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「ちなみに手術とかしてないから……」
「そういえば胸に詰め物とかもしてなかったな、『お姉さん』。すごい胸板だった」
翌日の、放課後である。あのまま花楓を追い出すようにして帰すしかなかったのが後ろめたく、また学校で説明するのも気が引けたので、昨日とは別の公園にて話をしていた。釈明をさせてほしいと懇願したのは飯綱だったが、花楓の方でも説明を欲していたようだ。
「うん。元陸自だから」
「かっけえ。元ってことは辞めちゃったんだ」
花楓よりも高い背で、あの筋肉質の体である。女装していようともその迫力はすさまじいものがあっただろう。
「今はそういう系のバーで働いてる」
「あー、でも分かる。顔、キレイ系だったもんな。天城お姉さんと似てる感じしたぜ」
「……僕だけ似てないだろ」
花楓は「あっ」という顔をしたが、別にフォローしてほしいわけではないし、嫌な印象もない。それでも彼は飯綱のいいところを探そうと必死になった。
「いや、日野本も全然、悪くないし。そりゃあの二人と比べたら薄くて地味って風になるけど、そこが味があるって言うか、親しみやすいって言うか。お前クラスじゃあたぶんモテの系統だぜ?」
「いいんだ。別に似てなくても。むしろ似てない方がいい。顔が良くたって、世の中得するってわけじゃあないし」
いかに本人たちのみが有する悩みであっても、家族ならば容易に共有に至るのだ。被った迷惑の数々を思うと、ため息が出る。それに惹かれたわけでもないだろうが、風に押されて誰かが捨てた新聞紙が足元まで転がってきた。移民規制法について語る首相の顔がドアップになったそれを、荒く畳んで隣のゴミ箱に入れる。
「妬みとかすごくて、同性にいじわるされるし、それにストーカーがすぐ湧く」
「うわ……そりゃ、気の毒に」
「どっちも殺されかけたから」
「えっ、それは警察に通報しなきゃだろ」
「まあ当然そうなるよね……」
花楓が慌てるが、飯綱は冷静に首を横に振った。がさりとベンチの背後で草が素早く動く音がしたが、振り向いても誰もいない。猫でもいたのだろう。
「でも警察は駄目なんだ……。相談した相手によってはストーカー化しちゃうこともあって、だから自衛のために二人してああなったと言っても過言じゃない」
「そっか、二人して……ん? 天城お姉さんって」
姉のことで相談にいったはずなのに、付添いで同席していた兄がストーカーをくっつけて帰って来た時もあった。その逆もしかり。父に相談すべきなのだろうが、仕事柄家を空けることが多くなかなか捕まえることができないため、自分たちで対処するしかなかった。千歳も天城も、ストーカーにまとわりつかれることを恥だと思っていて、積極的に親に告げられないという性格もあった。
母親は今、どうしているか知らない。飯綱が小学校に上がる前に離婚して、遠くの郷里へ帰ってしまったっきりだ。
「どう自衛してんだ? 家に籠ってるのか?」
「ねーちゃんは……腐女子なんだ」
これは本当なら言いたくなかったのだが、引きこもりの穀潰しと思われる方が嫌だったので仕方なくでも話してしまうしかなかった。恥ずかしさで顔が赤くなる。
「フジョシ?」
「男同士の……そういう漫画描いて、そういう同人誌にして、そういうお店で委託販売してもらってる……」
天城の収入はそれで安定しているらしく、別段飯綱が恥らう場面ではないのだが、どうしても堂々と顔を上げてはいられない。だって、男に追い回されたせいで男が大の苦手になっているというのに、その男を題材に飯を食っているのだ。どういう神経をしているのかと疑ってしまう。もちろん命を狙われた瀬戸際まで追い回されたこと自体は題材にはしていないとは思うが。
ちらりとしか見たことはないし、がっつり見る気もないけど。
きっと花楓も同じ感想に行きつくに違いないと思ったけれど、どっこい予想を裏切るあっけらかんとしたものだった。
「そうなんだー。天城お姉さんって幾つ?」
「二十二。にーちゃんは二十七」
「離れてんなー。俺んとこ四つ違いだぜ、大学生。すぐ人のことパシリにするんだよ。日野本んとこは?」
「いや、うちは特には」
「だよな。かわいがられてる感じ」
「あ、あのな、花楓」
それ自体は悪いことではないのだけれど、このまま放っておくと延々と花楓のペースに載せられて脱線したまま帰ってこられなくなりそうだったので、強引に割り込ませる。
「にーちゃんとねーちゃんのこと、誰にも言わないでほしいんだ」
「え、なんで? いや俺としても別に誰かに言うつもりもなかったけど」
「だって恥ずかしいだろ。こんな残念な『ねーちゃん』が二人もいるなんて」
飯綱は深々と息を吐いた。そして黙ってしまった花楓に納得してもらうために、淡々と内に秘めてきた感情を吐露する。
「……昔は、こんなじゃなかったんだ。運動も勉強もできて、みんながちやほやして、いつも話題の中心にいる、自慢のにーちゃんねーちゃんだった。でも段々、比較されるようになって、……上に比べて下は駄目だねって。見た目だけじゃなくて中身も地味だから、僕。それで一時疎ましくなって……でも今はそれも通り越して、残念だとしか思えないんだ。だから秘密にしたいんだ」
ストーカー被害に遭っていることは可哀そうだと思うし本人たちの意思とは無関係だが、その果てにオカマと引きこもり腐女子になってしまうのは、どう考えても世間的に外聞のいい属性だとは飯綱には思えなかった。実の兄姉を秘したいということ自体も、非常識の範囲に入るかもしれなくとも。
「俺、お前のそういうとこ好きかも」
「は?」
しばらく黙って聞いていた花楓は、だしぬけにそんなことを言った。もちろんそこには、天城の大好きな邪悪な成分は含まれていない。正真正銘の純粋にしてさわやかな友情であることは、言われた飯綱にも伝わったがしかし、どうしてそこでそうなってしまうのかはまるで見当がつかなかったため、思わず呆気にとられた表情になってしまう。
「だってお前、千歳お兄さんも天城お姉さんも大好きなんだろ。今でも自慢。だから二人には顔上げて堂々と歩いてほしいんだ。でもクソなストーカーがいやがるから、それもできなくてねじくれちまったのが許せないんだな」
「え……」
「お前、いい奴だわ。まあ俺には真似できないけどさ」
ぽんぽんと花楓が飯綱の肩を叩いた。そんな風に言ったつもりは微塵もなくて、どこをどう曲解したんだろうかと不思議に思うも飯綱は、花楓のその考え方が嫌いではなかった。むしろなんだか心が温かくなって、不覚にも泣きそうになってしまう。
熱くこみあげてくるものを止めたのは、無粋な電子音だった。花楓の携帯電話だ。メールのようである。
「ったく、そのクソ兄貴だよ……は? ゲーム貸す? ふざけんなっつの。悪いな、ちょっと急いで帰んないと」
「分かった。また明日」
「おう。あ、秘密は守るからな」
律儀に告げて走っていく花楓を見送って、飯綱も帰路についた。公園の入り口に止まっていた邪魔な銀色の車を避けながら、口元をそっと緩ませる。
「まったく、どっちがいい奴なんだか」
普通はどんなに友情が高まっていても、面と向かって好きだなんて言わないだろうに、花楓には恥じらいも何もなかった。ただ思ったから口に出しただけという感じだった。彼がどのグループにも属さないのに恨まれることも疎ましがられることもない理由が、分かった気がした。
残念なんて言う飯綱の考えがおかしいとか、兄姉のことをもっと思いやれと説教して来たりしなかったというだけで、全力で心を許しそうになっている。今まで出会った人たちとは異なることは明らかで、もしかしたらこれまでと違って、深い付き合いになるかもしれない。
そんなことを思いながら歩いていると、不意に背後から視線を感じた。家までもう十メートルもない距離だ。なんだろうと振り向くと、銀色の車がそこにいた。取り立てて狭い道路でもないのに、まるで邪魔だと言わんばかりにのろのろと最徐行状態で飯綱の後ろに着いている。
「?」
下手をするとひっかけられると思い、隅の方によけた。ほぼ民家の塀に背をくっつけた状態なのに、車は追い越して行かない。クラクションを鳴らすでもなく、窓から顔を出して文句を言うわけでもない。なんだこいつと思ったところで、その車は慌てたように飯綱を避けて走って行った。
「あら、いーくん。おかえりぃ」
これから出勤する兄の千歳が、門扉を閉めて出てきたところだった。迫力あるオカマにびっくりして逃げたのだろうか。千歳は非常に女性らしく科を作りながら、怪訝な顔をしている弟へと近づいてくる。
「どおしたの? おかしな顔しちゃって」
「どうもしてないよ。……にーちゃん、今日ちょっと化粧濃くない?」
「もう、『お姉ちゃん』でしょ。それに化粧濃いんじゃなくて気合入れてんのよ」
いつもよりめかしこんでいるのは、どうやらお気に入りの客が今日来るためらしかった。
「その人ね、木村さんって言うんだけど、なんかアタシのこと好きっぽいのぉ、もう困っちゃうわぁ」
「ああ、昨日のデートの人。良かったね……」
「うふふ、いいでしょ。今日お店に来てくれるって約束したのよ~」
聞く限りはその木村何某よりは千歳の方が彼のことを気に入っている様子だったが、あえてそこを突っ込むほど野暮な飯綱ではない。あれだけ女に苦しんだ兄が同性とはいえ新たな恋に浮かれている様は、そんなに悪いものではなかった。たとえ大柄なオカマが客に入れあげていただけだとしても、男は彼のストーカーと化することもないから、普通の恋として安心して熱を上げられるというものだ。千歳がオカマになって以降、彼に付きまとっていた女性ストーカーはぱたりと姿を見せなくなった。効果覿面だった。
ただ、往来を女装して歩かれるのも困りものだが。ある意味花楓の言った通りに、兄の方は一切の恥じらいもなく堂々としているのだ。その分、恥を弟が背負っているのだけれど。
「車の免許持ってるのに……」
「なぁに言ってるのよ。飲んで帰ってくるだから車じゃ駄目でしょ。それにお店周り、駐車場ないし。じゃあ、いってきまぁす」
「いってらっしゃい……」
「あ、そうだ。昨日のかわいい子、また連れてらっしゃいよ。別にアタシがいない時でいいからぁ」
いろんな意味で立派な『姉』を見送って、飯綱は家に入った。『彼女』がオカマを始めた当初は、近所の目が気になって仕方なくて、今のような会話をしただけでもぐったりと疲れたものだけど、もはや慣れたものだった。
それでもやはり、見てほしくはない。近所の人も心得たもので、あまり大っぴらに千歳に話しかけてきたりしないから助かっているが、単純に敬遠され疎外されている気がしないでもなかった。もっとも飯綱自身はそうそう近所づきあいをすることもないが。
「ただいま」
「おかえり、いっくん。そろそろ食料が尽きそうだから、明日買い物してきてくれる?」
引きこもっている姉も、近所での付き合いはない。それどころか外へ出たところを久しく見ていない。通っていた女子高を卒業するかしないかの頃に付きまとっていた社会人ストーカーをある方法で撃退してから、他にもいた他校の男子高生のストーカーたちをも、ついでに撃退してしまったようだ。そちらには何もしていないのに。
おかげで家の周りは近隣の家々も含めて静かだった。
その天城は、昨日飯綱が帰ってからずっと目だし帽をかぶっている。
「ねーちゃん。もういきなり誰か連れてきたりしないから、それやめなよ」
「いいえ、油断した私が悪いの。他にも宅配の人が来るかもしれないのに……でもこうしていれば、安心するから」
「宅配が来ても居留守使うくせに……」
天城は聞こえないふりをして台所に向かう。家事全般は引きこもりの彼女の担当だ。美麗な絵柄で人気を博しているらしい専業同人作家とはいえ、こちらの腕前はいつまでも不器用さを引きずっているので、飯綱も手伝うことになる。その辺は母より父に似てしまったようだ。
「いっくん、昨日の子。名前なんて言ったかしら」
「花楓凛」
「また連れてきてもいいからね」
「何、急に」
並んでじゃがいもの皮を剥きながら、そんな話をする。相変わらず天城の剥いたじゃがいもはひどい形だ。
「だっていっくんの初めてのちゃんとしたお友達でしょ。お姉ちゃん、応援するからね」
「何を」
「いいから連れてきなさいよ。それでゲームで遊べばいいのよ。お姉ちゃんは別に邪魔しないわよ、覗き見ぐらいはするけれど。……やっぱりまだ三次元は怖いし、私は二次元でいいわ」
「二次元」
「あんたは楽しめばいいって言ってんの」
時々この姉の言うことが理解不能なことがあるが、それでも言わんとしていることは千歳と同じだった。それに対していくらくすぐったいからといって、「別に友達じゃねえし」とつんけんするほど飯綱は、ひねくれた性格でもない。
兄もだが姉も、その顔のせいでちゃんとした友達すらいないのだった。