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後編



 カッシュさんの口から出た言葉に、私は一瞬だけ動きを止めた。


――落ち人。


 それはこの世界での異世界人の呼び名だ。国によっては稀人とか、渡り人などとも言うらしい。


「……知ってたんですか?」


 私は落ち人だということを周知していない。雇い主でもありアンナおばあさんと友人だったロレッタさんと夫のロジーさんは知っているが、町の人はほとんど知らないだろう。当然、カッシュさんも知らないものと思っていた。


「はじめて会ったときにすぐにわかった。俺はこの町の出身じゃない。若い頃は色々な国を旅して回っていた。でもこれまで一度もリセに似た種族を見たことがない。もちろん、俺が知らないだけかもしれない。けれど、リセはそうじゃないだろう?」


 私は否定も肯定もしなかった。けれどカッシュさんは私が落ち人という前提で話を進めた。


「俺の家族は、もう誰もいない。拠り所となる人間がいないってことは、俺のような年齢になったって結構きつい。……落ち人は、皆一人でこの世界にやってくる。家族から、友人から、あるいは恋人から切り離されて、たった一人で見知らぬ世界で生きていかなければならない。もし俺だったらと、想像しただけでも気が滅入って来る」


 確かにまったく知らない別の世界に来てしまった苦労はあったけれど、私の場合は運が良かった。すぐにアンナおばあさんに拾われたし、おばあさんが亡くなってからはロレッタさんとロジーさんにお世話になっている。


 家族や友人にはもちろん会いたい。帰りたい、と今でも思う。でもこちらに来た落ち人で帰った人はいないと早い段階で知った私は、この世界で生きて行くことに集中した。だから多分、カッシュさんが思っているよりも私の置かれた状況は悲惨じゃない。

 

「けど、リセは違った。俺の浅い同情心なんてふっとばす勢いで、懸命にこの世界で生きていた。俺はいつも一生懸命で健気なリセが心配で、それでも笑顔を絶やさないリセから目が離せなくなって……気付いたら誰よりも、リセを大切に想うようになっていた」


「……カッシュさん」


 カッシュさんの台詞は、まるで異世界トリップした主人公たちがヒーローたちから貰っていた言葉みたいに甘くて優しい。


 そんな言葉たちが自分に与えられていることが信じられなくて、けれどとても嬉しくて。全身の肌がムズムズと泡立つような感覚が私を襲った。


「リセが俺を頼ってくれるなら、俺は全力でそれに応える。これからずっと、傍にいる。一生リセだけを愛すると誓う。だからどうか……俺の家族になって欲しい」


 交際をすっとばして求婚してきたカッシュさんに、けれど私は少しも引いたりしなかった。カッシュさんは真面目で、誠実で、きっとモテるだろうに浮いた噂なんて一つもなくて。そんなカッシュさんなら絶対宣言通りに、一生私だけを愛してくれるのだろうと確信できたから。


 でも、だからってすんなり求婚を受けることは出来ない。


 だって、私がカッシュさんに相応しくない。


 私は力なく顔を俯け、首を横に振る。


「カッシュさん、私……私じゃ駄目です。カッシュさんにはもっと相応しい人がいます……」


 自分で言っていて、涙が出てきた。こんないじけてこじらせた女よりも、もっとカッシュさんに相応しい人は絶対にいる。こんなに素敵な人の傍にいるのが私なんて、申し訳なさすぎる。



――本当は、あの時騎士様にたった一人で森に残されて、怖かった。



 明らかにこの世界のものではない服を身に纏っていた私を見ても、騎士様は何も聞かなかった。どうでもいいと思っていたのか、それとも関わったら面倒臭いとでも思っていたのか。


 そんな騎士様に対して、怒りのような、憎しみのような、もやもやとした想いをずっと抱えていた。放置されても良い人間だと思われたことが、悲しかった。


 自分には価値がないのだと、あの時に私の中に刷り込まれてしまった。


 その日からどんどんと、私の中で私の価値は下がっていった。私がもっと綺麗だったら、可愛かったら、若かったら。騎士様は親身になって助けてくれたのかなって。


 血なまぐさい現場に、死んでいるとはいえ獣のそばに、女一人で置いて行ったりしなかったのかなって。


 カッシュさんで妥協していたわけじゃない。カッシュさんは絶対にあの騎士様のように私を見捨てないと、心のどこかでわかっていたからだ。それほどに、カッシュさんの私を見る目は優しかったから。


 今もそう。カッシュさんは優しく私を見つめている。


「リセ。俺が嫌いか?」


「嫌いじゃないです……! そんなわけない!」


 太い眉を下げ、大きな身体を丸めて、覗き込むようにこちらを窺うカッシュさんを、こんな時だけど可愛いと思ってしまう。


 本当にこの人は、素敵な人だ。そして私などよりもよほど素直で可愛い。優しくて誠実で可愛くて。本当にこの人の隣に私がいてもいいのか、誰か教えて欲しい。


「なら、どうか受け入れてくれ。そうでなければ、俺は俺じゃない男の傍にいるリセを、ずっと見守り続けなくちゃならない。さすがにそれは……少しきつい」


 どうやらカッシュさんの中では、私を見守り続けることは決定事項らしい。というより、カッシュさん以外私を貰ってくれる人はいないと思う。


 いいのかな、と。少しだけ自分の心を包む強固な殻にヒビが入った。


 この人の隣にいるのが、私でもいいのかな。カッシュさんへの想いを先へ進めていいのかなと、ここまでカッシュさんに言葉を尽くして貰ってもなお、この期に及んでまだ誰かの許しを得たいと思っている私はとんだ愚か者だ。


 けれど、それでも誰かの許しを得たいと望むなら、それを私が聴くべき相手は一人だけ。


 カッシュさんがこれまでにくれた言葉をすべて思い出し、私はなけなしの勇気を振り絞った。


「私……何にも持っていないですよ? 若くないし、美人じゃないし、可愛気だってないんです。それでも良いんですか?」


「言っただろう。リセは可愛い。リセ以外はいらない。それに、俺だって何も持っていない。これから二人で築いていけばいい」


 カッシュさんが真剣な表情を崩して笑った。すると途端に、強面から可愛らしい、人懐こい笑顔へと変わる。


 逆光に照らされた濃い灰色の髪が銀色に輝いているのを見て、ああ、本当に私には過ぎた人だと胸が高鳴り過ぎて苦しくなった。


――けれど、手を伸ばせば触れられる。


 無意識に伸ばされた私の手を、カッシュさんの大きな手が包み込んだ。


 ずっと求めていた温もりを与えられた私は、もう自分の気持ちに抗うことは出来なかった。


 いつも私を支配していた頑固で卑屈で強固な殻は、カッシュさんの前では溶けてほどけてなくなってしまう。


「リセ……リセが好きだ」


 カッシュさんは私の手を自分の頬に当て、愛おしそうに目を細めて私を見つめている。


「私も……私も好きです。……カッシュさんが好きです」


 一度自分の気持ちに素直になってしまえば、言葉と一緒に涙がぽろぽろとこぼれ落ちてきた。


 誰にも求められなかった私を、カッシュさんが求めてくれた。


 価値などないと思っていた私を、カッシュさんが認めてくれた。

 

 密かにずっと憧れていた人が、私を望んでくれた。それはとても現実とは思えないほど、私にとっては奇跡に近い出来事だった。




 カッシュさんに出会えた。そのことだけで、私は私をこの世界へ落とした運命を許せるような気がした。


 






 それから二人で日が落ちはじめる頃までボートに揺られた。



 日が沈みゆく中二人で森を歩いて、町へ着いた時にはすっかり日が暮れていて、今度は月明かりの中また森を歩き、私の家まで二人で帰った。


 その日はロレッタさんとロジーさんから貰った、とっておきのワインを開けた。


 森の夜は少し冷える。私とカッシュさんはどちらからともなく唇を合わせ、お酒で火照った互いの体温を分かち合った。


 これまで生きて来た中で、一番幸せな夜だった。








 デートの翌日、カッシュさんと共に結婚の挨拶をするためにロレッタさんとロジーさんの店を二人で訪ねた。


 アンナおばあさん亡き今、ロレッタさんとロジーさんの二人はこの世界での私の両親代わりであり、二人には真っ先に知らせたいと私が言ったからだ。


「「結婚⁉」」」

 

 二人の声が見事に重なった。


 二人には正に青天の霹靂だっただろう。私とカッシュさんは本当に昨日まで、ただの客と店の従業員に過ぎなかったのだから。それでも私とカッシュさんはこの世界ではもう良い年齢同士のため、結婚するなら早い方がいいだろうと二人で話し合った結果だった。


 二人とも最初は驚いていたけれど、カッシュさんの人柄を知っているためすぐに笑顔で祝福してくれた。


「アンナにも見せたかったねえ……」


 そう言ったロレッタさんの言葉に、ロジーさんがうんうんと頷いていた。


――本当だね。ロレッタさん。ロジーさん。


――アンナおばあさんに、カッシュさんを見せたかったなあ。








 私とカッシュさんは、カッシュさんのプロポーズから半年後に式を挙げた。

 

 結婚式は控えめなものにした。


 カッシュさんと私の知り合いだけの、小規模なものだった。けれど私とカッシュさんが結婚したことはすぐに町中に広まった。町で会う知り合いすべてに「おめでとう」と祝福され、私はその度に顔を真っ赤にしてお礼を言った。


 それから――。


 一度だけ、森の中で獣から私を助けてくれた騎士様と町の中ですれ違ったことがあった。騎士様に気付いた私がうっかり声をあげると、騎士様もその声に気付き足を止めて私を振り返った。


 騎士様はすぐには私のことがわからなかったようで眉を顰めたり首を傾げたりしていたが、しばらくすると思い出したのか「ああ、君あの時の」と言って笑顔を見せてくれた。


 私があの時の礼を言ってまた歩きだそうとしたところで、騎士様に呼び止められた。


 そして驚いたことに謝られた。


 あの時の騎士様は上司からの緊急の呼び出しでとても急いでいて、私のことは気になったが呼び出しの方を優先させたらしい。獣は倒したし、獣の特性からいってあれ以上別の個体が出ることはないと踏んだそうだ。


 私が落ち人だということは薄々気が付いていたらしいが、軍部へ連れていくわけにも行かないし、これ以上上司を待たせるわけにもいかない。町も近いし(こっちの人の感覚では近いらしい)平気だろうと思ったと。  

 今になって思えば、上司の呼び出しに遅れてでも町へ送り届けるべきだったと言って、騎士様は私にもう一度謝ってくれた。


 じっくりと話してみたところ、どうもこの騎士様はまだ若い上に、当時はまだ本当の新人騎士様だったらしい。なので、ああいった場面で下すべき判断を間違うことも多々あったのだとか。


 確かにあの時はこの世界に来たばかりで心細かったため、騎士様に置いて行かれたのは結構堪えた。けれど、騎士様もアンナおばあさんも言っていたとおり、あの獣が私が襲われた場所に出るのは本当に稀らしいし、騎士様だってそれを分かっていたからこそ安心(?)して私をその場に残す決断をしたのだろうと思う。


 騎士様の言い分を聞いた後では、ああいった場面での判断は人それぞれなのだなと私も納得することが出来た。

 まあそれでも、あの場面で女性を一人にするべきではなかったとは今でも思う。でも騎士様本人もそれは分かっていたらしいので、ここはもう助けられた身としては心の広さを見せるしかないだろう。


 再会してからこちら意外にも恐縮しっぱなしの騎士様に「もう気にしないで欲しい」と告げると、騎士様はほっとしたように力の抜けた笑顔を見せてくれた。

 その笑顔を見た瞬間、私の中にわずかに残っていたしこりのようなものが、完全に溶けて消えていくのを感じた。


 騎士様とお互いに笑顔で別れたあとの私の気持ちは、とても晴れ晴れとしていた。無性にカッシュさんに会いたくなった。



 そして私たちは今、森の中の家に二人で暮らしている。



 カッシュさんの職場からは遠くなってしまったけれど、カッシュさんの住んでいた家は町中にあるのであまり広さがない。子どもが生まれたときのことを考えて、広さだけはある森の中の家に住むことに決めたのだ。


 カッシュさんは結婚してからもとても優しかった。優しいというよりも甘い。強面で口数の少ない普段の姿からは想像もできないほど、恋人として、夫として私を甘やかしてくれる。

 けれどロジーさんも無口だけれどロレッタさんに対してはいつもマメで優しいため、もしかしたらこれがこの世界の男の人の標準なのかもしれない。


(考えてみれば、この世界に来てから嫌な想いって、あまりしたことないな……)


 騎士様のことはイレギュラーだったし、三年越しで和解も果たした。そう考えると元の世界にいた時のほうが周囲の視線や言葉に気分を左右され、よっぽどくさくさしていたかもしれない。


 新たな発見に一人でニヤついているとカッシュさんが起きてきて、朝ごはんの支度をしていた私に擦り寄って来た。


「おはようございます。カッシュさん」


「おはようリセ。今日も綺麗だ」


 こんな風に突然贈られるカッシュさんからの誉め言葉を、まだ賛美に慣れない私はしどろもどろになりながらも謙遜せずに受け入れることにしている。


「……ありがとうございます」


 絶対綺麗なんかじゃないと自分では思うのだけれど、カッシュさんが毎日、綺麗だ、愛していると言ってくれるから、ほんの少しだけ、こんな自分にも価値があるのではないかと思えてきたからだ。


「リセ。……愛している」


 そういってカッシュさんは私の頬を愛おし気に撫でる。これもいつものことだ。


 朝食を食べ終えたら、カッシュさんは町まで仕事に出かける。そしてその後、後片付けをした私が仕事に出ると言うのが今の私たちの日常だ。


 ちなみに夕飯は早く帰った方が作ることになっているのだけれど、大体帰りが一緒になることが多いので結局は二人で台所に立つことがほとんどだ。私も仕事が終わるのは早いけれど、大工の仕事も結構上りが早い。陽が落ちてからでは危険だからだ。


 結婚してから知ったことだが、カッシュさんは料理も家事も一人でなんでも出来た。貴族と違って平民はお手伝いさんなんて雇わないし、カッシュさんは今まで一人暮らしをしていたのだから出来て当然と言えば当然なのだけれど、この世界の人間は早くに結婚をする人が多いから料理や家事は奥さん任せで家事全般出来る男性の方が実は珍しかったりする。


 それにカッシュさんの大工としての腕は私が思っていたよりも相当良かったようで、町の外からも依頼が舞い込むことがあるほどだった。カッシュさんのお父さんが大工さんだったらしく、小さい頃から大工見習いとして働いていたそうだ。


 町の外へ出張する時など当然カッシュさんは家を空けることになるのだけれど、カッシュさんはいつも自分のいない間に私が体調を崩しても大丈夫なように、カッシュさんがいない日数分の食料の確保と、ロレッタさんとロジーさんへの周知と援助のお願いを忘れない。


 援助と言っても本当に何か不測の事態が起こった時にという意味なのだけれど、普通にあの二人にはいつもお世話になっているので今更感はあった。


 そしてこれも結婚してから知ったことなのだが、若い頃カッシュさんが世界中を旅していたのって、実は冒険者をしていたからなのだという。


 若い頃のカッシュさんはお父さんのあとを継いで大工になることに抵抗があったらしく、十八の時に家を飛び出して冒険者になったらしい。今ではそんな昔の自分のことを「若かったな」などと言って笑っている。


 私が襲われた獣のことを話しても、過去の私を心配しがてら(そして騎士様に対してちょっと怒っていた)、そういえば以前あの獣の群れに襲われたことがあったなと平然とした表情で話していた。


 冒険者を引退したのは怪我をしたことが理由らしいが、今でもあの獣一匹くらいなら素手でも余裕で倒せるそうだ。素手でどう倒すのか私などには想像もつかないが、これで今度あの獣に襲われても安心だ。――いや、その場にカッシュさんがいなければ駄目か。


 それはともかく。


 カッシュさんは美形でも特別イケメンでもないけれど、優しくて頼りになって仕事も出来て笑うと可愛い。


 こんな素敵な旦那様に愛されて、実は元の世界にいたときよりも幸せな未来を掴んだんじゃないかなと思う、今日この頃。元の世界にいたままでカッシュさんのような旦那様をゲットすることは、きっと私には難しかっただろう。


 よって。

 


 神よ。突然の異世界トリップ……――しょうがないから許してやる!












♯――カッシュ




 


 若い頃は冒険者をしていた。


 特別強かったわけではない。中堅の冒険者だ。だが俺の目的は名を馳せることではなく世界を見て回ることだったからそれでも良かった。――というのは早々に己の冒険者としての才能の果てを見てしまったがための、ただの言い訳なのかもしれない。


 それでも十八で冒険者の門を叩いてから十年程世界を見て回っていたある日。俺は戦いの最中小さくない怪我を負った。別に普通に生活をしていくにはなんてことのない怪我だ。けれど中堅の冒険者としては致命的な怪我だった。


 難易度の低い依頼だけを受けていれば、まだまだ冒険者は続けられた。けれどそれを良しとしなかったのは、俺にも冒険者としての意地らしきものがあったのだろう。強さに拘っているつもりはなかったが、どうやら同業者に落ちぶれたと思われるのを厭ったようだ。


 それからの俺は生きて行くために、若い頃家を出るほど抵抗していた親父の後を継ぐことに決めた。冒険者時代に蓄えた貯金もわずかながらあったが、残りの人生をその金に縋って生きるにはまだまだ余生が長すぎた。


 家に帰り、親父に頭を下げた。その時には、すでにお袋は死んでいた。勝手に家を出て、勝手に帰ってきた俺を、親父は怒ることもなく受け入れた。


 元々冒険者よりも筋が良かったらしい大工の腕前は、十年以上間が空いていたにも関わらず、どんどんと上達していった。


 親父について五年ほど技術を学んだあと、家を出た。親父が死んだからだ。


 馴染みのある土地で親父の後を継ぎ大工として生きて行くことも出来たが、幾分放浪癖のある俺は、やはり新たな土地で再出発することを選んだ。


 一年ほど落ち着く場所を探して旅をした。そしてこの町に辿り着いた。かつて冒険者をしていた時に、一度だけ立ち寄った町だった。森の中にある美しい湖が、記憶の底にいつまでも鮮やかに残っていた。だから、この町へ来たのかもしれない。


 最初は、それほど長く居着くつもりはなかった。これまでのように、数年過ごしたらまた飽きて他の場所へ移るだろうと思っていた。


 しかし、結果的にはこの町での生活がこれまでの人生の中で一番長く、そして幸福に満ち溢れたものとなることなど、この時の俺にはまだ知る由もない。







 俺はこの町ですぐに仕事にありつくことが出来た。今思えばそれも運命というやつだったのかもしれない。この町に着いたその夜に入った飲み屋で隣に座った人間が、この町の住人に顔が利く人間だったのだ。

 俺がしばらくこの町に滞在するつもりであり大工の職を探していると話すと、それならと、この町で長く大工をやっている人間を紹介してくれた。


 今は親方と慕うその大工は、とても気の良い人間だった。数人いる親方の弟子たちも、急に現れた俺を快く迎えてくれた。


 この町の人間はみな穏やかで人が良い。自分では無自覚だったが、そのことも俺がもう一度この町に足を向けた理由だったのかもしれない。


 その親方に安くて美味い店だと紹介されたのが、リセのいるパン屋だった。





 仕事の昼休み、どこか店に食べに行くには時間が足りず、持ち帰りが出来、なおかつ美味いというリセのいる店は大工仲間たちの間で評判だった。


 その店は最初は何も入っていないただのパンしか売っていなかったそうだが、リセが来てからパンの種類が増えたのだとか。


 豆や野菜や乾燥した果物をパン生地に練り込んだものや、パンとパンの間に惣菜を挟んだり、生地の中に隠したりしたものなどだ。


 特に惣菜を別に買わなくても良いように、最初からパンに挟んだり包み込むという今までにない仕様のパンは瞬く間に町中へと広がったようだ。

 生地に惣菜を包むのは自宅で焼かない限り無理だが、挟むのはどこの家庭でも出来る。今ではどこの家庭でもリセの店のパンを真似て、パンに何かを挟むようになっているらしい。


 それに、町にパン屋はその一軒だけではない。すぐに他の店もリセのいるパン屋の真似をするようになった。


 それでもその店の売り上げが落ちなかったのは、次々と新しい商品が陳列棚に並ぶことと、店のパン自体が他の店では真似できない程の絶品だったからだそうだ。


 俺もすぐにその店の常連になった。


 そして俺がはじめて店に入った時に対応してくれた店員がリセで、俺は直感的に、リセのことを落ち人だと思った。


 彼女にはどこか違和感があった。この世界に馴染んでいないとでもいうのか、彼女を取り巻く空気と周囲の空気との間には、薄い膜のようなものが感じられた。


 それに、リセはその容貌が特殊だった。


 俺は冒険者時代さんざん世界を旅したけれど、リセのような容貌を持つ種族には出会ったことがない。艶やかな黒髪に、少し琥珀がかった白い肌。肉付きの良い身体は抱き心地が良さそうだったが、目の形、鼻の形、唇の形。そのどれも、今まで見たことのないものだった。


 そして顔の作り自体はあっさりとしているにもかかわらず、妙に印象に残る作りでもあった。


 もし彼女が落ち人だとしたら、大変な苦労をして今ここにいるのだろうと思った。全く異なる土地へ馴染むには、時間もかかるし本人の努力もいる。それが世界が異なるともなればなおさらだ。


 あとでそれとなくリセのいないところでパン屋の主人に聞いてみたところ、はっきりとは答えなかったがどうやら俺の推測は合っているようだった。俺はやはりリセは落ち人であると確信した。


 すでにこの世に身寄りのいない己と落ち人のリセを重ねたのか、なんとなく気になって、なんとなく心配して――。


 今日は元気か、体調を崩していないか。パンを買いに行く度に彼女の様子を窺い、彼女の笑顔を見ては安堵していた。

 

 彼女が俺に向ける笑顔は商売用のものだったけれど、無理に笑っている様子はなかったから、それでも良いと思っていた。


 そして店に通うようになって数か月経ち彼女ともすっかり顔見知りになった頃、今までの商売用の笑顔とは違う、彼女の本当の笑顔をはじめて見ることになる。


 その時の衝撃と言ったら、今でもはっきりと思い出せるほどだ。


 彼女の笑顔は、無垢でありながら艶めいていた。普段は少しぼんやりとした印象の顔が、笑った途端に華やいだ。


 その笑顔はまるで花が綻ぶ様を見ているかのように、優しく、神秘的だった。


 大輪の花ではない。けれどひたむきな美しさを持つ花だった。


 その時から、俺にとっての彼女は庇護の対象から恋慕の対象へと変化した。いや、庇護の心はいつだって持っていたし今でも持っている。


 彼女が心安らかに暮らせるよう、俺は何でもするつもりだった。ただ当時はあまりにも急激に変化した己の感情を彼女にぶつけないようにと、己を律することに精一杯だった。


 彼女は落ち人だ。この世界での拠り所を欲してはいるだろうが、それは誰でも良いわけではない。彼女が心から望む者でなければ意味がないのだ。


 俺が気持ちを押し付ければ、彼女は寂しさのあまり自分の気持ちを欺き、俺を受け入れてしまうかもしれない。それを恐れた。


 まだ早い。そう思った。


 ずっと彼女の傍にいるためには、誰でも良いのではなく、この人だから良いのだと彼女に受け入れられなくてはならない。彼女の心の弱さに付けこむような真似だけはしてはならないと、己に言い聞かせた。


――その間に彼女に付きそうな悪い虫を陰ながら排除していたことは、結婚した今でも彼女には内緒だ。






 彼女と出会い一年が過ぎた頃、ようやく彼女の心の陰りが薄れてきたことを感じた。ふいに見せる表情に、憂いがなくなった。


 彼女には心を許して貰っていると感じていた。それが恋愛感情かどうかまではまだはっきりとはわからなかったが、少なくとも今ならば俺の感情をぶつけたとしても、無抵抗に受け入れることはしないだろうと思った。


 むしろ受け入れて貰えない恐れも出てきてしまったが、そこは誠意と根性あるのみだと覚悟していた。女性を口説くのは男にとっては当たり前のことだ。だが俺は特に口が上手いというわけではないので、とにかく行動で示そうと思っていた。


 今更他の女性に乗り換える気などさらさらない。彼女から本当に拒絶されない限り、彼女の愛を得られるまではいつまででも待つつもりだった。


 しかし、そんな俺の覚悟は杞憂に終わった。


 少しの抵抗はあったが、彼女はすぐに俺の気持ちを受け入れてくれた。泣きながら、縋るようにこちらに向かって伸ばされた手を取った瞬間、愛しさで胸がはち切れそうになった。


 もう、寂しい思いも、悲しい思いもさせない。死ぬまで彼女を愛しつくそうと新たな覚悟を胸に抱いた。







 それからすぐに結婚をし、子どもも生まれ、増えた家族とともに俺はいつまでも彼女を愛し続けた。


 最初は同情だった。だが感情は次第に変化していき、恋慕を抱くまでにはそう時間はかからなかった。

 そして今では彼女は俺の大切な家族であり、どれだけ言葉を尽くしても言い表せないほどに、俺という人間を形作るすべてとなっている。


 彼女には申し訳ないけれど、この世界に彼女を落としてくれた神に、俺は感謝をしている。彼女のこの世界での拠り所が俺であるように、俺にとっての拠り所もまた彼女になっていたからだ。


 もう彼女の傍以外の、どこにも行きたいとは思わない。今となっては俺が世界中を旅していたことも、きっと彼女に会うためだったのだとすら思っている。





 それから幸せな時を積み重ね、彼女の滑らかな肌には皺が、そして艶やかな黒髪には白いものが交じり始めた。


 けれど、どれだけ歳をとっても彼女は魅力的なままだった。彼女の弱さ、優しさ、そして強さが、いつまでも俺を惹きつけてやまない。


 抱きしめた腕の中で微笑む何よりも愛しい彼女に、俺は今日も愛を囁く。




「リセ。……愛している」



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