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第一章 吉祥寺の焼肉きんぐ 2



     2



日映大学、正式には日本映画大学は戦前に開校した。

ハリウッドやヨーロッパで食い詰めた技師や役者、演出家を囲い込み、講師として採用するため、映画会社や新聞社が出資して創立された。

だが10年もしないで、太平洋戦争が勃発、外国人講師たちは引き上げた。

しかし記録を撮るため、戦意高揚映画のため、軍部から大学へ直に撮影の依頼がきて、セミプロレベルの学生が駆り出され、案外重宝された時代が続く。

ところが、敗戦直後からその反動は始まり、映画人の戦争責任の矢面に立たされ、当時の理事会や教授陣の多くが、GHQの計らいもあり、追放された。

その代わりに真っ赤かな左翼系映画人が参加してきたのである。

ところが2.1ストの敗北あたりから、こういった偏向はおかしいと思う教授や学生もでてきた。

多くが政治色や思想色が多い作品を作る学生やサークルが多い中、少しづつ、あえて時代劇やSFを取り出す学生も増えてきた。

そして60年代には四つある映画サークルの中で一角を占める程に映画サークル・レコンキスタに成長していた。

だから前史としては50年代頃までは遡れるらしいが、流石に資料が散逸している。

だがその60年代には映画は斜陽としなり、ランク下に見られていたTVが台頭してきたのだ。

当時、大学側も映画学科とアニメーション学科だけなところにテレビジョン学科を新設した程だ。

思想・政治が強いサークルは大作主義・実験主義だったが、レコンキスタは短篇主体の娯楽作品を作れられ、技術も覚えられると60年代の終わり頃には最大派閥となり、70年代に入る頃にはTV番組の制作会社が乱立する時期でもあり、就職にも役に立った。

70年代の後半から80年代前半にかけては大学の映研は花盛りの時代を迎え、PFFやIFF出身の、映画会社で出世していくのではなく、インディーズ上りの映画監督が作家性を持ち、注目されていた。

その頃にはもう政治がかった映画サークルは全て瓦解しており、日映大学の映画サークルはレコンキスタのみ、映画監督を目指すなら、ここに入るべし!となるくらい、そこそこ有名な、数人の映画監督と十数人のTVディレクターを輩出していた。

90年代になると大学にゲーム学科とメディア学科が設立された。

CGを学んだり、メディアミクスを学べるのだが、ここいらでレコンキスタが陰りを見せ始め、ゼロ年代では大学が既に映画会社に人材を提供することは稀になっていく。

映画やTV番組制作会社にはむしろ芸術系の大学出身者が入社する傾向があるので、映像の専門学校とそれらの中間にある日映大学はイマイチな存在と思われ、むしろゲームとメディア、それに戦前からあるアニメ学科の方が偏差値が高くなる程だった。

それでもゼロ年代にはyoutubeやニコニコ動画が台頭してきたので、そこで個人ではない、集団の強みを発揮した配信者となり、そこそこ評価はされた。

でもその10年のおかげで劇映画の完全にノウハウは失われたのだ。

2010年代には大学は映像配信学科を設立。

つまりユーチューバーの技術を学ぶコースである。

60年代、8ミリフィルムで撮影するしかなかった時代には、カメラと編集機は高価だった。

当時は、同好の士と云える、出演者を集める手もなかった、だからサークルで今回はオレが監督するから、おまえ出てくれ、次回のおまえの監督作品ではオレが出るから、といった感じで役者と演出志望は兼ねた。

でも今はネット内のSNSで出演者の募集が可能で、スマホや安価なデジカメで撮影して・PCで編集すればいい。

校内や区民ホールを借りて映写していたが、ネットの動画サイトで流せばいいし、大学の映画サークルの存在理由はなくなっていたし、もう新進気鋭の映画監督でそんな出自は持つ作家は稀有のなっていた。

だからここ10年(否、ここ20年かも)はうけ狙いのショート動画を撮るか、対談形式(魔理沙やずんだもんも使用)の評論活動としての映像かで、さすがにそれだけでは不味かろうと学園祭に向けて、20分程の劇映画をみんなで作るだけになっていた。

その年に一度の部員挙げての(20分だが)長編作品がことごとく面白くなかった。

当然である。

プロデューサー役、ディレクター役、シナリオライター役がそれぞれ自分の趣味嗜好を優先させるので、統一感がない。

だけど、これを世間に打ち出したいから、監督と脚本家を兼ねるとかは持ち回りでやっている役に過ぎないから、面倒だしやらない。

だから、昨年の学園祭は、濱口竜介的静謐な撮り方で、でも話はゾンビもので、プロデューサーの先輩が口説き落とせなかったから女子部員の出たくないは通ってしまい、男子だけで撮影されたが、最後は残った二人が校庭のど真ん中で何故か決闘するのだ。

そのメイン劇映画、各部員が撮ってきた映画評論語り下ろし、今旬なコスメ、お笑い芸人っぽいギャグ、等のショート動画が10本くらい並ぶ。

つまらなくはない。

でも、こんなもんだっけ、とどこか記憶で答え合わせをすると疑問が生まれた。

「撮りたい映画はただ一つ。BLです!つまり男同士が愛し合う映画です!」

芽里亜の発言はどんな衝撃も先輩たちにも・新入部員にも与えなかった。

当然である、ファミレス席だから、同じ席の6人くらいにしか届かず、喧騒の店内が遮っていた。

彩先輩はそんなレコンキスタ60年以上の歴史に名を遺す作品を希求していた、それを撮れる新入部員を待望していたが、ボーイズラブとは凡庸だなという思いを言葉にせず、「そう、がんばってね」としか返さなかった。

何人かの女子部員の耳が「BL」と「男同士が愛し合う」というタームに反応したが、ああいう趣味は自分だけで、もしくは親友クラスの旧友とこっそり愉しむものだから、大学でカムアウトする必要性を元来感じなかったのでスルーした。

この時にあきらと虎丸はそもそも、芽里亜の台詞が聞き取れなかった。

が、菜乃だけが反応した。

でもそれを菜乃はひた隠しに隠した。

二次会に行こうと野笛から誘われた菜乃だったが、断った。

野笛は察した。

菜乃は食べ過ぎた。

吐き気は催さなかったが、もう一歩も歩けない感じで、座って他の先輩方と話す力をもう残っていなかった。

もう一人、菜乃の今の現状を察することが出来た人物がいた。

芽里亜だ。

入部しても挨拶くらいで、原稿用紙一枚分すら話したことはないが、芽里亜の「横にならないと菜乃さん、まずくないですか?」という言葉には救われた心持ちだった。

自分が住む賃貸が近くにあるという。

近くだが、芽里亜はタクシーを呼んだ。

「あれもお持ち帰り、かなぁ」と彩先輩。

「BLじゃなくて、百合だね」と野笛先輩。

「更に野笛もあの酉野さん狙っていたから、NTR百合だ」

「ふん!私と付き合えないからって、百合扱いはすっぱい葡萄かよ!」

彩先輩は眉間に皺を寄せてから、他の二次会に合流していた。


菜乃と云えば、五日市街道のとあるアニメ会社の近所の芽里亜の賃貸に来ていた。

2LDKは広すぎるだろう、と苦しいながら、菜乃もそれくらいの観察はできた。

トイレから出てくると芽里亜はカモミールのアイスティーを菜乃に渡した。

「さ、横になって」

「す、すみません」

大きなクッションに倒れ込む、菜乃。

勿論、紅茶をひと口飲んだあと。

倒れ込んだテーブルの下には、自分が作った同人誌が無造作に置かれていた。

―ここまでは誘導!?

「そうです。私、極限せつら先生の大ファンなんですよ」

極限せつらは同人誌界における菜乃のペンネーム。

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