成瀬奏はひとでなし 上
<1>
腹の底に響くような轟音が響いた。
次いで来るのは音源を中心として四方に散る風の動きであり、風の動きに伴って音と同時に発生した破砕の飛沫が晴れていく。
そこは、どこかの建物の中だった。
天井は高く、緩やかに弧を描いて蓋をしている。床は広く、ここを空間たらしめる壁と天井も含めて、すべてが冷たい石材で構成されていた。色は金や銀など、煌びやかで、けれどその場に居続けるには刺激が強すぎる彩りである。天井を見る限りは照明設備などひとつもないのだが、その色そのものが光を帯びているように、内部は明るかった。
ただ、それらの壁や天井には無数の傷や欠損がある。
それは経年劣化によるそれとは異なり、明らかに害意をもって行われたであろう破壊の跡だった。
「…………」
先ほど響いた音の中心には、二つの人影がある。
ひとつは破壊の中心だろう場所で、発生した瓦礫に埋もれて倒れる一人の少女だ。
首元まで伸びる黒髪は乱れに乱れて土埃で汚れている。凛と一本筋の通った強さを感じさせるその相貌は、平時であれば相応の元気の良さなどを表現していただろうが、今はただ色濃い疲労と痛みで歪んでいるだけだった。年頃の少女にしては少し小柄で、年相応に未熟な身体は紺色のセーラー服を帯びている。しかし、そのセーラー服はところどころに血の赤と肌の白を晒し、かろうじて服としての体を為しているような状態であった。
そしてもうひとつの人影は、ヒトの童子という形の中に、ヒトとは異なるものを同時に併せ持つ異形だった。
血のように赤く艶やかな髪は腰のあたりまで伸びている。一方で、前髪はわずかに目にかかる程度の長さであり、前髪の隙間からは煌煌と輝いているような金色の瞳が目の前にある少女を見据えていた。その下にある顔形は非常に整っており、童子と思しき体格であることを差し引いても、見た目からは性別が判断できない。その小柄な体躯を包むのは、しっかりとした作りの黒い鎧だった。
ただ、その立ち姿には瓦礫に埋もれる少女との差異が二点ある。
ひとつは耳のすぐ上、髪の隙間から歪曲する一対の白い角があること。そしてもうひとつは、その背に三対の黒い、コウモリのように薄い皮膚が模る翼があることだ。
もしも他のヒトがこの姿を見たらきっとこう称しただろう。
――悪魔。
その一言に、侮蔑と嫌悪と恐怖をないまぜにして。
「これで終わりだ」
悪魔はそう言って、腰に下げた一本の黒い剣を握りしめる。そして、そのままゆっくりと地面に埋もれたままの少女へと近づいて、その心臓へと突き立てた。
さくりと繊維質を断つ音が響き、続いてどぷりと濁り湿った音が響いた。
悪魔が剣を抜く動きと同時、心臓の鼓動と同期するように傷口から赤い血が噴出する。
その返り血を浴びても、悪魔の表情は変わらない。ただ、心臓の鼓動が弱まるにつれて噴き出す勢いが無くなる血をその身に受けながら、静かに見つめている。
その血が静かに流れるだけになると、悪魔は少女から視線を外して背を向ける。
本当なら、そこで終わりの筈だった。
がらがらと、瓦礫が崩れる音が響く。
「……っ!?」
悪魔は音源である背後へと視線を向ける。
そこには、先ほど心臓を刺されて死に絶えた筈の少女が、不敵としか表現できない笑みをその口元に浮かべて立っていた。
「あーあ、やっぱり負けたかぁ。なかなか望む通りのエンディングにはならないものね。そう思わない? お互いに」
少女は髪についた細かい瓦礫や砂埃を、がしがしと掻くことで払いながら、目の前に立つ悪魔に笑みの声を投げる。
悪魔はその言葉を聞いて、自らがつけた心臓のあたりにある傷を見やって、至極真っ当な疑問を口にした。
「……なぜ動ける? 確かに、心臓は潰した筈だ。ヒトであるならば、死んでいる筈だろう」
少女は笑みに嘲る色を滲ませて、溜息をひとつ吐く。
「はっ。そうね、魔術やら悪魔やら神様やら、そんなものが非現実だと思うようなヒトであるならば、確かにそうでしょう。でも考えてみなさいな。あたしたちは、それがあって当然――とまで行かないにせよ、現実にあることを認めた人間でしょうに。心臓を刺されたくらいで容易く死に至るような、そんな真っ当な在り方なんて望んでいたらこの場にはいない。
心臓を刺されたら死ぬ? それはなぜか考えたことはある? まずは痛みよね。次いで失血かしら。そして血を巡らせる起点が無くなることによって、脳に酸素が行かなくなって細胞が死んでいくというところ? なら、それら全てを解決すれば死なないんでしょう? そうしただけよ」
つまらないことを聞かれて、つまらないことを言ってしまったと、そう言うように少女は笑みを苦笑に歪める。
「だとしても。貴様は私には勝てまい。そのまま私が去るまで倒れていれば、死なないまま余生を送れただろうに」
悪魔は少女の言葉を聞いて、失笑を見せる。
その言葉と笑みを見て、少女は大きく笑った。
「あっはっはっはっはっは! いや、馬鹿ねぇあんた。勝てると思うから立ち上がるのよ。負けたくないから立ち上がったわけじゃあないの。そんな真っ当な主人公然とした心情を求められても困るわ」
「何?」
「よくもやってくれたわね、と。八つ当たりついでに次に繋ぐの。だって、このまま進んだら本当にバッドエンドだもの。次の冒頭で、しかし彼女の活躍により力を削がれたラスボスは一時撤退した、って書いて貰えるようにしないとね。騙して担がせた申し訳なさで死にたくなっちゃうからさ」
だから、と。少女はわずかに身を沈める。
「無関係な立ち位置になった私が終わらせるってのは、信条に反するし。命までは取らないわ。フルボッコして、しばらく動けなくなっておいて。――purge」
最後の一言を呟くと同時、少女の両腕に黒い何かが纏わりついていた。
それは籠手のような何かだった。明言を避けるのは、それがあまりにも粗雑な形状だったからだ。両手をそれぞれ包み込む手袋があり、そこに繋がるように、手袋と同じ素材だろうテープ状の布地が下腕にぐるぐるとまとわりついている。素材は布だろうか。黒い布地は経年劣化によってくたびれにくたびれており、ほつれが目立つ。ただ、布地では有り得ない照り返しも見せており――だからこそ、その素材が何かを判じることはできなかった。
「力の差は先程の戦いで既に明白だが」
悪魔は少女が構えたのを見て、溜息まじりにそう言った。
少女はそれを受けて、苦笑を見せる。
「ああ、そうね。――あんたが下で、私が上」
「……そうか」
言って、悪魔も剣を構える。
「結末は判り切っているけれど。存分に力を揮って頂戴な」
少女のその言葉をきっかけに、二人は同時に戦闘の初動をとった。
少女は身を深く沈め、四肢をもって床を弾き、飛ぶように前に出る。
対する悪魔は少女に対して半身になって、少女の側に出した足に少し体重を乗せると同時に掴んだ剣を上段に構えた。
少女の体が剣の間合いに入ると同時、悪魔は呼気ひとつで構えた剣を振り下ろす。
少女は笑みの呼気をひとつ落として、迫りくる剣の軌道に乗せるように腕を構えた。
衝突する。
しかし、悪魔の剣は少女の腕を切り落とすことはなかった。金属質の激突音が響いて、悪魔の剣は少女の籠手に阻まれる。
瞬間、振り下ろされた剣を流すように少女が腕を振っていた。甲高く、耳障りな摩擦音を響かせながら、悪魔の剣は地に落ちる。
少女は続く動きで震脚し、剣を流した腕とは逆の腕を振る。
狙いは剣を振りきることでガラ空きになった脇腹だ。
悪魔はそれを読んでいたかのように、呼気ひとつで地に落ちた剣を振りあげた。少女の体を逆袈裟に断つ軌道で剣が走る。
ただ、少女の方が速かった。
少女の拳が悪魔に当たると同時、爆発でも起こったかのような轟音が発生し、悪魔の身体が飛んだ。
それでも振られた悪魔の剣は、少女の髪をわずかに切りとるのみで空を切った。
悪魔が壁に激突する。
「近接戦闘ではまず一勝ね。次いくわよ」
少女はにやりと笑んで、拳を打ち鳴らす。
その視線の先では、既に悪魔が立ち上がっている。そして、その動きに合わせるように、その背後に複雑怪奇で色鮮やかな模様が描き出されていた。その異様は、それ自体が孕んだ力を示すように、空気――否、空間そのものを鳴動させている。
それは俗に魔法陣と呼ばれるものであり、この場においては大規模な魔術を行使するために不可欠な道具だった。だがそれでも、一瞬で背後の壁を覆い尽くすほどの魔法陣を書いて見せることも、魔法陣そのものを魔術で描ききることも、並大抵のヒトには不可能なことだとされている。
悪魔と呼ばれた存在だからこそ出来る埒外の御業。
それを見て、少女は不敵に笑って見せる。
「さっきまでのは本気じゃなかったってところよね。ごめんなさい。出来そこないの身だと、追い詰めることすら出来なかったみたいで」
言った直後、それは来た。
風の刃が土煙でその身を示す。炎の息吹が圧倒的な熱量によって空気を燃やして景色を溶かす。雷の雨が地面を焦がし、光の帯が床を抉る。氷塊が虚空から降り注ぎ、床が変形した槍が殺到する。
少女は笑みの声をもってそれらを迎え、前に進むことを止めなかった。
圧倒的な威圧の中に、少女は身ひとつで飛びこむ。
風の刃を、炎の息吹を、雷の雨を、光の帯を、氷塊を、槍を。かわして、時にその拳をもって砕き散らしてただ前に。
超えた先には悪魔がいる。
「二勝目!」
吠えるように叫んで、少女は拳を悪魔に叩きこんだ。
悪魔の身体が再び壁に埋まる。拳の一撃でもって鎧は砕かれ、その口からは赤い血が漏れる。
少女は続く動きで身を回し、勢いをそのまま叩きつけるように、悪魔の横っ面に回し蹴りを叩き込んだ。
悪魔の身が宙を回り、地面を転がる。
少女は悪魔の身体が地面に倒れこむのを見届けた後で、後方に飛ぶようにして悪魔との距離を更にあけ、倒れこむ悪魔の姿を見据えた。
「まだやれるでしょう? どうせ負けるとは言え、全力を尽くした上で負けるのと、出すことなく負けるのでは、充実感が違うわよ。それとも、もう限界なのかしらね」
「……っ!」
少女の嘲笑を受けて、悪魔はゆっくりと立ち上がる。しかし、もはや剣を構える余力すらないのだろう。立っているだけで精一杯という様子だった。それでも視線だけは強く、少女を睨みつけている。
「どういう、ことだ……? 先ほどまでと、動きが全然違うじゃないか」
「あは、そりゃ当然。手加減してたもの。主人公としての能力という形でね。負けちゃったから制限外したの。ただ負かすためだけに、加減なく力を使えば、当然のようにこうなるわ。それにしても、手ではなく口が出るということは本当に限界なのね。打たれ弱いにも程があるんじゃないあんた」
少女は呆れを含んだ笑みの吐息をひとつ吐き、無造作に悪魔へと一歩を踏む。
悪魔はそれを見ても、動くことはない。ただ立って、少女を見据えるだけだ。
「次で三勝目。これであんたとの相対は終わりにするつもりなんだけど。何か聞いておきたいことはある?」
「…………」
「何も無いの? 残念ね。ま、別にいいんだけど。それじゃあ、あたしからあんたに三つほど要求することにしましょう」
「……要求?」
「ひとつ、あたしのことは一切口外しないこと。あたしはここであんたに殺された。だから存在しない。その前提で、これからあるだろう全ての会話を進めなさい。
ひとつ、二度とあたしに関わろうとは思わないこと。あんたはあたしが生きてることを知っている。これだけ殴られればそりゃ腹も立つでしょうけど、探そうとはしないでね。関わり合いが増えるのは面倒だし。
ひとつ、次に誰かがあんたを止めに来た時は、せめて言語で解決する努力をしてみてちょうだいな。相手が殴りに来たからって、それに合わせてたらきりがないでしょう?」
少女が悪魔の目の前に立つ。
「もし破ったらどうなる?」
「さあね。口外しようが何しようが基本は自由よ? だけど、それらを破った結果があたしにとっての実害となるならば」
一息。少女は悪魔の首を無造作に掴み上げて、その身体を持ち上げて、
「命を奪って全てを終わらせるだけよ。あたしはあたしの身が一番かわいいから」
色の無い声で宣告するように言い放ち、悪魔から手を離した。
悪魔は落とされた勢いで地面に膝をつき、咳き込む。
「言葉で誓えなんて言わないわ。結果で示して見せなさい」
少女は言って、膝を折り、悪魔と視線を合わせた上で、
「これで三勝目。――diffuse」
呟いて、その額を軽く指で弾いて見せた。
瞬間。思わず耳を覆いたくなるほど痛烈な割れ砕きの音が響き、悪魔の身体が力無く地面に倒れこんだ。
少女はその結果を見て、吐息をひとつ吐く。
「はい、終了。流石借り物、加減も完璧よね。二年くらいは今ほどの力は使えないようにしたけど。その間にまともな解決策が見つかるといいなぁ。やっぱり、至ることが可能であるなら、グッドエンディングが望ましいもの」
少女は軽く身体を伸ばして、身体に残る傷の痛みを思い出して苦笑いを浮かべた後、
「邪魔者はさっさと消えるとしましょう」
そう呟いて、その場から忽然と姿を消した。
●
「という夢を見ました」
少女は目の前に居る少年に、持参した紙束を渡しながらそう言った。
「いきなり過ぎないか。まだ読んでないから話についていけない」
目の前にいる少女の言葉に、正対するような位置に座る少年は半眼で抗議の声を投げた。
<2>
土曜日の昼時である。
広い場所だった。
リノリウムの床があり、そこから伸びる太い柱を視線で追えば、首が痛くなるような位置で天井を見つけることになる。そして、わずかに首を傾けなければ、壁と天井の境目が見えないことがわかるだろう。その床の上には書籍がぎっしりと詰まった背の高い本棚がいくつもいくつも屹立しており、その本棚によって通路や休憩所といった区画が設けられているかのような錯覚を覚える。その区画には、二桁単位のヒトが座れるような数の椅子とその人数が問題無く使える大きさの机が置かれている場所もあるし、床の上にカーペットを敷いてその上に子ども向けの玩具を用意した遊び場もあった。
――要するに図書館である。
それも、完全な静謐が用意された本を読むためだけ、作業をするためだけの場所ではなく。街における憩いの場として用意された、少し騒がしい空気で満ちる図書館だった。
そんな図書館の一角。
東側には壁をぶちぬいて大きな窓を取りつけた場所があり、その近くには子ども用の遊び場が設けられ、四人掛けの机もいくつか置かれている。
その机のひとつに、冒頭の会話を行った二人が居る。
一人は成瀬泰という名前の少女だった。
年の頃は十五か十六というところだろうか。頭に備えた黒髪は、後ろは首元の辺りで切られてそのままに、前は眉の下あたりまで伸ばして、今は花の飾りをあしらったヘアピンで左側にまとめている。その下にあるのは自信がそのまま形になったかのように大きく力のある目が特徴的な、至極真面目な表情を作っている顔である。年の頃からすれば小柄な身体に、上は黒のトレーナーに青いシャツ、下はキュロットスカートを身につけていた。
そして、そんな少女と机を挟んで正対するのは黒田宗司という名前の少年だった。
年の頃は少女と同じくらいだろう。中肉中背。黒髪黒目。少し短めに切られた髪は癖が強いのか、あちこちに向かって毛先が跳ねているように見える。その下にある相貌は整っているわけでも整っていないわけでもないが、大きな黒縁眼鏡が印象的ではあった。今の服装は白のシャツにジーンズであり、座る椅子の背には灰色のパーカーがかけられている。
黒田は成瀬から受け取った紙束に視線を向けていた。
紙束といっても、枚数はたったの六枚しかない。薄い薄い束である。ぱらぱらと乾いた音を立てながらめくり、めくっては紙面にある文字を追って読み――言うほどの時間もかけずに、また一番上の紙に視線が戻る。
そして、単に疲れただけとも、呆れているとも見える表情で溜息を吐きながら言う。
「相変わらず最後だけだな。他人に見せるなら、せめて最初から最後まで書いたものを用意するのが常識というものだと思うんだが」
「もー、読み終わってすぐの感想がそれなの?」
「これが普通の感想だ」
「気を利かせてさぁ。この部分は面白かった、とか言えないワケ? 気の利かない男はモテないのよ」
「余計なお世話だボケ」
黒田は半眼で成瀬を見据えながら、手元の紙束を視線の先に投げつける。
ぱしゃり、と。紙束がいい音を立てて成瀬の顔に当たる。そして、成瀬は痛い! と、大して痛くも無いだろうに、おおげさに声をあげた後で、ちぇーっと不満げに唇を尖らせながら椅子の背に向かって身をのけ反らせた。
「ま、相変わらずと言いつつも、こうして読んでくれるあんたには感謝してるけど」
顔からずり落ちる紙束を掴んで、続く動きで自らを扇ぐ姿を見ながら、黒田は溜息をひとつこぼす。
「読んでやってる俺も大概いい人だよなぁ……。その辺、ちゃんと自覚してくれてるなら救いようもあるよな。まだマシだ、って意味で」
「最初から最後まで書くなんて、面倒だもの。それに、あたしがあんたにしてほしいことは、この話の評価じゃあない」
「そうだなぁ。ま、ここまでは掴みだ」
いつも通りの、と言いながら黒田は成瀬の方に手を差し伸べた。
まったくまったく、と黒田の言葉に応じるように頷きながら、成瀬は掴んだ紙束を黒田の手に差し出す。
黒田は受け取った紙束を、文字の書いていない面を表にして机の上に置くと、胸元に差していたボールペンを取り出し、頬杖をついた。
「今回もいつも通り?」
「ああ、いつも通り――これを始まりとした話を書いて欲しいんだ」
「……普通、ここに続く話を書いて欲しい、とかじゃあないのかなと、思うんだけど」
「へぇ、珍しいこともあるものだ。その質問は、初めて聞く気がするよ」
「気のせいだろ。それに、言葉面の意味は変わらないだろ」
「そうかもしれない。――でもま、理由なんて単純よ。普通じゃあ面白くないじゃない。それだけ。その前の話は、あたし、知ってるんだからさ。その先、想像できない部分を見てみたいの」
「自分で考えればいいのに」
「何度も言っているじゃない。面倒なのよ。それに、あたしが考える先よりも、他の人、今はあんたが考える、その物語の先を見てみたいの。だって、その気になってもそれは見ることが出来ないものだから。今の機会を逃したら、おそらく、ね。……あたしが考えるその先は、その気になったらいつでも見られるものだし、惜しいとも思わない」
成瀬がにやりと笑って言う。
その言葉を聞いて、その笑みを見て、黒田はただ吐息交じりに肩を竦める。
黒田にとって成瀬という少女との付き合いはそう長いものではない。しかし、浅いと言うほどではない付き合いの中からも学ぶことというのはあるものだ。だからこそ、その笑みの意味が判る。
この笑みは、この少女にとっての攻撃色――踏み込むなという、警告に近いものだ。この場合は、崩すつもりのないスタンスに横やりを入れるな、とでもいうところなのだろう。それは黒田自身にもあることだ、相手にとってはここがそうだというだけの話だろう。
だから。
「……俺は俺でいい暇潰し、かつ、ちょうどいい課題になってるから、文句は無いけどさ」
黒田はこれ以上、そこに拘ることをやめた。
成瀬は口元を曲げるだけの笑みを、息を吐き出し目を細めるそれへと変化させた。
「あは、今回も楽しみにしてるわよ。たまには、少しは、成長しているところを見せて欲しいものではあるけれど」
黒田は笑みの変化には言及せず、今言われた言葉に対して嘆息する。
「これでも頑張ってはいるんだよ」
「結果が伴わないなら意味無いんだって」
成瀬がくつくつと笑う顔を、黒田は怒りを通り越してもはや呆れしか見えない三白眼を向ける。
「他人に厳しすぎる……。叩き上げで鍛え上げられるほど、俺は打たれ強くないぞ」
あら、と。成瀬は意外なことを言われたといわんばかりに目を見開いた。そして、意地の悪い笑みを見せる。
「割れたらそこまでじゃない。だから、そこまでを楽しむことにするわ」
「酷い話だ」
黒田は疲れたようにも見える仕草で、おどけるように肩を竦めてみせた。
成瀬は、そこに畳みかけるように言葉を作ろうとほんの少し椅子から身体を浮かせるが、その瞬間、
「――――」
視界の隅に小虫がちらついて、ついそちらに気がいってしまったような奇妙な間を置いて、
「さて、雑談はこの辺にして。話を先に進めましょうか」
長く、ただし重い雰囲気などは感じさせないような溜息を吐きながら、浮かせた身を下ろした。
黒田は成瀬の動作に、何をやってるんだこいつはというような視線を向けて、言葉を作る。
「……? 珍しいな。いつもは、俺がそんなことを言っている気がするんだが」
「そういう気分の時もあるのよ」
しかし、成瀬は当人としても対応に困っていることが判る曖昧な笑みを浮かべながら、肩を竦めてみせるだけだ。
黒田は成瀬の返答に釈然としないながらも、深く追求することはなく、とりあえずは納得するように頷いて見せた。
「ふうん。いいけどさ。――話を先に進める、となると、そうか、まずはこの話の前提を組み立てるところからだな」
「何から話して欲しい?」
成瀬の問いかけに、黒田はテーブルに頬杖をつきながら、手にしたボールペンで紙面を叩きつつ、
「俺もそこまで厳密に組み立てたりするのは好きじゃないんだが。ここから先を考えるなら、ここまでの道のりを説明しないと駄目だよな。あらすじでもいいから、組み立てておかないと」
成瀬は黒田の言葉に苦虫を噛んだような顔をして吐息をひとつ吐く。
「いつも思うけど、そこは気になるものなの?」
うんざり、という色を隠しもしない成瀬の言葉に、黒田は至極真面目な表情で断言する。
「書いていて、俺が面白くないんだ」
成瀬は驚いたように少し目を見開いた後で、
「なるほど。そりゃ、とっても大事なことだわ。――じゃあ仕方ない。ついでに雑把な世界観も織り交ぜつつ、テキトーに」
くっと口元を曲げた、攻撃色の無い純粋な笑みを浮かべて頷き、
「よろしく」
という黒田の言葉を受けると、椅子にぐったりと背を預けて天井を仰いで唸る。そして、しばらく考えるような間を置くと、その姿勢のまま言葉を作る。
「とは言え、そこまで語るようなところはないのだけど。箇条書きで言ってしまうならば、そうね、まずは主人公が騒動に巻き込まれ、そこでその場に居る人間に何かを見出されるの。そして、見出された価値を利用するために、主人公は騒動の渦中に引きずり込まれ、成長をし――ラスボスと戦って、死ぬ」
黒田は嘆息すると、呆れの色を含んだ声音で、成瀬の言葉に含まれる矛盾を指摘する。
「死んで無いよなこれ」
あん? と、成瀬は眇で黒田を見据えた後で、その視線を三白眼のそれへと移行させながら応じる。
「死んでるわ。主人公としての彼女は、あくまでヒトなのよ? 心臓を刺された時点で死んでいなければおかしいでしょう」
「でも生きてる」
黒田の重ねる言葉に、成瀬は反論するための言葉を作ろうとしばらく唸っていたが、やがて、頭をがしがしと乱暴に掻きつつ、吐息交じりに言う。ええそうよ、と。まずは黒田の言葉を認める形で応じると、
「生き返ったのよ。残機があったから」
降参というように両手をあげて笑いながら、そう続けた。
黒田は身も蓋も無いとしか言いようがない成瀬の反応に、内心でずっこけながら、その勢いで実際にテーブルについた頬杖をかくりと外した後で、溜息をひとつ。
「……どこの配管工だ」
とりあえず、姿勢を元に戻しつつ、黒田は成瀬の発言に思いついたままツッコミを入れる。
成瀬はふむ? と興味深そうに片側の眉尻を上げて黒田の言葉を受けると、苦笑する。
「今は配管工なんて設定どこにも残ってない気もするけれど。そもそもあれ、設定しか知らないけどさ、どうして御姫様と知り合いなのかしら配管工なのに」
黒田は成瀬の素直な反応に、しかし三白眼を向ける。
「知らんがな。そして全く関係ないところに話がいってるって」
成瀬はそうかしらねーと嘯くように呟いて、そのまま言葉を続ける。
「似たようなものだけど。まぁそういうこと。彼女は普通なら死んでいるような傷を受けても死なないという背景があった」
黒田はやれやれと肩を落としながら目を閉じて、成瀬の言葉を咀嚼するために沈黙を無理やり作った。
女子の会話というものは、どうしてこうも男と質が違うのだろうかと、黒田は思う。具体的には短絡的に終わるのと、所々情報が欠けている状態というのが気になって仕方ない。
まぁ。黒田も語れるほどに、女子との会話経験があるわけじゃあないのだが。それはさておき。
今回の話題は、物語、その主人公について。
――まずは情報の整理をしよう。
前提として、この物語はファンタジー、すなわち剣と魔法に関する話である。ジャンルファンタジー、現代もの、というやつだ。
そして、魔術、魔法という単語が出てくる物語において一番の禁じ手は、なんといっても、死なずに生きている人間が存在するということだろう。
しかし、それがアンデッドのように種族的に死んだ状態で動くことができるものであったり、吸血鬼のようにヒトにとっての致命傷――例えば頭部を吹き飛ばされるとか――が致命傷ではない生物であれば話は変わる。
それはなぜか?
答えは簡単――前提に納得できるからに他ならない。
だから、成瀬の言葉を咀嚼するためには、主人公が心臓を突かれても死なないような背景を持っていることに納得する理由を考える必要がある。
「…………」
そこまで思い起こして、黒田はゆっくりと吐息をひとつ吐く。続く動きで、相変わらず無茶な前提だよなぁと思いながら肩を落とし、成瀬の口から以前聞かされていた言葉を思い起こす。
――物語に出てくる魔術の中でそれが常識でないというのなら、物語の行間に埋もれた、出てくることのない魔術のどれかで常識的に可能ということよ。
つまりはそういうことだ。
成瀬の語る主人公は、物語における主流に沿った人間ではない。なにせ、心臓を突かれれば死ぬことを当然とする非常識、オカルトを扱う人間に対して、その当然を否定することができるのは、常識から見た非常識という枠の、更に外に在る人間でなければならないからだ。
そういう人間が物語に関わることは有り得ない。なにせ、その人間が在ることそのものが物語における矛盾であり、物語の破綻を呼ぶことになるからだ。
だから、と黒田は思考の結果から、話を進めるための言葉を作った。
「じゃあ、主人公が騒動に巻き込まれるところからが嘘か」
「嘘とは失礼な言い方ね。演技よ、演技。万能で強力なキャラクターは、トリックスターっぽい役回りにはなれるけど、主人公にはなれないから。制限をつけることでそれっぽいところに落ち着かせていたのよ、立ち位置を。だけど、その立ち位置は心臓を刺された時点で終わってしまった。だから、元の立ち位置に戻った」
同じことだ、と内心で考えつつ、黒田は対応に困ったように苦笑を浮かべる。
「厨二くさいなぁ」
「いいじゃない。誰しもが、うんざりするほど大好きなものでしょう」
「まぁ俺も大好きだが。それで、その主人公がそんなことをした理由ってのは何だ?」
「そんなことって?」
「わざわざ能力に制限をつけて、面倒なことをしてその騒動に関わった理由だよ。ラスボスを一蹴しちまえる程度には最強なんだから、それこそ、厨二っぽい展開が大好きなら、最初っから全開で叩き潰せばいいんじゃないか?」
成瀬は黒田の言葉を聞いて、一瞬何を言われたのか判らないというような顔をして見せると、心底馬鹿にするかのように鼻で笑い、そして言う。
「馬鹿ねぇ、心底呆れるわ」
黒田は成瀬の言葉を半眼で受け流し――切れなかった。
「あん? いきなり罵倒とは喧嘩売ってるのかコラ」
「売ってあげてもいいし、買って貰っても、あたしは構わないけど。あんた文化系だから、あたしの圧勝で終わりでしょ。損するのはあんたよ。――呆れたのは、ただ叩き潰せばいいという思考に対して。確かに厨二は好きだけど、あたしはそれを好んで書きたいとは思わないの。ま、結局見る面次第では、ジャンルファンタジーってのは大抵厨二に該当するような気はするけれど。持論はさておき。あたしが書きたいのは、主人公になりたくて仕方ない人間なの。この話で言うところの彼女は、主人公の立場、役柄を体感したかったがために、この騒動に関わった。ハッピーエンドにすることは出来なかったけれどね。少なくとも、序章か、本章の過去話程度には活躍できたというところなのかなぁ」
書きたいって他人に書かせてるじゃねーか、とは今更なのでつっこんではいけない。
「ふぅん。まぁ主人公についてはなんとなく判った。それで、この騒動の中身についてだけど」
と、黒田が話を振ったところで、成瀬は突然脱力して椅子に身を沈める。それはもう、これ以上ない脱力っぷりで、背もたれの向こうに首をかけて頭を椅子の背の向こうに落とし込むくらいだった。首痛くないのか。
その状態で、成瀬はだるだると手を振りながら言う。
「ありがちで、ガチガチで、イメージで、まとめてくれていいわよぉ」
「面倒くさがるなよ……」
それもそんなに態度に出しながら、と黒田は呆れを通り越して逆に驚愕しつつ肩を落とす。
しかし、そんな黒田の言葉も声音も態度も斟酌せず、態度を変えることなく、成瀬は言葉を続ける。
「どうでもいいもの。世界観そのものは、大して意味ないし。言ったでしょう? あたしが書きたいのは主人公になりたくて仕方ない人間だって。それだけ、それだけが書ければいいの」
成瀬のあまりと言えばあまりにも身勝手な言葉に、黒田はほんの少しむっとしたように眉根を寄せた後で、大きく息をひとつ吐くと、
「……おまえはそうでも俺は知っとかないと駄目なの。おまえが書きたい話を俺に書かせる時点で大概本末転倒だと思うが、それでも書くんだから、教えろや」
眉根を指で揉みほぐしながら怒気を収めようとして失敗した感じの口調で声を投げた。
露骨に怒気を示したからか、それとも、しつこく食い下がる姿勢に折れたのか――成瀬は態度を変えないまま、ぽつぽつと、黒田の言葉に応えるように話を始める。
「仕方ないわねぇ。……何度も言うけどありがちな設定よ。前提としては、剣と魔法の物語、それを現代風にアレンジしたやつ。最近流行りよね? 最近というほどでもないくらい、使い古されたものかな。どちらでもいいけど、その上で、話をしましょう。
あるところに、ヒトではあり得ないほどの大きな魔力を扱うことができる、強力な種族がいました。彼らは、昔から居て、ヒトの勢力が増したこの社会に溶け込みながら暮らしています。彼らは別段気性が荒いわけでもなかったから、姿形をヒトに似せて暮らしていたのです。そして、その事実を知っている一部のヒトはこう考えます。彼らはヒトより強いから、危害を加えようと動かれたら、ヒトでは彼らを止められないと。だから、そんな奴らはこの世界から消してしまおうと。その思想を基に、ある組織ができました。組織に所属するヒトは、彼らほどではないけれど、一般人よりは大きな魔力が扱える。だから、集団で少数に襲いかかれば彼らを死に至らしめることができるのです。そうして、彼らは同胞をヒトに処分されることが多くなってきました。だから、彼らも自分の身を守るために団結し、対抗します。やがて力は拮抗するようになり、末端の小競り合いが延々と繰り返される日常ができあがったのです。以上」
「うわぁ、やる気ねぇええええ……語り口テキトーすぎるだろ」
「まぁこんな感じよ。こんなの、ファンタジー要素を抜いたらどこでもやってることでしょ。警察と一般人と犯罪者の関係を、それぞれ置き換えただけだもの。ありがちすぎて笑えるわ」
「身も蓋もねぇな!?」
黒田のツッコミに、成瀬は脱力した状態からゆっくりと首を起こして黒田を見ると、
「わかりやすいのは、大事なことだと思うんだ」
「キリッとした表情で言えばいいってもんじゃねー……」
黒田の方が成瀬の言葉に酷く脱力したように、机に額を押し付ける形で俯いた。
その反応に満足したのか、成瀬はうん、とひとつ頷くと、
「他に何かご質問はございますか作家様?」
によによと笑いながら、黒田の頭の上に質問を投げかけた。
黒田は俯き加減を調整して、舐め上げるように視線を成瀬に向けながら、
「ウゼェ。あるにはあるが、どうせ聞いても、ありがちな設定よ、で終わりだろ」
舌打ちをこぼすと、再度机に額を押し付ける。
「よきにはからってくださいまし」
「それは立場的には上から目線だからな? まぁいいや。これだけ前提があって、よきにはからえってんなら適当に考えるよ」
黒田は気分を切り替えるように大きく息を吐いて、身体を起こした。
変な姿勢で身体が凝ったのか、軽く伸びをする黒田を、成瀬は笑みの視線で眺めて頷く。
「いいねぇ、いい返事が頂けて何よりだわ。そんな貴方様に、先に報酬だけ渡しておきましょう。――右手、出してくれる?」
「あん? 何だよいきなり」
突然の要求に、黒田はなんのこっちゃと首を傾げる。
成瀬は黒田の反応が遅いことが気に食わないのか、半眼で言う。
「いいから出せや」
「報酬出すって下手に出てきた癖に脅し文句って酷いな? ――わかった、わかったよ出せばいいんだろ。ほら」
「そうそう、大人しく出せばいいのよ。にしし、じゃーん、今回の報酬はなんと指輪なのよ」
口で効果音をつけながら、成瀬がポケットから取り出したのは、彼女の言葉通りにひとつの指輪だった。
「……デザイン、シンプルすぎねーか? 手抜き、というか安物というか」
黒田は成瀬の示した指輪を見て、眉をひそめた。
その指輪はどこぞの露天でさえ扱わないだろう、二束三文でやりとりされるような、よく言えば素朴であり、悪く言えばただの輪じゃねーかという位、意匠の手を抜いた代物だった。光沢から判断すると素材は銀だろうか。ステンレスということはあるまいが――
「失礼ねー。アクセサリとしては並程度よ、ちゃんと銀製なんだから。学生だもの、そんなぽんぽんと高いもの買えるわけないっしょ。つけたげるから、もっとこっちに手持ってきてよ」
「正直に言おう、要らん」
「やかましいわね。とりあえずつけて持って帰れ」
「……へーへー。わかりゃーしたよ」
黒田は大人しく、何の考えも無しに左手を差し出した。
と同時に弾かれた。方向は真下、机の方だったのでえらく鈍い音が響く。
唐突に来た痛みに抗議の声をあげようと、黒田は視線を成瀬に向けるが、
「右手だっつってんだろタコ」
弾いた手の主がえらくすごんで見せるので、悪く無い筈なのにと思いながらも大人しく右手を差し出し直す。
成瀬はうむ、と頷いた後で優しく黒田の右手をとると、その小指に指輪をはめた。
「ほれ、これでばっちし。見立ても間違いじゃあなかったわね」
「よくサイズ知ってるな……」
「見ればわかるわ」
「俺には無理そうだ。ところで、何で小指よ?」
「それくらい家に帰ってググレカス」
「おまえ俺の事馬鹿にしすぎだろ」
「ただのギャグじゃないの。親愛の証よ、あたしなりの」
「蔑みデフォなのはどーにかしてくれ。繊細なんだよ、俺」
「水につけても泡立ちそうにないけど」
「それは洗剤だろうが。そしてその聞き違いもしくは冗談はねーよ。無理がある」
成瀬は突然遠くを見て、ぽつりと呟く。
「……どうやったらこの手の感性が磨けるのかしら」
その様子は、まるで、どうやったら世界は平和になるのかしらみたいな尊いことを言っているような雰囲気ではあったが、呟いた内容はもうどうしようもない位にどうしようもなかった。
ただ、成瀬の雰囲気はともかく、発言の内容そのものに関しては激しく同意できるものだったので、
「知ってたらもう実践してるよ」
黒田は肩をすくめながら、応えるように思う処を呟いた。
「だよねぇ。ままならないわ」
言って、成瀬は席から立ち上がった。黒田がいぶかしむような視線を向け、その視線を受けた成瀬は、疲れたような笑みを浮かべながら、ポケットから取り出した携帯電話をぷらぷらと振って見せる。
「呼び出しておいて悪いとは思うのだけど。呼び出しくらっちゃったんで、今日はここまでで」
「今度埋め合わせしろよ」
「指輪あげたのに。なお集ろうとは。男の……否、人間の風下にもおけないわね」
「存在全否定か!」
「にゃはは、冗談中断下段ーっと。いやホント、悪いとは思ってるのだけど。バイトで少しヘマしちゃってさぁ。それで呼び出しくらっちゃったわけで、逃げるわけにはいかないのよさ」
「キャラじゃねーなぁ」
「君君、それは失礼というものだぁよ。あたしはね、在る程度のことからは逃げないの。ちゃんと、正面から向き合って叩き潰すわ」
「性質悪」
「ほっとけ。――ま、そうね、今度ファストもといファットフードを奢って差し上げるわ。それでいいでしょ?」
「ファストフードのほうで頼む」
「りょーかい、了解。んじゃねー」
くつくつと笑いながら頷いて、成瀬は黒田に背を向ける。
手を振りながら離れて、本棚の陰に成瀬の姿が消えるのを見送った後で、黒田も取り出した私物を片付けると、図書館を出た。
<3>
成瀬は黒田の居る席から離れると、本棚の森へと足を向けた。
しかし、その足は席を離れる際に黒田に告げた言葉を覆すように、図書館の出口とは全く異なる方向に向けられていた。
成瀬はただ延々と、棚の間にある道を歩き続ける。
棚の間は平均的な成人ならば二人――否、三人ぎりぎり横並びに歩くことが出来る程度の広さだろうか。両脇にある棚は、成瀬の背よりも遥かに高い。一番上に収まる本には背伸びをしたところで届かないだろう。そういった本を取るための踏み台が所々に設置されているので、実際よりもこの道は狭く感じられる。
成瀬はただ淡々と、棚の間にある道を歩き続ける。かつかつと床を踏む音だけが聞こえている。
右に曲がり。左に曲がり。時折何かを思い出したかのように来た道を戻って、また違う道へと入る。それの繰り返しだ。
成瀬の両脇にある背の高い棚の上部、棚と棚の境目にあたる部分には、その本棚に収まる本の分類が示されている。
歴史・日本史。歴史・世界史。雑学。医学。科学。電子工学――
「…………」
成瀬はただ黙々と、棚の間にある道を歩き続けた。かつかつと床を踏む音だけが聞こえている。
右に曲がって、歴史・日本史と示された書架の前を通り過ぎた。左に曲がって、医学と示された書架の前を通り過ぎた。
その直後に、来た道を戻ると。
歴史・世界史と示された書架の前を通り過ぎて、戻ってきた道と異なる道に入って。
医学と示された書架の前で立ち止まった。
「くすくす」
同じ道を通ってなお、違う場所へと辿り着き。違う道を通ってなお、同じ場所へと辿り着く。
ここで考えられる可能性でまず思い浮かぶのは、勘違い。
文字を読み違えた。直前の分類名を覚え間違えた。それだけのことだと。
しかし、それは十回二十回と連続で続くのだろうか?
次に思い浮かぶ可能性は、成瀬が方向音痴であること。
なるほど確かに、方向音痴であるならば、同じ場所をぐるぐると回ることはあるだろう。違う道を通ってなお同じ場所へと辿り着く、それは何度も同じ場所を通っているからこその錯覚であると言えるかもしれない。
ただ休日の昼間、子どもでさえ遊びに来るような場所で、敷地が広いとは言えヒトとすれ違うことなくそんなことがあるのだろうか? そして、足を止めた今となっては、成瀬の周囲から聞こえる音は重い無音だけだ。
黒田と二人で会話をしていた時には聞こえていた雑音すら、今はもう聞こえない。
今この場にある音は、成瀬が作る音だけだ。空気の動く音さえ、成瀬が中心となる。
「くすくすくすくす」
成瀬は薄く薄く口元を笑みの形に伸ばし、笑みの形に等しい声音を漏らした。そして、誰にともなく呟く。
「同じ道を通って尚、違う場所へと辿り着き。違う道を通ってなお、同じ場所へと辿り着く。そして、周囲に人影はなく、物音もない。――さて、そんな状況はどこにおいては常識だ?」
一息。前髪を留めるピンを外して、前髪を掻きあげ、
「物語。個人が過ごす日常とは異なる、他人の妄想の中だよ。ああ本当に、この状況は非日常で非常識だ。とは言え、売れ筋の如き魅力に富んだお話になるとは到底思えないが」
はは、と声を立てて笑う。
「ファンタジー、魔術を扱う物語では常識だよな? 人払い、それに準ずる便利なツールの存在は。一般人と、そうでない人間を線引きするために必要な舞台装置ってやつ。舞台の上ってだけで相当な効果だと思うのだけど、それは読者と役者を分けるものであって、役者同士の役割を区切る役目は持っていないんだ。……なんて、例えで考えるとえらく陳腐に見えるから不思議だよねぇ」
もしもこの場に成瀬以外の誰かがいたら、突然何を言い出すのかと思わず奇異の視線を向けてしまうだろう発言にも、応える者はない。
成瀬が髪を掻きあげた手を下げて、腰の辺りで両手を組んだ。
無音が一秒、二秒、三秒と積み重なり、
「…………」
それでも周囲に変化が起こらない事実を認めて、成瀬は組んだ両手をほどいて、表情を隠すように、その両手でゆっくりと俯き気味に下げられた顔を覆った。
髪の合間から覗く耳と指の間から見える顔の肌は僅かに赤みがかっており、体のところどころがふるふると震えている。
誰も聞いていないかもしれないのに、恥ずかしい、芝居がかった口調で放った言葉と、それを行った自分の姿を省みて、今更ながらに恥ずかしくなったらしかった。
ならやらなければいいのに、と誰もが思うだろうが、ノリと勢いに任せてやりたくなることが誰にでもあるのだった。要するにどうしようもなく処置なしで自業自得なのである。
しばらくそのままで固まった後で、成瀬は大きく息を吐くと、気持ちを切り替えるように顔を覆っていた両手で両頬をぱしんと叩いた。
ひりひりと痛む頬をぽりぽりと掻きながら、しかしどうしたものかと成瀬は首を傾げる。
「人払いを目的とした隔離だと思ったのだけど」
ねめつけるような視線でもって、周囲を観察した後で、
「似たようなものはざらにあるし、別口に絡んでいっちゃったのかしら。だとしたら面倒ねー……」
疲れたように肩を落としながら呟くと、整理しましょう、と独白を続ける。
腰のあたりで腕を組み、そのまま片腕を持ち上げて、その指先に軽く顎を乗せる。
「私は方向音痴じゃない。自覚なしの場合もあるけど、少なくとも知っている場所で迷うほどのものじゃあない。ここは知っている場所で、何度も来ている。だから、少し遠回りをして目的の出口に向かったところで迷うことはないはず。……これを前提としましょう。
前提の上で考えると、今の私の状態は、常識の上で判断できる状態ではないはず。不思議、オカルトと表現されるべき状況が現状だと判断していい。
では、ここからが推論。
まずは状況を単純化しましょう。誰かと別れた後に、日常の風景はそのままに、有り得ない――非日常そのままの状況に移行した。物語の中では冒頭でよく使われる、起承転結でいうところの起、というところかしら。現状は、知らない場所になぜか来てしまった、ではなく、理解できない状況に変化した、とか表現するべきかな。場所そのものを変質させるのは、ファンタジーじゃなきゃ無理くさいから、ジャンルはファンタジーでいい。問題は、空間的に連結した異なる場所に移動したのか、それとも、ある一定の場所を空間的に閉じているのか。前者の場合は不明瞭だけれど、後者の場合は確実にそれを行った者が居るはず」
何の確証もないんだから、穴だらけの決め付けでしかないけれど。
「似ているだけなのかしら。観察した限り、機構と燃料の印象は、つい最近縁を切った話のそれと同質だ、と感じたのだけどね」
成瀬はそこまで言って、苦笑する。
成瀬の言葉は誰かに対して告げるものではない。とは言え、その言葉の内容は、先ほど彼女が思わず恥じ入ったものと同様かそれ以上に、余人が聞いても理解不能な代物だ。
ただ。
なるほど、確かに。物語の中であれば、こういう状況に遭遇することもあるだろう。そして昨今の物語では、登場人物が他の物語に関して言及し、それと似ているといった発言を行うことそれ自体も珍しいことではなくなった。
それでも。
そんな物語の登場人物でさえ、自らの発言がそうでなければいいと疑った上で発言しているはずだ。それこそ、何を言っているのかと自身を嘲る部分をもって発言している場合もあるだろう。あくまで、彼らが行っているのは、他人の妄想を引き合いに出してかろうじて説明しようとしている、こじつけのようなものだ。
だから、成瀬のように何らかの確信をもって推論を展開する姿は異質に過ぎる。
――あくまで彼女を、一般人側の、巻き込まれる側の登場人物とすれば、の話だが。
「さてさて、どうしたものか」
成瀬はなおも無音が返る周囲に対して嘆息した後で、暇だし時間を潰す意味で本とか読んでみようかしらと本棚に視線を向けた。
そこで、
「つい最近縁を切った、とはどういう意味かな?」
不意に、どこからか声が響いた。
音源は定かではなかった。反響した結果として耳に届いたような、遠い音だ。
しかし、成瀬は迷うことなく顔を動かし、本棚に向けた視線を右の通路へ向ける。
そこには、一人の男が立っていた。
黒髪黒目。髪は短くもなく長くも無い。細面で、特に表情を変えているわけでもないだろうに、目元が笑みの形になっているような錯覚を覚える柔らかい顔立ちを、大きな黒縁眼鏡で埋めている。身に纏うのは、白と橙を基調とした装甲服だ。胴や首元といった急所にあたる部位には金属的な光沢のある部品があり、それ以外を布で繋いで覆っていた。
立ち居振る舞いに乱れはなく、その立ち姿は様になっている。平凡な、そして決して他者を攻撃する要素のない顔立ちはそこらの街角でスーツでも着ているのが相応しいように思われるが、その身は決して装甲服に着られていない。
遊びではなく本当に、装甲服を実際に用いているが故の一体感が相対する者を威圧する。その圧力は、もしも虚栄で平静を装っているだけならば、その仮面を容易く割り砕く程度には攻撃的だっただろう。
だから。
成瀬はにんまりと笑って、おどけるように肩をすくめてみせた。
「不躾ですねぇ。名乗ることなくまず質問とは。人間としての道理がなっていない」
「…………」
男はわずかに眉をひそめた。成瀬の態度をいぶかしんでいるのか、それとも成瀬の言葉を図りかねているのか――いずれにせよ、その表情が示すのは困惑の一語だ。
男の反応を見て、成瀬はにやりと口元を歪めると、
「とは言え、この場合は断じてしまうのも微妙なところですか? なにせ、互いに名前くらいは知っている筈ですもの、ねぇ?」
「……っ!」
男が苦虫を噛み潰したように顔を顰め、
「名前も知っている。顔も知っている。けれど相対が初だというのであれば、やはり名乗っておくべきでしょう」
成瀬は男の反応を無視して、優雅な仕草で一礼を行った。
「高尾良美、と名乗っておいた方があなた達にとっても都合がいいでしょう? ――はじめまして、と繋げるべきか、おひさしぶりですと繋げるべきかは判断に迷うところだけど」
「やはり、貴様はあの高尾か」
男の言葉を聴いて、成瀬は頭を上げると、右手を腰にあて、左手を自らの顎にあてて、首を傾げるようについとそらす。
「はて。あの、とはいったい何を指しているのか判断できないんだけど」
「とぼける気か?」
男の語気を強めた問いに、成瀬は焦ることもなく、むしろ呆れるように吐息を返すと、腰にあてた右手を男に示すように開き、淡々と言う。
「つい最近縁を切った、というのはここ最近の話。今から一月だか二月だか前よ」
「……何の話だ?」
脈絡もなく告げられた内容に、男は不快とさえ見える表情で、搾り出すように問いかけたが、
「とぼける気か、というけれど、あなたの言葉は要領を得ることができるほどに具体的だったの? 反応は出来ても回答は出来ない、そんな程度でしょうに。だから私はそうしただけ。それに、問えば答えて貰えると思い込んでいいのは子どもの間だけだから。いい大人なら考えてくれるかな」
成瀬は男の問いには答えず、表情すら変えずにそう続けた。まるで、男の言葉などなかったように。
馬鹿にしているようにも取れる成瀬の態度に、男は衝動のまま言葉を叩きつけようとして、
「……っ」
ふと合った視線の奥にある成瀬の瞳の色を見て、背筋につららでも差し込まれたかのようにさぁっと激情が流れ落ちて冷え切ってしまった。
成瀬は見ているだけだった。男の反応を見ているだけだった。
そこに感情はない。
そして、それから彼女は言葉を止めると、腰のあたりで両腕を組んだ。
――こちらの言葉を待っている。
それを理解し、成瀬の発した言葉の内容を咀嚼し、男は確認をとるような口調で問う。
「……先ほどの言葉は」
「質問への回答」
「問われれば答えるのか?」
成瀬はそこで表情らしい表情を作る。
「……そこに乗っているのは飾りですか?」
心底呆れた、と。言わんばかりの、落胆の表情だ。
その反応は、男の下がっていた激情を再び湧き上がらせるのに十分な挑発だった。
しかし、成瀬は男が言葉を作るより早く、射抜くように――否、男そのものをまるで見ていないような遠い視線で眺めて続ける。
「私も暇じゃないので。聞きたいこと聞いちゃってくれます? あなたが好む答えであるかはともかく、応じてあげますし」
男は喉元から出掛かっていた怒気を強く強く、時間をかけて噛み潰した後で、わずかに震えを残した声で問いかける。
「……私のことを知っていると、先ほど言ったな?」
「肯定」
「なぜ知っている?」
「……勘違いかもしれないけど。縁を切ったばかりのところで、見たことがあったから」
「質問を変えよう。君があの少年に見せていたものは、実際にあった話か?」
「……肯定」
「その話は、君が最近縁を切ったという場所で起こった出来事を書いているのか?」
「ええ。そこでの経験を元に書いたの」
「その場所と縁を切った理由は何だ?」
「書いてあった内容通りよ。私はそこで、死んだことになっているから。――こうして見つかることになるとは、あまり考えてなかったけどね?」
「やはり間違いないのだな、貴様は……!」
「やっと本題に入れるわねー、お互いに。茶番に付き合わせてごめんなさい? とは言え、こちらとしてもしっかり観察しておきたかったから。誤解をするのは、お互いにとって損でしょう。……まぁ、これでも勘違いの可能性はゼロにゃならんのだけどさ。おそらく、高確率で、あなたと私は知り合いよ。それを前提として、こちらから問うわ。
私に何の用事があるの?」
「一緒に来て貰おう!」
「でしょうねぇ。あれに書いてあることが本当なら、そうするのが当然の反応。私だってそうす――っ!?」
成瀬の言葉はそこで途切れる。
代わりに響いたのは、湿った破裂音。
同時。成瀬の右肩から鮮血が散る。
音の勢いに任せて溢れ出た赤い塊がばしゃりと床に落ちる。
「な、にが……っ」
成瀬は驚愕の表情を顔にはりつけて、右肩に開いた大穴からぱたぱたと漏れ出る血を押し留めるように左手をあてがった。
直後。
重い打撃音が響く。成瀬の額が弾かれたように跳ね上がる。
そして――光と音が空間を食い尽くした。
周囲が白く塗りつぶされたかのような光量と、感覚そのものを閉じる音の暴威が吐き出される。
無音と視程皆無の環境が数秒続いたかのような錯覚が襲う。
しかし、実際は一瞬だ。
音と光が駆け去った後には、額を弾かれた勢いで傾ぐ成瀬の姿がある。
べちゃりと湿りを帯びた音とともに、成瀬の体が床に落ちた。
右肩の傷から血がとろとろと流れ出し、床の血だまりが大きくなっていく。その赤く粘つく水面は、成瀬の体が痙攣するたびにざわつき、わずかな音を立てている。
男はしばし、床に倒れる成瀬の姿を呆然と見つめていた。数秒後、はっとしたように体を震わせると、すぐさま声をあげる。
「医療員は治癒術式、担当の者は拘束術式の施術を開始! 併行作業で行え! できるな!?」
返事はない。
ただ、男の言葉に応じるように、成瀬の周囲には男と同じ装甲服を纏った数人の人影が突如として出現し、作業を開始した。
そして、男は作業に移る姿を認めれば、作業を行う数名と同時に男の傍に現れた数名に対して声を荒げた。
「撃ったのは誰だ!?」
男の叱責に、集団の一人が身を震わせ、弱々しく声をあげた。
「も、申し訳ありません……」
男は声の主を一瞥した後で、
「支援射撃を行った者は、よく判断してくれた。……下がっていい。各々に割り振られた役目を果たせ」
それ以上言葉をかけることなく、指示を出して視線を外した。
一瞬の沈黙を置いて、各々の作業に移る。
その内の一名が、その場に残り男に進言する。
「隊長。先ほどの少年に対して、監視を手配する許可をください」
次の瞬間。
男は得体の知れない何かを感じて、身を震わせ――られなかった。震わせようとして、できなかった。ただ体が固まった。
進言をした者は、男の反応に怪訝な表情を見せたが、それでも沈黙を保ち、言葉を待った。
男はそれに構わず、そんな何かを発する原因として最も心当たりのある場所へと視線を向けた。
そこには、倒れた成瀬を囲むように、男の部下たちが作業を行っている。
その内の一人、比較的手の空いていそうな者の傍に寄り、男は声をかける。
「おい」
「何でしょうか」
「高尾良美の意識はあるのか?」
「……わずかに、あるのではないかと。現在、支援射撃で使用された制圧術式の効果でパニック状態にあった意識を、輸送のために封印作業中です。作業工程は担当ではないので判断できませんが、終わっていない以上、意識はあると判断できます」
男は質問の仕方が悪かったかと吐息をひとつ吐いて、問い直す。
「質問を変える。高尾良美は周囲に対して何かが出来る状態か?」
「……申し訳ありません。質問の意味を、判断しかねます」
「突然起き出し、動き出すようなことはあるか? 術式の使用は可能か?」
「無理だと考えます。制圧術式の効果があったことは確認済みです。パニック状態、または五感が正しく機能しない状態になっていると考えられ、その状態で物理的、魔術的な行動を即座に移すことは不可能だと判断します。加えて、現在拘束処理および封印処理中です。仮に制圧術式の効果が無かったとしても、作業工程は滞りなく進んでいるため、行動を起こすことは難しいと考えます」
「……わかった、ありがとう。作業に戻ってくれ」
男は礼を言って離れ、先ほど進言を行った者の傍へと移動する。
先ほど感じた違和感は、もうない。
ただ、だからこそ不安が募る。
――本当に作業は進んでいるのか?
不安の種は一瞬だけあればいい。発露が一瞬だけであっても、それが無視できないものであれば、その不安を勝手に膨らませてしまうのが人間というものだ。
そして、その不和を解消するために、無理矢理理由を作り出して納得してしまうのもまた人間だ。
「監視は許可しない」
男は先ほどの違和感を、無関係の者を巻き込むことに対する罪悪感によるものとして処理した。部下を持ち、それぞれを纏める者として、不安などを抱えて決定を下すわけにはいかないのだ。自らの内で、決着をつける必要があった。
「しかし、あの少年には私達のことが知られてしまっています」
「高尾良美が話した事実は、あくまで創作だ。少なくともあの少年はそう思っているはずだ。ならば、処理を行う必要もないし、監視をする必要もない」
「で、ですが……っ」
「記憶処理は、かけられる者に負担がかかる。齟齬を処理するのは彼だからだ。高尾良美と彼の関係性がどれほどのものか分からない現状で行っていいことではない」
「その関係性を明らかにするためにも、監視の許可を……っ」
「……分かった。そこまで言うなら君がやれ。ただし、非武装で、あくまで監視のみだ。調査等は許可しない。これ以上の譲歩はしない。受け入れられないのなら、この話はここで終わりだ」
「十分です。ありがとうございます!」
「君の担当作業は他の者の障害にならないよう、話し合って再配分するように。行け」
言って、男は相手から視線を外した。
気配で相手が一礼して下がっていくのを感じながら、男は再び成瀬に視線を移す。
「……本当に生きているとは」
――裏切り者。
それが、この場所における彼女の字だ。
我々を担ぎ上げ、戦争を起こし、結果として戦争は終わったが、多くの同胞が犠牲となった。
その先導者として、生きているなら罰するべきだと判断され、彼らは行動を起こすことになった。
その戦争では多くの者が死んだ。
この場に居る者の友人知人も死んだだろう。だからこそ、気持ちが逸って行動を起こした者も出る。
男も気持ちは分からないでもない――否、この場にいる者も、そうでない者も、彼らに与する者か敵対した者ならばほぼ全ての者が共感したことだろう。
だから男は独断先行とも取れる行動をとった者を咎めなかったし、周囲の者も咎められないことを不自然と思わなかった。
捕らわれた成瀬は、これから彼らに連れられて、彼らの世界で罰せられる。
「作業完了しました」
「了解した。撤退する」
拘束作業、封印作業を完了したという報告を受けて、男は周囲にそう告げる。
そして、その場から男を含めた全員がゆっくりと姿を消した。
そこは白い部屋だった。
天井は高い。その天井は碁盤目状に線が入っており、格子のいくつかが光源となって部屋の中を照らしている。天井の光を受ける床面が見せる光沢はリノリウムのそれだろう。のっぺりとした床面から天井まで伸びる壁も含めて、色彩は白一色で統一されていた。
壁際には簡素なベッドが置かれている。そのベッドの枕側となる壁際、その左横には飾り気のない棚が備え付けられており、その棚には安っぽいパイプ椅子が一脚立てかけられている。
それらを一組として、計十組が部屋の中に規則正しく並べられていた。
窓は無い。
だから、というように淀んだ空気は、しかし不潔な印象はなかった。確かに少し埃っぽさは感じるが――それを感じて余りあるほどの清潔感がある。
原因はむせ返るほどの薬品のにおいだ。特に鼻につく、消毒液のにおいのせいで、そう感じるのだろう。
おそらくここは病室の類だ。
断言しないのは、この部屋の閉塞感のせいだった。
窓が無い。あまりにも淀んだ空気。濃く重なった薬品のにおい。圧迫感すら感じる白い視界。
養生するべき人間を、こんな場所に入れるだろうか? 普通の人間ならば、ストレスを感じて治療も遅れるだろうに。
だから。
こんな場所に入るのは、治療の必要はあるが自由に出歩かれれては困る者だろうと、そう考えてしまうのも、仕方ないことだ。
実際この部屋にあるベッドのひとつを現在占領している者は、その種類の人間なのだから。
「…………」
扉から最も遠い、隅にあるベッドの上に、一人の少女がいる。
高尾良美と名乗った少女であり、成瀬奏として暮らしている少女。
彼女は今、ベッドの上でその身を仰向けで横たえている。
服装は図書館にいた時の状態から変わってはいない。ただ、トレーナーとシャツの右肩から先が破り捨てられ、その右肩から肘にかけての肌が何やら細かい文字が書き込まれた包帯のようなもので覆われている。そして、腹の上に置かれた両腕は肘から先を分厚い布ようなものできつく固められて、その上から右肩を覆うものと同じものがぐるぐると巻かれていた。
彼女の体が一度身震いをして、上半身がベッドから起き上がる。
「…………」
彼女は無言で、わずかに表情を歪めながら視線を右肩に落とし、続く動きで両腕に落として、溜息をひとつ吐く。
「流石に、拘束されるとキツイわー。というか、自由に身動きできないことがこんなに精神的にクるとはねぇ。……被虐趣味があれば別な意味でクるんだろうケド。私はそんなもん持ってないからキツイだけねー」
肩をすくめて、すくめる動きで傷が痛んだのか、上半身を折って脚の間に顔を埋めてしばらく悶えていると、音が響いた。
彼女は脚の間に埋めていた顔を傾けて、視線を音源に向ける。
音源はこの部屋唯一の出入り口であり、音は扉が開く軽い音だ。
開いた隙間から現れたのは一人の男だった。
黒髪黒目。髪は短く刈り上げられ、露になった顔立ちは厳しい。背は高くもなく低くも無いが、肩幅が少し広く、大きく見える。服装は白と橙の装甲服だと思われるが、金属部品は取り外されていた。
男は後ろ手で扉を閉めると、無言で、まっすぐ彼女の座るベッドに足を向ける。
彼女は男が近づいてくることを認めると、口元をくっと歪めて息を吐いた後で、上半身を持ち上げてベッドの上で胡坐をかいて身体ごと男に対面する。
男はベッドの傍に立つと、無言のまま、彼女と視線を合わせる。
男の見下ろすような視線を受けても、彼女は表情を変えることはなかった。
無言で視線を交わすこと数秒。
男はゆるく目を伏せて視線を外すと、
「椅子を借りてもいいかね?」
小さく息を吐いた後で、棚に立てかけてあったパイプ椅子に手を置いて、ゆるく持ち上げながら彼女に尋ねた。
「……私に尋ねるようなことではないのではないかと、思いますけど。私は気にしませんよ」
「そうか」
彼女の言葉に頷くと、男はパイプ椅子を広げてベッドのすぐ傍に――彼女と視線を合わせるような位置に置くと、ゆっくり腰を下ろした。
「私のことは覚えているかね?」
男は太腿の上に肘を置いて、手を組み、彼女から視線を外すようにわずかに顔を俯けながら尋ねた。
彼女は男の頭を見るような形になる。そして、にっと笑いながら言う。
「高尾良美の直属の上官でした。――お久しぶりです、と言ったほうがいいですか? 神田敦さん」
「……やはり君は高尾良美なのか」
「あなた達の前でそう名乗って、戦ったことがあるのは確かですよ」
「本当の名前は?」
「基本的に、成瀬奏と名乗っています。本名みたいなもんです。とは言え、呼びやすい方で呼んで貰って構いませんよ。どちらも私の名前ですから」
「では高尾君と、そう呼ばせて貰うよ」
言って、男は――神田は顔をあげた。
彼女は――成瀬は神田の視線を受けると、困ったように、曖昧に笑う。
「神田さんは変わりませんね」
「どういう意味かね?」
神田の疑問符に、成瀬は曖昧な笑みのまま首を傾げて応える。
「私を見る目が変わってないな、と。少なくとも私をここに連れてきたヒト達は、私に対して悪感情を向けていましたし、他のヒト達もそうでしょう、きっと。でも、神田さんはそんな風には見ないんですね。表に出していないだけなのかもしれませんし、私がそれと気づいていないだけなのかもしれませんけど」
「……ああ、そういう意味か。私にも周囲の者達と似たような気持ちはあるよ。ただ、あそこまで露骨に態度に出してしまうほど、強くはない」
「なぜです?」
「簡単な話だ。我々は共犯者だからだよ。例え君が我々を騙して戦争に走らせたとしても、それをよしとしたのは我々だ。むしろ、いい大人が年端も行かない子どもに大役を押し付けてしまった事実に対して、責任を感じるべきだと、そこを恥じるべきなのだと、考えるべきだろうからな。……そう思い切れないのが、未熟なところではある」
「そこまで考えられるだけ、凄いと思いますが」
成瀬が肩を竦めて――その動きで傷が痛んだのだろう、歪んだ表情を見て、神田は苦笑を浮かべながら言う。
「それに、そんなもの以上に、高尾君、君が生きていてくれてほっとした。おかげで、子どもを生贄にしてしまった罪悪感が無くなった。だからだろう」
「だからこそ憎いと思うのでは? 騙したな、とか」
「似たような気持ちはあるんだと、そう言っている。……なんだ、高尾君、君はそういう目で見られる方が楽なのかね」
「ええ、まぁ。――小物を相手にする方が楽ですから」
成瀬の言葉を受けて、神田はわずかに目を見開いて驚いて見せた後で、力を抜くように吐息を吐く。
「……高尾君。君は随分と、猫を被っていたんだな」
成瀬はにやりと笑った。
「演じているという意味では、そういうキャラクターになりきっていましたし、猫を被っていたという表現は正しいです。意外でしたか?」
「ああ、意外だ。感心もするがね」
「感心?」
「少なくは無い人間を騙しきったのだから。疑った者もいないわけではなかっただろうが、君は自らの思惑を実現した。それは感心に値しないか?」
「そこは私の判断するところではありません」
「確かにそうかもしれない。……私が感心するに値する行為だった、というだけの話だな」
「嬉しい評価です」
「行為そのものは感心できたものではないが」
「知っています。その上でやっていることですから」
「そうか」
神田は頷きを返すと、成瀬から視線を外した。
わずかな沈黙。
それを挟んで、成瀬はくっと口元を笑みに曲げて問う。
「それで、用件は何ですか? わざわざ世間話みたいなことをしに来た訳ではないでしょう?」
神田は成瀬から視線を外したまま、肩を落とすような、大きな溜息を吐いた。そして、視線を持ち上げて、成瀬と合わせると、言う。
「世間話が主な用事だ。聞き取りを行うのに適任と判断されたから、私が来た。と言っても、何を聞くべきか、具体的に示された訳ではないが」
「まぁ、処遇なんて決まりきっているでしょうから。単に順序を守っているだけですよね。相手が神田さんなのは、私にとってもありがたいことですが」
「どうなると思っているのかね?」
神田の質問に、成瀬は世間話でも振られたかのような気軽さで、軽く笑って答える。
「責任を取らせるんでしょう? 見せしめに観衆の前で首でも飛ばされるんですかねぇ。おおてりぼー」
ははっ、と声を出して笑った成瀬を、しかし神田は表情を渋く歪めながら見て、硬い声音で応える。
「そんなことはさせない」
神田の反応に、成瀬はやれやれと吐息をひとつ吐いた。
「神田さんにそんな権限は無いでしょう。……別段、気にする必要もないことですよ。例え、今言ったことが本当に起こるとしても。起こったとしても。大事なのはそこじゃあないんです」
「それはどういう――」
「世間話、と言いましたね、神田さん。でしたら、少し情報をください。質問をさせてください」
神田の言葉を遮って、成瀬は空気を変えるように、にこりと笑って言葉を作る。
気勢を削がれた神田は、肩の力を抜くように一息の間をおいた後で、成瀬の言葉の先を促した。
「……何かね」
「私が参加した戦争の、その後の流れを教えていただけますか?」
「……あの戦争は私達の勝利で終わった。とりあえずは、だが」
成瀬はその言葉だけで、ぴんと来るものがあったようだ。なるほど、と頷きをひとつ挟んで言う。
「あの子を回収したのは神田さん側だったんですね。だから私が生きていることを知った、と」
「情報を引き出した結果分かったことだ、ということらしい」
成瀬は神田の言葉に、にやりとした、口元の歪んだ笑みを浮かべる。
「どうやって引き出したんでしょうねぇ。戦争の、敗者側の、トップですからねぇ」
「手荒な真似はしていない」
「みたいですね。――とは言え、完全に拘束した上で色々と、本人の許可無く記憶を探るというのは褒められた行為じゃあないですけど。薬を使ってどうこう、よりは、幾分マシだという程度で。
……しかしまぁ、なるほど、なるほど。おおよそ考えた通りにコトは運んでいるようです」
「何?」
聞き捨てなら無いことを聞いた、と。神田は表情を歪めて、咎めるような視線を成瀬に向ける。
どういう意味だ、と視線で問われて――成瀬は瞼を下ろして視線を切ることで無視をした。そして、誰に言うでもないように、呟く。
「戦争がありました。戦争はヒトと化物の争いでした」
朗々と。
「契機は一人の人間が現れたこと。その人間は、化物に対して非常に有効な能力を持っていました。だから、それを利用すれば化物を駆逐できるのではと考えられたからです。実際に、その考え方は間違いではありませんでした。その人間はいなくなってしまいましたが、戦争はヒト側の勝利で終わります。その人間のおかげで弱った化物の首領を、捕らえることができました。
しかし、戦争に犠牲は付き物です。多くのヒトが死にました。
だから、その人間のおかげで戦争に勝つことが出来ても――その人間が嘘をついていたのなら、そこを責め立てて、戦争に走らせた悪者として、責任を取らせようとしてしまうのも仕方ないことです。生きているのなら責任を取らせようと追い立てます」
語られた内容は、会話の流れなど関係なく、内容としては聞くに堪えない作り話。
突然そんなことを聞かされれば、誰だって面を食らって呆然となるし、こう言い咎めたくもなるだろう。
「突然何を言い出すんだ、君は」
だから。
成瀬はにこりと笑って、その疑問に対して誠実に答える。
「ここまでのあらすじですよ。そこまで間違ってはいないでしょう?」
神田は少しイタイものを見るような目で成瀬を眺めた後で、嘲るような声音で問う。
「……では、その先はいったいどうなるというのかね?」
成瀬は視線の色に構わず笑いながら、そうですねぇ、と考えるように首を傾げると、言った。
「化物の首領でも逃げ出すんじゃないですかねぇ」
直後。
爆音が響いた。
――ほんの少しだけ時間は戻り、別の場所。
そこは暗い部屋だった。
広さは分からない。ただ、薄暗い中にもわずかにある陰影から、ごちゃごちゃと物が置かれていることはわかり、実際の広さがどうであったとしても、狭いという一言が第一印象になるだろうことは間違いなかった。
そんな部屋の中央――床面の、ではなく部屋という空間の中央に、ひとつの人影が吊るされるようにして見えている。
部屋中から伸びる線でぐるぐると巻かれて、その位置に固定されている姿は、この部屋に巣食う繭のようにも見える。
それは小柄だった。
繭の形を崩すように、頭部と思しき部分から方向の異なる繊維が見える。よく見れば、背中から腰にかけてのラインからちらほらと漏れ出ているのがわかる。
繭がぶるぶると、時折揺れる。
それにあわせて、じゃらじゃら、きゃらきゃらと耳障りな音が響く。
繭を形作るのは、どうやら鎖に相当するもののようだ。
そんなもので雁字搦めに拘束されて、宙に浮かせられて――中にあるものにかかる負荷はいかほどのものだろう。少なくとも、一般に知られる動物なら無事でいるはずもない。
ただ、それはふとした瞬間にその身を揺らして音を立て、自らが動けることを示していた。
他に動くものはない。だから、音を立てるようなものもない。
なかったはずだった。
そこに、ふと気軽な調子の声が響く。
「うっわ、暗いわー」
同時。
すとん、と軽い音と共に、ひとつの人影が繭の傍に降り立った。
小柄な人影だった。
「さって。姿を明かすのはもちっと後でよろしくってところで、明るくするのはナシかな」
人影はあっはーと笑い声をあげて、現れたときと同様に、とんっと軽い音と共に跳躍する。
次に着地したのは繭を繋ぐ線の内、天井から繭の背中に繋がる一本だ。
音は立たなかった。
「……どこまで封じられてるのか分からないなぁ、これ。厳密には分かる努力をしたくないだけだけど。めんどくせーし」
線の上でしゃがみこみ、顔を繭に近づけながら呟くと、やれやれと溜息を吐いた。
「ま、確かめる労力を払うよりは、直接話し合う労力の方がいいよね」
呟きを追加して立ち上がり、
「release」
同時。
周囲から繭に伸びる線の悉くが断ち切れる。
破片が散らばり、床に落ちる。
しかし音はなかった。
異質な無音。
その只中で、繭が解けて人影を為す。
その繭の肩あたりを足場にして、線から落ちることになった人影は、繭だったものから距離を離すように飛んだ。
二つの人影がそれぞれ床に着地する。
両者は十分な距離をもって相対する。
「いい加減、明かりが必要よね」
呟きの後で、変化は起きた。
空間の明度がじわじわと上がる。
どれほど暗闇に目が慣れていたとしても、眩むことなく慣れることのできる速度でだ。
光源は無い。
一般に起こり得る現象ではないが――両者に驚く様子はなかった。
空間の明度が上がるにつれて、両者の姿が露になる。
一人は少女。
血のように艶やかな赤い髪は、後ろは腰より下まであり、前髪は目を覆い隠すほど長い。その隙間から見える瞳の色は輝くような金で、その視線には、射抜くような鋭い力がある。身に纏うのは黒のチュニックに黒のズボンという黒一色の服装で、白い肌が映えている。
相対するもう一人も少女だった。
黒髪黒目。後ろ髪は首元まで、前髪は眉の下あたりまで伸ばしている。服装はやや奇抜で、右肩から先が無くなった黒のトレーナーに青いシャツ、そして下はキュロットスカートという組み合わせ。露出した右肩から先は細かい文字が書き込まれた包帯のようなもので覆われており、その肘から先は、右も左も共に分厚い布で固められていた。
黒髪の少女が、赤髪の少女に笑いながら問いかける。
「はぁい、お久しぶり。私のこと、覚えてる?」
「……ああ、覚えている」
赤髪の少女は問いかけに答えながら、ゆっくりと身構える。
「警戒されてるわねぇ。助けてあげたのにさぁ」
「貴様が原因だろう」
「まぁそうだけど。いいじゃない、助けてあげたんだし。プラマイゼロじゃん」
「…………」
「ああ、そういやお互い名乗ったこと無かったわよね。私の名前は成瀬奏よ。あんたの名前は?」
黒髪の少女――成瀬の問いかけに、相対する赤髪の少女は無言を保つ。
見ている方が気疲れするような張り詰めた緊張感を放ちながら視線を向けられる成瀬は、やれやれと肩を落としながら疲れたような溜息をひとつ吐く。
「名乗られた名乗り返すのが人間の礼儀だと思うのだけど。そう考えているのは私だけなのかしら。畜生が相手なら斟酌せずに潰せて楽なんだけどさ、実際はそうじゃないからやぁねぇ」
「……ネスティ」
成瀬の嫌味に、赤髪の少女――ネスティは舌打ちした後、構えを解いて成瀬の問いに応じた。
「はいどうも。いやー会話も出来ないのかと思っちゃった」
「何の用だ?」
「別に用は無いわよ。というかもう済んだし。あんたを解放するのが用事ね」
「……何が目的だ」
「別に目的なんて無いよ。単に、後味悪いのは嫌だから。やりたいようにやってるだけ。今の状況ならあんたを解放してやる方が気分いいの。それだけ」
「見返りは求めないと?」
「見返り、ねぇ……別に要らないわ。付き合って欲しいことはあるけれど」
「……しっかり求めてるじゃないか、見返り」
「見返りを求めてるわけじゃなくて、単なる要求。別に、私は断られたところで困らないし。むしろ、困るのはあんたの方だと思うなぁ」
「何?」
「拘束状態から解放してあげたけど。さて、あんたはこれからどうやって、ここから逃げるの?」
「……っ!」
「え、マジで考えなかったの? 馬鹿なの? それとも何、そこまで面倒見てくれるとでも思ったの? 何の利益があって私がそんなことしなきゃいけないのよ」
「…………」
「ああ、言っておくけど。私はあんたを助けに来た訳じゃなく、あんたを動ける状態にしに来ただけだから。頑張れば逃げられるでしょう? 動けるなら」
「要求を聞けば手伝うと?」
「んー、まぁ、多少は? 少なくとも、あんた一人でやるよりマシなんじゃないの」
「内容は?」
「え、決めてないけど」
「あ?」
「怖っ。……はぁ、まぁ、いいや。とりあえず付いて来てくれれば、この施設から出してあげるよ。言うこと聞いてくれるのが前提だけど」
「いいだろう」
「何その上から目線死ね見捨てんぞコラ」
「……付いて行きます。行かせてください」
「よろしい」
「……何でこんなことに」
「じゃあ、とりあえずあの扉ぶっ飛ばして貰っていい?」
「いきなり派手だな。逃げるのに目立っていいのか?」
「寄るところがあるのよ。真っ直ぐ逃げるわけじゃないの。それに、あんたが自分の意思でここから逃げ出したってことを、この施設の連中に示しておかないとね、シナリオが狂うのよ」
「ほう。なら、協力しなければ貴様が悔しがるところを見れると?」
「協力しないなら別なシナリオに分岐するだけだから別にどうでも。協力して貰った方が多少面白いとは思うけど。困るのはあんたの方だけよ」
「……はぁ、本当に、何でこんなことに」
「私が絡んだからかなぁ」
「……ところで魔術は使ってだいじょうぶなのか?」
「期間限定の主従契約だと思ってくれればいいよ。扉をぶち壊すことを許可するから、その後始末その他は任せてくれていい。許可なく何かをした場合、面倒は見ないからそのつもりで」
「……なるほどな」
諦めるように吐息を吐いて、ネスティは扉に向けて片手を向ける。
その手を中心に、輝度の高い赤い線が複雑怪奇な円陣を描き、明滅しながらその規模を大きくしていく。
その円陣を中心に空気がびりびりと振動し、秘めた熱量が空気を焦がす。
段々と明滅の間隔が短くなり、輝度が一定に保たれるようになった瞬間――弾けた。
円陣が甲高い音を立てて割れ砕け、次の瞬間、爆発する。
空気が溶けるほどの熱量が膨張拡大し、突如生まれた圧力に空気が威圧されて破裂した。
耳を覆いたくなるほどの轟音と、視界が赤く染まって消えるほどの光量が発生する。
五感が回復するまでに数秒を要した。
目の前に広がる景色を見て、成瀬は嘆息する。
ネスティの前から扉まで放射線状にあらゆる箇所が抉れ、溶けている。蒸気で溢れて、視程もまともに確保できない状態だ。
「あんたアホか」
「花火は派手な方が好きでな」
「冷めるまで動けないじゃん……。冷めるの何日後よってレベルだけどさこれ。面倒だなぁもう。――absorb」
成瀬の最後の呟きと同時、景色は一変する。
熱気が一気に引いて、少なくとも歩くのに支障はない程度に周囲の状況は収まっていた。
代わりと言うように、成瀬の右肩直上に淡く光を放つ球体が浮かんでいる。
「何をした?」
「歩けるようにしただけ。ほら行くわよ。あんまり長くは保たないからこれ」
成瀬に促されて、ネスティは渋々ながらも歩き始める。
部屋から出ると、成瀬は部屋の方に向き直って言う。
「reconcile」
成瀬の言葉が終わると同時、成瀬の近くに浮いていた光球が消えて、部屋の中が元の状態に戻る。
「行きましょうか」
それを当然として、成瀬は部屋に背を向けて歩き始める。
ネスティは部屋の内部の変化を見て、そのことに対して何かを言うより先に動き出した成瀬の背を追いながら、別な言葉で問いかける。
「……貴様、本当に何者だ?」
「魔法使い。自称だけど」
「それはあえて名乗るようなものなのか?」
「そうね。あんたらにとっては違いは無いものかもしれないわ。魔法使いと魔術師なんて、名前が違うだけで同じものでしょうし。その違いを訂正する気もなければ説明してあげる気もないから気にしない方がいいんじゃない」
二人でつらつらと並んで歩いていると、爆発音に気づいたのだろう、白と橙の装甲服に身を包んだ集団が通路の向こうからやってくるのが見えた。
「どうするんだ?」
「別に何も。むしろ余計なことしないでね」
成瀬は動じた様子もなく歩き続ける。
ネスティは成瀬の言葉に納得はしなかったものの、どうすることもできず、ただ黙って成瀬に続く。
集団と二人の距離が近づき――交差する。
しかし、集団は二人に気づかず、その上で二人を避けてすれ違うだけだった。
「どういうことだ?」
「言ったじゃない、私は魔法使いだって。そういうことよ。ただまぁ、あんたが私についてくる利点くらいはわかったでしょう。それでよしとしておきなさいな」
「……まぁ、それはわかったが」
「何か疑問でも? 道中暇だし、無駄話だろうと多少付き合ってあげるわよ。全部答えるとかそんなことはしないけど。気の向く範囲で」
「一番不思議なことは、なぜそんな格好のままなのかということだ。その気になれば、そんな拘束具取れるだろう」
「取る理由もないし。まぁ動きにくいしイラッとくるけど、今のところ抵抗する気はないという意思表示の代わりよ。それに、あんたは別だけど、他の連中は私がこういうことが出来るって知らないからさ。やるわけにはいかないの」
「油断させるために?」
「そうとも言うわね」
「いったい私に何をさせたいんだ?」
「させたいことがあるわけでも、したいことがあるわけでもないのだけど。正直ノープランで動いてるからさぁ、私」
「……そんなことに付き合わせられているのか、私は」
「いいじゃない。あんたに損はないし。どうせ後は、処刑されて終わりだし。溜飲下がるんじゃない? 私の首が飛ばされるとか銃殺されるところを見るの」
「死ぬのが怖くないのか?」
ネスティの問いかけに、成瀬は足を止めて呆れたといわんばかりの表情でネスティを見た。
「あんた、それ本気で言ってる?」
「どういう意味だ?」
「あんたは自分が負けた経緯を忘れてるの? 心臓を刺して死なない人間が、首を飛ばされたり銃で撃たれまくったくらいで死ぬと思うわけ?」
「……あ」
「まぁそういうこと。実際のところ、痛いのは嫌だし、怖いことは怖いけどね」
「なぜ?」
「猿も木から落ちるし、河童も河を流れるの。誰だって歩いてると何かに躓くこともあるでしょう。それだけのことよ」
「……なるほど」
「まぁ本当にそういう流れになるかどうかは知らないけど。一緒に来て見てくれればいいよ、一部始終を」
「何の意味が?」
「意味を見出すのはあんた。私じゃあない。ま、ここを攻め入る時の参考になると思えば、別段無為でもないでしょうよ」
「…………」
成瀬の言葉と態度に、ネスティが困惑したような表情を浮かべたところで、通路にある扉のひとつが開いて、そこから人影が出てきた。
「……は?」
その人影を認めて、ネスティはこれ以上ないほど間抜けな顔で、疑問符を浮かべる。
人影は二つだった。
ひとつは白と橙の装甲服から金属部品を取り外したものを纏った男のもの。
そしてもうひとつは、右肩から先のない上着を羽織った少女のもの。
神田と成瀬だった。
神田に先導されて部屋を出た成瀬は、出た瞬間にふと足を止めて通路の一角に視線をやった。
「どうかしたのかね?」
神田も成瀬の視線を追うように、視線を動かす。
しかし、神田はそこに何も認められなかった。
だから問う。
「何か気になることが?」
「……あの音の出所はどうなっているのかなぁ、と」
成瀬は神田の顔を見ないまま、視線を動かさずに苦笑を浮かべて神田の問いに応じた。
「私には分からない」
「情報はまだあがってきてないんですね」
「君と一緒にこの部屋に居たのでね。その内誰かが来るだろう。その時に分かる」
「教えて貰えます?」
「傍で聞いている分には止めない」
「十分すぎる譲歩です」
神田は成瀬の笑みに応えず、先立って歩き出す。
成瀬は吐息を吐いて浮かべた表情をリセットすると、神田の後をついて歩き始めた。
「いったいどこに連れて行かれるんですかねぇ」
「略式法廷の場だな」
「いきなりクライマックスだ!?」
「君に構っている暇がなくなったようだ。早々に処分を決めたいらしい」
「ま、そうなりますか」
「何が起こったのかわかっているかのような口ぶりだね?」
「大きなことが起きたのは想像がつきますから。私なんかに余力を割くわけにもいかないだろう、というのは順当な判断かと」
「そうなった結果がどうなるか、分かっているのかね?」
「温情でもないかと期待してるところですが」
「無いだろうな。……根回しをする暇もなかった」
「そうですか。なら仕方ないですね」
「…………」
「何か?」
「……いいや、何も」
「そうですか」
それから二人は会話もなく、目的の場所に向かって淡々と廊下を歩いていった。
「どういうことだ? なぜ二人居る?」
先を歩く二人の背中を見ながら、ネスティは隣を歩く成瀬に問いかける。
「傍点でも付きそうな感じの声ねぇ」
「はぐらかすな」
「素直に目の前の現実を認めなさいな」
「どうやって?」
「便利な言葉をあんたも私も知ってるじゃない」
「こんな魔術は存在しない」
「影分身の術よ?」
「……おい」
「あら、あんたもあの漫画見てる? 伝わって嬉しいわぁ」
「私の質問に答えろ」
「答えたじゃない」
「答えたことになってない」
「そりゃ、あんたにとってはそうかもしれないけど。自分で考えようとは思わないの?」
「ゆとり世代なんでな。すぐに答えが欲しいんだ」
「……ああ、そう」
成瀬はやれやれと吐息を吐くと、続ける。
「魔法と魔術は違うもの。
魔術とは、不思議や謎を扱うための技術。そして魔法とは、道理のわからない現象そのもの。これが私たちの定義。
――まずはこれを前提としましょう」
「現象?」
「結果と言い換えてもいいよ。魔術は使うものだけど、魔法は見えるもの。この前提で言えば、魔法使いという存在は有り得ない……と思うかもしれないけれど、実のところ違う。魔法とは現象なのだし、観測者が居なければ成り立たない。だから魔法の定義を別な言葉で表現できる。
魔法とは観測者が理解できない道理のことを言うの。だから、科学に対する魔術は魔法足りえる。だからある意味、魔術と魔法は同義という認識は正しい。
さて、この前提の下で魔法使いを自称する私は、どういうことが出来るでしょう」
「……どうやって」
「その理由がわからないことが魔法なの」
「……説明する気がないだけのように見える」
「それでもいいのよ。私が死なない理由は、なんだ、吸血鬼とかみたいなアンデッドだからで片付けてもいいのだし。二人居る理由は単に片方が人形をそれっぽく見せてるだけ、とかって説明してもいいんだからさ」
「実際のところはどうなんだ?」
「私は人間よ? 細工するまでもなく、どこでどういう検査をされてもホモサピエンス……サピエンス?」
「なぜ疑問系」
「いやぁ、前に読んだラノベでヒトの学術名? は、なんかそんな感じだったような気がしたから言ってみようと思って言ってる途中で自信が無くなった」
「……そうか」
「あんたらはホモサピエンスとは違うんでしょ? そういう意味では、あんたよりも真っ当なヒトですよ、私は」
「そうは見えないな。私などより、よっぽど貴様は化物だ」
「そうかしらねぇ。だとしたら、人間ってのは全員化物でしょうよ。……きゃー私かっこいいこと言ってるーテンション下がるわぁ」
「……なぁ、聞いていいか」
「何かしらん」
「何がしたいんだ?」
「どういう意味かしらん」
「自分勝手に振舞っている割には、あまり楽しそうではないな」
「楽しくてやってるわけじゃないもの。やりたいからやってるだけ」
「やりたいことをやっているなら、楽しいんじゃないのか?」
「うーん……ま、その質問には答えないことにするわ。暇なときにでも考えてみなさいな。言いたいことは色々、まだあるだろうけど。話はこれで終わり。そろそろ着くからさ」
成瀬の言葉に促されるように、ネスティは視線を、前を歩く二人に移す。
ネスティの視線で捉える成瀬と神田の後姿は、ちょうど大きな扉を潜っているところだった。
神田と成瀬の二人がくぐった扉の先は、広い空間になっていた。
内部の雰囲気は、会議室のそれが近い。
壁から一定の距離を保った位置に立派な長机が、入り口となる扉の面の欠けたコの字形に並んでいる。置かれた机にはそれぞれ、いくつかの人影がある。
人影の数は総計十三。男が八で、女が五。すべてがすべてまともなヒトの形をしており、年齢層は下は白髪が混じり始めた初老から上が禿頭に白髭を蓄えた老人までと広く、総じて高い。
そして、その誰もが黒を基調とした装甲服を着込んでいた。
神田と成瀬の二人が部屋に入ると同時、彼らの視線が成瀬に向けられる。
視線が集まったことによる居心地の悪さに、成瀬はうへぇとでも呻かんばかりに表情を歪また。
と、そこで足を止めた成瀬の肩が衝撃とともに押される。
成瀬がたたらを数歩踏んだ後で視線を背後に移せば、二つの人影を認めることができた。
男女一組。こちらは神田と同じ白と橙の装甲服姿で、両者共に、手には棒が握られている。
成瀬に棒の先端を向けているのは女の方で、男の方はと言えば、神田に声をかけて入り口傍の壁際への移動を促していた。
神田と男の様子を眺めた後で、成瀬がその両者を視界に収めつつ視線を女の方に向ければ、色々なものを押し殺して出来た無表情が見えた。だから言う。
「私の方もああやって誘導してくれればいいのに。一応怪我人なんだけど、慮っては貰えないかな」
返事は打撃で返ってきた。割と本気で。
成瀬は再び数歩をよろけるように踏んだ後で言う。
「……いや、怪我人だから慮ってというのは本音ではあるけれど。それは別として、そんな促し方じゃどちらに進めばいいのか判らないのよ、素直に。口か、その棒でどちらに進むべきか教えて貰えない?」
叩かれたことに腹を立てるでもなく、呆れたようにも困ったようにも見える表情で、自らを叩いた女を見た。
自身の行為は成瀬に何も与えていないと、そう取れる態度に、女は無表情を剥がすように、強く口端を歪めて歯噛みする。
そして、剥がれて出来た隙間から漏れる感情が全身に回って爆発する直前になって、声が飛んだ。
「下がりなさい」
老いた女の声。
その声に、成瀬に飛び掛りでもしそうな様子だった女は、一度大きく息を吐いた後で、
「申し訳ありませんでした」
声の主に一礼と共に謝罪の言葉を返して、彼女の持ち場だろう入り口脇へと戻っていった。
見れば、神田を誘導していた男の方も、女が向かう位置とは反対側の位置に立っている。
「高尾良美。部屋の中央に」
響いたのは老いた男の声。
机につく者の誰かだろうとは予想がつけられるが、その誰もに背を向ける成瀬には、どこに座る者が出した声かはわからない。
成瀬に誰がこの声をかけたのかなど興味もなく、意味もない。
ただ、
「……場面がこれでひとつ」
進む。
誰にともなく呟き、成瀬は声に促されるように、部屋の中央へと足を運んだ。