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成瀬奏はひとでなし 下

<4>

「中の様子が、これではわからないが」

 成瀬と神田の二人が入っていった部屋、その扉の前でネスティが振り返り、肩越しの視線で背後に立つ成瀬を見る。

 成瀬は意地の悪そうな笑みを浮かべて問う。

「見たいの?」

 ネスティはその笑みを睨み付け、問い返す。

「貴様が見せたいんだろ?」

 成瀬は問いを受けて、ただ笑う。

「どっちでもいいさ、私は。折角ここまで来たんだから見たい、というのなら。どうしても見たいというのなら、見せてあげないこともないよ?」

 ネスティは舌打ちひとつこぼした後で、視線を扉に戻し、

「……自分で見ようと思えば見れる」

 成瀬はただからかうように笑みを深めて言葉を繋ぐ。

「おやおや、まさか透視能力までお持ちとは、やっぱりラスボスは違うわねぇ」

「魔術だ」

「使えば居場所がばれるんじゃないかなぁ」

「貴様ならばれないと?」

「少なくとも君よりはうまく隠せるかもしれないね」

「折角ここまで来たんだ。見せてくれ」

「いいよ。こっちにおいで」

 成瀬は笑って頷くと、手近な壁に背を預けた。

 ネスティはなんとなくで意図を読んで、成瀬に近寄ると、成瀬の左手側に立つ。

「もうちょっと近寄りなって。別に取って食いやしないんだから」

 言われて、ネスティは吐息をひとつ吐くと、成瀬と肩が触れるほど近くに、壁に背を預けるようにして立った。

「そうそう、そんな感じ。それじゃあ、中を見てみましょうか」

 成瀬が気軽にそう言うと同時、それは成瀬とネスティの触れそうなほど近づけられた肩を中心として、顔から近くもなく遠くも無い位置に浮かび上がった。

 四つの青い点。

 そして、それが点であると分かる瞬間にはそれぞれが繋がるように同色の線が伸びて、空間を区切る。

 出来上がった枠はじわりと内側を青く染めて存在を確定。

 横は成瀬とネスティの顔の間にある距離程度、縦は頭頂部から胸の中央までの距離という大きさの、青いカンバスが完成する。

 それは一度身をよじるように揺れて、耳障りな音を立てた。

 何かに合わせるために生じる雑音に似ていると、そう判断できたときには想像通りの出来事が生じている。

 カンバスの上には映像が映っていた。

 どこの? ――と、問うまでもない。

「あの部屋の中か」

「あの部屋に似せた、どこかの部屋で起こった出来事を録画してて映してるのかもよ」

「……それを行うメリットは何だ?」

「嫌がらせじゃないかな。――まぁ今回はちゃんとあの部屋の中だけど。信用可なら見るといい、という意味だね」

「普通はそこまで考えないぞ」

「そうかもしれないわ」

 言って、成瀬は興味なさげに映像を見る。

 映像は部屋の中を俯瞰するような角度だった。

 中央に成瀬の背中が見え、カンバスの縦軸には視界をちらつく扉が見切れていることから、入り口側の天井隅が視点だろうと判断できる。

 映像の中の成瀬が言う。

『それで、今日はいったい何の御用ですか』

 応じる声は、ネスティには誰のものかわからないし、出所もわからなかった。

『高尾良美。君は私達を騙していた』

 ただ、その声は一方的で。上に立つ者特有の、言い含めるような厳しさと――わずかな驕りが透けて見える。

 その感情を認めて、ネスティは嫌悪感も露に表情を歪める。

 ネスティの横に立つ成瀬はそんなネスティの顔を見て、肩を竦めてゆったりと笑う。

 映像の中の成瀬は、どうだろう、顔は見えず、立ち姿も変わっていないが――

『…………』

 場の沈黙。

 その質が一瞬だけ変質したところを見れば、カンバスを挟んで両方の成瀬は、同じようにゆったりと笑っていたのだろうと、そう感じさせる。

 映像の中の成瀬は、肩を落として吐息をひとつこぼすと、言う。

『騙していた、というのは一方的に、あなた達にとって都合のいい言葉でしょう。私は私のことを語らなかっただけ。あなた達が勘違いをしただけ』

 先ほどとは別の、老いた声が成瀬の言葉を拾い上げる。

『自らが原因で戦争を引き起こしたことに、咎の意識は無いと?』

 責め問う声に、成瀬は動じない。

『私が原因とは、それもまた都合のいい話。私は原因ではないでしょう。私の能力が有用だと判断し、戦争に踏み込むことを決断し、実際に戦争を始める命令を下したのは、あなた達ではないですか。

 都合よく生贄が居れば、そちらに責任を転嫁したくなる習性は否定しませんが。責任を負うが故の上役でしょうに。その程度の器で他人を動かそうというのは、些か以上に――』

 映像の中の成瀬はそこで言葉を止め、肩をわずかに揺らした後で、

『失礼。つい不要なことまで口にしてしまいました。

 咎の意識の有無についての質問でしたね?

 罪悪感はありません。他人を騙したことにも、戦争の引き金と判断されたことにも、罪悪感はありませんよ。十分以上に成果はあげていましたからね。その過程で、仮に命を落としたものがいたとしても、それは仕方の無いこと。

 戦争への参加は義務ではなく、自分の意思によって行使可能な権利でしょう。止める自由があり、続ける自由があった。その延長線上にある出来事で、自分に都合の悪いことはすべて何かのせいにするというのは、見苦しいという他ありませんよ』

『……結構。君の考えは、今の言葉でよくわかった』

『そうですか』

『反省もなく、謝罪もない』

『酌量の余地なしと判断するが』

 誰かの声に、その場にいた多くの者が同意を返す。

『では決を採ろう』

『罪には罰を』

『どのような罰が適当か?』

『厳しい罰を』

『見せしめとして相応しい罰を』

『惨たらしい罰を』

 滑らかに、予め決まっていたことを話すような不自然さで、成瀬を罰する内容が響く。

「まぁ実際に、既に決まっているだろうし。冷静に見てると、白々しすぎて感動するレベルよねぇ、これ」

 ネスティの横に立つ成瀬は後頭部を壁に押し当てて映像から目を離しながら、溜息をひとつ吐いた。

「……見てないじゃん」

「何言ってるのよ。成瀬奏は当事者で、そこに居るの。見ていない訳がないでしょう」

「確かにそうかもしれないが」

 ネスティの疑問符に、成瀬は首を傾けて視線を向けながら苦笑する。

「今あなたが話しかけてる側は見ていないだろう、と。そう言っているのはわかってるけどね。さっきは影分身とか言ったけど、よくよく考えてみれば、妹達みたいなもんよ、とか言っておいた方が良かったかもしれないわねぇ、これは」

「……なんだそれは」

「ラノベは読まない? ――そう、それは残念。簡単に違いを説明するとね、うーん、影分身が情報を共有するのは分身体が消えた時だけど、妹達は常時情報を共有できるのよ」

「つまり?」

「私が見ていようといまいと、成瀬奏は見ているのさ」

「ふむ……?」

「理解追いついてなさそうな反応だ……。ま、私の言葉は、この映像の中の私の言葉でもあると、そう理解しなさい。だから違いを気にすることに意味は無い」

「細かいことは気にしなければいいのか」

「それで十分だ」

 言って、成瀬はネスティから視線を外し、天井を仰ぎ見るように首を動かした。

「それで、既に決まっているとはどういう意味だ?」

「そのまんまだけど。想像できないの?」

「なにせゆとりなもんで」

 便利な言い訳、と呆れ混じりに吐息を吐いて、成瀬は言う。

「私の生存が確認されたのはいつだと思う?」

「貴様の言からすれば、私が捕まったからわかったことだったか。なら一ヶ月程度前か」

「そこまでわかってなぜ想像できないの……? それだけ時間があれば、その情報が真であった場合の対応だって決められるでしょうよ。

 つまり、この場は単なる通過儀礼ってこと。

 どうするか話し合ってるように見えて、決まったところに落ち着けるんだから、見ていてこれ以上つまらないものはないわ」

「その内容を貴様はもう知っていると?」

「知ってるわけじゃあないけど。考えるまでもなくわかるでしょう。――ああ、ほら、そろそろ結論が出るみたい」

 言葉に釣られたように、ネスティは映像に視線を戻す。

『高尾良美。君には罰を受けてもらう』

「改めて言わんでも聞こえてるっちゅーねん」

 映像の中の成瀬は無言だが、ネスティの横に居る成瀬は呆れすぎて疲れたかのような声音で反応する。

 そんな反応が他所で行われることなど知る由も無く。

 相変わらず誰が喋っているのか判然としない声が続ける。

『罰の内容は自分で実際に見て理解するといい』

 その声には先ほどまであった声色とは別に、暗く、嗜虐的な色が混ざっていた。

「……なるほど。そういう内容ね。ホント、ろくでもない連中」

 ネスティの横に立つ成瀬は、ここで初めて映像に視線を移した。

 ネスティは映像から離した視線で成瀬の動きを追い、その視線で疑問符を投げる。

 成瀬は取り合わず、いいから見てなさいなと言うだけだ。

 代わりというように。

『実際に見て理解する、というのはどういう意味ですか?』

 映像の中の成瀬が、困惑と、ほんの僅かな恐怖の色が滲む声音で周囲に問いかける。

 その様子は、これから起こることへの恐怖で余裕の仮面が崩れ、思わず問うたようにも見えるが、

 ネスティの疑問符に対する答えを引き出すための問いのようでもあった。

 演技か、それとも本音か。

 少なくともこの場において、成瀬奏という人間に関わる立場それぞれで、誰もが正しくそれを理解しているのだけは確かだろう。

 部屋の中の成瀬に関わる者はそれを本物と。

 部屋の外の成瀬に関わるネスティはそれを演技だと。

 しかし、その理解が正しいかどうかを確かめる者はいなかった。

『では君をその場に案内しよう』

 言葉が響いて、映像の中に居る成瀬の足元を中心に白く輝く線が走った。

 成瀬の足元から伸びる線は、部屋の中に置かれた机で囲う敷地に収まるように回り、己の身を結ぶ。

 出来上がるのは身の内に多様な図形を含んだ円陣だ。

 結線が終われば輝度が増し、輝度がある一点を超えると同時、びきりと音を立てて円周から中心へと亀裂が走った。

 亀裂が円内の図形を砕いて埋めていくにつれて輝度が下がっていく。

 その亀裂が円内の五割を埋め尽くしたところで、甲高い割れ砕けの音と共に円陣が弾け、輝度を保った欠片が床から投げ出されるようにして飛び散った。

 飛び散る欠片は円陣に蓋をするように半球状に広がり、束の間そこに留まるように漂うと、床に向かって閉じるように沈んでいく。

 その中心に立つ成瀬の姿を巻き込んで、だ。

 欠片は床に堆積することなく接地すると同時に輝度を失い消えていき、最後には何も残らなかった。

 成瀬の姿はどこにもなく、ただ当然のように床のみが顕在する。

 全ては一瞬のことだった。

「……どこに行ったんだ?」

 ネスティの戸惑いを隠さない問いかけに、成瀬は気負うこともなく言う。

「決まってるじゃない。――処刑場よ」





 気が付けば、成瀬は薄暗い場所に立っていた。

 本来無かったものが突然現れた影響として、成瀬の身体、その体積分の空気が動き、緩やかな風を作る。

 風が吹いて最初に感じるのは埃臭さ。そして、それを感じた直後にこみあげてくるのは嘔吐感だ。

 圧倒的なまでの腐臭が、抗いようのない嫌悪感を湧き上がらせる。

 成瀬は引きつるような笑みを口元に浮かべながら呟く。

「ろくでもない場所だ」

 臭いの原因は、薄暗闇に目が慣れれば見えてくる。

 明度が低いが故に、そこにあるものの色彩までは判らない。

 それでも、何があるかはわかる。

 ぐじゅぐじゅと音を立てていると錯覚するほど、ゆっくり溶けて崩れていく繊維質の塊。

 びらびらと波打つ柔らかいものを纏わりつかせた、二股に分かれる流線形の長い棒。

 べったりと引き延ばすように塗りたくられ、薄闇にある僅かな光に照り返しを見せるそれは、どこかしこに広がっている。

 ――腐る臭いとは、すなわち生きているものが消えていく臭いだ。

 繊維質の塊は筋肉か、はたまたどこぞの臓物か。

 二股にわかれる棒は、四肢のどれか、その中身だろう。

 薄く伸びるのは、構成物そのもので、照り返しを見せる湿りは血のそれだ。

 それらが等しく、そしてそれぞれの速度で消えていき、濃度の違う腐臭が出来あがる。

 その腐臭が充満したこの空間では、混ざり合って一呼吸の合間でさえ質の異なる刺激を持つ。

 その臭気はもはや物理的な刺激さえ伴っているかのように、露出した眼球や喉の粘膜などに痛みを与えてくる。

「……うあー、きっつい」

 周囲の空気に耐えかねて、成瀬がぼやいたところで。

 どん、と重い音が聞こえた。

 肉質の、重量物が動く音。

 それは一定のペースで響き続け、その都度音は大きくなっていく。

「……趣味がよろしいようで」

 音量がある一点を超えたところで、音が聞こえると同時に地面を始めとした周囲に振動が生じるようになる。

 そして、薄暗闇の向こうに、暗闇とは異なる陰影が見えるようになった。

 それは人影に似たなにかだった。

 人影、と断じない理由は二つ。

 ひとつは、その人影らしきものの高さが七八メートル程度あるということ。

 そしてもうひとつは、その頭部と思しき部分が明らかにヒトの形をしていなかったからだ。





 成瀬が消えた後の部屋では、ひとつの変化が起こっていた。

 成瀬の立っていた場所に、代わりと言うようにあるものが浮かび上がっていたのだ。

 それは、一言で言えば黒い箱だった。

 箱は己の側面を床に対して垂直に、壁に対して平行に保つようにして浮かんでいる。

 そうすることで見える面は、縦に一・五メートル、横に二メートル程度の長さを持つ長方形だ。

 この箱が現れる前触れと呼べるものはなかった。

 成瀬と入れ替わるように、ただ自然と、いつのまにやらそこに在った。

 そのことに驚いている人間は、この部屋の中には一人しか居ない。

「…………」

 訝しげな視線を向けるのは、部屋の扉近くに立つ神田だ。

 何が起こるのかと、その箱を注視していると、ざらつくような低い音が響いて箱の面に変化が生じた。

 黒一色の面が、薄く緑がかった陰影を表現するようになる。

 どこかを俯瞰するような映像の中には、大小二つの人影が映っている。

 小さいほうの人影は両手を拘束された少女――成瀬のものだ。

 そして大きいほうの人影は、しかしヒトのものではありえない特徴を示している異形だった。

 その背丈は成瀬の三倍は優に超える高さを持ち、常軌を逸した体躯は、それを支えるに相応しい丸太のように野太い四肢を有している。

 それだけでも特筆に値する特徴ではあるが、最も目を引くものはその頭部だろう。

 前面に伸びる顔、その前部にある鼻から顔の半ばまで広く広がる口がある。だらしなく開かれた口元から覗く歯は石臼のように平たく厚い。大きく、わずかに顔の表面からせり出す目は、顔の側面にそれぞれついている。そして、頭頂部には歪んだ鈍い角が生えていた。

 ――牛頭人身の異形。

 ミノタウロスの名で有名な怪物が、そこにいた。

「……ど、どういうことですか、これは!?」

 その正体に気づいた神田は、驚きを隠さないまま声をあげた。

 老いた女の声が神田の疑問符に、疑問符を返す。

「どういうこと、とは?」

「あの化物はいったい何なのですか!」

 壮年と思しき男の声が、呆れを含んだ声で応える。

「あの姿形をして、何に近しいものかは想像がつくだろう」

「そういう意味ではありません。なぜあんなものをそのままにしているのですか。――いや、それはこの際いい。彼女をあんな場所に入れて何をしようというのですか!」

「答える必要があるのかね?」

 挑発とさえ受け取れる言葉に神田が反応するより早く、実演が始まった。





 牛頭は成瀬の姿を認めると、天を仰ぐように身を沿って、大きく口をあけながら低い雄叫びをあげた。

 そこにあるのは歓喜の色。

 だからそれは、蹂躙する相手を与えられて、高揚している獣の声だ。

 雄叫びはやがて唸り声へと変わり、天を仰ぐ姿勢は勢いよく前へ折れた。

 続く動きで左足を前に踏み、上半身は捻る動きで右腕を振りかぶる。

 留まる動きは一瞬だ。

 撥ねるように身を放し、鉤爪のように開かれた五指を目の前の獲物に向かって突き出す。

 軽く、高い砕音が響いた。

 同時に発生するのは剥がされ砕けた地面だったものとその上の塵が爆ぜ散る動きだ。

 牛頭の右手を中心に粉塵が舞う。

 牛頭ははじめ、腕に返った手応えに快の吐息を吐いた。

 しかし、すぐに気づく。

 そこに肉を叩いた時特有の、粘りのある感触が無いことを。

 牛頭は地面から右手を引き抜く動きで腕を払い、粉塵を強引に晴らす。

 その先には、破砕跡を挟む位置で正対し、強い視線を向ける成瀬の姿があった。





 成瀬は歯を軋らせるほど強く噛み、笑み、視線を前に、立ち塞がる牛頭を見る。

 成瀬の姿を改めて認めた牛頭は、払った右腕を再び持ち上げていた。

 その動きは雑だが速い。

 十分振りかぶられたところで、再び振り下ろされた。

 軌道は弓なりに、牛頭の頭頂部斜め上から成瀬の体を薙ぎながら地面を叩くもの。

 成瀬はその軌道を認めて、右腕が軌道の半ばを通ったところで地面を蹴った。

 前へと。身を倒すように伏せながら、地面ぎりぎりを這うように飛ぶ。

 砕きの音がつい先ほどまで成瀬の立っていた場所で響いた。

 風が来る。

 その勢いに体が流され、成瀬は姿勢を崩す。瞬間の判断で身を丸め、右肩から地面に落ちた。

 鈍い音が成瀬の体に響いた。

 右肩は怪我をしている箇所。だからこそ、弾けたような痛みを得る。

 痛みに視界が明滅する。しかし、体の状態に頓着している暇などない。

 成瀬は勢いそのまま体を回し、立って走る。

 即座に視線を回して状況を把握。

 今成瀬の走る場所は伸ばした牛頭の腕の内、懐にわずかに潜り込んだような場所だ。そして、牛頭の右腕は未だ地面に埋められたままであり、

「……っ!」

 既に左腕は曲げた肘を持ち上げるような形で振りかぶられ、握りこまれた拳は成瀬の姿を捉えている。

 火がついたような空気を割る音と同時に拳が飛んだ。

 右腕で狙われた時よりも遥かに近い位置から迫る拳は、当然のように先ほどよりも早く、成瀬の元に届くだろう。

 それに対して成瀬の速力は即座に上がるものでもなく、仮に上がったとしてもヒトの身で得られる速度で稼げる距離は、拳の大きさを考えれば避けきれるだけの距離を稼げないはずだ。

 それでも。

 拳が迫るまでの数瞬の間に、成瀬は呼気をひとつ挟み、その瞬間地面を踏んで身を飛ばすための足に力を込めた。

 小さな、乾いた破裂音が響き、次いで爆発したかのような音が轟いた。

 粉塵が舞い上がり、空間を埋め尽くす。

 その中で、牛頭は咆哮する。

 その声音にあるのは憤り――獲物を仕損じた残念を示す感情だ。

 その大音声に隠れて、肉を打つ鈍い音がひとつ、ふたつと続いて響き、みっつ鳴ったところで止まった。

 音源となるものは、牛頭を除けばひとつしかない。

「が、は……っ」

 粉塵の中。地面にうつ伏せで倒れ、咳き込む成瀬がいる。

 五体満足――ではない。

 身にまとう衣服や顔をはじめとした露出した肌は、舞い上がる粉塵や地面に転がる溶けた繊維で汚れている。そして、それだけではなく、衣服の所々には滲むように濡れる箇所や、肌には止まることなく流れ落ちる雫を垂らす大小の傷が刻まれている。

 それだけならば、五体満足といってもよかったかもしれない。傷だらけではあるが、それでも五体満足とはいえたかもしれない。

 しかし、つい先ほどまでとは明らかに異なる部分がある。

 それは成瀬の右足、脹脛と呼ばれる箇所。

 その位置には、それらしいものは最早見受けられなかった。それほどに、その箇所は壊れてしまっていた。

 膝裏のすぐ下、わずかに膨らみを見せる筈の場所は皮膚が剥がれて、その様はまるで花が咲いたかのよう。その中心にあるのは絡んだ繊維がぼろぼろと解けた赤い塊で、わずかに覗く白は脂肪と骨だ。

「っ、あぁああああああああ――!」

 堪えるように低く、小さく、強い苦痛を示す声音が成瀬の口から漏れる。

 爆ぜた肉が痛む。露出した神経が空気に触れ、空気の動き、その些細な変化にじりじりと焼かれるような感覚が全身を走る。空気の流れに乗って粉塵が触れれば痛みは増した。

 その痛みの中で歯を強く噛んで無理やり呼吸を整えながら、成瀬は思う。

 代償が高くつきすぎたな、と。

 成瀬が牛頭の攻撃をたった三回とは言え、かわすことが出来たのには当然のように理由がある。

 魔術を使ったから――ではない。この場に居る成瀬は今、自分を含め、何かを対象にとる魔術を使うことができないからだ。

 成瀬の腕を拘束する布帯は、何も彼女の動きを制限するためだけに付けられているわけではない。この拘束具は魔術の使用を制限する効果も持つ。

 それもそうだろう。この世界の魔術は体の動きを制限しても、使うことができる代物だ。身振り手振りが必須となる魔術もなくはない。しかし、拘束具を外すという目的を果たす程度であれば、必要ない。

 加えて、成瀬が成瀬に魔術を使うことを許していないのもある。

 自分の命がかかっているのに何を、と思う者も居るだろう。勿論、ここに居る成瀬も使えるものなら使いたいと考えている。ところが、使いたくても使えないのだ。

 なにせ、魔術を使えない状態にしている自分が別に居るのだから。

「……ほんと、ろくでもない」

 それでも、成瀬は死にたいとは、死んでもいいとは思っていない。生きたいと、そう考えている。

 魔術を制限され、残る手段は己の肉体を駆使するという単純で、誰でも持っている方法。

 けれども、成瀬が持つ年相応の肉体では牛頭のような怪物に正面から挑んで勝てる筈もない。逃げようにも、腕の動きを制限されている上、元より体格差がありすぎる。牛頭の一手を避けるために、成瀬は数手を要するのだから。

 勝ち目など元より無く、逃げる算段もつけられない。

 完全な手詰まり。それが、成瀬の置かれた状況だった。

 それでも諦め切れなかったから、成瀬は残る手段を――身ひとつで抗う道をつけた。

 肉体制限の解除。

 それのみが、成瀬が唯一使える対応策だった。

 ただ、肉体制限を解除するということは、それだけ肉体に負荷がかかるということだ。そして、その負荷は、自身の体を壊してしまうほど大きい。

 成瀬も体を鍛えていないわけではないが、それでも、その負荷に体が耐えられる回数はそう多くなかった。

 それが三回。――牛頭の攻撃をかわした回数だけだった、ということだ。

 代償は右脹脛の破損。

 為したことを考えれば妥当な代償だったかもしれないが、右足が使えなくなるということは、唯一の対応策が消えたということでもある。

 そこまで考え至ったところで、

「……あっは」

 成瀬は快の吐息を吐いた。

 だからどうした、と。笑い、地面に額を打ち付けた。

 反動で左膝を持ち上げ、膝を畳んで爪先を立てた。

 もう一度額を地面に打ち付ける。

 その反動で、左膝を立てて腹に当てると、立てた爪先に力を込める。

 爪先から膝、膝から腹に伝わる力は身を立てる。

 だから立った。

 しっかりと、両足でだ。

 濁った音の後に、滴る音が続く。

 しかし成瀬の体は揺れない。ただ立って、まだ尾を引くように耳に残る余韻、その音源に視線を向ける。

 粉塵はもう晴れていた。だから、相手の姿もよく見えた。

 成瀬の視線、その先にある牛頭の姿は強く握りこんだ右拳を高く掲げる半身の姿勢だ。

 左足は既に踏み込まれている。ならば続く動きは決まっていた。

 これまでの三回を超える速さで、拳が放たれる。

 両者の距離は遠くない。

 例え成瀬の足が無事であり、自壊を厭わぬ――文字通りの全力で動いたとしても、回避が間に合わないと判断できるだけの距離と速度だ。

 故に、ここで成瀬は終わる。

 拳に砕かれて体も残らないか。かろうじて残った身体を弄ばれるのか。

 いずれにせよ、それは凡そヒトとしての在り方では無い。ならば、終わると表現して差し支えない結果だろう。

 怪物に出くわした当然の帰結として、次の瞬間に成瀬の人生は終わる。

「――っ!」

 牛頭の頭、その上まで高く掲げられた右拳は、踏み込まれた左足を震脚として、その反動に乗る形で放たれた。

 音は無い。

 雑な動きなどなく、ただ真っ直ぐに、右拳は標的へと向かう。

 その先に居るのはただのヒト。少女の形をした生き物だ。

 込められた膂力は十分で、拳も速く飛んでいる。

 瞬間すらかからずに届いた皮膚は、牛頭の触覚に纏わりつくような、柔らかく脆いものが解けるように砕ける感触を伝えるだろう。

 拳が成瀬に届く。


 しかし、牛頭の拳が成瀬に届き至る直前、その刹那。

 成瀬の思考は当然の帰結を否定する。

 ――奇跡を願って、牛頭の拳が届くまでの間に何かが起こって生きるという未来を想像したのか?

 そんなわけがない。

 奇跡はただの結果だと、彼女は知っている。

 だから、願わない。

 行うのはただの思考。

 自らをある場所に落とし込むための理論武装。

 ――さぁ、問おう。

「蹴った、という結果に身体は必要か?」


 次の瞬間。

 湿りを帯びた弾ける音が響いた。

 牛頭の期待した感触が神経を伝わり脳に走る。快の感情を噛み締めた歯の隙間から吐き出す。

 柔らかい手応えの後に来るのは錆びた匂いと共に飛び散る熱い肌触り。

 そして、甲高い砕けの音を響かせた。

 当然の帰結として、現実はここにある。





 ――しかし、この場における現実は、一度覆る。





 前提を確認しよう。

 ――成瀬はいったい何者だ?

 魔法使いだ。

 ――魔法とはいったい何を指す言葉だ?

 因果の関係が未知である現象を表す言葉だ。

 つまりそれは。

 当然、当たり前という期待、そして起こってしまった出来事さえ覆す結果でなければならない。

 そんな魔法を扱う意思を持つ者を魔法使いというならば。

 彼女が問うた言葉に、現実は正しく答えない。

 だから。

「蹴った、という結果に身体は必要か?」

 ――必要ない。

 ただ結果として、蹴ったと認められる事実さえあればいい。

 では、蹴ったという認識はどうすれば作られる?

 蹴った、という結果は蹴るという行為によって生じる。

 蹴るという行為は、一定の害を生じさせる。

 ――今、この場には肉を潰した音と臭いが生じている。

 ――そして、牛頭は確かにそれを感覚している。

 ならば。

 牛頭の腕は確かに潰れたのだろうと結論すれば、それらの事実には矛盾しない。

 そして。

 牛頭の腕が潰れたならば、腕を潰した本人はその場にいなくてはならない。

 だから現実もそうなっていた。





 バケツをひっくり返したような、激しい水音が響いた。

 次いで、お、から始まる叫び声が轟く。

 叫び声の音源は天を仰ぐように開かれた牛頭の口元で。

 水音の音源は付随しているべき右腕の消失した右肩、その断面たる肩口だ。

 牛頭は肩口から溢れ出る血を留めるように、半ば反射的な動きで無事な左手をあてがう。

 その顔に浮かぶ色は困惑と疑念だ。何が起こったのかと、どこに対してでもなく問いかけるような表情が張り付いている。

 その視線は傷口ではなく、消失した右腕を向けていた相手に注がれる。

 そこには一人の少女がいる。

 わずかに前傾した上半身を、膝を軽く曲げた左足一本で支えている。

 右足は無い。

 傾いた上半身に触れんばかりに持ち上げられた、左足の根元とは逆側から続く右大腿部の半ばまでが残っているだけだ。

 ――現状から判断すれば。

 牛頭が成瀬に向けた右腕は、成瀬の蹴りによって消失したということになる。

 その代償として、成瀬の右足の大部分も消失したのだろう。

 しかし。

 牛頭が渾身で揮った一撃を、成瀬の蹴り程度で防げるのだろうか?

 いや、話はそれどころではない。

 ヒトの蹴撃が、牛頭人身の怪物、その片腕を消失させたという事実が異常に過ぎる。

 ただ、その疑念に問いを投げかけるようなものはこの場にはいなかった。

「…………」

 成瀬の体が、右足が失われることで欠けたバランスに従って傾ぐ。

 地面に向かって倒れていく。

 顔の半ばを覆う前髪のせいで表情は伺えない。ただ、確かにその口元は笑んでいた。

 そこから見えるのは満足の色。吐かれた息は快の感情を示している。

 そして。

 成瀬の体が動いたことを合図に、牛頭は動きを見せた。

 傷口から左手を離し、左腕を高く掲げる。

 持ち上げられた左手は強く握りこまれて、わずかに震えさえ見せている。

 留まる動きは一瞬だ。

 一呼吸すら挟まずに、掲げた左腕は振り下ろされた。

 左拳は成瀬の体を真上から叩き潰すような軌道で走る。

「……あー、両腕も使えればなぁ」

 爆音が轟いた。

 牛頭の肌に感じられたのは地面を砕く固い感触だけだった。

 現実は二度覆ることはなく。

 覆された現実は正しく、当然の結果に舞い戻った。





 一部始終を見ていた者の内、そこに異常を認めることができた者はわずかに二名だけ。

 廊下の外、通路の壁際に立っている成瀬とネスティだ。

「今何が起こったんだ?」

 ネスティは画面を通して認めた現実について、呟くように、誰にとも無く問いかけた。

 その呟きを拾った成瀬は疑問符を浮かべつつ、首だけを動かしてネスティに視線を移す。

 ネスティは画面に視線が釘付けになったかのように固まっている。その顔に浮かぶ表情は苦く、痛々しい。まるで酷い頭痛に悩まされているような、そんな表情だ。

 成瀬はネスティの感じている違和感の正体を知っている。だから、くすくすと、声をあげずに笑う。

「何がおかしい」

「いえ別に。馬鹿にしているわけじゃなくて、ただ、君は賢いんだろうと思っただけ」

「……どういう意味だ」

「画面を見てみなさいな」

 成瀬に促されるまま、ネスティは視線を画面に移す。

 視線の先には二つの映像がある。

 ひとつは二人のすぐ傍にある扉の先、部屋の内部を示すもの。

 もうひとつは、つい先ほどまで牛頭人身の化物と成瀬が争っていたものだ。

 成瀬が視線で見るように促しているのは、前者の映像だ。

 ネスティは視線の端に地面を執拗なまでに叩き続ける異形の姿を収めつつ、促されるまま、映像を見る。

 映像の中は、素直に気持ち悪いと思える光景になっていた。

 笑っている。

 部屋の中に居る人影の大半が、一人の人間が死んだ、という結果を見届けている筈だ。

 しかし、彼らがそれを見て楽しんでいることがわかる。

 それを見ることで安堵していることがわかる。

「…………」

 ネスティは目を細めて、更なる渋面を作る。

 成瀬はその表情を見て、酷い顔だと笑った後で、続ける。

「同じものを見てもここまで反応が違うと面白いというのがひとつ」

「さっき笑った意味か?」

「ああ、うん。そうだけど」

「……ひとつ、ということはまだあるのか」

「うん? んー、いや、どうなんだろう。反応の違いが面白いという言葉に、集約されるのは確かなんだけど」

「何が言いたいんだかわからん」

「考えなさいよ。――あーあー、ゆとりだから教えろってんでしょうが。わーかってるわよ。今考えてるから待て待て」

 成瀬があー、と唸りながら頭上を仰ぐこと数秒。

 難しい顔のまま視線を下げて、大きく息を吐き、続ける。

「君はさっき何で苦い顔をしてたの?」

「それは……」

 成瀬の問いかけに、ネスティは言葉を見つけ出せずに言い淀む様子を見せた。

 苦い顔をしていた、という成瀬の指摘には、ネスティも自覚がある。

 何を見てそうなったのか、それも把握している。

 画面の向こう側で行われた成瀬と怪物の戦い――否、一方的な虐殺に近いそれにおける、最初で最後の一合だ。

 ネスティは、その一合に不自然なところは無かったと考えている。

 それでも、脳裏に焼きついて消えない映像があるのだ。

 それは成瀬がその場に立ち尽くしたまま、為す術もなく怪物の右腕に砕かれる、そんな光景だ。

 そんなことは無かった筈だ。

 もしもそんなことがあったのなら、ネスティが認めた現実が、不自然なところはないと納得している筈の状態が嘘になるのだから。

 そんなことがあった筈がないのだ。

 だって、現実はそうなっている。

「…………」

 ネスティは改めて、すぐ隣の部屋を写す画面を見る。

 そこには、ネスティの認識を裏付ける証拠が認められるだけだ。

 ――あの瞬間は驚いたが、期待通りに死んでくれて助かったと。

 そんなことを笑いながら話している姿が見えているだけだ。

 ネスティが二つの画面を通して認めた現実は、確かにその一合が在ったということを示している。

 だからこそ、つい先ほど起こった出来事が嘘ではないかと、疑う気持ちをそのまま口に出すことなどできなかった。

 そんなことをすれば、一人の人間が死んだ事実を笑う者より劣ると、そう評価されるのではないかと考えてしまうから。

 黙ったまま言葉を続けないネスティを見て、成瀬は吐息をひとつ吐き、じゃあと言葉を発する。

「じゃあ、質問を変えましょう。

 私は今目の前で起こった出来事に違和感を感じているのだけれど、貴方はどう?」

 軽い声で、笑みの問い。

 しかし、問われた内容にネスティは背筋が震えるほどの驚愕と悪寒を得た。

 視線を画面から成瀬に移す。

 成瀬はからかうような笑みを口元に浮かべて、ネスティの顔を覗き込むように上半身を前に傾けている。

 こちらの答えを確信した上で尋ねていると、そう理解したからこそネスティは跳ねるような動きですぐに視線を外した。

 成瀬はあらつれない、と肩を竦めた後で続ける。

「違和感を感じているのは私だけなのかしら。あそこに立っていた私が潰れてしまって、五体満足なあの化物が笑っている姿を見た気がしたのだけど。

 ――まぁ、そうなってもおかしくない状況だったから、そう思い込んだ自分がそんな映像を作ってしまったのかもしれないわね。勘違いとか、白昼夢とか、そんなのだったのかもしれないよ」

 成瀬は期待が外れたと、わずかに残念の色が見える声音でそう結論づける。

 そんな成瀬の言葉を聴いて、ネスティも脳裏にちらついていた映像が自分の作り出したイメージだったのだと納得し、知らず安堵の吐息を吐いた。

 成瀬は眇めでネスティの横顔を見やり、軽く肩を竦めて小さく笑う。

「……ぎりぎり保留できる、ということにしておきましょうか」

 私も甘いなぁ、と続けて。その言葉に反応してネスティから向けられた疑問符に何でもないわよと首を振って応じると、壁に預けていた背を離す。

「さて、と」

 呟きから続く動きは身を縦に伸ばすもの。

 右手を高く挙げ、その右肘のあたりに左手を軽く沿えるようにして、くっと息を止めながら高く伸びる。

 一拍の間をおいて、勢いよく息を吐くと同時に両手を下ろし――その動作を認めたところで、ネスティは驚愕で固まった。

「……いつから」

「いつから私の手が拘束されていると錯覚していた? ……なんてね」

 かっはっは、と笑いながら、成瀬は手を振る。

 軌道は成瀬の胸を横切るように、大きく回ってネスティの元に届きうるものだ。

 驚愕に固まるネスティは、その色に怯えを混ぜることしかできない。

 成瀬の手はただ宙を掻き、浮かび上がっていた枠を払ったところで動きを止めて、呆れたといわんばかりの表情で吐息をひとつ吐く。

「何もしないって。もう見せる必要もないから、消しただけよ?」

 そして、気遣うように――安堵させるために小さく笑みを浮かべる。

 その笑みを受けて、ネスティは自身の反応を省み、逃げるように顔ごと成瀬から視線を逸らした。

「ま、いいけど」

 と、成瀬が笑みと共に告げると同時。

「いつまでやっているつもりだ、そこの二人」

 ひとつ膜を通したような、篭もった声音が成瀬とネスティの二人に向かって呼びかけた。

 ネスティは声をかけられたという事実に驚き、視線を音源へと向けた。

 そこにはひとつの人影が立っていた。

 わずかに女性らしい丸みを帯びた体躯は、小柄で華奢だが、そこに頼りない雰囲気はなく、ひとつ筋の通ったような立ち姿は見る者の背筋すら伸ばすほどの凛々しさがある。

 その身体を覆うのは、要所を金属片で覆う白と橙の装甲服であり、見れば、頭もベレー帽に金属製のバイザーを取り付けたような冑で覆われていた。

 声質が不明瞭であるのは、バイザーで顔を覆っていることが原因か。

 しかし、この場で一番気にするべき点はそこではない。

「……っ!」

 白と橙の装甲服。

 ネスティにとっての敵であり、逃げ出した身としては見つかる訳にはいかない相手だ。

 驚愕で一瞬だけ視線を彼女に向けた後で、隣に立つ成瀬に視線を移す。

 成瀬はネスティの非難の感情が込められた視線を受けながら、焦る様子も無く、ただ肩を竦めて苦笑を浮かべる。

「確かに、少し長居をし過ぎたところはあるけれど。時間に余裕が無い、という程でもないでしょう」

 そして、成瀬の言葉はネスティに――ではなく、白と橙の装甲服を纏う女に向けられた。

 気負いはない。ただ気の置けない友人と話すような気軽さで語りかけるが、視線は決して彼女に向けずに歩き出す。

 その背中に声をかけるように、顔の見えない女は溜息交じりに応じる。

「余裕はないぞ。もうじき退勤時間だからな」

「いいじゃない、残業代くらい付くんじゃないの?」

「残業なんてご免だよ。こんな、大して面白くもない話に付き合う形で、なんて最悪だろう」

「確かに。それじゃあ、さっさと私は退場するわ」

 言って、成瀬は右腕を伸ばして肩の高さまで持ち上げる。続く動きで宙をつかむように拳を握り、大きく円を描くように左肩まで持っていく。

 同時。その軌跡をなぞるように黒色が伸びて、それは布の質感を伴ってはためいた。

 当然のように現れたそれは、なんら特徴のない無地の外套だ。

 成瀬はその外套を身に纏い、身に馴染ませるように袖を鳴らした。

「おう。私も今日でここから退散、ってことで問題ないよな?」

 いつのまにやらネスティの横まで進んでいた女は、ネスティの肩に気安い調子で手を置く。

 展開についていけずに固まっているネスティは、女の行動に一度びくりと身体を震わせて――それ以上の反応を見せることはなかった。

「好きにしなさいよ。その辺は自己判断でしょう」

「どちらがやっても自己判断だろうに」

「残ってみる価値はないでもないと、そう思うけどね」

「さようか。まぁ、それならば、少し離れる程度で済ませてみようかな」

「……ちょ、ちょっと待て!」

「ん?」

 成瀬は足を止めて、視線を声の主へと向けた。

 女にもたれかかられて、この状況にどう対応すればいいのか分からない――そんな状態のネスティがそこに立っている。視線に宿る色は懇願であり、誰がどう見ても助けを求めていることがわかる顔で成瀬を見ていた。

 成瀬はどうしてそんな顔で見られているのか判らなかったので、ただ首を傾げてみせるだけだ。

 ネスティは成瀬の態度に促されるように声を張り上げた。

「この状況を説明しろ!」

 成瀬は女を、女は成瀬を見るように視線を動かした後、溜息を吐きながらやれやれと首を振り、

「「察しなさいよ」」

 二人口を揃えてそう言った。

「無理だろ!?」

 反射に近いネスティの即答に、成瀬はああ、と何かに気づいたように声をあげて、ネスティの肩にもたれかかるようにしている女の顔を指差した。

「顔が隠れてるからじゃないかしら。外すなり、前を上げるなり、してみたらいいんじゃない」

 成瀬の指摘に、女もおおと得心したといわんばかりに頷くと、冑を勢いよく取り払った。

 その下から現れた相貌に、ネスティは絶句せざるを得なかった。

 成瀬と同じ顔――ではない。それは断言できる。

 しかし、共通点は多いのだ。目鼻口の形や、顔のどの位置にそれらのパーツがどう配置されているのか等の形という意味では同じと言える。ただ、同じパーツを使っているのに細部が異なる。雰囲気が違う。受ける印象さえも別物だ。

 まるで、似ていない双子を見ているかのような、そんな錯覚にこそネスティは驚愕している。

 そしてそんな錯覚は正しいと認めるように、成瀬はあっさりと言った。

「生活環境が違えば多少は印象が変わるものよね」

「そういうことだな。……だから安心しろ。私の退勤に合わせて、君をここから出してやる。後は自由にするといい」

「任せたわよ、私」

「任されたよ、私」

 言って、黒の外套を纏う成瀬は扉に向かって足を進め。白と橙の装甲服を纏う女――三人目の成瀬奏は、ネスティの襟首を掴んで壁から身体を引き剥がし、背中を押して歩くように促した。

「待て、待ってくれ!」

「なんだよ、私はさっさと帰りたいんだ。お前もここは居心地悪いだろうそうだろうだったらさっさと帰るぞ消えるぞ立ち去るぞ」

「無理やりだなぁおい! って、止まれって! 私はあっちに話があるんだ!」

「やなこった。何で、私がおまえの要求を聞いてやらにゃならんのだ。ほら、ガキじゃあるまいし、自分の足で歩いてくれよ」

「まぁいいじゃない、少しくらい。……聞きたいことは何点あるの?」

 くすりと含む笑みを混ぜて、成瀬は離れる二つの背中に声をかけた。

 静止の声に、いち早く反応を見せたのはネスティの背中を押し続ける女だ。

 彼女はネスティの背中を尚も押し進めながら、首だけを動かして背後の成瀬を見て、不満げな声をあげる。

「でもよぉ、私はさっさと帰りたいん……――ああ、ああ、わかった、わかったよ。だからそんな怖い顔をしないでくれ。この場ではあんたの方が一応上だからな、従うぜ。ほれ、糞ガキ、駄々をこねた甲斐があったな。聞いてくれるってよ」

 しかし、言葉の途中で向けられた成瀬の鋭い視線に閉口し、数秒固まって見せた後で、やれやれと溜息を吐きながらネスティの背中から手を離す。そして、ほら、とネスティの襟首を掴んで、その身体を成瀬と正対するように動かした。

 更に、ネスティの背中を音高く叩いて、数歩下がり、離れたところの壁際に背を預けて視線を伏せる。

 どうやら話が終わるまで手を出さないことにしたようだ――と、彼女の様子からネスティがそう判断したところで、視界の外から問いかけが来た。

「それで、聞きたいことはいくつあるの?」

 ネスティは視線を音源である成瀬に向けて、数呼吸の間を置いて、挑むような口調で応じる。

「いくつか」

 成瀬はネスティの反応にまず苦笑し、

「具体的な数字を聞いたのだけど。――まぁ、適当なところでこちらから切り上げるし、答えたくないところは答えないんでよければ質問どーぞ」

 肩を竦めながら息を吐いて、ネスティの言葉を促すように右手の掌を向けた。

 ネスティは息をひとつ呑んで、強い語調で問いかける。

「おまえは何がしたいんだ」

 成瀬はその問いに対して、溜息交じりに応じる。

「……抽象的過ぎて答えようがない質問ね。次の質問どーぞ」

 はぐらかされた、と感じたのか。ネスティは声を荒げて言葉を追加する。

「私を倒したと思えば助けて。肩入れした側に敵対して。何を目的としてこんなことをしているんだと聞いているんだ!」

 しかし、ネスティのどこか必死に見える態度と雰囲気に対して。

「ああ、それならまだ答えようはあるけど。別に語って聞かせるほどの目的なんて無いよ。言ってしまえばただの趣味」

 答える成瀬はまるで世間話をしているかのように、ただ軽い。

「趣味で出来ることかこれが!」

「趣味で出来ることよ、この程度」

「な、に?」

「傍点でもつきそうな驚愕ぶりだけど。趣味で出来る程度よ、こんなの。

 これが、という言葉は恐らくヒトの生き死にが関わることを指しているんでしょうけど。随分とまぁ、常識的な判断よね。あなた、オカルト側の自覚あるの? ――まぁ、ラノベとかのオカルト側でも、あんまりそういうの、前面に出してないけどさ。若干出てるのもあるけど、あれはどちらかといえば悪の側で、特殊な一部というところだし。

 さて、要は何を言いたいかと言うと、殺人は趣味で行われる程度のことだということよ。

 殺人を純粋に嗜好するものは当然いる。その場合、殺人は目的になるでしょう。

 そして、食人や屍姦が趣味の場合は、殺人は手段となる。

 他人が苦しむ姿を好み、それが極まったなら、殺人を手段として選択するものも出てくるでしょう。

 それに、元々人間なんてもんはね、自らに関わらない場所にいる他人の生死に、そもそも興味が持てないように出来ている」

 認識できないんだから当然だけどね、と苦笑をひとつ挟んで、

「だから、人数の多寡は問題じゃないのさ。必要ならそうなる。そして、達成する過程でヒトの生き死にが発生するだろう目的が趣味によるもので、それを実行できたなら、それは趣味で出来ることだということだ。

 なにせ、現状がそうなってるんだから」

「じゃあ、その趣味ってのは何なんだ」

 成瀬はここでおや、と意外なものを見たような間の抜けた表情を一瞬浮かべて、次の瞬間にはにやりと笑って言う。

「悪趣味」

「答えになっていない」

「十分でしょう。私が何を言ったところで、この趣味は悪趣味と断じられるもの。それ以上でもそれ以下でもないんじゃないかしら」

「答える気はないということか?」

 成瀬はネスティの問いかけに、困ったような笑みを浮かべて肩を竦めて見せるだけで、それ以上言葉を続けなかった。

 その反応に、ネスティは溜息を吐いて、言う。

「おまえみたいな人間に助けられたというのは、正直、気持ち悪いな」

「はっきり言うねぇ」

「礼は言わないぞ」

「それでいいよ。出来れば二度と、関わりを持たないように努力してくれればなおのこと」

「当然そうする」

「ほかに何か聞きたいことは?」

 成瀬の問いかけに、ネスティは無言で考えるような間を置いた後で、やがて首を横に振って見せた。

 結構、と成瀬は頷いて。

 二人は同じタイミングで互いに背を向けた。

「もういいのか?」

 通路の壁際で両者の会話を聞いていたもう一人の成瀬は、近づいてきたネスティに対して声をそう問いかけた。

 その問いかけに、本当に嫌そうに表情を歪めながら、ネスティは言う。

「聞いていただろう」

 非難めいた口調に対して、彼女は首を横に振って言う。

「いいや、興味が無かったから聞いてない。話は終わったのか?」

「ああ、終わった」

「じゃあ行こうか。まぁ、ばれることは無いとは思うけど、外に出るまでの道中は、あまり話しかけないでくれよ。あんたの姿は回りに見えなくても、私の言葉は回りに聞こえているんだ。不信感を持たれると、面倒だしな」

 言って、彼女はネスティに一瞥さえ向けることなく歩き始める。

 ネスティはそれに置いていかれまいと、同じように足を動かした。

 ――と、そこで軋むような音が響く。

 一瞬だけ、ネスティは視線を背後に向けた。

 そこには迷い無く扉をくぐる成瀬の後姿があって、しかし、その姿はすぐに閉ざされた扉の向こうに消える。

 ネスティは視線を前に戻して、扉の向こうに行ってしまった後姿と同じものを認めて、だからこそつい、言葉が口をついて出た。

「いったい何をしにいったんだ、あいつは」

 前を歩く姿は、その問いかけに視線を向けることもなく応える。

「よくも私を殺したな、って、文句をつけにいったんだよ。――おまえだって、言われたことだろ」

「…………」

 ネスティは呆れてすらいるように感じられたその言葉に、ああ、と辟易の吐息を内心で吐く。

 わかってしまったからだ。

 つまりは。

 あの場に居る者の大半が痛い目を見るということだ。

 いつかの自分と同じように。



               ●


「……おい、こら。なんで私の名前使って話書いてんだ!」

「え、全部読み終わってからそこをつっこむの?」

 目の前の少女に紙面から顔をあげると同時に強い視線と言葉をぶつけられた少年は、びくっと身体を震わせた後で、扱いに困ったように笑った。




<5>

 一週間後。土曜日の昼。

 黒田と成瀬の二人は一緒に昼食をとっていた。

 先週の土曜日に、成瀬が黒田に対する報酬を――食事を奢るという約束を果たしているところなのだが。

「…………」

 場所は関西と関東で略称が違うということで有名なファーストフード店である。

 昼時ということで、人影は多い。

 だからこそ、突然発生した大きな声は視線を集めた。

 視線は店内の一角にある席に、というか声をあげた成瀬に集中している。

 成瀬は他人の視線など気にしていない様子で、目の前に座る黒田を見据えている

 黒田は自分に視線が集まったわけでもないのに、なぜか増えたと感じる圧力のようなものに内心で冷や汗をかきながら、ひきつったような笑いを浮かべている。

 視線が集まっていたのは一瞬のことで、わずかな疑問符をこぼすような間をおいて、視線は散っていった。

 周囲の喧騒が元に戻っていくのと同時に、感じていた妙な違和感が霧散していくことに安堵しながら、黒田は一息入れるように飲み物に口をつける。

 成瀬はどうでもいい他人の視線を気にするほどヤワではない。だから言う。

「おまえ、ヒトの言葉は無視か、ああ?」

 しかし、黒田は普通のヘタレなのでこう言うしかない。

「ここは公共の場です。話し声の音量には注意してください。視線を集めるので」

 その反応に毒気を抜かれたのか――はたまた心底あきれたのか、成瀬はふっと息を吐いて身体に入った力を抜いた。そして、椅子の背にもたれかかりながら、首を傾げて見下ろすような視線で問う。

「で、私の名前を使いやがった理由は何ですかね先生」

 黒田はにっこりと笑って言う。

「嫌がらせですよ?」

「いっそ清清しいくらいの即答だな、おい」

「躊躇いがちに答えるよりは潔いだろう」

「正直ならいいってもんじゃあないでしょうが」

 成瀬はまったく、と息を吐いた後で、テーブルにあるトレイの上から自分の飲み物をもぎとるように掴みあげて口に運んだ。

 一息。喉を鳴らした後で、飲み物を手にしたまま、支持する手から指を立てて黒田を指差し、

「で、何なのこの話」

「成瀬さんが活躍する話ですけど何か」

「……その言い回しはやめれ」

 黒田の言葉に、心底嫌そうに表情を歪める成瀬。

 黒田はその顔を見て、申し訳ないと肩を竦めて、それでも口元に笑みを浮かべた後で、表情をリセットするように吐息をひとつ吐き、言う。

「何なのこの話、って言われてもなぁ。読んだんだろ?」

「読んだわよ。それが何」

「読んだら判るだろ、それがどういう話なのかなんて」

「話が断片的過ぎてよくわかんねーんだっての」

「……そうか? 俺としては、これ以上ないくらい書ききってるつもりなんだけどなぁ」

「魔術とは何か。この組織は何なのか。対抗する悪魔? とは何か。何の説明もないじゃない。……いやさ、全部に説明をしないならいっそ潔いんだけど、中途半端に説明を入れているところもあるでしょう。それが気持ち悪くて、納得できないんだけど」

「気持ち悪いって……酷いな、おい。流石に凹む」

「はっ、寝言は寝て言え。なんとも思ってない癖に。――だから聞いてるんでしょう。あんたがわざわざ書き込まなかった裏設定ってやつ? 伏線と裏設定の区別が付かないからいつまで経っても面白い話が書けないんでしょうに。

 ま、寝耳に水だろうからこれ以上は言わないけどさ」

「そもそもお前が持ってきた断片から作ってるんだから、そこまで貶される筋合いもねーんだがな」

「あんたが作ってる話は全部そうだっつーの。いや、それはそれでいいけどね。あんたがいいなら、私に言えることは何も無い。それより気になるところを聞かせてくれない?」

「……何が気になるってんだよ」

「この主人公は何を目的にこんなことをしているの?」

「書いてあった通りだよ」

「あえてぼかしてるんでしょ? わざとらしいけど」

「うるせぇな。何でもわかってる風にいってんじゃねーよ」

「何でもはわからないわよ。わかることだけ」

「やかましいわ!」

「声が大きい。視線が集まっちゃうじゃない」

「お前が小ネタ入れてくるからだろうが……! そしてお前が言うなし!」

「口調口調。崩れてる崩れてる」

「崩れてるんじゃない、崩したんだよ。それくらい憤ったってこと!」

「難しい言葉が好きね。漢字が難しいよ。よく知ってるね。普通使わないんじゃないかな」

「それ、この手の創作が好きな初心者に一番言ったらダメなことだからな!? 一撃で首を飛ばしにかかるなよ!」

「私がウサギだって? 誰が年中発情期だ」

「変なネタを拾うなよ。しかも拾い方がひねくれ過ぎだろ、そして話が進まねーよ」

「どうしてくれる!」

「率先してやってるのはおまえだろ。――まぁ、俺も悪かったけどな」

 黒田は溜息を吐いて肩を落とすと、テーブルに頬杖をついて言う。

「それで、何だったっけ」

「主人公の目的」

「別に話すのはいいけど。何でそこが気になるんだ?」

「気になるから」

「理由になってねー。別にいいけど。……お前が話す気ない時に話さなくてよくて、俺はダメってのは酷いルールだよなぁ」

 一息。黒田は三白眼で成瀬を見据え、

「主人公になりたかった。争いをなくしたかった。それが理由じゃないかね」

 あっさりとした口調でそう言った。

 成瀬は黒田の言葉と口調に、驚いたように目を見開き、

「……へぇ。正義の味方的な?」

 黒田は成瀬の言葉を受けて、言葉を選ぶような時間を挟んだ後で、首を横に振った。

「んー、いや、ちょっと違う。全員の敵って感じだな」

「ふぅん……。それだと、主人公になって争いをなくしたいって理由とは、ちょっと、違うような」

「繋げんなや。わざわざ分けたんだから」

「は?」

「主人公になることと、争いをなくしたいと思うことは別だって話」

「主人公になって敵を倒して、それでめでたしめでたしってことじゃなくて?」

「そうできれば、それでもいいんだろうけどな。実際問題として、一方の敵を倒してはいおしまい、ってのは無理だろ」

「なんでよ」

「敵がいなくなったら、次の敵を探すだけじゃないか」

「……なんでよ」

「勝ったらしばらくは余韻と戦果でごまかせるけど、その後、他所に敵を求めないと、主人公が首を吊られるだろ。走狗煮らる、ってやつだよ」

「そんなのを空想に持ち込むのはどうなの……。というか、そういうことを考えるなら、むしろもっと煮詰めなさいよ、その方向に」

「最近はこういうの、多い気はするんだけどなぁ。とは言え、俺の頭じゃこのあたりが精精で、これ以上は書けないよ。ここまで書けただけでも、まだマシだと思ってる」

「でも、この二勢力の敵になるような振る舞いをしたところで、協力関係とかになるかどうかってのは、わからないじゃない。争いをなくすことができるかどうかはわからないんじゃない?」

「別にいいんだよ、結果なんて。したいと思ったことをする、それがこの物語における魔法使いが持ってる方向性なんだし。結果としてまとまればそれでよし。まとまらなかったところで、元々成瀬には関係の無い場所でやってることだから、気にする必要もないだろ」

「私の名前を出すな」

「仕方ないだろ、同じ名前なんだし」

「でも、姿を現したところで、恨まれるじゃない。生きてることがわかって、よくも友人を巻き込んだな、なんて言われたら、この主人公はどうする気なのよ?」

「話をする気があるなら話をする。問答無用なら、問答無用で対処をする。死にたくないなら、そうするしかないんじゃね?」

「ろくでもねー……」

「そうかねぇ。死んだ人間は何もしない。死んだら終わりだろ。生きてる人間が死んだ人間を理由にして、自分の気持ちを整理しようとしているだけなんだから、それに付き合う必要もないんじゃないか」

「……全然関係ないことを聞くけど。話の流れぶったぎって」

「……何だよ?」

「親が死んだら葬式やる?」

「やらねーよ。金も時間も無駄にかかるだけだ。さっさと火葬場に持っていって貰って、骨も何もかも処分して貰うつもりだよ」

「ろくでもないな!」

「親もそれで同意してるんでな、うちは」

「親子でどうなったらそんな会話をすることに……」

「流れってのがあるだろ。たまには、そういうことにもなるって」

「ないない。普通はない」

 へいへい、そうですね、と黒田は肩を竦めながらテキトーに返事をした後で、飲み物を口にする。そして、一息吐いて、気軽な調子で尋ねる。

「それで、全体の感想としては?」

 成瀬は口端を軽くあげて、にやりという表現がふさわしい笑みを作った上で言う。

「ま、悪くないんじゃない」

「そりゃよかった」

 黒田はほっとしたように笑って、そう応じた。





 黒田は、店を出たら成瀬と別れて帰ろうと考えていた。

 とりあえず受けた事は終わらせて、評価も貰ったし、感想も貰った。今日の用事はこれだけ、と思って帰るつもりだったのだが。

 帰るつもりで進めた足は、たった一歩すら踏まずに戻ることになった。

 その原因が、妙に近い位置から声を出す。

「帰るなんてつれないわねぇ、黒ちゃん」

「……一度も呼ばれたことねぇ呼ばれ方だよ? まだ何か」

 後ろから肩を引かれ、成瀬に肩を抱かれる形になった黒田は、半目の視線をすぐ横にある成瀬の横顔に向けながら、肩に添えられた手を剥がそうと手を伸ばす。

 しかし、その手は目的の位置に届く前に、成瀬自身の手によって止められる。

「用が無いとつるんじゃいけない、なんて道理もないでしょう」

「いいや、あるね。超あるね。少数派かもしれないけど」

「はっはー、台無し。いやぁ、ここで別れるのも味気ないしさ。今日暇だから、ちょっと遊ぼうぜってお誘いだよ」

 状態だけ考えれば、異性に密着されながら遊びに誘われているという、実に魅力的かつ思春期真っ盛りの真っ当な感性があれば一も二もなく飛びつく状況である。

 それは黒田もよく判っている。

 積極的に動いていない人間に機会は無くて当然、と思っていても、そこは男の子。そういう状況になれば、ころりと転ばない自信はない。それでも、

「断る」

 黒田は即答よりも尚強い即断とも言える口調でそう言い切って、成瀬の拘束から逃れようともがき続けていた。

 黒田が状況と希望に反する行動をとってしまう理由は単純だ。

 正直に言って、成瀬との絡みは長ければ長いほど、がりがりと皮膚を爪で削られるように神経を削られて、微妙に気疲れするからである。

 異性との接触によるどきどき以上に、次はどんな言葉で痛いところをえぐられるのかと冷や汗をかきながら動悸が止まらない割合の方が多い。

「断られることを断る!」

「うざいな!?」

 そして、それと同程度にツッコミで疲れるのだ。やってられない。家でゆっくりしたい。

 黒田の視線からそんな感情を読み取ったわけでもあるまいが、成瀬は強引に黒田の体を引っ張りながら声を荒げる。

「うるさい、いいから来い! なんなら私の女友達誘ってもいいから! 結構かわいいのよ!」

「その友達と行け、俺は帰るから!」

「男の子なら燃えるところでしょうが!?」

「……友達の友達は他人なんですよ?」

「うわー……」

 成瀬は残念なものを見るような視線を黒田に向ける。

 あまりにもな反応に、脱力したのだろう。緩んだ拘束を振り払って、黒田は成瀬から身を離した。

 ちぇー、という表情で溜息を吐く成瀬を見ながら、黒田は言う。

「……それで、どこに行くんだよ」

「んん?」

「行くんだろ、遊びに。その、おまえの友達を誘って? 行ってやらんでもないぞ」

 視線を外しながら、まごまごと言葉を続ける黒田を見て、成瀬はにやりと笑う。

「あっは、やっぱり男の子だねぇ」

「なんだよ、文句でもあんのか!」

「いいええ。ぜんぜん。……あたしの知り合いにはね、綺麗どころが揃ってますぜ、ダンナ。期待してて!」

 成瀬は黒田の背後に回って、背中を押しながら、にやにやと笑みに弾んだ声をあげる。

「それで、どこに行くんだよ」

 黒田は成瀬の反応に辟易したような――半ば諦めたような吐息を吐いて、再び同じ言葉を口にした。

 成瀬はその言葉を待ってましたといわんばかりに、一度勢いよく黒田の背を押した後で大きく声をあげる。

「カラオケいこうぜカラオケ! 最近覚えた曲歌いたくってさぁ、うずうずしてたんだよね!」

 黒田は勢いよく背中を押されて数歩たたらを踏んだ後で、足を止めると、

「カラオケなぁ。近くに――」

 成瀬の提案を咀嚼した上でただ話を繋げるために首だけを動かして、背後にいるだろう成瀬を見ようとした。

 しかし。

「――え?」

 黒田は成瀬の姿を視界に捉えるより先に、何かが弾けるような音を聞いて。

 頬に何かがびちゃりと張り付く感触を先に感じた。

 視界には成瀬の姿はなく――ああ、いや、違う、成瀬ではない何かが残っていることだけが認識できた。

 成瀬の丁度肩のあたりにある高さから、酷く肉感のある塊が二つ落下している。

 落下する二つの肉塊の、丁度中間にある位置には、地面からまっすぐ立った二本の、括れた肉が立っている。それは、それぞれ、前後に向かってゆっくりと倒れていく。

 ぼとりと二つの音が鳴って。びしゃりと二つの湿りが響いた。

 自然と視線は地面に向く。

 そこに広がっているのはアスファルトの黒ではなく、生々しくぬらりと光る、黒みがかった赤の色。

 それが何であり、それが何を示すのか。

 そこに考え至ろうとしたその瞬間に、黒田は声を聞いた。

「どっち見てんのさ。カラオケならこっちだろー?」

「っ!!」

 ぐいっと引かれた右腕に、釣られるようにして首を動かして、その先を見る。

 そこには、何事もなかったかのように――いや、むしろぎょっとしたように目を見開いている成瀬の顔があった。

「ど、どした? なんかすごい顔になってるけど」

 すごい顔ってどんな顔だよ、と。黒田は笑おうとして笑えなかった。

 ただ視線を再度背後に移す。

 そこには何もない。先ほど見た気がした光景は、名残すら認められない。

「調子でも悪くなった? 無理にとは言わないぜ、あたしは」

「いや、その……」

 まさか、お前がどうにかなってしまった場面が見えた、なんていえる筈も無い。

 黒田が口ごもっていると、成瀬はポケットをまさぐって何かを探し出した。

「どうした?」

「いや、あんたの汗が凄いからさあ。ここはさっと、ハンカチで拭ってやろうとしたんだけどな。……おっかしいな、入れてた筈なんだけどなあ」

 あれー? と首を傾げながら上着やらのポケットをひっくり返すように漁っている成瀬の姿を見て、黒田はぷっと吹き出すようにして笑い出す。

「どうせ、持ってき忘れただけだろ。おまえ、女子力低そうだもん」

「うお、ひでえ台詞が出たもんだよ。気遣いを見せようとした相手に対して言う言葉がそれか!?」

 怒る成瀬に悪い悪いと謝りながら、黒田は服の袖で顔を拭う。

 そして、反射的に見た袖口は、水分を含んで色が濃く見えているだけだった。

 黒田ははーっと大きく息を吐く。

 そんな黒田の様子を見て、成瀬は怪訝そうに眉を潜めたが、そのことには言及せず、黒田の肩を叩いて言う。

「んじゃ、場所確保よろしく」

「はい?」

「カラオケ。部屋とっておいてよ。私はちょっとさっきの店に戻って探してくるから」

「何を」

「ハンカチ。ぜったい、持ってきてた筈なんだよ。だから探してくる」

「思い違いだろ……」

「うっせー! 持ってきてたったら持ってきてたんだよ。だから探してくるの。だから先に行って部屋とってろって」

「全部で何人だよ」

「とりあえず四人でとってて」

「二人も呼ぶの!? 俺超アウェーじゃないか。せめて一人にしとけよ」

「じゃあそうしてあげる。だから先にいっといて」

「場所はどこでもいいのか?」

「いいよいいよー、任せる。決まったらメールで連絡入れといてー」

「へいへい」

 返事を聞くでもなく、成瀬は人ごみの中へと駆けていく。

「聞けよ、人の話」

 やれやれと溜息を吐きながら、黒田は近くのカラオケボックスに向けて移動を始めた。





 成瀬は人ごみの中を軽い足取りで駆けていく。

「やれやれ。せっかくの休日に、余計な邪魔が入っちゃったなぁ」

 一息。口端を歪めて、

「さて、今日は遊ぶ気でいたから」

 ――早々に、痛い目見せて終わらせましょう。

 呟く言葉はその場では響かず。

 いつの間にやら、彼女の姿はいずこかへと消えていた。

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