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目が覚めると、日野本飯綱は手錠で拘束されていた。隣で転がる男と、手首を片方ずつ繋がれた状態で。
(なんだこの状況……。ねーちゃんが喜びそうだけど。いやいや、そんな場合じゃ)
視界に映るのは狭くて明りのない、ほぼ暗闇に近い部屋だった。配管がむき出しになったコンクリートの部屋は冷たくて、一切の熱を拒絶するようだった。物が何一つ置かれていないせいか人や生活の気配はなく、灰色の部屋を構築する材質の匂いしかしない。
飯綱は、手錠と言えば逮捕だなあと連想したものの、そこが警察関係の施設であるとは一切思わなかった。とはいえ右手にかかる重力は結構に重たい。がっしりと彼を捕縛して、逃げ出す意識を挫こうとしている。
(こいつ、誰だっけ)
目覚めたばかりだからだろうか、なんだか頭が朦朧とする。しっかりとした覚醒が得られない状態で飯綱は、隣で意識を失っている男を眺めた。同じくらいの年。目を閉じているせいか凛々しく聡明そうに見えるが、実際はそうでもない。決してバカではないけれど。緩やかに記憶がよみがえっていく。
いつも眠たそうな顔をしているくせに時々鋭いことを言い、そのせいで空気を凍らせることもしばしばあるのに誰からも恨まれることなく浮雲のように漂っている男。
思い出した。
「花楓凛」
思わず声が出てしまったが、花楓はそれで起きるどころかすやすやという子供のようなあどけない寝息を立てただけだった。どことも知れない場所に手錠で拘束されている状況が、まるで嘘のようだ。
飯綱には残念なお姉ちゃんたちがいる。だからというわけではないが、家に連れてくるほど仲良くなった友達というものが彼には存在しなかった。ごく自然に、その手前でブレーキをかけていた。仲を進展させるのをよしとしない何かが遺伝子レベルで働いて。
その先陣を切ったのが、花楓だった。
「あの新作、全然期待外れ」
その時話題に上っていたのは、ゲームのことだった。男子が幾人か集まっている中に、なんとなく飯綱もいた。まだ入学してたった二月、クラスメイトとは決して険悪ではないが、中学からの同窓はいないため一人だけぽつんとしていることが多い。だが特にそれを思いやって集うという風でもなければ、積極的に飯綱を輪の外に追い出そうという気配もなかったので、そこにいたのだ。まるで興味のない話というわけでもなかったし。
「新作っていうか、新型ハード用のリマスター版だろ?」
「一応新作じゃん。俺期待してたのに。思い出補正ってやつかなあ」
「前のやつって小学生の時だもんな」
「でもそれって、さらに前のやつあるよね? 僕、そっちのが好きだな」
「マジで? 俺も」
そう言って真っ先に食いついてきたのが、輪の中にいた花楓だった。とはいえその作品自体は彼らが生まれる以前のものだ。クラスメイト達は不思議そうに首をかしげた。
「でも前の前のってもうハード自体販売してねえんじゃん?」
「あるよ。うち、現役で動いてるよ。リマスター版出るって聞いてまた始めてみたし」
「マジかよすげえ! 持ってんの?」
わっと場が湧いた。特に花楓の興奮はすさまじいものだった。普段眠そうにしている目を全開にして輝かせている。しかし既に生産していないゲームハードの話は、そこではそれっきりだった。新作がつまらないという認識を共有することが、その場では目的だったからだ。
飯綱もそれに、異論を唱える気はなかった。もとより話題の中心になる願望はない。そこそこ仲良くできていればそれでいいと思っていたのだ。
だが花楓はそうではなかった。
「日野本、昨日のハードの話だけどさ」
翌日、登校するなり花楓が寄ってきた。まだその話を引きずる人がいたことに驚いて、飯綱はこの時初めて、それまでクラスメイトの一員でしかなかった花楓凛という男を、正面から見据えることになった。
「俺の兄貴がさ、そんなのが動いてるなんて嘘だなんて言うんだ……だから頼む!」
「え……貸すの?」
飯綱に向かって両手を合わせる花楓の背は彼より高かったため、頭を下げていても見上げる形になってしまうが、この時渋い顔を作ったのはそのためではない。
件のゲームハードは旧世代であるため、大きい上に重いのだ。これまでも何度か漫画の貸し借りでそれらを学校に持ってきたことはあったが、これを持ってくるのはさすがにできかねた。教師に見とがめられたらどうしようというレベルを超えている。
すると誤解だったようで、花楓は合わせていた手を開いて首を横に振った。
「いやいや、貸してもらうのはちょっと無理っしょ。できたら証拠写メをさ」
「僕、携帯持ってないから」
「そうなの?」
時代に逆行したようなやたらと電力を食う次世代機が既に主流だというのに、今時携帯電話も持っていない飯綱を馬鹿にするかと思いきや、花楓は単に一つ提案をつぶされた程度にしか思っていないようで、次の策を考えていた。
「じゃあデジカメも持ってない? 兄貴持ってたかなあ」
「うーん、ねーちゃんが持ってるかもしれないけど……あ、じゃあ、使い捨てカメラを買ってきて現像に出せば」
「いや、そこまでしなくていいよ。動いてるとこ見たかったけどな。何せ今じゃネットオークションで高値で売買されてるやつだし。まあいいや、諦めるわ」
悄然と肩を落として、花楓が飯綱の前を去ろうとしていた。このままでは彼は兄に嘘吐き呼ばわりされたままだろう。そうなっては、彼と旧世代ハードの話をしたことさえ傷になってしまうに違いない。
『その考え』は最初からあった。花楓にとってもそうだろう。だが俎上に載せることなく終了しようとしている。もしかしたら花楓との会話も、これで最後かもしれない。同世代の誰もが一時的には湧いても長期的には見向きもしないものを、同じ目線で語ることができる人がこれから現れるとも思えないのに。
「待って」
気づけば飯綱は、そうして花楓を引き留めていた。そうしてこれまで誰にも告げたことのない提案をぶつける。
「うち、来る?」
それは飯綱には一大決心だったが、文字通り飛び跳ねて喜ぶ花楓にはそれがどれほどの大きさと緊張感を伴っていたのかなど、知るよしもなかった。
だが実際に招くとなると気が重くなるもので、飯綱は胃の辺りに石でも抱えているような不快感に苛まれた。本当なら遠回りするぐらいの気持ちでいたのに、耐え切れなくて公園をショートカットしようとして、ベンチで休憩を申し出てしまったほどだ。
「おいおい、どうしたよ? 大丈夫か? 顔色悪いぜ」
「ごめん。ちょっと休むだけだから」
ベンチは決してきれいというわけではなかったが、座らずにはいられなかった。木々が無節操に生い茂るその公園はどうにも死角が多いので、ぐったりと疲れた体を投げ出していても気遣う目からも逃れることができる。そのせいか近くの四阿で何やらぼそぼそ話し合う声が聞こえてきたりもするが、こちらからもあちらからも声のみで姿が見えることはない。
「日を改めようか? やっぱいきなりだし」
「大丈夫、大丈夫だから」
しきりに今日を押す飯綱は、今心変わりしたら二度と花楓を家に招く機会など訪れないと分かっていたからだ。勢いなくしては発生しえない事案だった。それにもう目的地まで目と鼻の先だったし、ここまで来て彼を返すわけにはいかない。
覚悟を決めなければならないというのに、胃はぐずぐずと痛み続けた。それというのもあの『姉たち』のせいだ。紹介など以ての外、有無を言わさず彼の部屋へ花楓を押し込めてしまえばどうにかなるだろうが、それでは当初の目的が達せられない。
「なあ、何か不安なことがあるのか? 俺、別にお前のプライベートに土足で入り込みたいってわけじゃあないからな。すごく散らかってても気にしないから」
「散らかってるとかじゃないんだ。ちょっと、知られたくないことがあって」
「そっか。まあ誰にもあるよな、そういうの」
「ねーちゃんたちのことなんだけど」
隣に座って、けれど積極的に詮索してくるという風情でもない花楓に向かって、飯綱は聞かれてもいないことを話し始めた。喋っていれば、いくらか胃の痛みがまぎれたせいもある。
「隠したいんだ。だから何か見ちゃっても、見なかったことにしてほしい」
「分かった。でも一応、なんでなのか聞いてもいいか?」
「残念だから」
あっさり頷いてくれた花楓だったが、意味が分からないという風に首をかしげた。これ以上口にするのはよくないと思い、痛みも引いてきたので慌てて立ち上がって家路を促そうとした飯綱は、ぼそぼそと話していた声たちが急に大きくなったことでびくっと体を硬直させた。
「ぶっ殺してやりゃあいいんすヨ!」
「バカ、声がでかい!」
「わあ、びっくりした」
花楓も驚いたようで、しきりにきょろきょろと辺りを見回す。特に喧嘩などが始まる風でもないので、いくらかほっとしたようだった。
「そろそろ行こう」
「うん。……あ」
飯綱に続いて公園を出ようとしていた花楓は、突然ぷぷっと笑ながら口元を押さえた。
「ちょっと見てみろ、日野本。今四阿で糸目のおっさんと四角い顔のおっさんが顔近づけてたぜ。ホモかな?」
「いや、内緒話してたんじゃない?」
そのおっさんとは先刻の大声の主たちだろう。残念ながら公園からほぼ体が出てしまっている飯綱の角度からでは、青々とした葉に遮られて四阿の様子は見通せなかった。別に見たいわけじゃあないけれど。
そろそろ着くと告げると、花楓はうきうきした様子を隠せないようだった。
「日野本んちってどんな? ちなみに俺んちはマンションなんだけどー」
「あれ。あの水色の屋根の」
「うわ、平屋一戸建てかよ。すげえ」
胃の痛みこそ感じなかったが、さっきよりずっと両肩に重みを感じているのは、飯綱の内心が顕著に表れているせいかもしれない。花楓とは正反対の陰鬱さで、家の扉を開ける。
「ただいま……」
「おかえり、いっくん。今日遅かっ」
玄関を開けて『ただいま』を言うのは、この家の習いだった。そこに家族が出迎えているかいないかは関係ない。だが今日はたまたまそこに、姉がいた。玄関から向かって左側の奥にトイレがあるから、そこから部屋へ戻る途中だったのだろう。
普段はインターホンが鳴ろうとも部屋から出ても来ない癖に。
その姉は、一緒に入ってきた花楓が何か言うより先に、叫び声を上げた。
「ぎゃああああああああああっ!」
鼓膜を破らんとするほどの大音響に、思わず耳を塞ぐ。姉は叫びながら走って行き、バタンと扉を閉める大きな音がした。そっと耳から手を放すと、痛いほどの静寂がそこに満ちていることを知る。耐え切れずにちらりと花楓に目をやると、事の次第について行けずに呆然としている彼の姿があった。
「……ごめん」
苦々しい思いをかみ殺して、謝ることしかできない。ここで花楓が帰ると言うのなら、飯綱としては止めるつもりはなかった。何せ初対面で何の落ち度もないのに悲鳴を上げられたのだ。機嫌を損ねても何ら不思議ではない。
「えっと……今のって?」
「ねーちゃん。名前は天城」
「そうなんだ。一瞬しか見えなかったけど、すっごい美人だね。ところで俺の顔って、もしかして俺が気づいてないだけで化け物並みなのかな」
「そんなことないよ。……ただねーちゃん、男が苦手だから」
「なんだ、そういうことは先に言っておいてくれよ」
かなり驚いているようだったが、それでも花楓は帰るとは言い出さなかった。そんなことかと言わんばかりに納得して、上り込む。ゲームへの興味の方が勝ったということなのか、そうふるまっているだけなのかは判然としない。
件のゲーム機は、玄関から上がってすぐ右手にあるLDKの部屋に置いてあった。さらに先には、この家の子供たちのそれぞれの部屋があるが、基本ゲーム類は自室へは持ち込めないのだ。とはいえ姉が出てくることは、飯綱が扉を叩くまでないだろうから先刻のような事態には陥らないだろう。
「おお、これが例の……!」
「ちょっと動かしてみる?」
「すげえ!」
花楓はそれを見るなりすっかり夢中になってしまい、不愉快な驚きを忘れてくれたようだった。そうしてしばらくゲームに興じてきゃっきゃしていた二人だったが、不意に玄関先に車が止まった音に気づいた飯綱ははっと顔を上げた。嫌な予感がして立ち上がる。
「どうかしたか? あっ、もうこんな時間」
「うん、ちょっと……」
帰ろうとする花楓を制して、飯綱は一人で玄関へと向かう。確実にその向こうで誰かが話す声が聞こえ、慌てて扉を開ける。
「あら、いーくん。お出迎え? 珍しいのね。それじゃあ木村さん、また遊びにいらしてね」
運転席に座る気弱そうな男にそう声をかけて、彼女は車の扉を閉めた。銀色のその車は走り去り、玄関先には二人が取り残される。
「なんで今日こんな時間なの? ていうかもう出勤した後だと思ってたのに」
「あら、言ってなかったかしら? アタシ今日は非番よ? デートしてたのよ。それよりなあに、そこ立ちふさがって。家に入れないじゃない」
「いやちょっと待って、ほんとに、今だけは……あっ、牛乳が切れてたよ、買ってきてよ今すぐ!」
「いーくん、牛乳嫌いじゃない。どうしたのよ急に。あら?」
いかに飯綱が立ちふさがろうと、彼女に太刀打ちできるはずもないことは明らかだった。しかしここで諦めることだけはしてはならないのだ。そんな彼の必死の努力を踏みにじるように、彼女にそれを見つけられてしまった。
すなわち、騒ぎを聞きつけて玄関まで出てきてしまった花楓を。
「まあ、いーくんのお友達? やだかわい~」
「だ……誰?」
花楓は目を丸くしている。逃げろと言いたいが、言えたところで彼もその硬直した体では機敏に動くことは難しいだろう。目を丸くしたまま、飯綱の制止を振り切って近づいてきた彼女を見上げる。
「やだ、いーくん、紹介して頂戴よ」
「……兄の、千歳」
「やーね、『姉』でしょ!」
千歳は頬を膨らませるが、いくら裏声を使おうとも女物の服を着て化粧を完璧にしていようとも、その体も声も間違いようもなく男なのであった。『彼女』なのは、心だけだ。