シネマの亡霊
高槻由梨は人生に絶望していた。そんな虚しい自分の人生を一時でも忘れさせてくれるもの、それが映画だった。彼女は時間とお金さえあれば和洋ジャンル問わず、ひたすらその世界に没入していた。そして色んな追体験をしている間だけが、生きている喜びを感じられる時間だった。
ある日、何の気なしに見た邦画。青春群像劇だったがひどくつまらなかったものの、ある端役の女優に目を奪われた。周囲の役者とは違った存在感を放ち、綺麗なその人は幾ら調べても出てこない。けれど由梨は彼女がとても気になり、他の作品に出演していないかと必死に探すのだった。
まるで恋をし始めたかのように。
暇さえあれば私は映画館に通うのが唯一の趣味だった。
目的の映画を観ると言うよりは暗い館内に座り、眩いスクリーンに没頭すると言う行為が好きだったから。なので和洋問わず時間と予算の許す限り片っ端から見ては満足していた。
映画を観ている時だけは自分の虚しい人生を忘れる事が出来た。時間にして大体二時間。その間はまるでスクリーンの中に入り込み、時に傍観者として、時に登場人物の一人として心を委ねた。胸ときめく冒険も、身の毛もよだつ恐怖も、張り裂けそうな悲しみも、心焦がすような恋愛も、どれも素敵なものだ。
だってそんな体験、自分の人生に無いものばかり。平凡な家庭で生まれ育ち、優等生ってほどじゃないけど悪い事はしてこなかった。成績も可もなく不可もなく、部活も汗こそ流したけど地区大会で余裕の敗退。恋人に恵まれず、大学進学する学費が無かったので就職。心を多少病みつつも、なんとか生きながらえている。そんな人生。
何一つ誇れることもないし、振り返っても達成した事なんか人並みのものばかり。そんな物語、何も面白くない。噛み続けて味の無くなったガムの方がよっぽど役に立っているかもしれない。
だから私は映画を観る。すると私には無いたくさんの刺激を追体験できるから。一緒に笑ったり泣いたりする度、変な話だけど生きがいを感じる。生きているんだって強く思える。ちなみにほとんどの場合、同じ映画はあまり観ない。理由は単純で、一度見てしまえば刺激が薄まるからだった。
そうして映画館を出て家に着くまで、私は満たされるのだ。
その日も私は映画館へと足を向けていた。私が主に行くのは街の中心部にある大きな映画館ではなく、少し外れにある小さくて古い映画館。もちろん大きな所にも良い部分はたくさんある。最新の映画はすぐ見られるし、音響も良ければシートも気持ち良い。4DXなど体感できる映画はより没入感を増してくれるし、スクリーンの端が気にならないような大画面も魅力的だ。
ただ小さな映画館はそこ独特の魅力もある。大手がやらないようなややマイナーなラインナップも豊富だし、多少安いし、何より人が少ない。暗い館内だとしてもすぐ目の前に誰かの頭があったり、話し声や物音などがあれば没入しにくいからだ。
バスを降りると私は少し歩く。今日は休日、陽もまだ高い午後三時。春の陽気に私の足取りも心なしか軽い。ほんの少し前までは寒さ厳しく、ショートブーツを履いて過ごしていたけど、今はスニーカー。気楽で、軽い。風が吹けば少し埃っぽいけど、それもまた春なのだろう。
目的の映画館は昔流行したようなゲームセンターと併設されている。このゲームセンターも結構レトロな感じで、今風のプリクラや音ゲーなんかは無く、あるのはほとんどが筐体の前に座ってソロプレイや対戦ゲームをするようなものばかり。隅にはメダルゲームやパチンコ、パチスロのようなものも置かれている。店内もどこか薄暗く、私も一度どんなものかぐるっと見ただけで少し怖くなって出てきてしまったので詳細は覚えていない。ただ若い人はほとんどいなかったように思う。
映画館に入るとすぐ所狭しとポスターが掲示されている。角がめくれて変色して年季が入った物から、そこそこ新しい物まで色々。私はあらかじめ決めて観る事はほとんどしない理由がここにある。雑多なポスターと上映時間を照らし合わせ、掘り出し物が無いかと探すのもまた面白いのだ。
もちろん、イマイチわからなかったな、楽しめなかったなというものはゴマンとある。でもそれは作品がつまらないんじゃなく、私に楽しむ素養が無かっただけだろう。私は批評家ではない、楽しませてもらう側の人間だ。私が苦手でも誰かの好きになっているはずで、それを否定するのは良くないと思ってる。
これからすぐに見られるものは三本。一度観たハリウッドの大作映画とまだ観ていない数学と友情がテーマのインド映画、そしてこれまた観ていない青春群像物の邦画。一度見たのはとりあえず除外し、どちらでも良かったのだが何となくで青春群像物の邦画を観る事にした。
以前は映画を鑑賞する際にフードやドリンクを購入していた。映画館で映画を観るというのはレジャーなので、定番の楽しみ方が一番良いのだろうと思っていたのだが、今はもう何も買っていない。割高だとか美味しく無いとかじゃなく、単純に映画に没入するのに邪魔だなと思うようになっただけ。
ポップコーンもフライドポテトも、各種ジュースも私は好き。だけど食べて飲んで観ているとそれに気を取られ、没入しても意識が中断してしまうため、気付けば買わなくなった。今ではせいぜい、観終わった後にコーヒーを買って余韻に浸るくらい。
「すみません、十六時上映の『私を見た空色の瞳』一枚下さい」
チケットを買うと上映までもう少し時間があったけど、私は早々にシアターの中へと入った。トイレはまだ遠い感覚だったし、グッズにも興味がない。これはどちらかと言えば生活に迫られての事で、まず色々雑多に観るのでパンフレットだけでも膨大な金額になってしまうし、置く場所も無い。それに何よりグッズ一つ買うより、一本でも別の映画を観たいから。
チケットを買う時にも思ったけど、全然人がいなかった。上映十五分前だけど、シアター内には私と席を離れてもう三人だけ。確かにあまり聞いた事が無い映画だからなのかもしれないし、もしかしたら上映終わり間際なのかもしれない。でも私には関係ない。むしろ終わる前ならば、その前に観る事が出来たのだから幸運なのかもしれないとすら思える。
時間になっても入場してくる人はさほどいなかった。そしてスクリーンが明るくなり、物語が始まる。
内容は高校生の女の子がスポーツ特待生として入学したものの、怪我によって部活を辞めざるを得なくなり、次第にやさぐれていくけれど、友達や姉、そして気になっていた男の子によって前向きになって大学受験を目指して合格するというお話だった。あまり聞いた事のない俳優に監督、だからなのかカメラワークも今一つだったし、演技の方も怒鳴ると言うか強い口調が多くてやや疲れてしまう。
シナリオの方も青春の眩しさというよりやや退廃的な空気が強く、テーマとあまり合っていないようにも思えたし、何より登場人物の主義主張が薄かった。それがまだ成長しきっていない高校生を表しているのかもしれなかったが、それにしても突然落ち込み、一言二言で立ち直り、また些細な事で挫折しての繰り返しだったので展開についていくので精一杯。それに演技もそうだけど、何もかもが一本調子。
なるほど、これは確かに売れそうもないし、この人数なのも納得だなぁ。
それでも青春の中でもがき、悩み、前に進むというテーマはありきたりながらも応援したくなるものがあったし、中盤ですごく惹かれた女優さんがいた。
それは主人公の友達の一人という役回りで、登場シーンもそう多くなかった。名前を呼ばれていたのかも怪しい。けれど透明感のある容姿と声、そして役柄とは言え博愛的な優しさに私は釘付けになった。ほんの少しの出番だったけど、まるで場違いのような存在感がそこにあった。
観終えた私はシアターから出ると映画館を後にし、近くのカフェに腰を落ち着ける。そうしてスマホであの映画を検索し、例の女優が誰だったのかを調べ始めた。だけど主要キャストには載っていないし、幾ら調べても出てこない。一応エンドロールにも目を通していたけど、その他大勢みたいな部分に名前が載っていたので誰が誰だかわからなかった。
普段ならコーヒーを飲みながら今日観た映画について色んな事を考え、浸るのが趣味なのだけど、今日に限ればそんな余裕は無かった。だってあれだけの存在感のある女優さん、きっとどこか他にも出ているはずだから。
ただ、あの映画がマイナー過ぎるのか口コミもほとんど無ければ考察サイトのようなものも無く、調べる手立てがなかった。年齢から言ってきっと若手の女優、それも駆け出し。私にわかるのはそれくらいだった。でもこんなの、何もわかっていないに等しい。
コーヒーを飲み終え、私は家に帰る道すがらもずっとあの女優さんの事を考えていた。私があれほど気になるのは珍しい。演技こそそんなに上手ではなかったけど、でも確かに光っていた。あの映画で唯一と言っても過言じゃないくらい。でもどんなに調べても出てこない。みんなの眼は節穴なんだろうか。
こうなったらもう一度観るしかないか。それなら手掛かりもつかめるだろう。
翌日、仕事終わりにまた例の映画館へと足を運び、チケットを買った。少し遅い時間だからか、今日は私を含めて五人と昨日よりは入っている、それでも百人近く座れるだろうシアターはガラガラで、いつ上映中止になってもおかしくない。これでもしそうなったりでもすれば、もう二度と彼女を見つけられなくなるだろう。
だからもう、私は彼女が出てくるシーンに集中した。ぼうっと中盤まで見て、あぁやっぱり私にはあまり合わない映画だなと改めて思う。そうこうしているとやがて彼女の出番となった。
「エミなんて何がわかるのよ。こんな私なんかをさ」
「わかるよ、辛いことくらい。そのくらい私にだってわかる。だからほら、立ってよ」
他の友人に混ざって彼女が言うのはこの台詞だけだった。あとは遠い位置で立っていたりするシーンもあったが、台詞は無い。でもやはり今見ても、素晴らしく綺麗で透明感があり、優しい目をしていた。
ただ、エミという役柄の名前だけはわかったのが唯一の収穫。
やがてエンドロールが始まり、私はその他大勢の中で女の子の名前を極力覚える。相川美月、吾妻聖良、木野美琴、庄司雪奈、津田遥、南条ゆかり、本井和葉。もっといたかもしれないけど、とりあえず覚えられたのはこのくらいだった。私はそれを必死に頭の中でリピートしながら足早にシアターを出てすぐさまスマホで検索する。
相川美月、庄司雪奈は事務所に所属していたからか、顔画像つきで調べる事が出来た。けれど彼女達では無かった。他の子は調べてみたものの、検索しても見つからなかった。もしかしたらまだ事務所に所属していない、個人勢なのかもしれない。
結局前進したかに思えたものの、やはり何もわからないまま。おまけに見落としている名前があったかもしれないので、残りの五人だけではないのかもしれない。私は溜息をつくと館内でカフェラテを買い、一人片隅でゆっくりと飲む。私らしくない映画鑑賞に疲れてしまったものの、でもこれはこれで違う楽しさがあるのは事実だった。
それに、人にこの気持ちを話せば気持ち悪いと思われるかもしれないけど、どこか恋に近いのかもしれない。
あぁそうだ、愚かな事に私はスクリーンの彼女に恋をしてしまった。そうじゃなきゃ、こんなにも真剣に熱意を持って探そうとしたりはしない。あの姿に心奪われ、あの声に脳を焼かれ、あの目に虜にされた。自分の楽しさを捨て、彼女の事を求めるだなんて愛や恋じゃなければできない。
だから会いたい。それは何も直接ではない、そんなのは無理な話だ。わかってる。だからせめて他の作品に出ているのか、これがデビュー作なのか、それを知って他の偉大な俳優達と同じように応援したいだけ。
けれど見つけられない、会えない。もう諦めればいいのに、それすらできない。何かしらつかみたい、このまま迷宮入りは嫌だ。だけど無情にも何をどうすれば良いのか良い案は一向に出ず、悶えて苦しむだけ。でもその苦しさは受け入れられる苦しさ。
あぁだから恋なんだ。それ以外の言葉で表せるものじゃない。
それから私は毎日、その映画を観るために例の映画館へと通った。三度目、四度目、五度目と回数を重ねてもやっぱり掘り下げるべき所は無いし、相変わらず彼女は綺麗。実はここ二回ほど、彼女の出るシーン以外はさして集中していない。出てきた時にその特徴を覚え、後で調べるためだ。
エミと呼ばれた女の子は身長160センチくらいの痩せ型で、髪型は黒髪のロング。顔はそれなりに整っており、右目の所に泣きぼくろが小さくある。ただ髪型や色は幾らでも変えられるから、あまり参考にはならない。そしてエンドロールで確認した他の名前も幾つか調べて見たけれど、やはり出てこない。
やはり無理なのだろうか。もうこの映画を見て得られる情報は無いのかもしれない。それでもまだ発見が眠っているのかもしれないと思い、とりあえず私は係員の人にいつまで上映しているのか訊いてみる事にした。
「あぁ、その映画でしたら今日でもうおしまいですよ。今後については予定がありません」
四十半ばくらいの落ち着いた女性の係員は丁寧にそう告げてきた。彼女に何の罪も無いのだけれど、思わず見るからに落ち込んでしまう。申し訳無さそうな顔をさせてしまったけど、まぁでも不人気だし仕方がないとも思ってしまった。
あぁしかし私はこれで手掛かりを失ってしまった。思えば虚しい日常を忘れたいがために映画を観ていた私が、映画によって虚しい日常を強調されるとは思わなかった。私がこの映画で得たものは虚しさと恋にも似た焦がれだ。
意気消沈し、映画館を出た時にはもう真っ暗だった。曇天の夜が月をも隠し、重い春の夜が私を包む。得られたものよりも失ったものの方が多い映画の帰り道は辛い。お腹も空いたけど、帰ってから何か作るのも面倒臭い。でもスーパーに寄ってもこの時間ならもうお弁当もあまり無いだろうし、外食にしようにも何を食べたいのか決まらない。
モヤモヤしながら足取り重く歩いていると、ふと少し先に気になる人がいた。
その人は街灯から少し離れたバス停でもない場所に立っており、ぼうっと月も星も見えない夜空を見上げているようだった。人間生きていれば物思いにふける事もあるだろうと思いながら近付いていくと、私は目を疑った。
え……あの人、映画に出てたエミ?
似ていた、とてもよく似ていた。本人なのかもしれない。でも、まさかこんな場所でこうしているわけがない。私はきっと求めすぎて幻でも見ているのだろうか。ただ時折抜ける夜風は冷たく、その人の長い髪も揺れていた。
歩く速度を少し落とし、考える。声をかけても良いのだろうかと。もちろん同性とは言え知らない人に話しかけられたら警戒するだろうし、逆に私が面倒に巻き込まれるのも怖い。他人の空似だと思って通り過ぎるのが最も良い方法であるのは間違いない。
「あの、すみません」
けれど私は一縷の望みに賭けた。もし人違いなら謝ってすぐ立ち去ろう。ただもし本人だとしたら、もう二度と出会えないだろう。どうしてこんな所にいるのかわからないけど、それだって運命なのかもしれない。
「はい、何でしょう?」
いぶかしんだ顔をこちらに向けた時、私は更に強い確信を得た。右目の下の泣きぼくろ。映画に出ていた時より少し大人びた感じがするけど、ここまで一致していて他人だった方が珍しい。はやる心を抑えながら、私はゆっくりと口を開く。
「あの、もしかして『私を見た空色の瞳』に出演されていたエミ役の方ですよね?」
その言葉を伝えた時、彼女は大きく目を見開き口元を手で押さえた。そして周囲を少しばかり確認してから再び私の眼を見て、こくりと小さくうなずく。私はもうこの大当たりの瞬間に大きく飛び跳ね駆け回り、大声で叫びたい衝動に駆られたけれど自分の柄ではなかったし、何より迷惑になるからやらなかった。それでも嬉しさで緩んだ顔までは自制できない。
「あの、私あなたのファンで。すごく素敵な人で存在感も際立っていて、もしよろしければお話を聞かせていただければと思いまして」
「ありがとうございます」
そう言う彼女はうつむき、照れているのか気まずそうにしていた。それがまた可愛いのだけど、少し冷静になれば確かにこんな往来で見ず知らずの人にファンだの何だのと言われるのは恥ずかしいかもしれない。
「あの、観て下さってありがとうございます。私も知り合いじゃない人で観たって人に会えたの初めてで、嬉しいです。もしお時間があれば、少しお話ししていきませんか? すぐ近くに私がよく行く喫茶店があるもので、そこで」
「是非お願いします」
願ったり叶ったり、夢のよう。私はこの夜、生れて初めて自分の手で人生の主役になったような気分だった。大きく頭を下げて精一杯笑う私に、彼女はやや引いている感じもあったけど、まぁきっとどんなスターであってもファンの前だとこんな感じなのかもしれない。だっていきなり熱量をぶつけられるのだ、予告も無しに。
私達はそこから少し歩いてから路地に入り、どんどんと住宅街の中へと入っていく。大通りからは割と離れてしまった上、この辺は古い建物が多くて何だか薄暗い。あまり知らない場所なので段々と不安になっていくけど、すぐ傍にずっと捜していた人がいる。その人とお話が出来るという期待感の方が若干上回っていたので、留まれた。
「ここです」
彼女が立ち止まったので私もそちらへ目を向ける。そこは良く言えばレトロ、ありのままに言えば昭和の遺物のような喫茶店だった。枯れた蔦が絡まって外壁と同化し、入口に置いてある植木鉢もこまめに手入れをされているようには見えない。夜なのでハッキリとはわからないけど、見た感じは建物自体も相当古そうでオシャレな感じはしない。ただ、店内はぼうっとオレンジ色に明るく、まるで私達を誘っているかのようだった。
けれど、この中に入るのかという若干の嫌悪感が二の足を踏ませる。
それでも彼女は意に介さないようにドアを開ければ、まるで映画のようにカランコロンとドアに備え付けられていた心中のベルが大仰に鳴る。それまでずっと静かだったので、私は思わず首をすくめ周囲を見回してしまう。
「いらっしゃいませ」
奥の方から老いてしゃがれた声が聞こえた。目を遣れば白髪の店主らしき男性がしわだらけの顔を少し微笑ませていた。けれど彼は立ち上がろうともせず、座ったまま私達を一瞥しては手元の小説を読み始める。好きな所に座れと言う事なのだろうか。見れば他に客も見当たらない。
「ここにしましょうか」
戸惑っている私を彼女は中間くらいの窓際の席に案内すると、腰を落ち着けた。するといつの間に準備していたのか、音もなく店長が近付いてきており、サッとお水を二つ置く。驚きのあまり声が出そうになったが、店長は意に介さずまたすぐに奥へと戻る。
とりあえず私達はホットコーヒーを注文し、お水を一口。店内は外装よりもずっと綺麗に保たれており、よく見ればオシャレだ。窓の上部にはステンドグラスがあしらわれており、店内も所々痛んでいるとはいえライトブラウンの木材で統一された造りになっている。照明も花が咲いたかのようなガラス工芸なので、華やかだ。
「それで、よく私があの映画に出ていたのわかりましたね?」
沈黙を嫌うように彼女が切り出すと、私の中で夜の闇に押さえつけられていた心が一気に溢れ出す。
「はい。あの映画を見ていて、一番気になったのがエミ役のあなただったんです。登場シーンはあまり無かったと思うんですけど、でも誰よりも輝きを放っていました。透明感があって綺麗で、落ち着いた声。それは実物を目の前にしても変わりありません」
一気にまくし立ててしまったせいか、彼女が気まずそうにうつむいてしまう。けれど今まで我慢してきた私の心はもう火が点くと止まる事を忘れ、どんどんと溢れ出る。
「あの、正直に言えば名前も分かりません。エンドロールを幾ら見返してもわかりませんでしたし、主要キャストの他で出る名前を検索してもあなたの事がどこにも載っていなかったから。個人でやっているか、まだ事務所に入っていないかとは思っていたんですけど、もう見当もつかなくて。それで今日また観ていたら、どうも最終上映だと言われて途方に暮れていた所に、まさかまさかの出会いで」
「どうして、それで私だってわかったの?」
「最初は似てるなぁって程度だったんですけど、その泣きぼくろが印象的で」
そっと彼女がそこを触れる。その仕草だけでもう美しい。
「だからその、失礼なんですけどお名前を訊いてもよろしいですか」
「……私の名前は吾妻聖良。あの映画でもその名前で参加させてもらっていたわ」
吾妻聖良、確かにその名はエンドロールにあった。私はいよいよ本人だと確信し、頬がさらに緩んでいく。
「ありました、確かにその名前。うわぁ、本当にもうお会いできて嬉しいです。私、高槻由梨と言います。あの映画は六回観ました。ちゃんと通して見たのは二回、あとは吾妻さんの出番を見たくて。もう本当に魅力的な演技で、すごく惹き込まれました。他の役者さん達ががなるような演技の中で、吾妻さんは落ち着いてなだめるようだった」
「あれはその、役柄がそうだったから……」
「でも、それをキチンと出来ていたのは吾妻さんくらいでした。青春群像劇がテーマの作品でしたけど、感情の発露を大声や勢いだけで表現している感じがしてもったいないなぁと思う中で、吾妻さんの演技は良い意味で我を貫いていて素敵でした。これはもうきっと、確固たる役柄への信念だと思います。そうじゃなければ、あの映画はもっとみんな融通のある演技になっていて、印象が変わったはずですから」
そう、あの映画でもったいないのは吾妻さん以外がほぼ一本調子なのだ。だからこそ吾妻さんの演技が余計に光り、清涼感を持たせていた。
「本当にあれを見て私、心奪われまして。それでその、もしよろしければ今後の活動なんかを教えていただけないでしょうか。映画でも、舞台でも。あ、もちろんお答えできる範囲でかまいませんので」
わずかながら身を乗り出そうとしたところ、店長がコーヒーを運んできたため遮られた。私達はそれそれ手元に寄せる。そうして一口飲もうとしたのだが、熱そうなのでやめた。吾妻さんもそれは同じみたいだった。
「今はね、もうやってないんだ。そういうの」
耳を疑った。やってないって何? そういうのって何? 様々な疑問が浮かんでは通り過ぎ、また少し形を変えて浮かぶ。だから質問をしたのは冷静に選んだわけではなく、もう本当に無意識のようなものだった。
「それって、どうしてですか?」
「簡単な事よ、才能が無いから」
寂しそうにそう吐き捨てると、わずかな沈黙が流れた。しかしそれを嫌ったのは吾妻さんの方で、ふうっと優しく冷ましてからコーヒーカップを軽く傾けると小さく笑う。
「私ね、小さい頃から映画に出てみたくて自分なりに演技の勉強をしていたの。学生時代は演劇部に入り、更に演技に磨きをかけた。何となくやっている子と違って練習している時間が違ったから、それはもうレベルが違っていたと思う。でも楽しかった。色んな事があったけど、みんなで一つの劇を作る楽しさはやっぱり格別だったの」
演劇の事はよくわからないけど、でもそういう自信というのは演じる上で大切なものなのだろう。委縮せず、伸び伸びと表現できる方が観ている者を惹きつけるだろうから。
「高校を卒業してからは小さな劇団に所属したんだけど、そこで私は壁にぶつかったの。当たり前だけど劇団に来るような人達は部活なんかと違って熱意も努力も才能も桁違い。色んなものが足りないと思い知らされたけど、でも諦めなかった。それはきっと『才能があるから』なんて周りに言われていたからだと思う。優しい嘘なのかもしれないけど、私はそれを支えにずっと頑張った」
絞り出すような言葉は聞いている私を苦しくさせる。才能があるなんて言葉、私は言われた事が無い。羨ましくもあるけれど、でもきっとそれは呪われた祝福のようなものかもしれない。もし私が何であれそんな事を言われたら、きっと諦められなくなってしまうだろうから。それが夢の過程ならば、なおさら。
「オーディションだって幾つも受けた。近場から、少し遠くのものまで。でも、全部駄目。それでも夢だった映画に出てみたくて、でもどうにもならなくて。落ちて落ちて、全部落ちて……で、結局あの映画のプロデューサーと強引に接触して寝て、出番をもらったの」
軽蔑してと言わんばかりの眼と笑み。けれど私はそれに反応できなかった。単に無視したわけじゃない、そこに溢れんばかりの悲しみと決意が見えたからだ。それがわずかばかりにも伝わったのかわからないけど、吾妻さんはまた溜息でもって冷ましてからカップを少し傾けた。
「喜んだわ、もちろん。どんな手を使ってでも欲した夢。けれど見ての通り出番は少なく、台詞も少しだけ。おまけにあの映画自体、元々そんなに広告費もかけていなかったしメインに駆け出しのアイドルを使っているだけが話題だったから、そりゃもう悲惨なくらい話題にもならなかった。努力が実を結ばず、体を使ってまで得た夢がこの結末。もう何もかも虚しくなって、辞めようと思ったわけ」
そこまで話を聞いて私はいつの間にか涙を流していた。熱いものが頬を伝い、そのまま私の胸元に落ちる。私はそれを拭わなかった。ただ涙に任せ、両手をがっちりと握り合わせながら彼女を見詰める。吾妻さんはぎょっとした顔をし、少しうろたえるように私を見ていた。
「え、どうしてあなたが泣くの?」
「だってこんなにも素晴らしい人なのに、報われないだなんて。認められるべき人がこんな辛い思いをしているだなんて」
「待ってよ、私は素晴らしくも何ともない。私はただ、汚れた手段に手を出してなお売れなかった、最低の女。自分の才能や努力を信じるどころか、裏切ってしまったの」
先程までの自虐めいた述懐と違い、今度は本心から悔いているような顔をしながら吾妻さんがうつむく。しかし私はそこにかける言葉が見つからなかった。きっと今、何を言ったところで陳腐な慰めにしかならないのだから。
「それにね、実は私、あなたの事を知っていたの。今日初めてじゃないんだよね」
「それはどうして?」
今度は私が驚く番だった。だってあんなにも探して求めていた人が、私を知っていただなんてどういう事なのか想像もつかないからだ。おまけに過去の知り合いとかじゃない。友達は多くない方だけど、でも同じクラスだったり仕事で会った事のある人ならば仲良くなくても覚えている方なのだから。
「と言っても、五日前くらいだけどね。自分が出ていた映画を未練たらしくあの映画館で見ていたのよ。わかってる通り、ほとんどお客さんいなかったでしょ。だから連日通うあなたの事が気になってね、あの映画のどこにそんな惹かれる要因があるのか知りたくなったの」
確かに観客は片手で数えるほどしかいなかった。でも私は他の観客なんか当然ながら目もくれていなかった。特に目立たなくされていたなら、なおさらだ。でもしかし、あの場にいただなんて。
「それで昨日かな、あなたが私の出ているシーンに特に食い入るように見ていたのに気付いたのは。驚いたけど、嬉しかったんだよね……。だからその、あなたの帰り道を少しだけ後ろからつけていたの。それで今日、わざとあそこで待っていた。見つけてくれないかなって」
「そうだったんですね」
やっと私が涙を拭うと、吾妻さんが泣きそうな笑い顔で私を見詰め直してきた。
「惨めだよね、名を残せなかった私がたった一人にすがるだなんて。まるで私は未練たらしい亡霊。今こうして懺悔のように話して、やっと寂しく成仏できそう」
「自分をそんなに傷付けないで下さい」
とっさに大きな声が出てしまった。私はテーブルに手をつき、無意識のうちに身を乗り出していたが、我に返ってそのまま引き下がるのも何なので、もう一度吾妻さんの境遇に思いを馳せて悲しくなる。
「それでもあなたは輝いている。未練があるくらい熱を残し、どんな手段であれ形にした。私なんか何も無い。労働で忙殺され、生きる意味をも失っているだけの人間。そんな私を夢中にさせてくれた吾妻さんは最高の女優。それだけは間違いない。あなたの必死が私を踏みとどまらせてくれた。この世にもう絶望し、いつ捨てても良いと思っていた私を繋ぎ止めてくれた。そして出会えた」
そう、私は退屈で無意味で苦痛ばかりの人生を忘れるために映画を観ていた。千円そこらで忘れられる娯楽と芸術のミックスは私を夢中にさせ、この退屈で砂のように味気ない人生を一時でも忘れさせてくれていた。
今回、珍しく映画そのものではなくその登場人物に惹かれてこの一週間過ごしていた。まるで恋焦がれるように手掛かりを求め、見つからない日々に煩悶し、でも確かに私は楽しかった。刺激と希望と未来への熱望が生まれていたんだ。
「ありがとう」
そっと呟いた吾妻さんの声は小さかったけど、今まで話してきた中で一番気持ちが入っていたように思えた。
「でもね、それはあの役の私に恋をしてるだけ。現実の私はどうしようもない女。妬むし恨むし、部屋も汚い。おまけに優しくしてくれるあなたをも抱きたいと思っている。今夜だけでもいいから、私の事を好きになってくれる人を抱いてこのどうしようもない感情と共に性欲を発散させたいと思っている最低の人間なんだよ」
歪んだ笑みを浮かべる吾妻さんはその表情に反して、とても悲しそうに見えた。泣いてわめいて無茶言って、でも膝かかえて距離がある少女のように思えたからこそ、私も視線を外せなかった。
孤独で自暴自棄になった拒絶交じりの言葉。でもきっと、認められたいのだろう。受け入れて欲しいのだろう。
私だって、そうなのだから……。
「いいよ、私で良ければ。女の人どころか男の人とも経験が無いけど、私が憧れた人を発散できるならいい。無価値な私が求められるのなら、それでいい。それで私の憧れが、推しが満足してくれるなら」
一瞬驚いた顔をした吾妻さんだったけど、すぐに寂しそうに、呆れたように笑った。
「バカだよ、ほんと」
そうして私達は店を出て、夜に消えた。
街外れの小さな映画館は中心部のそれと差別化を図るため、大手では上映しないような映画を流している。今日も色々な新作が公開されるけど、その中でも邦画、特に新人監督ならば観客は少ない。いや、いないに等しい。
今日は平日、どこも観客は少ないけど、この映画館は特に少ない。ロビーはがらんと寂しさを増しており、グッズ売り場やフードのアルバイトも暇そうにしている。
それは映画館のチケット販売係もそうだった。
「あの、『幽霊荘にサーチライト』を大人二枚で」
係員があくびをしかけた時、二人の女性がそう言葉少なにチケットを買う。彼女達はチケットを受け取ると、寄り添いながらシアター入口へと吸い込まれていくのだった。




