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無花果の木・第1回

作者: 南村知
掲載日:2011/05/06

 犬がまたひとしきり吠えた。今夜は、この季節にしては少し冷える。見上げると、月のない空にはおびただしい星が個性のない光を放っている。

 わたしは死のうと思う。わたしの死は、そしてとりわけわたしが自分の手で死ぬことは、あのおとこの筋書きどおりというわけだ。わたしが自ら死を選ばなかったとしても、あの大柄なおとこはわたしを殺すだろう。あのおとこが自分でわたしを殺しにやってくるというわけではない。あのおとこにとってそうする必要はない。わずかにそれらしいことをほのめかすだけ、わたしを殺すように暗示するだけで、わたしのところに刺客がやってくるだろう。わたしは、そうなるよりも自ら死を選んだほうがよいと思ったのだ。

 しかし、わたしにとってよりよいことが、あのおとこにとっても望ましいことであるのは、どうにもやりきれない。わたしが自死すれば、あのおとこは自分の手を汚さずにすむのだし、また人々への反響も一層大きくなるに違いなく、そのことは、あのおとこがこれから行うであろう様々な活動にとって役に立つというわけだ。

 そのやりきれなさが、わたしの決心を鈍らせる。用意はすっかりできている。暗くてよくは見えないが、木の枝から下がっている縄は、ひんやりとした夜の風に揺れながら、わたしの首が通されるのを、辛抱強く待っているに違いない。

 ただ、あのおとこの、剣を持った使いがあるいは来ないかもしれないのだ。その可能性が全然ないとはいえない。今夜来なければ、もう永久に来ないだろう。

 しかし、もしそうなるとして、わたしはいったいこれから先、生きてゆくことができるのだろうか。わたしが(おそらく)愛していたひとはもういない。それも、極言すればわたしが殺したと言ってもいいくらいなのだ。わたしの父母も、それに弟も、たぶんそのことを知っているだろう。まだ知らないとしても、すぐに知るようになるだろう。そんななかで、わたしは生きてゆけるだろうか。わたしは、生きる力、あるいは生き延びるための欲望をいったい持つことができるだろうか。そんなことは、できないかもしれない。しかし、あのおとこの使いが来なかったならば、少なくとも今夜だけは、どうにか生きられる。だが、あの大柄なおとこがこの時を、この夜を見逃すということは、とうてい考えられない。このような希望を持つのは、ばかげたことかもしれない。――生き延びることが、とりあえず一晩生き延びることが希望と言えるものかどうか疑わしいが。

 ああ、しかし、なんという静けさだろう。先ほどから吠えていた犬は、今は吠えるのをやめてしまった。この静けさは、わたしにとっては耐えがたい。完璧な静寂はいつもわたしをいらだたせるが、よりによってこんな夜、このような沈黙がわたしにおおいかぶさってくるとは。あの犬がまた吠えてくれればいい。静けさはどのように激しい音よりも強くわたしの鼓膜を圧迫し、死のような力強さでわたしの頭の中に入り込もうとしている。

 木、この木。わたしが、わたしを呑み込んでしまおうと押し寄せてくる静けさに耐えきれなくなったとき、いくらかでも音を出すために、叩いたり蹴ったりゆすったりしているこの木は、かつてわたしに甘い果実をもたらしてくれたのみではなく、夏のかっと晴れた日には涼しい陰を提供してくれたり、その緑でわたしの目を安らかにしてくれたりし、今もこうやって完璧な静寂を多少なりともやわらげてくれているのだが、たぶんあと少し時間がたてば、わたしの重みでたわみながら、わたしを滅ぼす役目を果たすことになるのだ。

 それはちょうど、わたしがあの時手にした数十枚の銀貨のようなものだ。わたしはあの銀貨をもてあそびながら、このきらきらした金属によって、わたしの家族もいくらか楽になるとともに、あのひとは、たしかに牢の中で不自由ではあろうが、あのひとの周りにひそかに集まっていた刃から少しの間だけでも逃れることができる、と思っていたのだ。ところが、結果はどうだったのだ。まるで違ってしまった。わたしが銀貨を手に入れたがために、その結果の一つとして、あのひとはずっと遠くのほうに、はるかかなたのほうに行ってしまった。まもなくわたしもそこへ行くのだが……。そしてわたしの家族は、また、わたしの子孫は、そのことのために長く苦しむことになるだろう。

 わたしはあのひとを弟のように愛していた。いや、正直に言おう。実の弟よりも深く愛していたのだ。――こういう言い方は、あるいは不遜に聞こえるかもしれない。とりわけ、このような事態になった今となっては。しかし、事実だ。それは、あのひとの近くにいて、あのひとに接していた女たちの感情に近いものだったかもしれない。

 もちろん、あのひとの言葉、あのひとの教えを愛するがためにあのひとを愛する女たちが多数だった。しかし、その声の調子や語る内容とはまるで反対の、青白い痩せこけた顔つきや、ほっそりとして頼りなげな体つきを、あたかも保護者のような、母親のような気持ちをもっていつくしんだ女たちもいたのだ。

わたしもそのような気持ちをもってあのひとに接していたように思う。つまり、あのひとをあたかも弟のように見守りながら、あのひとの話す言葉に耳を傾け、ともに歩き、あのひとを取り巻いて眠り、あのひとの横で食事をとっていた。

 実際、あのひとはわたしより年下であったし、また、あのひとには、どことなく危なっかしいと感じられるところがあった。あのひとはわたしより若いといっても立派におとなだったわけだが、微笑みを浮かべながらぼんやりと考え込んでいるときの表情などは奇妙なくらいあどけないもので、思わず見とれて、いつのまにかその中に引き込まれてしまう性質のものだった。

 わたしは、あのひとが少しばかり白痴に近いものを持っていたように思う。あのひとは、偽善者を攻め立てるとき以外はたいてい穏やかで、めったに怒りや悲しみなどの感情を激しく外に出すことはなかったのだが、それはおそらく、あのひとの心が、外の世界から冷たく閉ざされていた、透明ではあるが強靭な膜で包まれていたためだろう。あのひとは、自分の口で、まるで他の誰かが語るかのように語ることがあった。このようなことは、白痴によく見られるところだ。

 またわたしは、あのひとの目の光のやさしさを思い出す。あのひとの言葉がきびしくなるまれな場合であっても、その光のやさしさは変わることがなかったと、わたしは記憶している。それは、あのひとの目が常に澄みきっていたことからくるものだ。あのひとの二つの目は、みどり児の、あるいは白痴の、もしくは神の、清冽さを湛えていたのだ。

 あのひとに白痴に近い何ものかが備わっていたとはいっても、あのひとにまったく悩みというものがなかったというわけではない。そのことをわたしはよく知っている。

あのひとの悩みの一つは、自身の出生に関するものだった。

 あのひとの出生についての言い伝えは、あの大柄なおとこやその仲間たちのこのごろ特に頻繁になった喧伝によってすでに多くの人たちに知られている。しかし、一般にはまったくありうべからざるこのことは、――もちろん、そのありうべからざる点が、あのおとこたちの利用するところともなったし、また、その結果、あのひとの語ることや行動が一層神秘的な輝きを帯びることともなったのではあるが――、当然のことながらあのひとを悩ませることになったのだ。

 あのひとは、その悩みについて具体的に語ったことは一度もなかったが、そのことをこころよからず思っていたことは、わたしにはよくわかった。わたしは思うのだが、あのひとがそのことを確信したことは、おそらく一度もなかっただろう。あのひとは、後にはそのことについてあまり悩んでいるようではなかったが、それは別の、もっと重要な悩みがそれにとってかわったにすぎず、あのひとがそのことを確信したからではあるまい。あのひとが、故郷ではあまり歓迎されず、それどころか、かなりひどい扱いを受けたのだが、それは、そうした言い伝えが、あのひとの母の故郷、したがってあのひとの故郷の人たちにとって、まったく信じがたいことであったからだと思われる。

 ところで、あの男、あの大柄で色の黒いおとこが時折り口にする、あのひとの父の祖先がソロモンであり、ダビデであり、あるいはヤコブであり、イサクであるということは、そう言われているあのひと自身も明らかに嫌がっていたように、わたしとしては、二重の意味でばかげており、不必要なことと思われた。

 二重の意味の一つは、そういった遠い祖先のことは、実際に誰ひとりとして本当のところは不明であり、したがって、誰であっても、自分はソロモンの子孫である、ダビデの後裔であると主張する権利を持っている、という点だ。事実、わたしの知っている幾人かの自称預言者たちは、自分がダビデの血をひくものであるということを例外なく言い立てていたし、自分はソロモンから数えて何代目の子孫であるとまくし立てる気違いもいたではないか。

 また、このことがばかげていると思われる二つ目の理由としては、あのひととあのひとの父親とのつながりがないということ、したがって、あのひととあのひとの父親の祖先たちが結び合わさる時点がないということだ。この点で、大柄なあのおとこがあのようなことを人々に、さも重大事でもあるかのように言いふらすのは、まことに奇妙なことと感じられるのだった。あのひとの父親の系譜をたどって行けば、あるいは本当にソロモンやダビデにぶつかるのかもしれない、他のどんな人間にもその可能性があるのと同様に。しかし、それがあのひととどんな関係があるというのだろうか。あのひととその父親との間には、直接の血の連絡は、あの大柄な男とその仲間たちが喧伝しているように、ないというわけなのに。

 こういったことを考えている時、わたしはいつも心に苛立ちを覚える。それは今も例外ではない。その苛立ちは、常に心の中にとどまり、外へ出ることはなかったが、それだけに、なおさらそれはやり場のない苛立ちだった。もっとも、外へ出してみても、しようのないことだったのだろう。特に、これから死のうとしている今この時に、いくら憤ってみてもしようのないことだ。

 苛立ちが外へ出ることがなかったのは、一つにはわたしの性格のためであるが、いま一つには、そういった幾つかの虚構が、それなりに効果をあげている、あるいは、少なくとも逆効果とはなっていない、と思われたためでもある。

 神は虚構の存在だから(神が存在しないというのではない)、布教や儀式において虚構は必要悪とでもいうべきものになる。特に、その布教の最も初期の段階においては、非常に大きな役割を演じる。そのことは、わたしには理解できた。ただ、それにしても、その内容が大切になるのではないか、とわたしは考えていた。だから、あのひとの母は聖霊によってあのひとを身ごもったとか、あるいは、あのひとの父親の祖先の名前を並べて見せ、その中にソロモンやダビデがいることなどをあの大柄なおとこが持ち出してきた時には、わたしは不愉快だった。なぜなら、それらはあまりにも俗な虚構であり、そもそもあのひとにふさわしくないとわたしには感じられたからだった。そして、その虚構が逆効果となることをわたしは恐れた。――いや、半分はそれを望んでいたように思う。それが逆効果となり、そののち、それらの虚構を除いて新しい活動が展開されることを。

 しかし事態は、わたしが半ば恐れ、半ば望んでいた方向へは進まなかった。その俗な虚構は、たいした抵抗もなく受け入れられていったのだった。それはなぜだろう。あのひとにふさわしくないとわたしが感じたのは、誤りだったのだろうか。そうではあるまい。今でもわたしには、そういった虚構があのひとに似合うとは、とても思えない。結局、おかしな虚構でさえも人々に受け入れさせる何かをあのひとが持っていた、多少強引な虚構を身にまとっても不自然ではない何ものかをあのひと自身が身につけていた、ということなのだろうか。

 ところで、あのひとは、あのひとの父親を、正確にいえば母の夫を、愛していたようだったが――あのひとがその父親について語ることはきわめてまれだったが、そのまれな折のしんみりとした声の調子は実のところわたしたちを驚かせたものだった――、それは、あのひとにとっても、またあのひとの父親にとっても、つらいことだったろうとわたしには想像される。あのひととあのひとの父親とは、あまり言葉を交わすことはなく、また、「お父さん」とか、「息子よ」などと呼び合うこともなかったろう。しかし、二人の間には、こまやかでもなくうちとけてもいないが、多くの理解の交流があったろうとわたしは思っている。たとえば、幼いころのあのひとは、しばしば大工である父が仕事をしている所へ行ったであろう。そして、尊敬を込めたまなざしで、建築をする人である父親を見つめていたに違いない。

 母についてあのひとが語ることは、その夫に関して語るよりもさらに少なかったし、また、そのときの言葉の調子も、その夫に関して語るときよりも暖かいものとはいえなかった。あのひとの弟妹についても、そのとおりだった。このことは、あのひとが自らの出生にこだわっていた結果としてわたしには当然のことと思われたのだが、他の人々にとっても別の意味で、あのひとが神の子であるという意味において、当然のこととして受け取られていたようだった。

 あの大柄なおとこは、これらのことを十分に利用し、またそれだけの効果をあげたが、あのひとは、あの大柄なおとこのこのようなやり方を、直接に非難することこそしなかったものの、あまり歓迎してはいなかったようだった。それはそうだろう。こういうことは、あのひと個人の問題にすぎなかったのだから。

 個人の問題にすぎないといえば、あのひとが抱いていたもう一つの悩みも、そういった性質のものかもしれない。そのもう一つの悩みというのは、――出生の問題には関係なく――あのひとに十分な資格が、自身に神の代弁者としての完全な資質と力とが一体あるのかどうか、という点だった。

 このことに関しては、多くの人々はそれほど疑問を持つことはなかった。特に奇蹟を現実に見た人々は、完全にあのひとを信じた。しかしわたしは、あのひとは神の代理人にしてはあまりに弱々しいと感じていた。わたしは、あのひとを愛していたけれども、神はもっと強烈な存在だと常々思っていたし、今でもそう思いたい。

 ところで、あのひと自身は、自分をそういう存在だと認めることを、程度の差はあるものの、いつも躊躇していたようだった。言うならば、あのひとは必ずしも自信があるわけではなかったのだ。自分が他の人々とは少し違っていると認めることは誰だって容易なことなのだが、決定的に他の人たちとは異なっていると自覚するのは、そう簡単にできることではない。あのひとが、自分の力をいくらかでも信じるようになったのは、いくつかの奇蹟を成し遂げてからのことだったが、それでも、完全に自信を持つというところまでには至らなかったようだった。

 わたしがはじめて見た奇蹟は、今でも頭に鮮明に浮かんでくるが、ある小屋の中で足の萎えた男を立ち上がらせ、歩かせたことだった。わたしの頭に浮かぶのは主としてあのひとの表情だが、それと同時に、足の萎えた男の姿、暗い背景――それは夜のことだったので――、その中で大きく見開かれた男や女の好奇と驚きに満ちた目のいくつかも、思い出すことができる。なにがきっかけだったか、あのひとが突然その男に声をかけたのだった。それは中年の男で、もう十年余りも自分自身の足で立ち上がったことがないのだと答えていたように思う。するとあのひとは、自分を心から信じるかどうか、その男に迫ったのだった。その男はそれに対して、信じると誓った。わたしは思うのだが、あのように肉体的な欠陥があって、しかもそのことに不満を持っている人だったならば、悪魔にすがってでもその欠陥を取り除いてもらおうとするのではないだろうか。それはともかく、あのひとは、その男の目を見据えて、甲高い声で、立ち上がれ、と叫んだのだった。最初の叫び声はいくらか自信なげであったが、その男に対して、また同時に自分に対して自信を吹きこむかのように、その言葉は、二回目、三回目とせっかちに大きくなっていった。わたしもその時、その男が、歩き出せないまでも、せめて立ち上がるぐらいのことはしてくれと、真剣に望んだものだった。すると、その男は、あのひとの声が大きくなるに従って、少しずつ何かわけのわからない力によって引っぱり上げられるかのように立ち上がっていき、そして、ついには立った。その男が、妙に不自然な格好であったが――彼にしてみれば、十年余りを経て実に久しぶりに自分の足で立ち上がったのだから、その不自然さは無理もないところだった――、一応完全に立ち上がったところで、あのひとは、さらにその男に向かって、歩くように、と言った。歩け、と言ったのだったか、それとも、進め、だったのか、その点についてわたしの記憶はあいまいだが、とにかくあのひとは、「立ち上がれ」という言葉より少し落ち着いた、より自信のある調子でその男に呼びかけたのだった。しかし、声の調子はそうであるのに、あのひとの表情は、依然として、自分のやっていることの重大さからくる緊張のために、ひきつっているように見えた。一方、歩くように呼びかけられた男は、自分が誰かに支えられることなく立ち上がったということを、そのまま事実として受け止めていいものかどうかとまどっているといった様子だったのだが、あのひとの言葉を聞くと、今度は誰かがその後ろのほうから押しているのではないかと思われるように、前にぐいっとのめり、その拍子に、片方の足を前に進めたのだった。そして、その次の一声で、もう片方の足を……。立っているだけでも、まさに立つべきでない人が立っているという感じで不自然だった彼の恰好は、足を前のほうに踏み出す時もそのとおりで、まさに歩くべきでない人が歩いているというようなぎこちなさをわたしは感じたものだった。しかし、ともかくそういうふうにして、その男は自分の足で前のほうへ、一歩、そしてまた一歩と、自分自身の体を運んだ。つまり、少し前までは、もう十年以上も立ち上がったことすらなかった男が、歩いたのだった。何人かがその男を取り囲んで、祝福と驚きの言葉を発したが、あのひとはと言えば、その小屋の出入り口の柱にぽつんともたれかかっていた。ひどく疲れているように見えた。あたりはうす暗く、その表情は定かにわかりかねたが、わたしがその時受けた印象は、何かやるべきでないことをやり遂げたあとの虚脱した状態、激しい緊張の急激な解放からくる心の疲労、そして同時に、やるべきでないことをしかしやり遂げたあとに現れる満足、などであった。

 しかし、このような奇蹟を何回かやり遂げても、あのひとは自分自身に関して確かな自信を持つまでには至らなかったのだ。その証拠に、あのひとが新たな奇蹟をなそうとする最初の瞬間には、いつも自らを励ましているかのように、わたしには見えたものだった。

 あのひとは疲れてはいなかっただろうか。さまざまの苦悩や、奇蹟を成就させる時の緊張や、常に多くの人々と接触する心づかいなどのために、あのひとは疲れてはいなかっただろうか。そのひ弱な体躯と、一人でいることを好むその性格とから考えれば、あのひとは疲れていたはずだとわたしは思う。外見からはそういった様子は一切感じ取ることはできなかったが、あのひとはとても疲れていたに違いない。

 わたしが驚き、そして、あのひとはやはり少なくとも並みの人間ではなかったと思うことがあるのは、もちろんあのひとの成し遂げた奇蹟にもよるのだが、こういった点も無視できない。つまり、奇蹟の直後のひととき――人々のすべての視線がその奇蹟の対象に向けられ、あのひとには向けられていない時――、少しばかり放心の体となっているあのひとを見ることはあったが、それ以外のいかなる時でも、あのひとの表情の中に疲れを認めることはなく、逆に常にその中には柔和な光が含まれていたという点である。

あのひとはやはり人間ではなかったのかもしれない。偽善者を激しく弾劾する時も、わたしもその一員であった弟子たちに向かってきびしく教えを説く時も、町でそして野で大勢の人々に対する時も、その柔和な光が失われることはなかったのだから。


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