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(花楓……?)

 草むらの影で飯綱は、友人が走っていく姿を見ていた。今日は用があると言っていたのに、どうしたのだろう。まさか最悪の展開への舵をこのタイミングで切ったのかと不安がよぎるもしかし、今は誰かの心配などしている場合ではないのだった。

 自分が一番、危険な状態にあるのだから。

「へへへ、見つかるところだったねえ、飯綱くん……それとも君は見られた方が興奮するのかなあ?」

 飯綱はこの変態男に抱きすくめられたままだった。抵抗しようにも彼の力ではどうにも太刀打ちできない。もともと喧嘩などできるたちでもないのだ。兄や姉とは違って自分に好意という名の害をなしてくる者はおらず、その状況に甘んじて、非暴力主義に徹してきても許されていたから。

 まさか男に興奮するタイプの変態に捕まるなど、思いもよらなかった。

 耳にハアハアと吹きかけられる息が心底気持ち悪い。できるなら花楓に助けを求めたかったのに、彼が通り過ぎる時に考えていたのは姉のことだった。今目の前にある危機から目をそらしたところで、現実は少しも好転してくれないというのに。

「あいつ、むかつくよなあ……ボクの飯綱くんといちゃいちゃしやがって……殺してやりたいところだけど、こうして飯綱くんが手に入ったからいいかぁ」

 変態は走って行った花楓を憎々しげに睨んだようだ。彼に何かする気なのかと、腕の中でもがいた飯綱を、男はさらに強く抱え込んだ。

「大丈夫だよ。ボクは君以外いらないからね。一目見た時からボクは君の虜なのさ。さあ、ボクの部屋で愛し合おうか? おっと、抵抗すると刺しちゃうよ? 切り刻まれて血まみれで苦悶する飯綱くんもきっとそそるだろうけどねぇ」

 目の前に刃物が突きつけられた。ちゃちな果物ナイフだったが、木陰で鈍く光るそれは飯綱を怯ませるには十分だった。そうして碌に抵抗できないまま、引きずられるようにして公園を抜ける。向かう先にあるのは、ナイフと同じくらいの鈍さで輝く銀色の車だった。

 何度も目撃していた色だ。こんな目に遭って初めて、なぜありふれた色とはいえそれがやたらと目に入っていたのか、その理由が分かった。

 たった今狙われたのではない。もうずっと狙いをつけられていたのだ。ただ一緒にいただけの花楓を憎むほどに。

「ほら、車に乗って……抵抗しないでね?」

 刃物に脅されていては抵抗などできるわけがない。それでも車に乗ってしまったら最後だというのは分かっていた。乗せるために抱擁を解除した男は、嘲弄するように刃物の先で飯綱の背中を押してくる。今なら両手両足とも自由が利く。必要なのは勇気とタイミングだ。多少の怪我を覚悟してでも逃げるべきだと顔を上げた彼は、ミラーに映った男の顔を見て愕然とする。

「あ、あんた……にーちゃんの」

「ああ、気づいたぁ? まあいいから早く乗れって」

 焦れた男に背中を手で押された。なんとか両手で縁を持って踏ん張りながら、飯綱は振り向きざまに男を睨む。気弱そうな顔には邪な表情がべったりと張り付いていて、飯綱の記憶の中のそれは見る影もない。もっともそれほど印象があったわけでもないのだけれど。

 木村と呼ばれていた兄の客だ。

「なんで? にーちゃんのこと、好きだったんじゃ」

「ああん? ボクがあんなカマ野郎を好きなわけねえだろ。あいつ、飯綱くんのことを聞きだすために近づいたのを、勘違いしたのか? はっ、これだからオカマは気持ち悪いんだよ」

 未成年の男子高校生に今まさに手を出そうとしている自分を棚に上げて、木村は千歳のことを不快そうに吐き捨てた。その言いざまに、飯綱の中で怒りの炎が燃え上がった。

 彼は知っている、千歳がこれまでどれほど女性に苦しめられてきたか。普通に過ごしたいのにそれすら許されずにいたことを。その彼が恋に浮かれて舞い上がるのを見て、どれだけ喜ばしく思っただろう。

 その相手はこんな変態で、千歳の想いを踏みにじって、あまつ虚仮にしてくれた。誰よりも兄の幸せを願う弟の前で。

「てめえ……ふざけんなよ」

「あ?」

「にーちゃんを侮辱すんな、この変態クソ野郎が!」

 振り向き、掴みかかろうとした飯綱だったが、その力は怒りに任せていても頼りなく、あっけなく押し返されてしまう。縁に後頭部をしたたかぶつけ、そのまま後部座席に押し倒されてしまった。

「怒っちゃった? まあ謝らないけどねぇ。どうだっていいだろ、そんなこと。これからボクたちは一つになるんだからさあ……」

「やめろっ、離せ、短小野郎!」

「暴れんじゃねえ!」

 飯綱の怒りはまるで木村には届いていなかった。それどころか抵抗を始めた彼にいらだって、座席にナイフを突き立てる。顔のすぐ横に刺さったそれを見て、飯綱は思わず怯んでしまった。

「それ以上抵抗するとこの場で犯してやるぞ、ガキが」

 体が半分以上車の中に入っているとはいえ、往来である。だがそんなことができるわけないとも思えないのは、完全に木村の目が危険な、いわゆる「いっちゃってる」状態になっていたためだった。もはや何をするか分からない。逃げるにも逃げられない体勢だったが、それでも飯綱は辛うじて外に出ている足をばたばたと動かした。通りかかった誰かが不審に思ってくれることを願って。

「暴れんじゃねえって言ってんだろ!」

「飯綱!」

 ついに殴ろうと拳を振り上げた木村の体が、突然車外へと引きずり出された。彼の名を呼びそれをなしたのは、花楓だった。

「ああ、やっぱり飯綱だった。大丈夫か? なんだこれ、どういう状況だ? ついやっちまったけど」

「花楓……」

「てめえ、このクソガキ!」

 見ず知らずの誰かかもしれないのに、そして状況すらも分からないと言うのに、花楓は果敢にも飯綱を助けてくれたのだった。走ってきたようで肩で息をしている。その一方で、引きずり出された木村が立ち上がって、ポケットから新たなナイフを取り出していた。その刃が向かう先は花楓だ。

「ぶっ殺してやる……ボクと飯綱くんの邪魔をする奴は全員、殺す!」

「うわっ、なんだこいつやべえ」

「花楓、逃げて!」

 ナイフを振り回す木村から逃げる花楓だったが、そのまま一目散に走って逃げてしまえばいいものをそうしないのは、逃げたら今度はその刃が飯綱に向くだろうことを分かっていたからだった。車外へ這い出たものの、ナイフを持った木村を取り押さえようにも力がないことは明白だったので、情けなくも足を震わせて見ているしかなかった。

 近所づきあいなどなくとも、声を上げて周囲に助けを求めればよかったことに飯綱が気づいたのは、全てが終わってからだった。

 その全て終わらせた要因は、猛スピードでこちらに走ってきた。高いヒールもまとわりつくスカートの襞もものともせず。

「木村ああああああああああッ!」

 出勤のためのフル装備を完了した千歳のタックルを背中に受けた木村は、文字通り吹き飛んだ。その手のナイフは明後日の方に飛んで行ったが、誰も傷つけることなく世にも軽い音を立てて地面に沈む。しかし千歳はそれだけでは満足せず、吹き飛ばした木村に追い打ちの関節技をかけた。殴る蹴るの暴力に及ばなかったのは、下手をすると死んでしまうことが分かっていたためだろう。

「よくも騙してくれたな、てめえ! しかもよりによって人の弟に懸想しやがって、この変態が! 飯綱に手を出したらどうなるか分かってるんだろうな!」

 完全に男に戻っていた。タックルのダメージも相当深刻だろうに、さらに関節技を極められている木村はもはや声も出ない様子だった。

「千歳お兄さんかっこいいなあ。飯綱、大丈夫か? いや、ひどい目に遭ったし平気じゃないだろうけど」

「ん……」

 へたり込んでいたわけでもないのにどうして手で支えてくるのかと不思議に思ったが、どうやら自分で思う以上に精神は消耗しているらしく、誰かの支えなしでは自立すら難しいようだった。けれど同じような男の手なのに、花楓には触れられても恐怖を感じることはなかった。あんな気持ち悪いものにはもう二度と触れられたくないとすら思ったのに。

「どうして、ここに?」

「天城お姉さんに渡したいものがあってさ。そんで帰ろうとしてたんだけど」

 姉に渡したいものというのはどういうことだろう、まさか……と考えを巡らせようとする飯綱の想像を断ち切るように、気絶した木村を引きずりながら千歳が近づいてきた。今更のように近所の人たちが何事だろうかと遠巻きに出てきたのを、まるで気にするそぶりもない。

「警察行くわよ、飯綱。いいわね?」

「え、う、うん」

「ちょうどここにビチグソ野郎の車があるからこれ使いましょ。飯綱、嫌だろうけど乗って頂戴。あと、そうね、できたら花楓くんも一緒に来てくれる? この子も安心するだろうし」

「あ、はい」

 助手席には意識のないビチグソ野郎こと木村がシートベルトで縛りつけられるように乗せられたので、二人は後部座席に座った。突き立っている果物ナイフは、先に乗り込んだ花楓の手によりシート下に放り捨てられたようだ。とはいえまだ悪夢が色濃く残る現場だ。急いで空気を変えなくてはと意気込んだ飯綱は、ふと気づく。

「あれ、そういえば、名前……」

「ああ、天城お姉さんが、『うちは全員日野本だから名前で呼んで』って言うからさ。嫌だった?」

 他人に苗字ではなく名前で呼ばれることは初めてだと言うのに、全く違和感を覚えなかった。

「嫌じゃない」

「なら、よかった」

「ねーちゃんに何あげたの?」

「ん? それはまあ、その」

 歯切れの悪い花楓と、知りたがる飯綱を乗せた車が現場を走り去る。家の前を通るとき、玄関から目だし帽が覗いているのが見えた。表情は見えなかったのに、なんだか彼女が満足そうなのが分かった。もちろん弟がひどい目に遭ったことを喜んでいるわけではないだろうけど。


 今更だったが頭がひどく痛む。だがあの時車にぶつけた痛みではないだろう。狭くて暗い、何もない部屋。相変わらずここがどこなのか分からないのはヒントを一切与えてもらっていないからだった。誰も来ず、何も起こらない。空気どころか時間すらも停滞しているようだ。ただ花楓と手錠で繋がれているという状況だけが、風化もせずそこに鎮座している。

 もしかしたら二人をこんな状況に押し込めた犯人は、あの時の木村とかいう変態男なのかと一瞬思ったものの、あいつは過剰防衛とも取れる千歳の暴力と警察権力によって、おいそれと飯綱には近づけない身分になったはずだった。

 では誰が、彼らをここへ追いやったのだろう。自ら入るとも思えない。まして手錠ともなればなおのこと。

 花楓はぐったりと四肢を投げ出した状態のまま、目覚めない。一人で悶々と考えたところで埒が明かぬため、名を呼び起こそうと思ったところで、飯綱の耳にコンクリを叩く硬質な足音が聞こえてきた。こちらに近づいてくる……。


 往来では、移民規制法の賛成デモ隊と反対デモ隊が、シュプレヒコールを上げ合っていた。良く聞くと反対派は根拠のない感情論で、賛成派は理路整然としたしっかりとした論調を持っており、どちらに軍配が上がるかは火を見るより明らかだったが、選挙権のない飯綱にはその行く末がどうなろうとも関与することはできない。

「うわあ、すごいとこに行き会っちゃったなあ」

 同道している花楓からは、単に人出の多さに道を間違えたという以上の何かを感じることはなかった。

「こっち行こう。ちょっと遠回りになるけど」

 大通りを逸れてビルの間の狭い路地に入ると、嘘のように喧騒が遠ざかった。そうして飯綱主導で花楓をそこへ引っ張り込んだものの、もしかしたらあのざわめきの中にいた方が気がまぎれたかもしれないと気付いた。うるさいくらいの方が何も考えなくていい。静かだと、考えてしまうから。

「俺、疲れてんのかなー、さっきのデモのかたっぽ、みんな同じ顔に見えたんだけど。こう、目がぴっとして……あ、悪い。お前のが大変だったってのに」

 花楓といる限り静かさとは無縁だったので、飯綱はほっとして笑ったり謝ったりする友人の存在をありがたく思った。おそらく一人でいたら、どれだけ人通りの多いところにいようとフラッシュバックした恐怖に怯えなければならなかっただろうから。飯綱としてはできるだけ早く普通に戻りたかったのだ。

「いいよ。僕もこうして外に出てた方が気晴らしになるし」

「しんどくなったらいつでも言えよ? ゲームなんて今日じゃなくたって買えるんだし」

 心配してくれる花楓に弱いところは見せられない。現場に居合わせてしまったのだからその気遣いは当然だろうが、自分の記憶以上に花楓の記憶からその出来事を消し去ってしまいたかった。

 今まで兄姉が被った不幸だけを心配していた飯綱が、よもや自分にまでその災難が降りかかるとは思ってもいなかったので、落ち着いたかと言われれば全然落ち着いてなどいなくて、だからこそいつも通りの自分を急いで取り戻したいのだけど、昨日の今日ではまだそれは難しすぎた。どこにいても神経が過敏になって、今だって視線を感じてしまうくらいだ。見回しても誰もこちらを向いてなどいないのに。

「大丈夫だよ。僕、男だし。初めてのことでびびったけど」

「いや、そういう問題じゃねえだろ? まあでも、そうか。ああいう変態はあれっきりだよ、うん。特殊な状況だったんだな」

 稀な状況だからもう起きないのだと、花楓なりに慰めてくれているのだろう。しかし異常な経験を重ねてきた千歳は彼のような考えには至らなかったようで、最後まで二人について行くと言い張っていた。

「やっぱり心配だわ。なんだか『もしかしたら』っていう気がするもの」

「そんなこと言ったって千歳兄だってお得意様と同伴デートがあるんでしょ。花楓くんが一緒なんだし、大丈夫。私も空から見守ってるから」

 ハラハラする千歳に、天城はそんな、まさしく雲のようなふわっとしたことを言うのだった。

「ところでどんなゲーム買うの?」

「ああ、うん。『目が点』シリーズの新作でさぁ、実はちょっと前に発売してたんだけど買おうか迷ってて、評判聞いたら、ぜ」

 目的地のゲーム販売店はもう少し先にあり、角を曲がってさらに人気のない寂しい場所を通らなければならない。花楓といるとそんなことも目に入らなくなって、二人で道を独占している状態だったがそれを楽しもうという気持ちすらあった。

 だが飯綱はまたも視線を感じて、振り向いた。どうせまた過敏になっているだけで誰もいないのだろうとは思ったが、それでもやけに絡みつくようなねちっこいそれが気になって、振り向かずにはいられなかった。

 ただその動作は、最後まで完遂されることはなかった。

「え」

 取り留めない様子の花楓の言葉が、不自然な殴打音と共におかしなところで途切れた。慌ててそちらに目を向ける飯綱の側頭部にも衝撃が走り、視界が暗黒に染まる。

 意識を失う寸前に見たのは、角材のようなもので後頭部を殴られた花楓がなすすべもなく倒れていく場面だった。

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