第五話:二人の過去と今現在
その夜、二人は街の喧騒を遠くに置き、朽ちた神殿の跡地で焚き火を囲んでいた。
昼間に突きつけられた「蒼の過去」の残影が、揺れる火影とともに二人の間に長く伸びている。
「……雪灯。昼間の男、私の実家の使いなんだ」
碧は爆ぜる火を見つめたまま静かに切り出した。
「あそこは、自由という言葉さえ禁じられた家でさ。代々『暗部の守護者』として、汚れ仕事を担ってきた家で、小さいころから毎日毎日兄弟と争うように血流しながら沢山の訓練しまくって、体術から人の騙し方、気配の探り方、もちろん剣術も何から何まで。
子供の頃の食卓は、食事の場じゃなくて戦場だった。……抜き打ちで毒を盛られるのは、日常茶飯事。その匂いで毒の種類を見分けるか、さもなくば食べて耐性をつけるか。……見極められなければ、死ぬことはないけど一晩中トイレにこもることになる。それが私の家の『教育』だったんだ」
雪灯の眉間に、深い溝が刻まれた。
「……自分の子供の食事に、毒だと? 獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすというが、それはもはや教育ではなく、ただの拷問だ」
「あはは、そうだね。だから、あんな場所はもう捨てたの」
蒼は自嘲気味に笑い、今度は雪灯に視線を投げた。
「雪灯の家は? その剣筋、その気品……君も、どこか誇り高い名家の出でしょ?」
雪灯は、冷え切った夜空を仰ぎ、自嘲の混じった溜息を吐いた。
「家、か。……俺には、そんな温かな檻さえなかった。気づいた時には、スラムのヘドロの中で、誰のものかも知れぬ残飯を漁っていた。親の顔も知らぬ。ただ、俺という個体を証明するのは、懐にねじ込まれていた古びた紙切れに記された『雪灯』という名だけだ」
蒼が息を呑む。雪灯は淡々と、己の血に塗れた歩みを言葉に変えていく。
「剣技は、盗んだものだ。街の道場を覗き見、独学で型を模倣した。飢えを凌ぐためには、行き倒れた兵士の死体から得物を剥ぎ取り、迫りくる野犬や、自分より大きな大人を相手に振り回すしかなかった。……飯は食えそうなものなら何でも食った。ひどいときは酔っ払いの反吐とか。
一番よく食べたのはネズミだ。泥にまみれたそれを、煤けた火で炙って食ったりな。……どうだ、お嬢様の毒入りスープよりは、よほど野蛮だろう?」
蒼は絶句し、それから顔を歪めて激しく首を振った。
「……うわ、ごめん。反吐とかネズミは、さすがに想像の枠を超えてた。私の家も大概だけど、雪灯の生存競争、過酷すぎて笑えないよ……毒入りスープよりもハードかも。」
二人はしばし沈黙し、それから鏡合わせのように同時に吹き出した。
一方は「選別」という名の洗練された虐待を、一方は「放置」という名の残酷な孤立を。
歩んできた道は正反対なのに、その果てに得た「強さ」という孤独だけが、二人の魂を強く惹きつけていた。
「……はは、全くだ。俺たちは、まともな子供時代というやつを、どこかに置き忘れてきたらしい」
雪灯の口元に、初めて冬の陽だまりのような柔らかな笑みが浮かんだ。だが、彼はすぐに表情を引き締め、核心を突く。
「……だが、だからこそ理解できない。なぜ、そんな俺に付き従う? 俺には帰るべき家も、約束された栄光もない。君の実力なら、もっと高潔で、報賞の確かな主や仲間を選べるはずだ」
蒼は、言葉を失った。
風が神殿の柱を吹き抜け、火が激しく踊る。
ここで言葉を飾ることは、雪灯が差し出してくれた信頼への冒涜だ。蒼は深く、深く息を吸い込み、燃えるような瞳で彼を見据えた。
「……あのさ、引かないで聞いて。これは私の『真実』だから」
「……ああ、聞こう」
「……私、初めてあなたをギルド前で見かけた時……確信したんだ。『あ、見つけた。この人こそ、私のタイプのイケメンだ。全力で推すしかない』って!」
「…………お、す?」
雪灯の思考が、寒波に打たれたように氷結した。
「そう、推すの! 私、今までずっと誰かに人生を決められてきた。だから家から出たときに決意したの!私が自分の意志で見つけた『世界で一番尊い存在』を、誰にも邪魔させず、幸せになるまで見守りたいって!! 一緒に戦ってる時だって、雪灯の納刀の仕草ひとつに『尊すぎて心臓が持たない……』って、ずっと悶絶してたんだから!」
「……トウト……スギ……? 悶絶……? 毒の後遺症か?」
雪灯の優れた頭脳が、生まれて初めて「理解不能」という警告音を鳴らしている。
「失礼だな! 全力全開の正気だよ! つまりね、過去も条件も関係ない。雪灯がそこにいて、不器用に生きて、剣を振るう。その姿が私の魂を救ってるの! だから、私は私のために、あなたの隣にいたいの!」
蒼の、一点の曇りもない熱情。
スラムの暴力にも、死の恐怖にも揺らがなかった雪灯の心が、その正体不明の「推し」という名の熱量に圧され、たじろぐ。
「……君は、やはり変わっている。嵐どころではない。天変地異だ」
雪灯は顔を覆い、けれどその隙間からこぼれた瞳には、かつてない戸惑いと……ほんの少しの、救われたような光が宿っていた。
「変だっていいよ! 私はこれからも、幸せになるまであなたを推し続けるからね。覚悟して!」
雪灯の胸の奥で、決して溶けることのないと思われていた永久凍土が、桜色の熱気に包まれて、今度こそ確かに崩壊を始めていた。




