第六話:新たな旅路
翌朝、朽ちた神殿の石柱の隙間から差し込んだ朝日は、驚くほど柔らかかった。
夜の間に冷え切った空気が、陽光に触れて白くほどけていく。雪灯は焚き火の灰を丁寧に土で覆い、その上に枯れ葉を散らした。跡形もなく。
スラムで培った、己の存在を消すための習慣だ。
「よし、準備万端! さて、雪灯。今日はどこに向かおうか?」
蒼は、昨夜の熱烈な独白など露知らずといった様子で、快活に笑いながら三本の得物を背負い直した。
その切り替えの速さに、雪灯は僅かに目眩を覚えながらも荷を背負う。
「……この街には、君を追う者たちが既に入っている。長居は無用だ。街道を西へ下り、山向こうの交易都市『リンドル』を目指す」
「リンドルか! 活気があっていい場所だよね。美味しい食べ物も多そうだし」
「……遊びに行くのではない。あそこは四通八達の要衝だ。人の流れに紛れれば、君の家の追っ手も容易には手を出せまい」
「分かってるって。護衛の仕事も多い街だし、推しの路銀を稼ぐにはぴったりでしょ?」
さらりと、当然のように投げかけられた「推し」という単語。雪灯は歩き出しながら、耐えかねたように口を開いた。
「……その、おし、というのは……。一晩考えたが、やはり理解が及ばない。君は俺を、かつての主君や家長のように見ているわけではないのだな?」
「全然違うよ!」
蒼は彼の隣に並び、桜色の裾を弾ませて歩く。
「主従関係なんて、一方的な縛り合いでしょ? 私は私の幸せのために、雪灯を勝手に見守って、勝手に助けるだけ。雪灯はただ、今まで通りかっこよく生きて、たまに私にご飯を奢ってくれればそれでいいの」
雪灯は、冷たい朝の空気を深く吸い込んだ。
(理解しようとするだけ無駄か……。だが、これほど見返りを求めぬ、無条件の肯定を向けられたのは、人生で初めてだ)
二人はスラムでは奪い合いが、名家では「役に立つか」という条件付きの価値が全てだった。
理由のない信頼。
それはスラム育ちの彼にとって、どんな劇薬よりも鋭く、どんな真綿よりも温かく心を締め付ける。
二人は街の門を抜け、見晴らしの良い街道へと足を踏み出した。
冬枯れの景色の中に、僅かながら緑の息吹が混じり始めている。歩くうちに、蒼が背中の大剣の柄を弄びながら言った。
「そういえば、雪灯。リンドルへ行くなら、道中の『迷いの森』を通るよね? あそこ、最近は質の悪い魔物が出るって噂だよ。一応、警戒レベル上げとく?」
「……懸念には及ばない」
雪灯は前を見据えたまま、迷いなく答えた。
「俺が前を斬り、君が横を払えば、抜けれぬ場所などない。君の実力は、俺が一番よく知っている」
無意識にこぼれた、彼女への全幅の信頼。
蒼は弾かれたように足を止め、呆然と雪灯の背中を見つめた。
「……ちょ、ちょっと待って。今の、聞いた?」
「……何をだ」
「雪灯が私を頼りにしてくれた! しかも『一番よく知ってる』って……。ああ、もう……今の信頼感溢れる低音ボイス、尊すぎて無理。五臓六腑に染み渡る……」
「……急に路肩に座り込むな。置いていくぞ」
「待って! 今のを脳内の永久保存記録に刻んでるから! 呼吸整えるから置いてかないで!」
雪灯は溜息をつきながらも、決して歩調を速めることはしなかった。
かつては「逃げる」ための旅だった。背後から迫る影を振り払い、ただ明日を生き延びるためだけの逃走。
けれど今、隣に桜色の羽織をなびかせた、騒がしくも温かい「嵐」がいるだけで、それは「進む」ための旅へと姿を変え始めていた。
「ねえ、雪灯! リンドルに着いたら、まず名物の串焼き食べようね! 蜂蜜を塗ったやつ!」
「……金があればな」
「稼げばいいの! 私たちのコンビなら、依頼を三つもこなせば贅沢三昧だって!」
二人の影が、春の光の中に長く伸びていく。
新しい街、新しい依頼。そして、きっと待ち受けているであろう、互いの過去との再会や新たな発見、出会い。
それでも今の雪灯には、その不確かな未来が、ほんの少しだけ待ち遠しく感じられていた。
「おい、蒼。いつまで座っている。本当においていくぞ」
「あーっ! 今、初めて呼び捨てにした!? 呼び捨てにしてくれた!? 尊さの過剰摂取で死ぬ……!」
「……本当に、面倒な女だ」
雪灯の口元に、彼自身も気づかないほど微かな、けれど確かな笑みが浮かんでいた。




