がすると、暗闇から闇を弾く様に白い肌の顔が浮かぶ。
「完全に気配を消して距離を保っていたのに、どうして分かったの?」
「簡単な話だ。今、院内で俺の後を付けられる人間は、公陋、蔡 白冰、蔡明霞、の三名だ。公陋は、いざという時の為に残らざるをえない。蔡白冰は、院長の息子で優秀な天才児。初任務が監視役では笑われるだろ。明霞も院長の娘だが、既に数回任務を完遂させているだろ」
「そうね。でも、私の名を呼んだ理由にしては薄いわ。一番の理由は?」
「願望さ」
明霞は、右人差し指を軽く曲げ側面を口に当てて笑った。白い指に、艶のある唇。その美しさは、この地域でも群を抜いていた。だが彼女の非凡さは、外見よりも内面である。
初めて出会った一年前から、院長の家に行く用事も増えた。院長夫人には、冷たい視線を投げつけられるが、明霞は温かかった。
明るい藍紫色の髪と白磁器よりも美しい肌。学院では有名な美少女だった。それに加え、成績優秀で魔導の才も有し、万人に優しく、人望が厚かった。
この頃、明霞に対しては、何の感情も持っていなかった。いや逆に、初めのうちは、『よく出来た性質の悪い演技』だと思っていた。しかし、非人身分の自分に対しても、ごく自然に彼女の気遣いは、純粋に嬉しくさせた。それは、まるで李雲玖の心にある無数の防御壁が無いもののように、すんなりと懐に入って来るのだ。
李雲玖も、この二歳年上の女性には素直に接していた。明霞も、雲玖の素直さと父への静かな好意が好きで、弟のように思っていた。明霞には弟がいるのだが、あまりに気質が違いすぎた。嫌いではない。だが、弟は明霞を煙たがっている。そう感じるのだ。その蔡白冰は、学院始まって以来の天才と呼ばれているが、性格的には傲慢で尊大だった。
十六歳の蔡明霞は、歳の割に豊富な色気と相応の可愛らしさ、それに見合わぬ気品、全てが絶妙な割合で容姿を形成している。
黙々と歩く李雲玖に対し、明霞は引き込みそうな笑顔を向けた。
「学院内で、なんて言われているのか知っているの?」
「知っているさ」
落ち着き払って答えた。
初仕事の内容から、荷が重いと言われていた。だが、自分など使い捨ての駒に過ぎず、成功しなければ生きることが出来ない。
仕事内容は、暗殺。
標的は、拍宗紀。二一歳。知識皇子と称される人物で、北の小国『蕗』の皇子だ。豊富な知識と驚異的な求心力で国内をまとめている。
「依頼主は誰かしら?」
李雲玖にとっては、任務を完遂することだけが問題であり、背後関係は気にならなかった。認めてくれる院長の指示というだけで充分だった。失敗と死は同意語なのだ。明霞にそう言うのも本意ではない。
会話を続ける言葉を選ぶ。
「一瞬の憶測でも、様々に考えられる。国内の対立者勢力、他国の意向、身内の裏切り、その他の個人的な思惑」
「そうね。そんなところかしらね」
「知っていることを教えてくれないか?調べる手間が省ける分、早く帰れるぞ」
その台詞に、明霞は頬だけで笑う。
「監視役が詳しい情報なんて与えられる訳が無いでしょ。私の務めは、あなたを見張ることで、協力することじゃないわ」
院長の娘である明霞が、俺と同じ情報だとは信じられないが、教えて貰った所で裏は取らねば危険だ。
李雲玖は、それ以上話しかけることは無く、歩く速さを増した。その後を、明霞が着いて来る。
「一つだけ、教えてあげるわ」
李雲玖は振り返った。
「当院の卒院生が、標的の護衛をしているそうよ」
「そいつの名と情報は?」
さして驚いた様子も無く聞き返した。
「名は、崇埼。院生時の成績は、上の下。当然、卒院試練で勝ち残っているってことよ」
正式名、卒院実技演習。それは学院と縁を切り、自由になるための試練である。
学院としては、育成した人材を手放したくは無い。だが、他院同様に一定期間で解放することは院の利益に反し、だからといって院の奴隷で終わるなら人材は集まらない。
何より、学院で育んだ力を学院に向けられるのは避ける必要がある。
行き着いた結果、過酷な試験を課すことで人材を手放さず、自由になる為にも自身を極限まで磨き、半数は間引けて、残りが自由を得て外に出れば、優秀な人材を輩出することで学院の評価が上がる。そんな思惑で作った制度なのだろう。
年に一度催され、参加資格は、十六歳以上で、学院任務を五度達成した者。参加者同士が一対一で戦い、生き残った方が自由になれる。
試験は公正を規す為に、組み合わせは全てクジで決められる。南北に分ける時に一度。そして、死合相手も直前にクジで決まる。
その死合を生き残ってこそ、学院の束縛を解かれ個を手に出来るのだった。
李雲玖は、遠くを見ている。その姿が、思案していることだと明霞には分かっていた。
「目的を間違えないほうがいいわ」
肌理の細かい白い肌と藍紫色の髪の美少女は、注意を促してくれた。
そうだ。任務は、拍宗紀皇子を殺すことで、崇埼殺害ではない。優秀な者に意識をいかせるよりも、さして難のない標的に絞った方が楽だと、教えてくれているのだろう。
正論ではある。だが、という思いも脳裏にはあった。
「あぁ」と、答えると明霞の整った顔を見た。
明霞は、今年か来年に試練に臨むだろう。そして自由になれば、どうするのだろうか…。
想像がつかなかった。自分に個という我が手に入れば、蔡院長の命だけを聞いていればいい。そして明霞とも、もっと自由に話せるようになるのだろうか…。今は、そんなことしか考えられなかった。
蔡伯鈞は父親であり、蔡明霞は姉に思えていた。酷く希薄な関係であったが、李雲玖には擬似化するしか、心の飢えを満たすことは出来なかった。
月の光も無い闇の中を、互いに培った夜目を利かせ足を速めた。数種の虫が賑やかに鳴き、李雲玖は多少の騒々しさを感じていた。
四
刺客とそれの監視人が、蕗国の都『交殊』に到着したのは、出発してから十七日後の事だった。
夕方になり、都の繁華街に人通りはまばらだった。小国といえども都であるはずなのだが、酷く寂れている。それは南の小国よりも、聯国内の貧しい西の地方が賑わっている。
旅の間も、情報収集は欠かさなかった。情報は、商人から得るのが一番早く、正確だ。商人ほど情報に金を掛けている人種は、この世に存在しない。自身と身銭がかかっており、その情報しだいで利益の有無と未来の有無がかかっているのだ。その有能さは、国の役人や軍人の比ではない。
蕗国外で得た情報をまとめると、拍宗紀皇子は真に優秀であるようだ。長子ではあったが、母親の身分が低かったために冷遇され、四歳になる直前に正妻が男児を産み、すぐに山中の寺院に預けられた。幼少期を蕗国偏狭に建てられた符寺で過ごしたようだ。
十八歳のときに、紀皇子を取り巻く環境が一変する。
弟の拍宗填皇太子が、十二歳のとき天然痘と流行り病を併発した。運良く生還こそしたが、酷い瘢痕に片目を失明し、さらに呂律が回らなくなった。
臣下たちも国を不安視し、長子である紀皇子の返り咲きを願い暗躍する者が現れた。
初めのうちは、紀皇子も真剣に取り合っていなかった。それは、身の危険を察してのことであったが、そのうち民の暮らしを慮り、現政権に対して不満のある貴族に担がれる格好で世に出てきたらしい。
「そして、わずか二ヶ月で形勢を逆転させることに成功させた訳ね」
明霞が、簡素に言う。そして、続ける。
「容姿は醜くなったけど、能力的には衰えてはない。兄の行動は、填皇太子の自尊心をひどく傷つけたってところなのかしら・・・」
「だが、結果的に填皇太子は、紀王子に能力的に負けている・・・」
李雲玖は、結果を口にした。依頼主は填皇太子の可能性を多く示唆している状況だが、隣国が切れ者の紀皇子よりも填皇太子を支援しないとも限らない。
明霞は、さらに裏を読もうとしているが、自分としてはくだらない政争を詮索しても無意味だった。真実がどうであれ、命令通りに紀皇子を暗殺するしかないのだ。
宿に到着した時には完全に日が落ちていた。
翌日に、標的と崇埼という護衛者を確認することと、警備状況やその他の兵の質などを確認することにした。
大人びた二人を見て、宿屋の主人は、幼い夫婦と間違えたようだ。だが脇に居た夫人には、違うことがわかるらしくそのような関係ではないと耳打ちすると、そそくさと部屋に案内された。
明霞は、薄着になると見事な肢体を惜しげもなく見せてくれた。妙に意識して照れると、瞬間的に幸福に浸ることが出来た。
翌朝、正面通路に朝市が並んでいた。些か賑わいに欠けていたが、前日では想像出来ないほどの人の数だった。
色々な店が目に付く、野菜店、魚店、油店、陶器店、木器店、装飾店など、さまざまな物が並ぶ。
束の間の息抜きを明霞とした。十六になった明霞だが、二人でいると二つも年上だと感じさせない愛らしさがあった。
「李雲玖。早く来なさいよ」
艶のある藍紫色の髪が、朝日に輝いた。
二人だけの世界だった。淡い恋心は自覚している。だが、そんな思い以上に、明霞は大切な存在だった。
今は、ただ彼女の笑顔を見ていたい。それだけで満足するべきだ。
市には多くの店がある。だが、一店だけ異彩を放っていた。
その店は、掛け軸、絵画を売っていて、閑散としていた。
商品の大半は水墨画だ。その中に、一つだけ色彩鮮やかな絵画があった。中央に蹲っている鳥、背景には板壁と地に咲く紫陽花が描かれている。
実際に在るような錯覚を覚える画。この絵の素晴らしさを、言葉で喩えて表現するには、語彙も表現力も不足しているように思えた。
まるで空間を切り取ったような絵画で、人間技とは思えなかった。
魅入っていた。その様子に明霞が気づき、並び見た。
「すごい・・・」
明霞の声が漏れた。
李雲玖も、その言葉しかなかった。だが、付けられている値段に愕然とした。
銀一斤(六〇〇グラム)。
これほどの技術を持ちながら、並んでいる中で最も安い水墨画の九分の一だった。絵の色量からいっても、多量の色種が要ったに違いない。
納得いかず、訳を店主に尋ねる。
「その絵は、ただ巧いだけだ。よく描けているというだけで、芸術的価値は無い」
そうぶっきら棒に店主は答えた。
納得いかなかった。卓越した技量を持つ者が、冷遇されている。芸術性という曖昧なもので、この才を評価しないのは、愚かな行為に思えた。
「この絵・・・、どれくらいの期間で描くのかしら・・・?」
明霞が独り言のように呟いた。
その言葉に、店主が反応した。
「この絵で四日程だそうだよ。嬢ちゃんの綺麗な顔でも描いてもらうかい?」
李雲玖の気に障る下種な声だった。明霞は、自分の心の動きを感じ取ったのかもしれない。
「そうね。考えておくわ」
笑顔で軽く受け流し、李雲玖に視線を送った。
「行きましょう」
最高の笑顔で、その場を連れ去ってくれた。
今は、これでいい。
明霞との時間。彼女の笑顔。すべてを大切に思い、独占できる幸せに抗う気は無かった。
暗殺に動いたのは、宿に到着してから四日目のことだ。
湿気を含んだ生ぬるい風が、奥深い山中に吹いていた。李雲玖は、その山中に息を潜め標的を待っていた。
到着した翌朝に、二人は恋人を装い居城、館などを回った。あいにく、紀皇子の姿は確認できなかったが、民の声から皇子の評価を聞きこんだ。
紀皇子の声望は想像以上に高く、民衆の声は信頼に似たものばかりだった。民の中には、紀帝を望む大きなうねりを感じるほどである。だが、暗殺に役立つ情報はない。
大した収穫もない為に、裏の世界に金を払い護衛者の情報を得た。
崇埼の情報は、東衡魔導学院の出身者としか分からなかった。だが、護衛者としては恐ろしく優秀な結果を出していたことが判明した。これまで暗殺者から八度にわたり守った実績があり、六名を殺害。二名を捕縛。その全てが、崇埼の手柄によるものらしい。
それから、この日の夜に育った符寺へ、写経を奉納することを知った。
明霞は、監視役としてどこかで見ているのだろう。
そんなことよりも、李雲玖は紀皇子の殺し方と逃げ方を考えていた。
出来れば一撃で、紀皇子に即死ではなく、死に到る傷を与えたい。そうすれば、護衛は手当てに全力を尽くす。だが、そう旨くはいかないだろう。護衛に八方を囲まれていれば、二撃は必要だ。学院出身者が、そんな甘い護衛をするとは思えないが、物事に完璧な状態など存在しない。どのような状況であっても、長所と短所は混在している。その短所をどう利用し、突くかが問題だ。
肩を回し、指を動かし、目を闇に慣らし、準備は完全に出来ていた。
符寺に続く参道の石段。その終わり付近にある茂みの中で、気配を完全に殺し待っていた。
そして明かりが見えた。
火が九つ。
(最低九人。皇子は松明を持っていないだろうから、十人以上・・・)
多数の足音が近付いてくる。目を閉じ、闇に響く足音に耳を澄ませる。
・・・四。・・・・・・七。・・・・・・十。
並びを足数と松明から予想する。
先頭から、一、一、二、三、二、一。そして、入り口に松明が一つ見える。
標的の位置は、三人並んでいる中心だろう。
暗闇の中で、わずかに姿が見える。石段を叩く足。音が響く。息遣いも聞こえてきた。先導する男が通り過ぎた。
近付いてくる。密集している七人の塊。
もう三筝(九〇センチ)近付けば仕留められる。
あと一筝(三〇センチ)。
飛び出した。同時に魔力を発動させ、両手から放つ。淡い青色の炎。護衛二人の首が熔ける。
隊列が乱れた。
護衛の一人が即座に反応し、剣に手をかけた。だが、李雲玖が右手を突き出す。
「炸毀!」
護衛は剣を抜くことなく、首から肩にかけて吹き飛んだ。
見えた。落ち着いた面持ちの凛々しい男が、視界に入った。こいつだ。そう確信する。
知性の漂う整った細面に、意志の強そうな眉。生い立ちの経緯はどうであれ、生まれの良さを表している。この事態に、慌てふためいていないことには感心するが、それだけだ。
右手を魔力で硬質化させる。六角形の鑓が、魔力で出来上がる。
(もらった!)
右手を紀皇子の顔に向けて突き出す。松明の赤い光が、硬質化した魔力にわずかに反射した。
仕留めた。そう確信したと同時に、腕を掴まれ、硬質化させた魔力の鑓が無化した。
燃えている。腕を掴んだ男は、炎を感じさせるほどの熱量があった。
眼球だけを動かし、腕を辿る。その先には、薄笑いを浮かべている豪顔があった。切れ長の目には、鋭い輝きが宿っている。
目が合った。恐怖。背に汗が滲む。
「強い・・・」
手の周囲に硬質化した魔力は、完全に消滅させられていた。
咄嗟に左手で、魔力を放った。
「火焔!」
六角形の炎柱が男の顔を捉える。
決まった。そう思った。男の表情に変化はない。
半透明な紺色の魔壁を形成させていた。
距離をとり、魔力を蓄積させる。標的を視線で追うと、紀皇子は護衛の後ろに匿われていた。
心で舌打ちをしたとき、周囲に複数の気配が近付く感覚。任務失敗を悟らせた。
後ろに回り込もうとする護衛に掌を突き出した。
「炸毀!」
護衛兵の顔面が破裂した。
その護衛兵の死体が地に倒れるよりも先に、場を離れる為に駆け出していた。藪を抜け、木々の間を抜けていた。
即断だった。ここで執着しても、首は取れない。何より生き残る為にも、ここは失敗を認めた方が良いと思えた。
逃走に移った。
跳躍ように駆ける。木々は瞬時に過ぎ去り、身体が闇に融ける感覚。誰も付いてなど来れない、そう確信いた。しかし、左側から草木の擦れる音がする。視線を向けると、崇埼が並走していた。
速度を増す。着いてくる。周囲には気配はない。一対一ならばと、魔力を体内に溜め始める。
準備が調った。
追手に掌を向けた時、懐に飛び込まれる。胸に光が見える。攻撃用に溜めていた魔力で、魔壁を瞬時に形成する。
(違う!)
そう判断したと同時に、右顎に拳を喰らった。
巧みな誘導だった。魔力を魔壁に変えさせて攻撃を防いでおいて、物理攻撃だとは思わなかった。刃物であれば死んでいた。
実力が違いすぎた。
唸った。その巧みな闘い方に、そしてそんな闘いの中であっても学び、吸収する。
即座に防御体制を整え、攻撃に転じる振りだけすると、逃げの一手に方針転換する。
一撃放ち、全力で山中奥深くへ向かう。漆黒の闇の中で、二人の息遣いだけが響いていた。
李雲玖は、後ろの気配が消えないことに恐怖を感じていた。既に、闇の中を四半刻(五分)も走っている。
いくら葉や枝の擦れる音を辿っているとはいえ、考えられなかった。このままでは体力勝負になる。
そうなれば、魔力を多く放っている自分が不利だ。だが、瞬間的に速さを増して、振り切るなら可能かもしれない。どのみち、残された方法はこれしかないのだ。
地理すら知らぬ山中、しかも闇の中、多く有る障害物の中を全力疾走する。何かに躓いたり、木にあたれば終わりだろう。
運が全て。こんなことになるとは思わなかった。悩んでいる時間はなく、今も闇の中を疾駆しているのだ。体力の問題、追手の問題もある。時を掛ければ掛けるほど状況は悪化する。
少しだが闇に目が慣れた。だが、全力で走るほどではないが、走れぬほどでもない。
覚悟し、疾駆した。闇の中を。後ろの気配が遠ざかる。
木々が立塞がる。その間をスレスレで駆け抜ける。
まだ気配を感じる。だが、かなり引き離した。
(もう少し・・・)
跳躍した。
体に熱が溜まる。
さらに速さを増す。
だが、後ろの気配は消えることはない。
さらに体内に熱が溜まる。
脚に力を込め、跳んだ。
着地の瞬間、世界が消えた。
叩きつけられる。全身に痛みが走った。何が起こったのか理解できない。
体が動かない。だが追われていることは意識から消えなかった。息を殺し、気配すら消した。
追手の気配がしたが、遠ざかった。
何者の気配もない。そのことが安心感を与え、気を失うようにその場で眠りに落ちた。
冷気。体の芯にまで応える。土の匂いで目が覚めた。光が、上から射し込んでいた。
四方を土壁に囲まれている。圧迫感、穴の中だ。地面に手を着けると腐った竹の欠片が散っていた。
「落とし穴か・・・」
大型の獣用に作られたモノらしく、直径四筝(一二〇センチ)深さも一閂程(三.三メートル)はありそうだ。
底には、竹槍の様な物が着き立ててあったらしいが、長い間放置されていたらしく、竹は腐り、現在はありきたりの落とし穴というところだ。だが、その罠に掛かった動物はいないらしく、辺りに骨は無い。
「ふふっ」
動物も掛からぬ罠に、俺は掛かったのか。自嘲の笑いが漏れた。
それ程深くない穴で幸いした。そう思い立ち上がると、右足首に痛みが走った。どうやら捻ったらしく、その痛みは右脚全体を貫いた。
再び腰を下ろし、深呼吸すると上から声がした。
「いつまで、そうしている気なの?」
明霞の美声が、空気の篭もった穴に響いた。
見上げると、冷美な顔がそこにある。白い美肌が、光を受けさらに美しく見えた。
「足を捻った」
それだけ言うと、明霞は長さ三筝(九〇センチ)程の倒木を落としてくれた。倒木は、穴の壁面に立てかかるように落ちた。落ちて立てかかった倒木に、左足を掛け全身で跳躍すると、周囲は明るさに包まれた。
深緑の中に、藍色の髪を風に靡かせた少女が立っている。雰囲気は、場違いなほどに華やかであったが、顔つきは無表情だ。
「どういうこと?」
口調は冷静であったが、目には失態を責める色が浮かんでいる。
「どういうこととは?」
「分かってるんでしょ?答えなさい」
任務失敗の理由だろうか、それとも穴に落ちていた理由だろうが。数秒前に助けてくれた手前、煙に巻くことも出来ないだろう。
「完敗だ。実力の差がありすぎる」
「でも、逃げられたってことは、速さでは優っているってことじゃないの?」
「闇夜で、この穴に落ちたから逃げられた。それだけだ」
その言葉に、明霞は驚いた。
「穴が在ることを知って、意図的に飛び降りたわけじゃないの?」
とても信じられないという表情でこちらを見ていたが、足首の痛みを気にする様子から真実だと悟る。
「過大評価だな」
明霞が、笑い出した。その表情は、無垢としか表現できない。ひとしきり笑うと、潤んだ目尻を細い指で押さえるとこちらに顔を向けた。
「周到な李雲玖が、そんな間抜けなことになるなんてね。以外というか、予想外だわ」
笑顔もここまで、少女は表情を一変させる。
「で、これからどうするの?まさか逃亡する気じゃないでしょう?」
その目は監視人のものに変わり、逃亡すれば討ち取ると、云わんばかりの光で帯びていた。
「くだらない心配をすることはない。期待をしてくれている院長の為に、明霞の為に、何よりも自身の為にも初任務を成功させなければ、生きることが危うくなる」
「でも、逃げられないほど強いんでしょ?手はあるの?」
「ない事もない」
一計が浮かんだ。まさにそういった表情をしていた。
「では、その策とやらを聞きましょう」
明霞の桜色の唇の端が上がった。
足を気にするように、体重を掛けてみると痛みが走る。完治とまでは言わないが、問題ないと思えるまでは、七~八日はかかりそうだ。
「とりあえず、怪我を治す為の隠れ家と絵師を探してくれ」
「絵師?」
明霞は、空間を切り取ったような絵を思い出した。だが、絵師という予想外の語彙に、訝しい表情を浮かべた。周囲に注意をしながら、歩き始める。
「ああ。方針を変える」
「どういうこと?」
「まず、崇埼を殺す。その後に、紀皇子を片付ければいい」
「あなたよりも強いのに、どうやって殺すの?皇子なら一撃で終わるわ。無理に護衛を意識することはないと思うのだけど」
強い口調だった。
「戦って、わかったことがある」
少女の視線がこちらに向く。
「俺も当初は、明霞と同じ思いだった。だが、奴は皇子の為に動いている。いや、生きていると言っていいほどだ」
「だから?」
「逆説的に、己のことは気に掛けないのだろう」
そこまで口にして、明霞は察したようだ。
「想いが強いゆえに視野が狭く、皇子の危機には強く反応するってことね。己の危機よりも・・・」
李雲玖は、首を少し上下した。
二人の考えは、これだけの言葉で充分だった。
崇埼は、非常に優秀だ。まともに闘えば、十回中十回負けるだろう。だが今回の任務が幸いした。立場が逆だったら、俺は昨日死んでいるだろう。
優秀とはいっても、優秀さには種類がある。要は何にこだわり、どこに重きを置いているかだ。
金、名誉、信用、誇り、志……。なんでも構わないが、崇埼は自身の信念や思想を皇子に託している。まさにそんな闘い方だった。
何が、そうさせるのか興味はない。だが、そのことは致命的な弱点に思えた。
「頼みをきいてくれないか?監視人が手伝うことは許されていないが、最短で完治に七日、準備に七日掛かる。実行は俺がやる。準備だけでも手伝ってくれれば、七日は短縮出来る」
大きな都市であれば、遊興に耽っていればいいが、ここは皇子が居るとはいえ、貧国の都。明霞が長居をしたいとはとても思えなかった。
諦めたような顔をして言う。
「仕方ないわね。但し、条件があるわ。戦闘で手を貸すことはなし。あと、どうやって仕留めるか教えること」
「わかった」
そうして、策を話しはじめた。
美少女の凛とした顔が、一瞬変化した。
「成功するかしら?」
「それは絵師の腕と明霞の準備次第だ。その結果は、俺の体でわかる」
明霞は、出来の悪い軽口と思ったが、眼光には真剣さが含まれていた。
山中を抜けると、畑仕事をしている老婆が目に入った。
明霞が話しかける。見たこともない愛くるしい表情で・・・。
老婆は耳が遠いようで、しきりに聴き直している。
微笑みを絶やさない老婆と淑やかに振る舞う明霞に、女の凄さを感じていた。自分には出来ない。即席に表面的な友好を形成することなど・・・そう心から思う。
二人は、愉しそうな雰囲気を作り歩き出した。老女のひどくゆっくりとした足取りに、苛立ちを感じ後をついてゆく。
様々な家が建っている。それぞれに生命力を主張している。華やかさも品も無い。だが、眩しいまでに目を惹く家々には活力があった。その活力に埋もれるように、荒れた小家に案内された。
身を隠すにはいい場所だ。二人ともそう感じた。
五
二日が経過していた。
城郭では、多数の兵士が捜索に繰り出し、騒ぎが拡大している。簡易的な関所も作られ、出入りが厳しく制限されていた。
そんななかでも、明霞は暗躍してくれている。市で知った腕のいい絵師も見つけ、皇子の情報も既に掴んで帰ってきた。
帰って来た明霞の格好は、娼婦のようなそそる衣裳を着ていた。
愛くるしい顔に、美麗な肢体。知的な瞳に、品の良い所作。その総てが男を刺激する。さらにその女の魅力に、わずかだが幼さが残り、男の保護欲すら誘っているのだ。着ている衣裳は、その魅力を余すところなく引き立てている。
「すごい服だな・・・」
似合っている。その言葉を口にすることは、侮辱に思えた。何よりも、娼婦の服装が似合うなど口にしたくもなかった。
「そうね。でも、似合うでしょ」
さも当然であるかのような口調だ。
その言葉に反応はしなかった。その姿が気に入らなかったのか、声音の高さが上がった。
「もう大変だったのよ。下品な奴に群がられて」
「どう断わったんだ?」
「私は、高級娼婦よ。相手して欲しければ一国とは言わないけど、ある程度の領地を所有して来なさい。って、言ってやったわ」
李雲玖の視線に、言葉を続ける。
「もちろん、貴人にも声を掛けられたわよ。断わり方はこうよ。身分だけじゃなく、自身も高めなさい。って、こんな感じね」
一人で再現している明霞が、妙に可愛らしく思えて笑いが込み上げた。
明霞はゆっくり回転し始めた。それはそれは艶っぽく、気高い衣裳を着た自分を見せるように。
急に止まり、真顔になった。
「あの絵師を見つけたわよ。砂金二斤(一二〇〇グラム)を見せたら、喜んで絵を描くそうよ。それと、裏の情報屋から紀皇子の予定を聞いたわ」
「ほう、是非聞きたいな」
予想外の速さに驚いた。この警備・警戒の中で、旅人への警戒は特に厳しいだろうと思っていた。だが、何の障害にもならなかったようだ。
彼女の赤桃色に塗られた唇が動く。
「八日後の夜深けに、臣下の邸宅で隣国の遣使と極秘に会うそうよ・・・」
「極秘なのに、何故分かった?」
皮肉をいうと、偽高級娼婦が鼻で笑う。
「それは隣国が、意図的に情報を漏洩しているか、誰かさんを誘い出す罠でしょ」
なぜそんな下らない事を聞くの、というような顔をして言った。
「そうだな」
一瞬の沈黙が場を支配した。
「で、このまま進めていいのね?」
「ああ。頼む」
何を考えているかわからないが、崇埼の想いを利用してこちらの罠に嵌める。それしか任務遂行の道はない。罠を張り、待ち構えているということなら、その罠を作ったという余裕が、こちらにも付け入る隙ができるかも知れない。
街を歩いていた。暗殺失敗から十日後。足は違和感なく動く。明霞が動いてくれたおかげで、手筈は過不足無く整った。
手元には、絵師の力作がある。 縦・約六.三筝(一九〇センチ)横・約半閂(一六〇センチ)の巨大な絵。出来には、満足している。
命を預けるには申し分のない絵だった。
その絵を筒状にまるめ、持ち運んでいる。
罠の場所に向った。
密会に使われる邸宅から、西に約九〇閂(二九七メートル)先に複雑に入り組んだ路地があった。そこに路幅二閂(六.六メートル)長さ約一六閂(五二メートル)の直道がある。両側には、小石を積み上げただけの壁。小石は一定の大きさに削られ、積み上げられている。道の先で壁が切れ、その切れた壁の向こう側には、小道が複雑に入り組んでいる。
壁は、美しく積まれてはいない。だが、貧しい者たちなりに懸命に造ったのだろう。整然とした石壁だった。
この場所に罠を仕掛け、崇埼だけを誘い出す。
これまで情報を掻き集めた。奴が護衛をして幾度となく刺客が送り込まれたが、取り逃がしたのは今回が初めてだそうだ。
逃げられたのは幸運だったからだが、奴からすれば逃げられたことには変わりがない。『素早さ』その一点だけでも、自分よりも優っている。そうと判断したはずだ。
護衛としては、速さで負けている。それは恐怖以外の何ものでもない。標的に一撃与えれば、目的は達せられるのだ。刺客は、自分よりも俊敏であれば、一瞬たりとも気を抜けない。
だからこそ、今度は仕留めようとしてくる。必ず追ってくるはずだ。
崇埼は、自分の方が強いことを知っている。一撃を凌げば、俺が逃げに転じるだろうと云うことも。
ここまでは、共通認識により双方共に一致している。
追い着かれない様に、この場所まで誘い出さなければならない。
何度も思考し、考え抜いた。自身に自問自答を繰り返し不安を拭い安心する。その繰り返しだった。
李雲玖は心の中で呟いた。
(大丈夫だ。奴は強い。だが、実力が上というだけでは、勝者にはなりえない)
今夜の準備に取り掛かるために、この場を離れた。あとは、ならず者を雇えば完了だ。
優しい光が降り注いでいる。月が天空に現れ、輝いていた。半月であったが、冴えた光を放っている。
腰帯剣に触れていた。
腰帯剣とは、薄く柔軟な刀身で皮の鞘に入っている。帯のように腰に巻き、武器を携帯していないと思わせる。主に暗器として使用されていたが、旅人の護身用としても重宝されている。反面、あまりの薄刃の為に扱いが難しく、それほど存在を知られていない。
その腰帯剣に触れ、追憶にふけっていた。
一瞬を深く振り返っていた。その時間は、ひどく長いものに感じられた。
『生きる』それこそが命題であった。
これまでも必死で結果を出してきた。この任務が失敗に終われば、学院内での立場を失い、良くて蛇虫として実験体として使われる。それは死んでいないと言うだけで、死ぬよりも遥かに辛く苦しい生だ。
自分は、自身の生存場所を確保する為に誰の命でも奪う。そう決意した。そうしなければ生きていけないのだ。
そして、いま目の前に密会現場である邸宅がある。それほど大きい屋敷ではない。その邸宅の周囲を大勢の警備兵が巡回している。兵は、約二〇名。厳重だ。前回とは、比較にもならない。装備も整っている。
「光栄だな。敵からは過大評価されている」
あまりの厳重さに嗤った。
暗さが増してきて、空を見ると雲が月明かりを遮っていた。
動いた。
夜陰に紛れ、離れて立っている警護兵の後ろに立つ。左手で男の口を押さえ、体に引き付ける。右手で瞬時に魔力を開放する。
青く鈍い光が、わずかに二人の影を濃くすると、刃物が現れた。青い刃物で、その兵の咽喉を貫いた。
力が抜ける感覚。左手に伝わってくる。死体を引き摺って物陰に運ぶと、服を奪った。
奪った警護兵の服を着ると、西側の壁を越え屋敷内に潜り込んだ。
木々が茂る庭。気配を完全に消している。
北側に向かうと、人数が多い。屋敷の奥に皇子と遣使がいるのだろう。
邸内を巡回している警護兵が、こちらに向かってくる。茂みに隠れ、足元にある小石を一閂(三.三メートル)手前に投げた。
わずかな音がして、警護兵の顔がこちらに向いた。近付いてくる。小石付近に来たとき、後ろから微量の魔力を放つ。
警護兵の後頭部が破裂する。血と脳が飛び散り、下半身に掛かった。
異変が伝播したのだろう。音は、ほとんど出していないが、衛兵が六人集まってきた。
(優秀だ)
李雲玖は、そう判断して演技を始めた。
死体を抱き上げる。
「大丈夫か?何があった?」
李雲玖の声に、周りに警護の者が駆け寄ってくる。
「どうした?報告せよ」
場内の指揮を任されているのだろう。姿勢を正し、態度の横柄な男に報告する。
「わずかな音を聞き、こちらに駆けてきたのですが、この惨状でありまして・・・。あと、東側に駆け出す人影を見ました・・・」
そう伝えると、指揮官は配下に視線を送り、急ぎ跡を追わせた。
「私は、崇埼様に報告する。貴様も来い」
「ハッ」
二人は駆け出した。
報告に向う指揮官は、李雲玖が、想定していた場所と違う方向に走っている。
「邸宅の奥ではないのですか?」
「あれは陽動だ。下級警護兵には教えてないが、別の場所で会っておられる」
そう云うと、男は歩き出した。
「ここの先に離れがあり、その場に居られるのだ」
「そうか」
李雲玖は、指揮官の背を硬質化した魔力で貫いた。気管を断たれ、声すら上げられない。男は絶命を迎えるまで、地に倒れたままこちらを凝視していた。
再び駆け出す。
入り組んだ屋敷に、こじんまりとした高床式の小屋があった。離れまで、あと一閂超(三.三メートル)にまで迫ったとき上方に殺気を感じた。
本能的に横に飛んだ。
「さすが学院の刺客。優秀だ」
崇埼は、湾刀を地に突き刺して言った。
「クッ」
やはり強い。向かい合うと背中が粟立つ感覚を覚える程に。
あわよくば任務が達成できるかもしれない。そういう思いも微量だがあった。だが、ここに至って、本来の計画に立ち返ることにした。
「待っていたよ」
「キサマと会う約束などしていない」
「こっちは、会いたかったさ。この私から、逃げたのだからな・・・」
李雲玖は、話に付き合わなかった。そんな余裕などない。一対一ですら勝てないのだ。この上、敵が増えれば逃げることすら不可能になる。
炎の塊を即座に放つと、体を反転させて駆け出した。
植え込みの木々、建物が次々と横切っていく。後ろから、凄まじい殺気を放ち追ってくる。
行く手を、壁が阻む。
岩に足を掛け飛んだ。約六筝(一八〇センチ)の塀を越えた。警護兵の姿が数人眼下に見えた。着地前に、魔力を溜める。槍を構えた兵士に放とうとしたとき、後方で爆音がした。背に石飛礫が当たり、警護兵も吹き飛ばされていた。
振り返る。飛び越えた壁が、五筝(一五〇センチ)ほど崩れていた。
白煙に近い土煙を突き抜けるように、崇埼が現れた。
「味方の犠牲を考えていないな・・・」
李雲玖は、笑っていた。
その迷いのない行動は、学院出身であることを証明している。
手下数名を犠牲にしても、俺を仕留められれば収支は黒字という考えか・・・。
それだけの覚悟をしているということは、読みは間違っていないだろう。
実力の差を考慮しても、全力で逃げて丁度良い。下手をすれば、罠に誘い込む前に討たれる。だからといって、演技臭く逃げれば悟られる。相手の力量は自分よりも上なのだ。どれほど巧みに逃げても追って来るだろう。
敵とはいえ、相手を認めていた。
闇の中を逃げる。決して手は抜いていない。貧しい地区の複雑な路地を駆け巡るが、後方の圧力は消えていない。
圧力が左側面に移動した。即座に魔壁を形成すると、槍のような氷柱が襲いかかる。氷柱は凄まじい勢いで魔壁に当たり砕け散る。砕け四散した氷片は貧しい家や石壁に突き刺さり減り込んだ。
気配を察知していなければ、やられていた。
魔防の準備だけは怠らず、仕掛けの場所まで疾駆する。その場所までは、四五筝(約一四九メートル)をきった。
さらに速く駆ける。
硬質化した物体を、放出系で放つという高等な魔攻をいとも簡単に扱うことに驚かされた。再び氷柱が飛んでくる。猛攻の連続。ただひたすらに疾駆し左右に避ける。
(あと少し…)
誘い込む直線路地に入った。その路地約六閂(約二〇メートル)程で振り返り右手をかざす。
「さぁ、来い」
心中で呟いた。
月明かりしかない薄暗さ、音の無い世界、両側には石壁。辺りは、緊迫した空気に包まれる。
鋭い殺気を前方から感じる。皮膚へ痛みに似た感覚が伝わる。
(来る!)
轟音。右前方の壁が崩れ、瞬時に飛び込んできた。
即座に、構えていた右手を向ける。
「炸毀!」
爆破魔攻を放った。魔力凝縮系は、直接的な魔力で仕留めるのではなく、爆破を起こした後の二次的な影響を考慮しての一撃であった。魔壁を形成して放出するという闘い方に、李雲玖の攻撃の構えは無意味となった。
近接戦闘を避ける為に、素早く後退する。だが、距離を保つことを崇埼は許さなかった。俊足で懐に飛び込み、李雲玖の腹部を蹴り飛ばしたのだ。
強い衝撃。一閂(三.三メートル)程、後方に飛ぶように転がると、さらに距離を保とうと退いた。しかし、態勢を立て直す隙すら与えて貰えず、攻撃を避けるために、飛び、転がることで、避け続けていた。
「素晴らしい反射神経と読みだ」
感心したような声だが、殺気と攻撃の圧力の手は緩まない。地に体を擦りつけ、転がり、土に塗れながらも反撃の機会を窺っている。
崇埼が、湾刀を振り被ったその刹那、転がっていた体勢を直せる瞬間と重なった。
「!」
魔力の一撃を放ち、無理やりに距離をとると、状態を膠着させた。
冷静に構えている相手に、多少息を乱している自分。危うく計略にはめる前に殺されるところだった。こうなることは予測していたが、予測していたからといって予防出来るとは限らない。
李雲玖は、相手の動きに対応できる体勢のまま口を動かす。
「うまくいった」
その言葉に、崇埼は目を細めた。
「強がりはやめるんだな」
崇埼は、気に入らないという表情になった。少しでも余裕が削れたことに、李雲玖の口は笑っていた。
「いや、正直ここまで旨くいくとは思っていなかった」
「どうやって勝つつもりだ?お前の死は確定している」
「そうだな・・・。だが―――」
否定しなかった。しかし、口も止めなかった。
「だが、既に目的は達した」
「どうやって、紀皇子を殺害できるのだ?」
「街で、ならず者を二〇名ほど雇った。今頃、邸宅を襲っているだろう」
崇埼は、声を上げて笑った。
「愚かな。紀皇子の護衛は精鋭だ。二〇名のゴロツキなど警護の者一人で充分に片付けるわ」
李雲玖の表情は、微笑んでいた。
「破落戸に、期待などしていない。だが、その中に学院の刺客一名が紛れ込んでいるとすれば…」
崇埼の顔色が一変した。
「ハッタリとしては良くできている。だが、ありえないな。学院の任務は、単独行動で行うことになっているはずだ」
そうは言っても、眼光は鋭い。
言われた通りだった。学院任務では、複数の人数で行動することはない。だが、監視役の明霞と行動を共にしたことは事実だ。それでも、共闘しないのは学院の掟によるところが大きい。何故、そんな理由なのかは分からない。邪推をすれば、示し合わせて逃げられれば厄介なのだろう、と思うくらいなのだが…。
李雲玖の駆け引きは続く。
「どう判断しようと構わない。俺は、貴様を引き付けるだけだ」
崇埼の背景の一部が、朱色に染まった。
「始まったな・・・」
呟くような小声を出した。
崇埼は後ろを振り返り、闇夜の一部の赤さを確認すると眉をひそめた。体から殺気だけでなく、怒気も感じる。
「破ッ!」
冷気と共に氷柱が数十本飛んでくる。唐突ではあったが、雑な攻撃だ。魔壁を前方に形成し終えたとき、考えていることを悟った。
李雲玖は、腹の底で歓喜の顔を作っている。
自分より強い者が、逃走に移ったのだ。その行動は示している。紀皇子が、どれほど重要な人物かという事を。
崇埼は、魔攻を放ち終えた直後には背を向け駆け出していた。
(予定通りだ)
全力で後を追う。崇埼は確かに優秀だ。言葉を交わすまでは、逃げる李雲玖をどう仕留めるとしか考えていなかったはずだ。優秀といえども、逃げる経路を想定していなかった人間と、入念な下見をした李雲玖では結果は明らかだ。しかも、刀を持っている有無も大きかった。
李雲玖の上半身から下半身、脚から足に、力が伝わり跳躍するように駆ける。崇埼の背が迫る。
魔力を大量消費させ、硬質化させる。右手に直刀を形成し斬りかかった。湾刀で弾かれる。弾かれた直後に凝縮爆破魔攻を撃つ。
回避するのに、地面を転がる。即座に、体勢を整え、向き直った。その一撃は、崇埼に逃亡を諦めさせたようだ。
「なるほど。是が非でも行かせたくないところを見ると、何らかの思惑はあるのだろう」
李雲玖に表情はない。
「どうであれ、これから半鉦(一〇分)引き付ければ勝ちだ」
李雲玖は、余裕から蕗国の時間単位を使った。
「語るに落ちたな。要は、半鉦以内で貴様を殺せば間に合うってことだ」
崇埼の瞳が強く輝いた。正直、困難なことだと容易にわかっていた。奴の基本行動は、逃げ回ること。そして、館に向かおうとすると背後を襲い攻めに転じる。そんな相手を短時間で仕留めるには、余程の実力差か切り札がなければ難しい。
李雲玖は、落ち着いて言う。
「出来るものなら、それを証明すればいい。どうであれ、あと半鉦の縁だ。その後は、紀皇子の元に向かえばいい。既に骸と―――」
話している最中だが、崇埼が湾刀で斬りかかってきた。驚くほどの速さ。
一閃。咄嗟に、身を屈めながら後ろに飛んだ。左肩の着衣が見事に切れていた。まさに紙一重の差で肉体に達していなかった。そして、かろうじてかわして、逃げに転じた。
闇。目を凝らしても全ては見えない。見えない箇所は、昼間の記憶で補完する。
目的の場所に向かって、石壁沿いに駆ける。右、壁越しに巨大な魔力。跳んだ。石壁が崩れ、小石が四散する。
速さと魔力が増している。背中と首筋に寒さを感じた。止まってなどいられない。
すぐに駆け出す。魔導で闘っているうちは問題ない。対等に闘えるが、魔導を使わない闘い方をしてくれば、的確な対処の仕方はわからない。剣術は詳しくなく、攻撃を読むことは難しい。
考えていることを読まれたのか、動きを見て悟ったのか、湾刀を握っていた。
斬り込まれる。魔導で反撃しようにも、魔力を放出する際の刹那、動きが止まってしまう。その静止は致命的だった。剣の間合いでは、魔導は役に立たなかった。
崇埼は、見抜いたのだろう。いや、正確に言うならば、至ったのだ。剣術での対応が、格闘戦の避け方が、あまりにつたなく、余裕がなかったのだ。
それは、何かの罠に引き込む演技かとも思ったが、さっきの魔攻ですべての疑惑が晴れた。
(魔導以外なら殺せる)
李雲玖は、逃げの体勢をとりながらも攻撃に転じる仕草は見せる。形だけだが…。
崇埼は、刀を握り直すと笑みをこぼした。
「四半鉦(五分)だ。それだけあれば、充分に貴様の首は身体から離すことができる」
その台詞は笑みと相俟って、恐怖が李雲玖を包んだ。思惑には沿っている。本当に思惑通りなのか。乗せていると思わせて乗せられているのではないのか。脳裏を過ぎった。不安は、すぐに掻き消した。心理戦の優位などどうでもいい。いまの事態は、狙い通りに動いているのだ。
「破ッ」
形だけの攻撃。見抜かれている。崇埼の恐ろしく速い斬り込み。左に回り込むように避ける。
(まずい!)
衝撃。
左脇腹に重さを感じた。瞬間、息が止まる。蹴りをくらったのだとわかった。
刀が閃く。
避けようとするが、脚が悲鳴を上げていた。力を振り絞り、再び駆け出す。
魔導を陽動にした湾刀の連撃。しかし、それすらも目眩ましだった。魔導で余裕を奪い、剣撃で精神力・体力を削り、殴り蹴る事で死へ誘う。致死に達する一撃を放つ機会を狙っているのかもしれない。
罠の場所まで全力で駆けた。
再び路地に入った。路地の幅は、二閂(六.六メートル)長さ約一六閂(五二メートル)の直道である。
駆ける。既に、体力はない。追いつかれ、後ろから横からの斬撃。かわすために、前に飛んだ。
転がり、土に塗れる。手を着きながらも前進する。魔力を練り、即に身構える。
左に現れる。腹を蹴り上げられた。体が飛び、地で背を打つ。
罠まで、あと一閂(三.三メートル)。
もはや勝負は決したように、崇埼が歩み寄る。
崇埼が、その場に立った。何かしらの違和感を覚えた。
(何かが違う・・・)
だが、それがなにか判らない。辺りを見回すが、石壁しかない。気配を探っても、人の気配はなく伏兵はない。
気になりながらも、伏兵でなければコイツにだけ注意を払っていればいい。そう思うことにした。
「幸運だった。貴様が、あと五年。いや、二年後に出会っていれば、仕留められなかったかもしれない」
構えた湾刀が、月光で鈍く輝いている。
「既に、勝ったような言い草だな・・・。例え俺が死んでも、皇子を殺せば俺の勝ちだ」
「捨て台詞か?いや、正確には遺言だな。貴様は、負けたのだ。双方の戦いで。今、四半鉦すら経っていない。既に計画自体が破綻している」
「確かに、半鉦(一〇分)と言った。だが、皇子が死んでいないとは限らない」
その言葉が、崇埼の不安で満ちた心を槍のように貫いた。落ち着いた殺気に、兇暴さが表れた。
「あの人が国を統治されれば、あの学院を肯定するような世を正せる。小国ではあるが、まずはそこから。貴様のような洗脳された者に邪魔はさせぬ」
李雲玖は、腰帯剣にさり気なく触れる。
雄弁に語る敵の言葉など聞かず、一撃を放つ隙だけを見つけようとしていた。強い、だが気を乱している。そう感じていた。
李雲玖は、自然体で呟いた。
「私の策。知恵が勝った」
「貴様!」
崇埼は、斬りかかる。基本に忠実で、無駄のない動きだ。
その攻撃を、李雲玖は約半閂(一.六メートル)後ろに、よろめきながら倒れる様にかわした。
崇埼は、二撃目を繰り出す為に半歩出た。李の背後に石壁がある。
その壁に湾刀が当たりでもすれば、刀が折れる恐れがある。そうなれば、形勢は逆転し致死に達する反撃をくらってしまうだろう。
恐れからくる慎重さが、斬撃をわずかだが遅らせた。
李雲玖は、その遅れを見逃さなかった。体勢を崩しながらも、石壁の手前一筝(三〇センチ)手前で腰帯剣に手をかけ引き抜いた。
切り札の一撃を繰り出した。
「!」
崇埼は、攻撃を止めようとする。だが、勢いが付き止らない。
紙のような薄い刃に、首が吸い寄せられる。
そうとしか表現できなかった。
だが、崇埼も警戒していた。まだ何か隠していると見抜いていたからこそ即応である。
薄刃は首の約半示(一.五センチ)手前を抜け、剣圧で発生した鋭い風が当たっただけだった。
崇埼は、声にならぬ声を出し、紙一重で切り札の一撃をかわした。
刃が、首から二示(六センチ)過ぎた時には、勝利の笑みを浮かべていた。
湾刀を振りかぶる。
李雲玖の腰帯剣は、勢いを殺すことなく空を舞っていた。
(勝った!)
両者がそう思った。崇埼は、湾刀を振り下ろせばいいと云うその瞬間に、笑みを浮かべる刺客と勢いが衰えぬ剣先に視線を引き付けられる。
薄身の腰帯剣が、李雲玖の背にある石壁を斬り裂いたのだ。
(馬鹿なッ!)
石壁を斬り断つと同時に、正面からの突風。
風圧を感じた。しかし、風とは感覚が微妙に異なった。体に何かが入ってきた。四ヶ所。首と左肩の中間、右胸、左下腹、右太腿。それら身体の部位を認識すると同時に、その箇所で異物を感じた。
よろめいた。力が抜け、湾刀が地に落ちる。
数歩下がった時、全てを理解した。
体には、四本の矢が刺さっていた。背にある石壁は、絵だったのだ。腰帯剣で斬った場所がめくれ、石壁の絵に六つの穴が開いていた。
石壁の絵の裏に、六張の弩を細工し隠していたのだ。
矢を装填した弩を設置し、紐を切ることによって射出される簡単な仕掛けだ。
一閂(三.三メートル)未満の距離から、不意の弩による攻撃。これだけでも充分であったが、前段階で主人の危機で冷静さを削った。そこに、最後の警戒心を消す為に、切り札の暗器の一撃をかわさせて、安心感と勝利の高揚で無防備になった所への一撃だった。
崇埼は、自身の体を冷静に見つめていた。矢の一本は、心臓から出ている血管を傷つけている。一本は右肺を貫き、腰と脚には力が入らない。両膝を折り、地面に倒れた。
「違和感はこれだったのか・・・。死ぬ気なぞ、毛頭なかった訳だ。夜の闇に救われたな・・・。月の光が、もう少し強ければバレる陳腐な罠だ」
「そうだな」
李雲玖は、湾刀を拾い上げる。振りかぶった。
「貴様は、とんでもない事をしたのだ。紀皇子は、不平等を是正し格差を解消する。その方を殺すなど、歴史の流れを止めることになるぞ」
息荒く、吐血しながら言った。
「だが、負けは死だ」
腕に力が入る。湾刀を振り下ろした。拙い扱い方。鈍い音が響いた。頭蓋が割れ、液体が流れ出た。
「学院からの別の追っ手が、皇子の暗殺などするわけがないだろう・・・」
死体に向かって吐き捨てるように言った。
今なら混乱に乗じての暗殺は容易い。
「成功したわね・・・」
右後ろから、澄んだ声が聞こえた。声のする方に視線を向けると、あどけなさの残る整った顔が宙に浮いていた。美しい肢体は闇に融けていた。目を凝らす。真黒の衣裳を纏った明霞が立っていた。
「こんな時も、監視に精を出しているのか?」
「それが私の任務よ。それにしても、ひどい姿ね」
傷だらけで泥まみれの李雲玖に笑顔を向けた。
「これから、どうする気?」
力量を量るかのような言い方だった。そんなこと、言われなくても決めていた。
「当然、首を取りに向かうさ。紀皇子を守っている盾はもう無い。あるのは、多数の木偶だけだ」
「そうね」
白磁の肌をした美少女は、肯定すると邸宅に向かって駆け出した。
漆黒の衣は、闇に紛れる。疾駆する足音だけが、僅かに聞こえる。
その姿を追うように、李雲玖も駆け出していた。
鼻を突く臭い。建物から煙の臭いが目に染みる。
数人の野次馬は付近に集まっているが、多数は貴族高官の邸の為に近づけず、遠巻きに見ていた。邸宅の周囲には破落戸と警護兵の死体が転がっていた。生きているゴロツキの姿は無く、警護兵は館の消火に当たっている。
警護兵は、警戒に注意を払っていない。それは、皇子は移動していることを示していた。
野次馬に問い掛ける。
「ここから誰か出たか?」
気の弱そうな中年が答えた。
「夜盗のような奴等が逃げて行くのを、兵が数人追って行った」
駆け出していた。
ここからは出ていない。やはり邸宅の裏口から逃走したのだろう。指揮官は凡人のようだ。簡単に後を追える、そう思った。
痕跡がある。跡を追う。闇に融けきれていない。残り香のようなものまで嗅げる。そんな感じがした。
馬数が無かったのか、闇夜で騎馬の逃走を辞めたのか分らないが、徒歩で逃げている。多数の足跡が、そのことを証明していた。
近い。多数の気配を感じる。
魔力を練り始めた。傷付き疲れきった体は、強い痛みと耐えがたい重さを感じていた。
風を感じる。その風に逆らうように、魔攻を放っていた。頭が二つ、闇に舞い上がった。音は無いが、多数の気配。次の攻撃が来る。両手で蓄えてある魔力を火球にして放った。六つの燃える身体が見えた。
背後に殺気。
腰帯剣の柄を握り、引き抜く。曲閃。敵の首から、大量に血が噴出した。
その血を、李雲玖はしたたかに浴びた。
「弱い」
囁くように言い、最後に立っている男に向かって歩き始めた。
男は逃げることもせず、こちらを見ている。若く聡明な容姿に、えも言われぬ引き付けるような魅力を持っていた。
誰か判った。
「紀皇子か?」
「先の暗殺者ですね…。あなたが此処にいると云うことは、崇埼は死んだということですね…」
遠くを見るような目線だった。
「崇埼が死ぬなんて、考えることすらなかったな。あんな兵でも死ぬのか…」
李雲玖は、会話をする気は無い。
「貴方も死ぬ」
感情をまったく込めることなく、事実だけを言った。
「そうだな。だが、何も成すことなく死んでいくのは耐えられんが・・・」
李雲玖は、無言。無表情であった。
紀皇子は、語り始めた。
「私は、祖父の遺志を具現化する為に生きてきた。無能な父に辛酸を舐めさせられたが、私は生きている。それは、この国に公平と公正を敷くための命であり。他国の制度すら崩壊に追い込むことが出来るこの生命だ。祖父と私の理想が、世のあり方を変えるのだ」
演説のようなことを始める。荒々しい所作、眼光が増し、雄弁だった。
語る側と聞く側では、温度差があまりに違っていた。
李雲玖は、殺気を消すことなく見ている。
紀皇子の動きは、大きさを感じさせるものだった。これが、魅了する要素というものなのだろうか、と思う。
さらに、演説は続く。
「ほとんどと言っていい民の生は、苦と悲で形成されている。喜と楽は、一部の特権階級に独占されている。この現状を是正せねば、民は救われぬ。全階級を廃し、実力の世とする。そうすれば、不幸な子も減り、人は人として生きられる」
李雲玖の眼光が鋭くなった。
勇壮、その言葉が的確に当てはまった。言葉は続く。
堂々と平等を、圧倒的に正義を語る。自身を恥じ、腐敗を非難する。その態度に迷いは無い。
紀皇子の正論と振る舞いが、李雲玖の顔が歪ませた。魅了する才能が、かえって不快感を増大させていた。
なぜそんな感情が湧くのか冷静に分析している。
社会の底辺で生を受け、その底辺からも堕ちて学院で生き延びた。生き延びる為に結果を出しても蛇虫と蔑まれた。そんな中で、唯一蔡院長が見ていてくれた。そして認めてくれた。
世界は、自分を見ていないと思っていた。それは、生きていても存在しないと同じ意味だったが、院長が世界を一変させてくれたのだ。李雲玖にとっては、院長と明霞以外の生死などどうでもよかった。自分を認めない人間、見下す人間の命や権利を守ることなど、とても理解できない。なぜ不快な奴を保護しなければならないのか、自身を殺そうとする人間を助けてやるようなものだと、思考は行き着く。
紀皇子は、ごく狭い中で生きてきて、透けるほどの薄い正義を振りかざしている。
「そなたも、そうは思わぬか?人は助け合い、理想を掲げ生きてゆく。弱者を労わり、まずは子供を救いたい。何も出来ず死んでいった子供たちのなんと多いことか…。そういった世を創る。私は、そなたの様な不幸を背負った者も救いたい。それには、力が必要だ。そなたの力を貸してくれぬか?」
そう言われた時、怒りが体を駆け巡った。
紀皇子の右手首が消えていた。感情を制するよりも早く体が動いていた。腰帯剣がしなっていた。
皇子は、何が起きたのか理解できていない。足元に、白くしなやかな手が土にまみれ転がっていた。
皇子は、へたり込んだ。口が震えている。
李雲玖は、見下ろしている。
「貴様が、俺に何をした?」
皇子は、その問い掛けに答えることはなく、怯えるように刺客を見上げていた。
「貴様は、俺に何をしてくれたか。と聞いている」
一呼吸置いて、紀皇子は応えた。
「なにもしていない。だが、これからなら、してやれる。金も名誉も女も、好きなだけ。私が帝になれば、そなたの力も大きくなる」
「信じられぬ」
蔡伯鈞院長との思い出が甦る。
非人の身分で生まれ、蛇虫と言われた自分を認めてくれた。その事実は大きく、その後から他の教員たちの見る目、態度が変わったのだ。それから、人と云う生き物を正確に知った。世にいるほぼ全員は、屑だと。その屑の中に、一劫(一〇〇億)に一つの確立で偉大な人間が存在することも…。他の人間は、自身が危機に陥らねば認識できないのだと、その危機を脱することが出来たとしても、それは優秀なのではない。真に優秀な人物は、危機を未然に防ぐ者であり、優秀な人材を発掘できる人間だ。
皇子の外見、振舞いは美しくとも、感じるものは、腐敗物と同じ不快さしかなかった。
それでも、皇子は立ち上がり、威厳を持って、理想を語っていた。
不快さで耐え切れなくなり、叫んでいた。
「では、学院に売られる前に助けろ!」
腰帯剣がきらめく。
紀皇子の左腕の肉が斬れた。腱も切れたようで手は静止している。
「心が折れそうだったときに助けてみろ!」
右太腿が割れた。
「院長よりも先に、俺を認めろ!」
紀皇子の首から血が噴出した。腰帯剣とは思えぬような斬撃だった。最後に、薄剣を宙に一振りして、血を振り払うと腰に巻きつけた。
乱れた呼吸音。静寂に響いて、闇に消えていった。すぐに乱れが整う。
皇子の倒れた姿を確認する。
紀皇子は、絶命していた。
「任務完了」
冷静に言った。皇子の死体を見て、考えていた。
蕗国は、指導者を失った。これで、依頼人の思惑通りにことは進むのだろうか。帝位は、填皇子が手中にするだろう。それは明らかに大半の民の認識では不幸なことではあったが、その結末が不幸と決まったわけではない。
夜は、未だ深い。半月は雲に隠れ、星明りでは刺客は追えないだろう。
明霞との待ち合わせ場所に向かった。
身体の節々に痛みがはしる。歩き始めると、視界が歪んだ。立ち止まり、指で目を押さえる。眼球が熱を持っていた。
魔導の力を使い過ぎた。最大限使用すると、身体に軋みを感じる。魔導とは諸刃の剣であると実感する。