第二章 西荻窪のそれいゆ 3
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その後、室井虎丸が西荻窪の駅についたのが17時頃だった。
バスの中から駅前の松のやに向けて、アプリで注文をしておいた。
松屋の牛丼のようにご飯を盛って、牛汁をかけるのではなくて、ちゃんとカツを揚げるから、最低10分は調理に時間がかかる。
本来ならば、席を確保してから決定クリックしないといけないが、待ち時間短縮のため、バス内から押した。
すると店内のモニターでは「あと5分」と虎丸くんの注文した「味噌カツ定食」の下に表示されていた。
―5分でなく、もっと早い。
その通り、1分しないで彼は自分の番号を店員に呼ばれた。
自分で膳を取りに行き、いちばん近いカウンター席に座る。
膳の上に乗ったクーポンを財布に入れる、千切りキャベツに胡麻ドレッシングをかける、味噌汁椀の蓋を取る。
―普通に、美味い。それに自分が作るのにだって勝るとも劣らない。
実家の札幌では虎丸が料理をしていた。
料理だけでなく、洗濯や買い物もしていた。
掃除は土曜に父親ががしてくれていた。
どうしてそうなったかというと、母親が虎丸が12歳の時に駆け落ちしたからだ。
『探さないように、本当の相手を見つけました』という置手紙。
だが当時の虎丸は怒るとか悲しむとかはなかった。
なにより、まず夫婦仲は息子から見ても変わったものではなかった。
よそよそしいでも、ケンカする・どちらが一方的にやり込めるとかがなかった。
だから家族の一員が急にいなくなったことが不気味でしなかったのだ。
「虎ちゃん、お母さんとはススキノの女性がお酒を提供するような店で出会ったんだ。肉親は妹さんと会ったきりだった」と妻を取られた父親は云った。
虎丸というけったいな名前は母親がつけた。
結婚式は上げず、その妹と父親の父親である・虎丸からしたら祖父とそこそこよい店で食事をして済ました。
母親はスーパーでパートをしていた。
そのパート先からいなくなった男はいなかった。
妹さんから聴いて、短大だけでなく、小学校まで遡ったが、母親と一緒に逃げた男は見つからなかった。
父親は出会った店にも聴きに出かけたがなんの収穫もなかった。
でも店長が「客やボーイとデキるようなコじゃなかったのは保証するよ。あんたと結婚することになって辞める時はそれなりに喜んでいたし」という慰めに対し、父親は「それなりに、ですか」とだけ云った。
一年すると離婚届けだけが送られてきた。
この一年というのが、絶妙だと思い、つまり妻と間男が生活が落ち着いて、軌道に乗るまでの時間として適格だと思ったからだ。
だから、父親は妹に「本当は連絡を取り合っているんではないか」と問う。
妹さんは「ええ、さすがに妹ですから。ごめんなさい」と答えた。
父親が妹に返したのは、何か脅迫されていやいや連れていたいかれたり、反社会的勢力や新興宗教といった組織的なものにかどわかされたとしら、妻が不憫なので色々動いたが、そうではないのですね?という内容だった。
「はい、無事に普通の生活しています」と母親の妹は答え、父親はもうあなた方姉妹とは、二度と会いませんと返したのが最後だった。
父親がこの経緯を説明した虎丸15の頃、虎丸は料理のレパートリーがかなり増えていた。
家事は手抜きの仕方を覚え、受験勉強はコツをつかんだので、彼はサブスクで映画や昔のTVドラマを観るようになった。
そしてそれを語らう友人も幾人かできた。
その友人から映画秘宝や映画芸術等の雑誌、四方田犬彦や渡邉大輔の映画評論を教えてもらい、読書の面白さも開拓していく。
中学在学中、そのようにして北の国で生きてきたので、家族のことでそうとう酷い目にあったが、虎丸は悪い仲間ができたり・ずばり悪いことにハマるようなことはなかった。
だがやはりその余波はあったのだろうか、男子中学生、異性へも興味は尽きぬもの、ネットのエロ動画以上を求め、彼はマッチングアプリを始めた。
中学が終了した後の春休み、虎丸は女子大生と名乗る美海と時計台で待ち合わせた。
スレンダーな体形で、肩までのびた黒髪は母に似ているな、と虎丸は思った。
そしてその大きな瞳とサンダルから見える足指を彼は美しいと思った。
美海の方でも、身長165の、細身で、女性めいた顔に15歳という少年と青年の間の虎丸をはっきりと欲しいと感じていた。
虎丸は下見までしていたカフェに行き、自慢の映画の話をした。
アプリの会話でも映画の話で盛り上がり、勧めた映画をわざわざ観てくれたというのは、相手は自分に話を合わせている以上のものを感じたので、実際に会う約束を虎丸が提案するとその約束は今日実施され、今こうして話せている、最初にお互い、会話が続かなくなったらどうなるかはその観てきた映画、野村芳太郎『影の車』のおかげでなかった。
「そろそろ、出ましょうよ」
美海にそう云われて、虎丸は店を出て、「少し歩きましょう」と更に云われたので、その通りにした。
彼としては次にこの近所に行列のできるラーメン屋があって、話し疲れたので、そこで遅い昼食を考えていたが、美海に誘われた先はそういうことを目的とするホテルだった。
「やめておく?」
美海がそう云ったが、そこには年上のイニシアティブ的なマウントは一切なく、相手を気遣う気持ちが表情に表れていた。
事後、虎丸が「どうして?急に」と問うと美海は「ここで直ぐこうしておかないと誰かに盗られると思ったから」と微笑みと共に答えた。
事後、ジンギスカンで肉を食べることにして、さてどの店にしようかと云うことになるが、どさん子同士、「だるまや!」と意気投合した。
その店で楽しい食事中、虎丸は人生で初めての飲酒も体験した。
恋!
まさにそれは恋であった。
二人は狸小路のマニアックな映画館で会った、新さっぽろのサンピアザ水族館で会った。
父親が出張時には美海を自宅に招き、一日中ベッドの中にいて、お腹が空くと虎丸じしんが料理の腕をふるい、美海からはその味と手際を褒められた。
将来の話をする、つまり美海にどんな就職先を考えているのかを問うと、あまり浮かない表情をした。
その顔を悟られたと思った美海は「私、正社員とか社会人としてやっていく自信ないんだ」と独白した。
虎丸は深く追求はしなかったが、それは自分に稼いでもらいたいと思われていると合点した。
彼が通う男子校は市内でも優秀な高校であった。
道内の有名私大にならば、彼の成績で合格できるし、父親やこの美海ためにもそうしようと思ったが、これは就職も考えた方がいいと思った。
―クリプトン、だったら、アリかなぁ。
自分に向きそうな企業を調べることを始めた。
ところが高3の春、美海と別れる。
その日は、あった時から、そうだった。
明らかに様子がおかしかった。
「子どもができました」
虎丸は明らかにその美海の言を聴いて、戦慄した表情をした。
でもそれを悟られたら、女性は不信を思うであろうから、深呼吸してから「責任、取りたい」と小声で云った。
「ごめんなさい、大丈夫、あなたの子ではない。それはもう行った産婦人科での妊娠期間からあり得ないと判明しています」
そこから美海が云うには自分は現在25歳の主婦で、夫がいる、と。
外食産業で土日出勤も多い夫は会社の仲間と新しく起業して台湾まぜそばのチェーン展開するベンチャーを始めた、と。
そこで異常に忙しくなり、その寂しさから、虎丸と出会い、この2年交際していた、と。
怒りが最初は沸いたが、直ぐに別の感情に差し替えられた。
―感情とは違うか。
虎丸はそう思って、次の想いは実際に口にした。
「他所の男と出て行った母親がどうしても許せなかったが、そうか、おれも同じことをしていていたのか、他人の奥さんを盗っていたのか」




