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37.耳に届く想い



 ――1月5日。

 新学期を迎えた。

 朝、登校すると、二階の三年生の教室はシンと静まり返っていた。

 冷たい風が、廊下と私の心を吹き抜けていく。


 誰一人いない敦生先輩の教室。

 中に入り、彼の椅子に座って、うつ伏せになった。

 許せないはずなのに、足が勝手に動いてしまうなんて。


「……里宇、さん?」


 女性の声がしたのでガバっと起き上がる。

 前方扉のところに、繭花さんが立っていた。

 気まずくなり、後方扉の方に走って向かうと、廊下のところで彼女は私の手を止めた。


「こんなことしてるってことは、敦生くんが忘れられないんじゃないの?」

「そ……そんなことない。私たち、もう別れたし。繭花さんの話は聞けない」


 手を振りほどいて二メートルほど進むと、繭花さんは私の背中に叫んだ。


「敦生くんから聞いたの。お姉ちゃんが事故にあった日、好きな人と一緒にいたって」


 私は彼女がそのことを知っていたことに驚いて、振り向いた。


「その人は、里宇さんの好きな人、准平くんだって。……私、全然知らなかった」


 繭花さんは、俯いたまま瞳を揺らしていた。

 私は顔を傾けて答えた。


「私も最近知ったの。まさか、こんな偶然があるなんてね」


 遠くから聞こえるざわめきが、胸の奥に沁み込んだ。


「私、敦生くんから里宇さんを引き離すことしか考えてなかった。イヤホンをゴミ箱に捨てたり、マフラーを破ったのは、私」


 胸がドキッとして、彼女の方へ、自然と体が向いていた。


「どうして……」

「敦生くんが全然私のことを見てくれなかったから、悔しかったの。ごめんなさい……」


 繭花さんには繭花さんの想いがあるし、私はなにも知らないまま、准平から貰ったと思っていたマフラーを大事にしていた――バカみたいに。


 彼女はポケットから出したものを私に差し向けた。

 それは、敦生先輩と同じワイヤレスイヤホン。

 思わず見上げた。


「これは?」

「お姉ちゃんの遺品。いまから聞いてほしいものがあるから、イヤホンをしてくれないかな」


 彼女の手には、白いイヤホンがキラリと光った。


「聞いてほしいものって?」

「お願い」


 手元を見たまま突き出してきたので、素直に受け取った。

 イヤホンを装着すると、繭花さんはスマホを操作した。


『里宇。元気?』


 敦生先輩の声が流れてきたので、イヤホンを押さえたまま見上げる。

 繭花さんは「敦生くんから音声メッセージを預かったの」と言った。


『これを聞く頃は、ニューヨークにいる。向こうの大学に通うことになってたのを、隠していてごめん』


 心臓が低い音を立て、不器用に息を呑む。


『何度も言おうと思ったけど、言えなかった。これ以上悲しい想いをさせたくなかったから』


 なによそれ。自分勝手。

 大事な話って、このことだったんだ――。

 どうして今さら……。


『日本にいる間、自分の気持ちにケジメをつけるつもりだった。おまえを見ているうちに、自分も頑張らなきゃって。いつも励まされていた。4年間ニューヨークで暮らして、新しい自分に生まれ変わるつもりだよ』


 人を傷つけたくせに、なによ。


『だけど、一つだけ心残りがある。おまえに本音を伝えられなかったこと。……自信がなかった。気持ちを守り続けることが』


 え、それ……、どういうこと。


『……好きだ』


 その言葉が胸に届いた瞬間、目を大きく見開いた。


「えっ」

『でも、こんなに遠くから幸せにすることはできない。……だから、いま言ったこと、忘れてほしい』


 右手がプランと落ちた。

 胸のときめきとショックが、同時に訪れたから。


『幸せだったよ。……さよなら』


 音声は切れ、目の前が真っ白に。

 せめてあと一度くらいは会えると思っていた。

 それがまさか、約束の最終日にお別れになってしまうなんて。


 ――もう、二度と会えないんだ。


 真っ青な顔で呆然と立ち尽くしていると、繭花さんは呟いた。


「本当は、出国したあとにこのメッセージを届けて欲しいって言われたの。……でも、守れなかった。敦生くんも里宇さんも、お互いのことを本気で想ってるから」


 その声と、スマホを持つ手が震えている。


「いまならまだ間に合うの。敦生くんは空港にいる。里宇さんが想いを受け止めてあげてほしい」


 私はゴクリと息を呑んだ。

 嘘と真実が入り混じって、胸の奥がぐちゃぐちゃだ。

 校門の外で、遠くから聞こえてきたバイクのエンジン音が止まる。


「で、でも……。敦生先輩は私を利用したって」

「本当にそう思う?」

「えっ」

「1ヶ月間で重ねてきた想いが、すべてじゃないの?」


 その言葉が、胸にずんとのしかかる。


「敦生くん、二時間後には出国しちゃうよ? いまなら間に合うの」

「でも、私たちはもう……」


 サッと視線を落とすと、繭花さんは私の両肩を掴んで、体を揺らした。


「ばかっ!! ぐだぐだ言ってないで、さっさと行きなよ!」


 廊下中に響かせる声が、心にストンと落ちた。

 まるで、私の目を覚まさせるかのように。


「いつまで気持ちに目を逸らしてるの? いま胸を張って幸せって言える?」


 その迫力に、私は息を呑んだ。


「敦生くんが人を信じられたのは、里宇さんのおかげなんだよ」

「でも、繭花さんだって、敦生先輩のことが好きなんじゃ……」


 マラソン大会で勝負したとき、繭花さんの想いの強さを知った。

 あの時の瞳は、偽彼女の私よりも、深い感情が滲みでていたから。


「フェアで勝負して負けてるのに、食らいつく理由なんてない。好きな人に幸せになってもらうことが、私の一番の願いだから」


 繭花さんの瞳から、一粒の光がこぼれ落ちた。

 それを見た途端、准平に告白できなかったあのときの自分が蘇る。


「里宇さんなら支えてあげられる。そう思えたから、敦生くんとの約束を破ってこの録音を聞かせたの」


 私は息が荒くなり、胸が苦しくなっていく。


「だから、さっさと行って。二度と後悔しないように」


 人が信じられなくて、苦しい想いをしてきた。

 闇をまといながらも、もう一度人を信じてみようと頑張っていた彼。

 私はそんな彼に、弱い自分を支えてもらっていた。


 なのに、このままお別れでいい?

 たしかにあのときの嘘は、思い出すだけでも腹立たしい。

 だけど、それ以上に心を支え続けてくれていた。


 彼だからこそ、辛い過去から乗り越えられた。

 彼がいてくれたから、強くなれた。

 もう二度と会えないなんて……いやだよ。


「私、行かなきゃ」


 イヤホンを外し、繭花さんに向けると、彼女は首を横に振った。


「これは姉の気持ち。里宇さんが繋いでほしい」

「でも」


 私がこんな大切なものを受け取っていいかどうかわからない。


「時間がないの! 早く行って!」


 繭花さんは私の体を反対側に向けると、そっと背中を押した。

 振り向くと、彼女は力強い目でこくんと頷く。

 私もうんと頷いて、廊下の奥へ向かった。


「幸せになって!」


 背中から心強いエールを受け取った。

 廊下に響き渡る足音は、胸の鼓動を高ぶらせていた。


 校門を出ると、三島先輩がバイクにまたがったまま、ヘルメットを抱えている。

 目が合うと、彼はヘルメットを投げてきたので、受け取った。


「それかぶって」

「えっ」

「空港に行くんでしょ。送ってく」


 うんと頷いて、ヘルメットを被り、後ろの座席に乗った。

 それだけでも思い出す――敦生先輩と二人で出かけたことを。


 三島先輩の優しさに、目頭がジンと熱くなった。


 私はもう自分に負けない。

 これからは、自分の口ではっきりと気持ちを伝える。

 そう、決めたんだ。


「でも、どうして三島先輩が」


 そう聞くと、彼はエンジンをかけた。

 振動で体が揺れる。


「俺さ、敦生の嘘に協力してたんだ」

「嘘って?」


 顔をひょいと傾けて、彼を見る。


「あいつ、里宇ちゃんとはもう二度と会えなくなるから、これ以上悲しませないように嫌われたいって」

「そんな……」


 なに、それ。ずるいよ。


「最初は協力してたけど、途中から正解じゃないと思ってね。いまあいつの親友としてできることがあるとしたら、里宇ちゃんを空港に連れていくことくらいだから」

「三島先輩……」

「しっかり捕まって。いまから40分間、スピード出すから」

「うん! ありがとう」


 体中にバイクの振動を浴びながら、空港を目指した。

 様変わりする景色は、通り過ぎた瞬間、過去に変わる。

 私たちは光の方へ駆け抜けていった。

 

 ――私、どうして最後まで信じてあげれなかったんだろう。

 どうして、あんなに簡単な嘘を見抜けなかったの。

 マフラーを繋ぎ合わせてくれたときに、「この人は信じられる」って確信していたのに。


 スピードが上がると、冷気が頬を刺し、風の圧で涙が滲んだ。

 車の間を風のように駆け抜けた。

 彷徨っていた心が、ようやく一筋の光に向かって走り出したかのように。


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