第四話:追跡者
昼下がりの街は、妙にざわついていた。
行き交う人々の歩調は普段より速く、露店の威勢のいい声さえ、どこか落ち着きなく空回っている。
蒼は雑踏を歩きながら、ふと足を緩めた。
(……いる)
理屈ではない。首筋をなでるような、冷たく粘りつく視線。
視線を巡らせても、怪しい影は見当たらない。――少なくとも、街の景色に溶け込んだ表向きの顔だけを見れば。
少し前を歩いていた雪灯が、同時に足を止めた。
彼は振り返ることなく、地を這うような低い声で告げる。
「……誰か、付いてきているな」
蒼の口元が、自嘲気味にわずかだけ歪んだ。
「やっぱ、分かる?」
「気配が、下手だ。……というより、慣れていない」
冒険者のような荒々しさも、暗殺者のような鋭利な殺気もない。どこか事務的で、訓練された「使い手」の気配。
雪灯は自然な動作で歩調を変え、蒼を庇うように半歩前へ出た。
「路地に入るぞ」
「了解」
石造りの建物が密集する、陽の差さない裏道。人通りの途絶えた静寂の中で、蒼は気配を探る。
(……三人。距離は一定。様子見だね)
追跡者は踏み込んでこないが、決して離れもしない。
「ねえ、雪灯」
蒼が囁くような声で言った。
「もし、私がとんでもなく面倒な過去を持ってるとしたらさ。……どうする?」
「……今さらだ」
雪灯の答えは即答だった。
蒼は一瞬きょとんとして、それから噴き出すように小さく笑った。
「ふふっ、ありがと。……やっぱり君、不愛想なだけで優しいよね」
角を曲がった、その瞬間だった。
「――蒼様」
路地の先、一人の男が立っていた。一人だけ先回りしていたようだった。
身なりは整っているが、武器は帯びていない。ただの「使いの者」であることが一目で分かる。
蒼の足が、凍りついたように止まった。
「……その呼び方、やめてって言ったよね」
声は穏やかだったが、明確な拒絶の刃が混じっていた。
男は一歩下がり、深く頭を下げた。
「失礼いたしました。ですが、どうしてもお伝えせねばならず」
「伝える相手を間違えてるよ。私はもう、そっちの人間じゃない」
蒼は冷たく言い切る。男は言葉に詰まり、やり場のない視線を彷徨わせた。
その光景を、雪灯は黙って観察していた。
(……確定だな)
蒼は、追われている。それも、血縁や組織といった、極めて「内側」の事情によって。
「家の方々が、お戻りを切に願っております」
「帰らない」
迷いのない、鋼のような即答だった。
「名も、立場も、もういらない。それに――」
蒼は一瞬だけ雪灯の背中を見つめ、少しだけ柔らかな声を漏らした。
「今は、この旅が楽しいから」
男は沈黙し、やがて諦めたように深く一礼した。
「……承知いたしました」
彼が去ると同時に、周囲に潜んでいた気配も潮が引くように消えていった。
路地に、重苦しい静寂が戻る。
蒼は大きく息を吐き、壁にもたれかかった。
「はー……やっぱ見つかるよね。隠れるの下手なのかな、私」
軽い口調。だが、その肩からは力が抜け、微かな震えが混じっているのを雪灯は見逃さなかった。
雪灯は、すぐには言葉をかけなかった。
しばらく歩き、賑やかな大通りが近づいた頃、ようやく口を開いた。
「……聞かない方がいいか?」
蒼は一瞬考え、それから首を振った。
「ううん。聞かないでくれるなら、それでいい」
間を置いて、彼女は続ける。
「でも、もし聞かれたら……嘘はつかないよ。約束する」
雪灯は短く頷いた。
「それでいい」
(俺も、同じだ。語らぬ過去が、この身を縛っている)
夕暮れが近づき、街の喧騒が再び二人を包み込む。
蒼が、自問自答するようにぽつりと言った。
「ねえ、雪灯。私さ、ただ家から逃げてるだけかもしれないんだよ」
雪灯は歩みを止めず、前を見据えたまま答えた。
「……逃げることと、生きることが、同じ意味を持つ場合もある。恥じることはない」
蒼が、弾かれたように目を見開く。
そして、今日一番の、心からの笑顔を見せた。
「それ、すごく好きな考え方だな」
(春は、嵐も連れてくる。……だが)
雪灯は、心の中で静かに呟く。
(この嵐なら、受け止めてもいい。……いや、共に吹かれてもいいのかもしれない)
吹き抜ける夕風が、二人の間に漂うわだかまりを、優しく消し去っていった。




