第三話:名を明かさない
朝の空気は、刃のように澄んでいた。
夜の冷え込みを色濃く残しながらも、東から差す朝日は確実にその熱を増している。
蒼は大きく伸びをしながら、灰になった焚き火跡を見下ろした。
「よし。痕跡を消して、戻ろっか」
慣れた足取りで灰を散らし、土を被せていく。その一連の動作には、長旅を潜り抜けてきた者特有の無駄のなさが宿っていた。
少し離れた場所で、雪灯は周囲の気配を読み取っていた。夜明けの森に不自然な動揺はない。
(野営も、行動も……やはり、隙がないな)
昨日から何度目かになる評価を、雪灯は無意識に積み重ねていた。
街へ戻る道中、蒼は軽やかに歩を進めながら掲示板の話題を切り出した。
「ねえ。今日さ、軽めの依頼を一個くらい受けていかない?」
「……この依頼か?」
「そそ。薬草採取と簡単な護衛。時間もかからないし、今の私たちなら余裕でしょ」
雪灯は一瞬だけ吟味する。
(報酬効率は妥当。危険度も低い。……断る理由はないか)
「……問題ない」
即答ではないが、否定でもない。それが人に拒まれて育った彼の精一杯の歩み寄りだった。
蒼は満足そうに頷いた。「よし。じゃあ、寄り道決定!」
依頼先は、街外れのなだらかな丘陵地。
早咲きの春草が芽吹き始めた丘で、薬師見習いの若者二人の護衛をするのが今回の仕事だ。
「えっと……今日はよろしくお願いします」
武装した二人の威圧感に気圧されたのか、薬師の男女は緊張した面持ちで頭を下げた。
「こちらこそ。危ないことがあったら、すぐに私たちの後ろに下がってね」
蒼の声は、春の陽光のように柔らかい。雪灯はその一歩後ろに立ち、静かに周囲へ目を配る。
(蒼さん……いや、蒼。彼女は、対人の距離の取り方が恐ろしく上手いな)
敵意のない相手には、自然に溶け込む。それは天性の才能か、あるいは……。
採取は順調に進み、魔物の影も差さない。
その穏やかな空気の中で、薬師の一人が蒼の装束に目を留めた。
「その服装……この辺りの方じゃないですよね?」
蒼の動きが、一瞬だけ止まった。
「まあ……そうだね」
笑顔は崩さない。けれど、そこには明確な「踏み込ませない壁」が築かれていた。
(……線を引いたか)
雪灯は、その僅かな空気の変化を見逃さなかった。
「どこからいらしたんですか?」
もう一人の薬師が無邪気に問いを重ねる。
蒼は歩みを止めず、さらりと答えた。
「いろいろだよ。長くなるから、またいつか縁があったらね」
軽い調子。だが、その言葉に宿る拒絶を察したのか、薬師たちはそれ以上深追いしなかった。
昼過ぎ。依頼は滞りなく完了した。
「ありがとうございました!」
薬師たちが去り、丘の上には二人だけが残される。
風が草を揺らし、空はどこまでも高い。
蒼は背中の大剣に軽く触れ、ふっと表情を緩めた。
「平和な仕事だったね」
「……ああ」
一拍の沈黙。雪灯は迷った末に、静かに口を開いた。
「……さっきの話」
「ん?」
「来た場所を、あまり話したくないのか」
蒼は目を瞬かせた。少しだけ驚いたように雪灯を見つめ、それからニヤリといたずらっぽく笑う。
「鋭いね」
否定はしなかった。
「まあ……好きじゃないんだ。名前とか、家柄とか。そういうもので、中身まで決めつけられるのはさ」
彼女は丘の向こう、遠い空を見つめた。その横顔は、いつもの明るい彼女とは別人のように硬い。
(……名家、か)
雪灯の胸に、微かな共鳴が走った。
「……俺もだ。名前や素性を明かせば、余計な色眼鏡で見られる」
それだけを告げる。
蒼は一瞬黙り、小さく息を吐いた。
「そっか。……だよね」
それ以上、彼女は何も聞かなかった。
(踏み込まない。……やはり、距離の測り方が俺と似ている)
街へと続く帰路。人影が増えるにつれ、夕闇が静かに降りてくる。
「ねえ、雪灯」
「?」
「しばらく、ここの街にいるつもり?」
雪灯は自問する。目的地はない。追われる理由も、ここを去る理由も、今は見当たらない。
「……ああ。しばらくは」
蒼は弾むような笑顔を見せた。
「じゃ、当分は一緒に依頼できるね!」
(冬は、簡単には溶けない。……でも)
雪灯は、隣を歩く桜色の背中を見つめた。
(この春なら……この『嵐』の隣なら、もう少し歩いてもいいかもしれない)
吹き抜ける風はまだ冷たい。
けれど、それは決して冬だけの風ではなかった。




