三千世界にふたりきり
瞼越しに光を感じ、セリは目を開いた。
「おはようございます、セリさま」
薄手のブランケットをもそもそと引下げ、霞む視界をめぐらせると、ベッド側には黒髪をきっちりと纏めた女性が立っていた。混血の進んだ現代では珍しい、東方の特徴の色濃い顔立ちに、やはり東方の民族衣装に白いエプロンをあわせたキクはきちん、と頭を下げた。
「…おはようございます」
「朝食の準備が調ってございます。旦那さまはすでに食堂でお待ちです」
「ぅん…」
まだはっきりしない頭を振り、セリはベッドから足を下ろした。
「お召し物はこちらに。お手伝いいたしましょうか?」
「いい…」
デザインが変わっただけで、いつもの白いブラウスに紺色のスカート。それから黒いタイツ。毎朝繰り返される遣り取りに、時間の経過が曖昧になってくる。
セリが遠慮すると、キクは食堂で待っている旨を告げ、退室した。広い寝室にひとり残されたセリは大きく伸びをすると、再び背中をベッドに預けた。
今日もまた、変わらない一日が始まる。
*
硝子張りのやはり広い食堂にセリが現れると、窓越しに庭を見ていた長身の人物が豊かな黒髪を揺らしながら振り返った。
「おはよう、セリ」
「…おはよう、ロッソ」
ゆったりとした白いシャツに、紺色のベストを着たそのひとは、穏やかな―――底の知れない笑みを浮かべるとセリを招いた。
ふたり並ぶとお揃いの服を着ているようだ。セリはなんとも言えない気分になりながら、ロッソの隣に進んだ。
「見なさい。今年最初の薔薇だ」
ロッソの言葉通り、濃い緑の薔薇の生垣に、赤が映えている。何日か経てば、大輪の花を咲かせるであろうことは太った蕾から想像できた。
「赤い薔薇は綺麗だけど、なんだか気障な感じがするよ」
水を差すセリに、ロッソは気分を害した様子もなく喉奥で低く笑った。
「朝食にしようか。腹が減っているだろう」
ロッソが促すと、計ったかのようにキクが朝食の乗ったワゴンを押しながら食堂に入ってきた。淀みのない手つきで次々と皿を並べていく。
焼きたてのライ麦パンに、ポタージュスープ。とろとろのオムレツにはベーコンの風味付けをした人造蛋白が入っているのだろう、食欲をそそる香りがする。
たったふたりしかいないのに、これだけの大きさが必要なのだろうか、と首を傾げてしまうテーブルの端と端に腰掛け、セリはマーマレードに手を伸ばす。
「セリ、今日の予定は?」
優雅にオムレツを切り分けながら、ロッソが問う。
いつもの風景、いつもの質問。セリも答えを数種類しか持っていない。
「…午前中はキクさんと一緒に庭の手入れをするよ。…午後からは図書室に行く」
「そうか」と短く応じ、ロッソは隅に控えたキクに目配せをした。セリに付き合うように、という意味合いだろう。にこりともせず、キクは軽く頭を垂れた。
胸中に浮かんだあれやこれやを口に出す事も出来ず、セリは咀嚼したライ麦パンと一緒に飲み込む。
変わらない。日々の暮らしも、キクもロッソも。
…この箱庭で、変化していくのはセリだけだ。
セリの住む「箱庭」は周囲を海に囲まれている。ここに来て2年になるが、絶壁を高波が越したことは無い。
周りは海しかないが、海水を飲料水に変換する施設の他、植物や人工蛋白のプラントなどの生活設備。散歩に適した森から、何万という蔵書を揃えた図書館、前時代の記録を見れる映画館まで大抵のものは揃っている。
「箱庭」の外では、皆が僅かなパンを争っている、というのにだ。
青々と茂った庭の植物に水をやり終え一息ついていると、ゆったりとした足取りでロッソが姿を現した。彼は穏やかに微笑んでいるが、自然光の下では赤く透ける双眸には常に憂いがある。それが今日は一段と濃く見え、セリは内心首を傾げる。
「…キク、なにか冷たいものを」
「かしこまりました」
身体の前で両手を揃えて一礼すると、キクは衣擦れも淑やかに身を翻した。
「…どうした?」
先に四阿に腰を落ち着けたロッソがキクが去ってもなおそちらを見続けるセリに声をかける。
「キクさんって自動人形なんでしょ?今さらだけれど、海風で錆びたりしないのかしら?」
風に遊ばれる淡い色の髪を押さえてセリが訊くと、ロッソは小さく笑った。
「そんな拙い"つくり"はしていないさ。おまえは"あれ"が不調を訴えたところを見た事があるか?」
「…無いけれど」
それにしたって酷使しすぎではないだろうか。セリが目にする限り、キクはこの「箱庭」のほとんどを管理している。そのうちガタがきそうだ。
ロッソは石造りのテーブルに頬杖をついて面白そうにセリを眺めている。セリは唇を尖らせた。
「ここって、キクさん以外にも自動人形がいたりする?」
セリが常々抱いていた疑問を口にすると、ロッソは笑みを深くした。
「…さあ、どうだろうな。…別にどうでもいいじゃないか、ここにいるのは私とおまえ、…それだけだ」
「……」
希代の錬金術師。文明華やかなりし、前時代よりの魔術師。ロッソは外ではそう呼ばれていた。表舞台に登場してから容姿は変わらず、素性は知れず。さらに他に類を見ない赤い瞳から人間ではないとすら囁かれていた彼に、政府から贄同然に差し出されてこちら。
セリが"ロッソ"呼ぶ彼は、未だ未知の存在だ。
*
セリが生まれるずっと前から、世界は戦争を繰り返していた。
混血が進み、民族・宗教の境は曖昧になっても、なにかにつけ人々は争う事を止めなかった。戦争で荒廃した大地では作物が育たず、まるで古代に逆戻りしてしまったかのように、今度は生きるために戦争が始まった。
政府はそのかたちを取るためだけに薄っぺらな福祉政策を展開し、そのおこぼれに預かったのがセリだった。
うわっつらの政策で設立された、ごみ溜めよりは少しマシな保護センターで、死なない程度の飢えを感じていた毎日に変化をもたらしたのがロッソだ。
俗世と隔絶した場所に生きながら、ロッソの影響力は世界を簡単に揺るがせてしまう。彼がいなければ、世界のあらゆる国は戦争もできないが、飲み水にも事欠く有り様。
そのロッソがセリを自分のもとに召致したのだ。
初めて会う政府のお偉方が猫撫で声で懐柔してくるが、セリは3秒で聞くのを止めてしまった。納得したと思ったらしい―――セリにはもちろん拒否権は無かったのだが―――保護センターの職員の手で隅々まで磨かれ、新しい服を着せられ、黒髪と赤い瞳の魔術師との面会を果たす。
政府の要人たちはここぞとばかりに魔術師を引き込もうとしていたが、彼の目は憐れみを湛え、セリを見ていた。憐れみという感情を初めて目の当たりにしたセリの心にはしかし、しわぶきひとつ起きなかった。あまりに過酷な環境を生きていたため、さまざまなものが擦り切れ、消えていたのだ。
魔術師に手を引かれ訪れた絶海の「箱庭」は、荒廃し、白茶けた世界しか知らなかったセリの目には、お伽話の中の楽園のようにすら映った。周囲の緑に映える柔らかなクリーム色の館を背後に折り目正しく頭を下げたキクという女性が機械仕掛けだと、魔術師に教えられるまで気付きもしなかった。それほどにキクのつくりは精巧で、滑らかな動作はもちろん、瞼に透ける血管すら再現してあるという凝りようだった。
魔術師に名を訊くと、彼は薄らと微笑み、好きに呼ぶよう、と応じた。真名にはその術者の本質が宿る。だから魔術師は絶対に真名を誰にも教えないのだと、…寝物語できいたのだったか。
ほんの少し思案し、セリは彼を"ロッソ"と呼ぶ事にした。小さな頃可愛がっていた赤毛の犬の名だ。おとなしい彼は、結局飢えた大人たちに食べられてしまったのだけど。
毛並みと瞳という差異はあれど、赤を身につけている点と、喜んでいても、笑っていても憂いに沈んでいるような眼差しは同じ。…最近は、その色合いがとみに濃い。
キクの淹れてくれた、桃の香りをつけたアイスティーをちびちびと飲みながら、セリは胸に芽生えた疑問を押し殺す。
それはきっと訊いてはいけないこと。この「箱庭」の日常を壊してしまうことだから。
*
午後からセリは図書館につめていた。一通り読み書きはできるけれど、文字を追い過ぎていると眠くなってしまうので、セリが手に取るのはもっぱら絵本か、美術関係の本だ。
女神像が描かれたページをぼんやりと見つめながら、華やかな色の溢れたこの本が出版された時代、人々は飢饉ゆえに争う事などなかったのだろうかと思いを巡らせる。
ロッソは、…あの魔術師はこの文献の時代もあの赤い瞳で見ていたのだろうか。そうだとしたら、今、芸術など見向きもされない荒んだ世界をどう思っているのだろうか。
…ロッソが手を引けば、戦争は終わる。そして人類も。
セリは分厚い本で口元を隠し、そっと嘆息した。
…衣食住が満たされるようになって、余計な事を考える時間が増えてしまった。難儀なことだ。
脚立に腰掛けたまま本を読んでいたセリはふと違和感を感じた。それは最初は微々たるもので―――、事態を理解した時には館全体が大きく揺れ、セリは脚立から転落していた。混乱していたせいで受け身を取る事も出来ず、したたかに背中を打ち付け、セリは呻いた。
揺れは収まらず、書架から軽い本から順にばらばらと落ちてくる。セリはどうにか身体を起こそうとするが、全身が痺れたように動かない。まずい、と眉をしかめた時だった。
―――「セリ!!」
低く太い声がセリの鼓膜を叩く。初めて聞く切羽詰まった声に、それがロッソのものだとは、彼に抱きしめられるまで気付かなかった。
ロッソは落ちてくる本から身を挺してセリを庇う。揺れがひどいため移動もできない。本がぶつかる痛みにロッソは時折短く呻くが、彼の腕がセリから放れることは無く、むしろますます強く抱きすくめる。
と、セリの視界で書架がぐらりと傾いだ。
「…ロッソ…!」
セリの掠れた声に肩越しに振り返ったロッソは舌打ちし、少女の頭を抱え込んだ。
セリはぎゅっと目を閉じたが、覚悟していた衝撃はいつまで経っても襲ってこない。ようよう揺れも収まり、そろそろと目を開くと、キクが細身で書架を支えていた。
「…遅くなってしまい、申し訳ございません、旦那さま、セリさま。…お怪我は?」
細腕で書架を押しのけ、淡々とキクが問う。
「…ああ」と呻くように応じ、ロッソは乱れた髪をかきあげた。「セリ、怪我は?」
「…無い。ロッソが庇ってくれたから…」
のろのろと身体を起こすセリの頬にかかった髪を、ロッソの指が払う。
「館の修復はいかようにもなります。ですが、庭の植物にかなりの海水がかかってしまったうえ、土壌にも染みてしまっています」
「…かいすい」
セリは呆然と繰り返した。「箱庭」と海面はかなりの距離があった。よっぽどの高波が来なければ、「箱庭」が浸水するような事など。
「…ロッソ」
「…キク。おまえは館の被害状況を調べろ」
「かしこまりました」
一礼し、主人に忠実な自動人形は踵を返した。
「…ロッソ、外で、…」
それからは言葉にならなかった。ロッソがセリをきつく抱きしめる。きしきしと、なにかが軋む音がする。
ここは「箱庭」。世界から隔絶された、閉じられた場所。けれどその周囲の海は、外の世界に繋がっている。
…ああ、来るべき時が来てしまったのか。セリはロッソの心臓の音を感じながら目を閉じる。
世界はもうぼろぼろだった。魔術師と呼ばれても、ロッソひとりの力ではぎりぎり存えさせることが精いっぱい。それももう、限界だった。
きっとロッソは終焉に気付いてた。どうしようもないとわかっていた。
きしきしと軋む音は、ロッソの心が軋む音。
「…セリ、世界には私とおまえ、ふたりだけだ」
ロッソの声も腕も、細かく震えていた。
終わりに突き進む世界からセリをこの「箱庭」に連れてきたのは、罪滅ぼしか。それとも真の孤独に突き落とされる事が怖ろしかったのか。
…訊かない。それは、「箱庭」と呼ばれる楽園の日常を壊すことだから。セリはロッソの背中に手を回す。
「…そうだね。…別に、今までとなにも変わらないじゃない」
世界から隔絶された、閉じられた場所。外がどんな変貌を遂げようと、ここは変わらない。ロッソが気の抜けた笑いをこぼす。
「…ああ、その通りだ」
変わらない。日々の暮らしも、キクもロッソも。
変わっていくのは、…ゆっくりと、着実に。老いと死へ進むのはセリだけ。
セリの世界の終わるその日まで。
どうか、この「箱庭」が穏やかな日常を刻めますように。