第七話:交易都市の喧騒と、消えない甘み
交易都市リンドルへと続く難所「迷いの森」。
そこは、日光を拒む巨木が立ち並び、濃密な魔力を含んだ霧が視界を遮る「死の領域」だった。
不気味な沈黙を切り裂き、五体の獣型魔物が躍り出る。
「……来たな」
雪灯が抜刀する。霧を吸って重くなった銀髪が、鋭い視線とともに揺れた。
「了解。雪灯、前は任せたよ。横と後ろは、指一本触れさせない」
蒼の声から、いつもの浮ついた響きが消える。三本の得物を使い分ける彼女の「戦士」としての気配が、森の空気を震わせた。
雪灯は、迷いなく正面の魔物へ突っ込んだ。
(……背後を気にする必要がない。これほどまでに、呼吸が合うのは……)
スラムで一人、泥水を啜って生き延びてきた雪灯にとって、背中を預けるという行為は、命を捨てるに等しい愚行だった。だが、今の彼は、自分の命よりも蒼の刃を信じていた。
その時、魔物の一体が死角を突き、雪灯の脇腹を狙って跳ぶ。
「――させない!」
蒼が割り込み、大剣の腹で魔物を力任せに叩き伏せた。
「……すまない、蒼」
「謝る暇があったら斬って。……今の表情、かっこよかったけど危なすぎ!」
緊張感のないコメントに呆れつつも、雪灯の胸の奥が、熱を帯びたように微かに疼いた。
(守られたのか、俺が……)
それは、どんな劇薬よりも深く、雪灯の心を侵食し始めていた。
迷いの森を抜けた先に姿を現した交易都市リンドルは、これまでの静かな街とは一線を画す熱気に包まれていた。
高く聳える石造りの城門をくぐれば、そこには多種多様な人種と、溢れんばかりの物資が混ざり合う、巨大な坩堝が広がっている。
森を抜け、夕暮れに染まるリンドルの街へ辿り着いた頃、二人の間には心地よい疲労感が漂っていた。
「はー、疲れた後の串焼き! 雪灯、約束でしょ?」
蒼は屋台で「蜂蜜を塗った肉串」を二本買い、一本を無造作に差し出した。
「……俺は、甘いものはあまり得意ではない」
「いいから。戦った後は糖分が必要なの。はい」
蒼が口元に押し付けようとするのに押し負け、雪灯は仕方なく串を受け取り口に運ぶ。
広がるのは、暴力的なまでの甘みと、じわりと滲む肉の脂。
「……美味いな」
「でしょ? ……あ、ちょっと待って。口の横」
蒼が指先で、雪灯の口元を拭った。
一瞬、触れ合う熱。
雪灯は弾かれたように足を止め、彼女の手元を見つめた。
「…………蒼」
「ん?」
「……俺は、スラムの泥を啜って生きてきた人間だ。こんな風に、誰かに何かをしてもらうことに、慣れていない」
雪灯の声は、低く、どこか切なげに響いた。
「甘すぎるものは……いつか、それを失うのが怖くなる」
蒼は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、慣れるまで私がずっとやってあげるよ。私の推しには、泥じゃなくて美味しいものを食べててほしいもん」
雪灯は帽子をかぶり直し、赤くなった耳を隠すように歩き出した。
(……嵐どころではない。やはり、俺の人生を根底から覆す天変地異だ)
そんな雪灯の様子を気にすることもなく、蒼は日が沈みかけていてもにぎやかな沢山の屋台に感動していた。
「見て雪灯! あっちの屋台、見たことない果物があるよ! こっちは……わっ、この織物、私の故郷の刺繍にそっくり!」
蒼は、まるで春の嵐が街を駆け抜けるように、次から次へと屋台を巡っていく。
桜色の羽織が人混みの間をひらひらと舞い、そのたびに雪灯は彼女を見失わないよう、自然と歩調を早めた。
(……落ち着きのない女だ。これでは護衛の対象が増えたのと変わらん)
心の中で毒づきながらも、雪灯の視線は無意識に彼女の背中を追っている。
スラムの路地裏で常に背後を警戒していた鋭い眼光は、今や「人混みの中で彼女が迷子にならないか」という、自分でも説明のつかない目的のために使われていた。
「ほら、雪灯! さっきの蜂蜜串、もう一本食べたいくらい美味しかったね」
蒼が振り返り、満面の笑みで言った。
雪灯は咄嗟に視線を逸らした。先ほど彼女の指先が触れた唇の端が、まだ熱を持っているように感じられて落ち着かない。
「……一本で十分だ。それより、まずは宿とギルドの場所を確保するのが先決だろう」
「あ、そうだった! さすが雪灯、しっかりしてる。私の推しは実力だけじゃなくて計画性も完璧だね!」
相変わらずの「推し」という言葉に、雪灯は外套の襟をぐっと引き上げた。
(……計画性など。俺はただ、この騒がしい喧騒の中で、少しでも静かに己を律していたいだけだ)
だが、隣を歩く蒼の楽しげな様子を見ていると、不思議と周囲の喧騒が不快ではなくなってくる。冷え切った冬の朝に、陽だまりを見つけた時のような、落ち着かないが温かい感覚。
やがて二人は、街の中心部にある巨大なギルド支部へと辿り着いた。
磨き抜かれた大理石の床に、何百枚もの依頼書が貼り出された掲示板。そこは、これまでの街のギルドとは規模が違った。
「うわぁ、広いね! 雪灯、見てこれ。……あ、これなんてどう? 『近郊の廃村に住み着いた地龍の調査』。報酬も破格だよ!」
蒼がワクワクした様子で、大剣を背負い直しながら提案する。
雪灯は彼女の隣に立ち、掲示板の紙を一枚ずつ吟味した。
至近距離から、蒼の微かな体温と、先ほどの蜂蜜の甘い香りが漂ってくる。
雪灯は思わず一歩距離を置こうとしたが、蒼が「ねえ、これだよこれ!」と身を乗り出したせいで、逆に彼女の肩が自分の腕に軽く触れた。
「……ッ」
雪灯の体が、戦闘時のように硬く強張る。
「……地龍は、今の俺たちの装備では分が悪い。それよりも、この『運河沿いの倉庫警備』か、あるいは『街道の荷馬車護衛』だ。地味だが、この街の地理を知るには都合がいい」
「えー、雪灯は慎重派だなぁ。でも、そういう堅実なところもまた……尊い、かな」
蒼がニヤリと笑って雪灯を見上げる。
(……この女は、俺の反応を楽しんでいるのか?)
雪灯は動揺を隠すように、淡々と受付へと向かった。
だが、背後から付いてくる蒼の足音が、心なしかいつもより弾んで聞こえる。
「ねえ、雪灯。仕事が終わったら、今度はあの広場で売ってた冷製スープ、飲んでみない? 私、あれも気になってるんだよね!」
「……金があればだと言っただろう」
「もう、ケチなんだから! 稼げばいいんでしょ、稼げば!」
夕闇に包まれ始めたリンドルの街に、二人の声が溶けていく。
雪灯は、自分の胸の鼓動が少しずつ早くなっているのを自覚しつつも、それを「歩く速度のせいだ」と自分に言い聞かせた。
恋模様が発展しているようです。恋愛苦手な方、すみません....
これからは雪灯の不器用で初な感じと、蒼のオタク感を出していきます。.......多分




