1 エヴァリスの日常
朝日が薄っすらと窓の外から漏れる。
そばかすひとつない白い頬を光の筋が照らすと、エヴァリスは少しだけ身じろいだ後、直ぐにベッドから身体を起こした。ここはケイネン家の屋敷にある小部屋の1つである。簡素なベッドに一人がけの椅子と小さい机、この部屋を見れば誰もが使用人の部屋だと思うに違いない。
体内時計は毎日同じく時を刻み、もう同じ時間に目が覚めるのは慣れたものだ。大きく伸びをすると、冷たい水で顔を洗いテキパキと身支度を整え始めた。
腰辺りまで伸びる漆黒の髪を黒いリボンで手早く括りまとめると、シワ1つ無い黒いメイド服に袖を通す。エヴァリスの朝は早い。
ケイネン家の長女、エヴァリス・ケイネンがもう随分長い間この様な生活をしていることを誰が想像しただろうか。
他のメイド達が動き出す前に、そっと屋敷の中庭に出れば朝露に濡れた薔薇が瑞々しく咲き誇る。執事のエリオットが手塩にかけて育てた花は今日もまた一段と美しい。エヴァリスか薔薇の花にそっと顔を近づけると甘く胸が踊るような香りが鼻を抜ける。その中から一際美しく咲いている数本手早く切ると、それを籠に入れて厨房に向かった。
「あら、エヴァリスお嬢様。相変らず今日もお早いですね。」
「ライラ、寝坊したのね。右側の髪の毛がはねているわ。」
薔薇の棘を切りながらエヴァリスは挨拶を返す。大きい欠伸を手で隠しながら、厨房に顔を出したメイドのライラはひゅっと欠伸を引っ込めると慌ててはねた髪を押さえつける。
「大丈夫、急がなくてもエルメルダ様の紅茶とお花は用意してあるわ。鏡を見て直していらっしゃい。
…それからもうほぼ諦めているけどエルメルダ様の前では私をお嬢様、なんて呼んだら駄目よ。」
お昼抜きにされてしまうわよ。そう言ってクスクス笑いながら綺麗に花瓶に薔薇を生けるエヴァリスを見て、ライラは小さくため息をつく。
「エヴァリス様は優しすぎます。あんな扱いを受けられているのにライラの心配まで。」
「エルメルダ様は王女様になる方よ。こうして役に立てるのなら誉れよ。」
またそんなこと言って…。と頬を膨らませながら寝癖を撫でつけるライラに肩を竦めてみせると、エヴァリスはワゴンの上に紅茶を乗せて厨房を後にする。もう何年間も繰り返しているこの日課だが、まるで罰ゲームのくじを引くかのようないらぬドキドキ感。廊下を静かに歩き、エルメルダの部屋の前まで来ると、1つ大きく息を吐く。
コンコンコン…。大きく3回ノックをしてから何秒か待つ。
「エルメルダ様、お目覚めのお時間でございます。」
当然ながら返事はない。さてと…。今日のご機嫌はいかがだろうか。
「失礼いたします。」
エヴァリスはドアノブをひねると、ゆっくりとドアを開き部屋の中に入る。薄暗い部屋の中、白いレースの天蓋カーテンの向こうからは、すぅすぅと寝息を立てるエルメルダ。カーテンをゆっくりと開けながら陽の光を少しずつ取り込むと、「ん゙ん…」と不機嫌そうに身じろぐ声が聞こえる。
「エルメルダ様、起きてください。紅茶をお持ち致しました。」
エヴァリスがそう言いながら手際よく、ティーカップに紅茶を注ぐと美味しそうな香りに引き寄せられたか、大きな舌打ちとともに、エヴァリスと瓜二つの顔がベッドからこちらを睨みつける。
「煩いわね、何度も言わなくても聞こえているわよ。」
「申し訳ございません。お返事がなかったので。」
エルメルダは朝がめっぽう弱い。以前、朝からお前の顔を見たくないと言われてからエヴァリスは支度を手伝う間、エルメルダの方に顔を向けてはいけないのだ。エヴァリスは返事を返しながら、淹れたての紅茶をサイドテーブルに乗せた。そして先程生けた薔薇の花の花瓶を飾ろうとした時、エルメルダが目を細める。
「…薔薇ね。」
「昨日エルメルダ様が摘んでくるようにおっしゃったので。先程ご用意してまいりました。」
「今日はこの香りの気分じゃないわ、下げて。」
「…かしこまりました。」
そう返事を返して、素直にワゴンに戻そうとするとエルメルダはハッと鼻で笑いながらそれを見つめる。
もうこの手のことでは心が揺らぐことはなくなった。むしろ虫の居所が悪く紅茶を投げつけられることがないのなら床を掃除する手間が省けて良しとするくらいには。
窓から朝日に照らされて差し込む光が、自身のそれとは違うまばゆい白銀の髪の毛が美しく煌く。
それを目の端で感じていると急にエルメルダに呼び止められた。
「そうだわエヴァリス、今日はセオリア様とお茶をする日なの。あなたも一緒に来なさい。」
「しかし本日の護衛はガイデンが同行する予定ですが。」
「あなたは私のことを守るのが仕事でしょ。一緒に来るのは当然だわ。セオリア様と仲を深めている間エヴァリスはちゃーんと私のことを側で守ってね。」
いつものように命がけで。スラリとした長い脚を組みながら、見るものを虜にするようなイタズラな瞳でエルメルダは微笑みかける。双子だから…というわけではなく彼女は思っていることが直ぐに顔に出るタイプである。その瞳が悪戯に嬉々とするのに内心ため息をつきながらエヴァリスの表情は変わらない。
「…承知致しました。私も同行致します。」
これはかつて、同じ日に生まれ誰もが微笑むほど仲が良かった双子の姉妹の現在の姿だ。
あの悪夢の瞬間。今まで普通の令嬢として育てられた、自信がなく引っ込み思案だった5歳の少女は一夜にして将来の王女として崇められることになったのだ。
元々引っ込み思案だった妹のエルメルダは、この時を境に人前に堂々と出られるようになった。内気で怖がりだった性格は身を潜め、その美貌と穏やかなほほ笑みから白の妖精として人々から愛されている。
愛らしい容姿と、その癒しの力で人や動物を愛で国の希望となる。
…だが人々からの称賛は彼女の心に少しずつ歪みを生む。
◇
「ガシャーン」
あれは7歳の頃。エヴァリスとエルメルダが屋敷の中でかくれんぼをして遊んでいた時、入ってはいけないと言われていた父の書斎に忍び込んだエルメルダが本棚の後ろに隠れようとした際に誤って父の大切にしている置物を壊してしまった事があった。
「エル、どうしたの?」
大きな音を聞きつけ、部屋に走ってきたエヴァリスはバキバキに割れてしまったガラスの像を見てしゃくり上げて泣くエルメルダを見つけた。
「エヴァ…私お父様の大事なものを壊しちゃった。」
「怪我はない?ガラスで何処か切っていない?」
首を振りながらポロポロと泣き続けるエルメルダをみて、エヴァリスは手を握る。
「大丈夫、お父様なら許してくれるわ。」
「だめよ、こんなの見つかったらきっとお父様私のことを嫌いになるわ。」
エヴァリスは少し考え込むと、エルメルダの涙を自身の洋服で拭うとニッコリと笑って見せる。
「じゃあ、私がやったことにすれば良いわ。」
「えっ!?でも…そんな事したらエヴァが…。」
「私はいつもお父様に怒られているし大丈夫よ。任せて。」
『エルメルダの事は私が守るわ。』
その後、エルメルダの代わりに父に謝りに行ったエヴァリスは左の頬を力強く叩かれた。
あまりの力に体がよろめき床に倒れこむも、父は大声で立て!!と唾をまき散らす。
言うとおりに立ち上がると激昂する父の怒鳴り声を聞きながら、エヴァリスは謝りながら下を向いた。
「お前は!ただでさえ周りから好奇の目にさらされているのに、どうして大人しくしていられない。少しはエルの爪の垢でも煎じて飲みなさい。」
普段は優しい父親の人が変わったような形相にガタガタと震えながら部屋の外でエルメルダは声を殺していた。母はうなだれながらそれを見つめ、ただポツリと呟く。
「どうしてこの子は駄目なのかしら。」と。
長いお説教が終わった後。夕食を抜かれぽつんと一人でベッドに横になるエヴァリスの元に、トントンと小さいノックが聞こえた。音の方を振り返ると執事のエリオットが静かに顔を出す。
「エヴァリス様、お腹が空いたでしょう。」
エリオットは白い布から小さいパンを2つ取り出しエヴァリスに差し出した。途端にぐぅーっと小さく腹の虫がなく。
「でも…。」
「ご心配いりません、旦那様達は今お食事を召し上がっている最中です。それにエヴァリス様が心のお優しいお嬢様だということを私は知っております。」
エヴァリスは膝の上のパンからハッとしてエリオットを見る。優しくシワの寄った目尻に柔らかい笑みがあるのを見てエヴァリスは小さく鼻をすする。
「旦那様も、奥様も厳しくなさるのはエヴァリス様を思ってのことです。どうか分かってあげてください。」
「お父様もお母様も私のせいでたくさん泣かせてしまうの。大好きなのにいつも泣かせてしまうの。」
エリオットは、エヴァリスの小さな背中に優しく手を添えるとトントンと労るように撫でる。
「お食べなさい。パンが柔らかいうちに。」
甘く柔らかいはずのパンは、エヴァリスの涙が伝い少し塩っぱくなる。「ありがとう。」と言いながら黙々とパンを少しずつ頬張るその様子をただ黙って見守ることしか出来ない事を執事のエリオットも理解している。人々に様々な加護を与える魔法が、時として残酷にまだ7歳の自身を守る術を持つはずのない少女に重くのしかかる。
このケイネン家に従事して何十年。あの日を境に幸せだった屋敷は一変してしまった。エリオットは心の中で祈る。女神の加護よ、どうかこの無力な少女を…せめてこれ以上一人にさせないようにと願うばかりであった。