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中編



 私がこの店で働き始めたのは二年前。この世界に来て大体一年が経った頃だった。



 この店で働き始める前、私はトリップして最初に辿り着いた家にご厄介になっていた。


 その家には前年旦那さんを亡くしたというアンナおばあさんが一人で住んでいて、まだ若い(とはいえアラサーだが)私が来たことをとても歓迎してくれた。ちょっとした肉体労働がかなり大変になっていたらしい。


 私は家に置いてもらうかわりに家のことは何でもやった。


 掃除、洗濯、料理のほかに、森に自生している食べられる果実や植物の採集。生活必需品の買い足しに町へのお使い。


 結構充実した日々だった。気分はすっかりおばあちゃんのお手伝いをする孫だった。トリップしてすぐに良い人に拾われた私は、やっぱりなんだかんだでツイていたのかもしれない。

 

 しかし穏やかな日々は長くは続かなかった。


 私が来てから八か月程経った頃、アンナおばあさんが亡くなった。夜眠ったきり、朝になっても起きてこなかったのだ。


 私が来る以前から体調を崩していたらしいことは知っていたけれど、これほど急に亡くなるとは思ってもいなかった。


 この世界での保護者を失った私は、当初かなり動揺していた。


 しばらく時間が経ってからようやく町へと出向き、おばあさんの友人だったロレッタさんにおばあさんが亡くなったことを告げ、葬式など諸々の手配をしてもらった。ロジーさんも奥さんの友人であったアンナおばあさんのために、色々と手伝ってくれた。本当にあの二人には頭が上がらない。



 おばあさんが亡くなったことで、私の異世界生活は岐路に立たされた。この家から出て行くか、このまま住み続けるか選ばなければならなくなった。


 あの家での生活はおばあさんの旦那さんが残してくれたお金で成り立っていたため、そろそろお金も尽きる頃だった。少しだけ残ったお金も、おばあさんの葬式代で消えた。


 幸い、私はおばあさんと過ごした約八か月の間にこの世界のことを色々と教わっていた。


 この世界には時々私のように、別の世界から迷い込む人間がいるらしいことも知った。けれどそういった人間たちは別段特別視されてはいないことも教えてくれた。


 ようするに、私には何のステータスもないということ。生きて行くには働かなくてはならない。


 となると、一体私には何が出来るかなと考えることになる。


 私たちが暮らしていた家が森の中にあったのは、亡くなったおじいさんが木こりだったためだ。町へは歩いて二十分ほどの距離であるため、元気な内は何も困ることはなかったという。


 けれど私に木こりは出来ないため、生活費を稼ぐためには町へ働きに出るしかない。何ができるかはまだわからないけれど、仕事を選ばなければ何かはあるはずだ。


 もし町で働くのなら町に住んだ方が効率はいい。町から離れている森へ毎日歩いて帰ることは、仕事に慣れない内はきっと辛く感じるだろう。けれど私が出て行ってしまえばこの家は誰も住む者がいなくなる。


 自分が死んだら家は私に任せたい。生前おばあさんはロレッタさんにそう話していたらしい。売ってもいいし、このまま住んでもいい。ロレッタさんは私の好きにしていいと言ってくれた。


 けれど住む者のいなくなった家はすぐに荒れてしまう。無法者が住み着く恐れもある。私はおばあさんとの思い出の残るこの家を、元のまま残したかった。



 



「ロレッタさんにもロジーさんにも、本当に感謝しています。ここで働くことができなかったら、私どうなっていたかわかりません」


 おばあさんが亡くなった後働き口を探していた私に、だったらこの店で働けばいいと二人は言ってくれたのだ。事情を知っている二人だったから、私は無理に町に住む必要に迫られることもなく、今でもあの森の家で暮らすことが出来ている。


「何言ってるんだい。リセは気立てが良くて働き者だから、どこへ行っても大丈夫だよ。こちらこそ、リセがここへ来てくれて感謝しているんだよ。リセが考えたパンはどれも好評だからね」


 以前はほとんどがプレーンのパンしか置いていなかったロジーさんのお店で元の世界にあったパンを売り出したところ、これが大当たりだったのだ。おかげで店も毎日繁盛しているし、給料もちょっとだけ増えた。


「さ。今日はもう上がりな。また明日もよろしく」


「はい。こちらこそよろしくお願いします。お疲れ様でした」


 ロレッタさんとロジーさんに挨拶をしてから、私は店の外に出た。お二人はまだこれから明日の準備が残っているのだ。私は森の家へと帰るため、就業時間を通常よりも短くしてもらっていた。


 外はまだ完全に夜の帳は下りていなかった。


 高い建物のないこの町では、沈む夕日が良く見える。町全体がオレンジ色から赤色に変わった夕陽に照らされる中、私は店から少し離れたところで所在なさげに佇むカッシュさんを見つけた。カッシュさんは大柄だから遠目でもすぐにわかる。


 何をしているのだろうと思って見ていると、カッシュさんがこちらに向かって歩いて来た。


「カッシュさん?」


「ああ。お疲れ、リセ」


「お疲れ様です。どうしましたか? 店はもう閉まっていますが……」


 店終いの時間はいつもまちまちだ。パンが早くに売切れればそこで店は閉めるけれど、残っていればだいたい五時の鐘が鳴るくらいまでは開けているため、たまに余ったパンを夕飯にと買いに来る客もいる。カッシュさんもそれを狙って来たのだろうかと思ったのだ。


「ああ……いや。……リセに用があって」


「私に?」


 カッシュさんが私に用だなんて、見当もつかない。その気持ちのまま聞き返すと、カッシュさんがいつもよりもほんの少しだけ表情を堅くした。


「……次の休み。良かったら俺と出かけないか?」


「え?」


「そんなに、遠くへは行かない。町から歩いて三十分くらいだ」


「……あ、あの」


「日が暮れるまでには町へと戻る。どうだろうか?」


 いつも真面目なカッシュさんだけれど、今は特に真剣な表情をしている。こちらにもカッシュさんの緊張が伝わってくるようだった。それでようやく、私は今カッシュさんからお誘いを受けているのだと気づくことが出来た。


「……はい」


 一体全体自分に何が起きているのかわからず内心はパニックだったけれど、私はようやく「はい」という言葉だけをなんとか絞りだすことができた。


「……ありがとう。当日は、家まで迎えに行く」


 迎えに来てくれるというカッシュさんに、私は慌てて待ったをかける。町の中心街から三十分は歩くだろう我が家へ、お付き合いをしているわけでもないカッシュさんを迎えに来させるわけにはいかない。


「い、いえ。家は少し遠いので……ロジーさんの店の前で待ち合わせではどうでしょうか?」


「……わかった。では、昼を食べたあと……十三時くらいでどうだろう」


 昼を食べたあと、と聞いた私は少しだけがっかりした。町へ戻って来るのは日が暮れる前。要するに、昼も、夜も、私と一緒には食事をしないということだ。


(食事なんて、恋人同士みたいだもんね……。いやいや! 別に友人でもいいじゃない!)


 デートはデートだ。特別な意味はないデートかも知れないけれど、カッシュさんとのはじめてのデート。


 そう思った私は気を取り直した。普段五分にも満たない時間事務的な会話をするだけの人と、数時間ずっと一緒にいられるのだ。


「はい……! 大丈夫です」


 私の答えを聞いたカッシュさんは、わずかに唇の端を上げ、「それじゃあ」と言って帰って行った。私はそんなカッシュさんの後ろ姿を、茫然として眺める。


 しかし次第にじわじわと、何とも言えない高揚感に心のみならず身体全体が包まれていった。


 デートに、誘われたのだ。


 美男ではない。特別イケメンでもない。

 

 あの騎士様とは全然系統の違う、けれど真面目で、仕事熱心で、笑った顔が可愛いカッシュさんに。


 やりとりの最中、私の顔はきっと真っ赤だったに違いない。けれど辺りはもう薄暗いから、私の顔はカッシュさんには見えていなかったはず。……見えていないことを祈る。


――少しだけがっかりした表情も、見られていないと良い。



 この世界の人間――あるいはこの町の人間は、夫婦や恋人以外の男女で共に食事をすることはほとんどない。もし恋人同士でもない二人がそういった場面を誰かに見られでもしたら、勘違いされること、あるいはからかわれることは必至だ。


 それに一緒に出掛けるということは、まあ互いに相手に気があるということでもあるけれど、食事をしないのならそれは本気ではなく、軽い、というより相手を見定めるためのお付き合いをする前段階のお誘いだということ。


 もちろんそんなことを気にしない人間だっているけれど、この世界の習慣に慣れようとしている私には、きっとそういう意味合いなのだろうなと思えてしまうのだ。


(……いいじゃない、別に。特別じゃなくても)


 お互い気が合うかどうかはお付き合いをする上では重要だ。世紀の大恋愛なんて、結婚している人やお付き合いしている人たち全員が全員経験している訳じゃないだろう。


 それにもし、今回のお誘いで私は「ナシ」だとカッシュさんに判断されてしまっても、この世界で生きて行くには友人だって必要だ。同性と異性という差はあるけれど、アンナおばあさんやロレッタさんのような友人関係をカッシュさんと築ければいい。


 気まずくなって、もう二度とカッシュさんが店に来ないなんて事態にだけはなって欲しくないなと、私は考えていた。



 六時を知らせる鐘の音に、私は俯いていた顔を上げる。陽は完全に落ち、空には月が上り始めていた。

 私は近くにあった外灯から火を拝借し、手に持っていたランプに明かりを灯した。道脇にいくつかあるランプ式の街灯は、町の住人が自由に手持ちのランプに火を移せるようになっているのだ。


 ランプの灯りを見つめて、私は小さく息を吐いた。


 ほんの少しの切なさがあったけれど、それでも私はどこかふわふわとした心持ちで星と月が輝く空の下、森の中にある我が家まで一人歩いた。







 一年とちょっと前。


 カッシュさんが店に来るようになってから、穏やかだけれどモノクロだった私の世界は、静かに、密かに、色づき始めた。



 最初は怖そうな人だと思っていた。


 多分私よりも年上で、濃い灰色の短髪で、瞳は髪よりも薄い灰色。けれどその灰色の瞳が角度によって薄い紫色になるのを発見した瞬間から、私はカッシュさんから目が離せなくなっていた。


 カッシュさんは口数が少なかったけれど、決して不愛想というわけではない。大きく表情は変わらないけれど、会話をしている時には口元がわずかに綻んでいる。


 怖そうな、厳つい顔をしているけれど、よく見れば実は顔のパーツが綺麗に配置された、整った顔をしている。


 肉体労働をして汗を流しているからか、はたまた筋肉がついているからか、カッシュさんの日に焼けている肌は滑らかで綺麗だった。


 ぱっと見は分かりづらいけれど、実はスペックの高いカッシュさん。


 そんなカッシュさんが常連になってから、私は美容に力を入れるようになった。


 ちょっとだけ高い化粧水を買いスキンケアにも力を入れるようになったし、毎日エクササイズもするようになった。食べることが好きだし、体質的にほっそりとまではいかないけれど、最近では効果があったのか身体にメリハリが出てきたように思う。


 元の世界にいた時よりも確実に、自分に手間をかけるようになった。


 年甲斐もなく、少しでもカッシュさんに可愛いと思ってもらいたいと、そう思っていた。



 アラサーの私はこの世界では完全なる行き遅れだ。人種的に多少若く見えるせいかありがたくも時々お客さんから声をかけられることもあるが、そういう人は一度お断りするとすぐに店に姿を見せなくなるか、もう二度と誘いの言葉を口にすることはなくなった。


 私なんかが誘いを断るなんて烏滸がましいと思わないでもなかったが、けれどうっかり誘いに乗ってしまったら相手に依存してしまうのではないかと思い怖かった。

 

 それほど好きでもない相手に、ただ寂しいからという理由だけで執着しそうで怖かった。


 それに、誘いに乗った後、「冗談だよ」と、そう言われるのも怖かった。


 西洋風の容貌を持つこの世界の人達と比べ、東洋風の容貌である私は目立ちつつも埋没しやすい。目につくけれど、心には残らない。それに比べて町行く女性たちは私にとってはとても綺麗な人たちばかりで、そんな中なぜ私に声をかけてくれたのかが分からなかったからだ。


 特に、この世界に来てから出会った騎士様のような美青年など、私にとってはあまりに現実味がなさ過ぎた。


 海外のモデルさんでしか見たことのないような輝く金髪も、宝石のような青い瞳も、繊細な美貌も、神々しすぎて私の姿をその瞳に映すことすら不敬ではないかと思ってしまう。


 あの騎士様に助けられた時だって、二人の出会いが恋愛に発展するなどとは露ほども思っていなかった。あまりにも色々な偏差値が違いすぎると、恋愛対象にはならないものだ。


 美人でもない、可愛くもない、そしてこの世界においてはすでに若くもない私は、自分の価値というものを知っている。身の程を知っている。


 その点カッシュさんは、こんな私でも密かに憧れるくらいなら許されるのではないかと思わせてくれるような、そんな身近な存在だった。

 

 こう言う言い方をすると、まるでカッシュさんで妥協しているようではないかと自分でも思う時がある。でもそうではない。カッシュさんだって、私にとっては高嶺の花だ。


 カッシュさんもどちらかといえば西洋風の顔立ちだし、色彩など騎士様よりも元の世界では珍しいかもしれない。顔も厳つく強面だけれど、でもどことなく何でも受け入れてくれそうな雰囲気がある。包容力を感じる。


 美男ではないし特別イケメンではないけれど、きっと若い頃はモテたのだろうなと思う。ううん。今もきっとモテるはず。

 その証拠に、カッシュさんと同じ常連さんの中には、カッシュさんに好意を持っていそうな人が何人かいた。


 栗色の髪が綺麗なマリーさん。


 色気のあるアイシャさん。


 緑の瞳が美しいフローラさん。


 彼女たちは皆私よりも綺麗で可愛くて、そして若い。


 若い彼女たちが秋波とは言えないまでもちらちらと視線を送るほどには、カッシュさんはどこか目立つ雰囲気を持っている人だ。


 けれど、そんなカッシュさんだけれど――。


 私でも手が届くかもしれない。そんなずうずうしい思いを抱いてしまうほどに、カッシュさんの私を見る目は優しいのだ。



 急に湧き上がって来た羞恥に、私は顔まで布団を引き上げた。両想いの可能性がゼロではない。そんな恋は一体何年ぶりだろうかと、恥ずかしいような、面はゆいような不思議な心地がした。


(ああ……もう寝よう)


 明日も仕事がある。けれど明日が終われば、次の日はカッシュさんとの約束の日だ。


 カッシュさんのことを考えた私は、また突然訪れたふわふわとした心地を堪能しながら、深い眠りへと誘われていった。






 約束の日の前日。


 私は仕事中上の空になるなどといったこともなく、いつもどおりの一日を過ごした。


 カッシュさんも昼にはいつも通り店に来てくれた。いつもと違ったのは、帰り際にカッシュさんが「明日、楽しみにしている」と小声で言ったことだけだ。

 

 その言葉を聞いた瞬間だけは、私の心は舞い上がった。




 そして約束の日。


 私は特別な時にしか着ないワンピースを着ていた。水色の地に白い小花が刺繍された、高価な布をふんだんに使ったワンピースだった。


 知り合いの結婚式、誰かの誕生会、もっと遠くの町へのお出かけ。そんな特別な日に着る時のために、町の仕立て屋さんで仕立ててもらった服だった。


 そわそわしながら店の前で待っていると、時間よりも早くカッシュさんが現れた。普段の仕事着とは違った恰好のカッシュさんを見た私の頬が熱くなった。


 カッシュさんは襟のない白いシャツを着て、ゆったりとしたズボンを穿いている。ズボンは元の世界のチノパンに似ているように見えた。飾り気のない、とてもラフな格好だ。でもカッシュさんにはとても似合っていた。


「早いな、リセ。待たせてしまった」


「いえ。全然待ってないですよ。私の家ちょっと遠いから、いつも時間に余裕を持って出てくるんです」


 そう言えば、幾分ほっとしたようにカッシュさんが微笑む。


「そうか……。では行こうか」


 


 私は歩き出したカッシュさんの後に続く。バスも電車も車もないこの世界では、馬や馬車が一般的な交通手段だ。それ以外は歩く。ひたすら歩く。


 カッシュさんは町から歩いて三十分くらいと言っていたから、それくらいなら全然余裕だ。私もこの世界へと来てから一、二時間くらいなら疲れることなく歩けるようになった。けれどそれ以上になると、やっぱりまだきつい。


 前を歩いていたはずのカッシュさんが、いつの間にか歩く速度を緩め私の隣を歩いていた。


「似合っているな、その服。……すごく綺麗だ」


 こちらを見ることなくかけられた言葉に、私の心臓が鼓動を速めた。カッシュさんが私を見たあと何もいわずに歩き始めた時、実はちょっとがっかりしていたのだ。


(いや、服! 服のことだから!)


 勘違いしないようにと自分を諫めながら歩くこと十分。


 町の外れまで来ると、すぐに森の入り口が見えてきた。これから行く森は、私の家のある森とは町を挟んで反対の方向だった。


 けれど同じ地区にある森はどこも似ているもののようだ。その森も私の家のある森も、景色がとても似ていた。


「リセの家も森の中だと、以前言っていたな」


「はい。一緒に暮らしていたおばあさんが住んでいた家なんです」


 木漏れ日の降り注ぐ森の小道を、カッシュさんと他愛もない会話をしながら歩いた。


 互いの仕事のことや、休日は何をしているのかなど。


 それ以外の主な話題は、私の暮らす森の中での生活のことだった。危険はないか、不便はないかなど、私のことを心配してくれた。


 そうやってさらに二十分ほど歩くと、木々の開けた場所に出た。


 そして目の前に現れた鮮烈な青。


 カッシュさんが連れてきてくれたのは、湖だった。


「すごい……綺麗!」


 反対側の森にこんなに綺麗な湖があったことなど知らなかった。湖はそれほど大きくはないけれど、驚くほどに青く澄んでいる。


 その湖の岸にはボートが一隻だけ繋がれていた。


「ボートがある……」


「ああ。今日のために造っておいた」


「造っておいた⁉」


 カッシュさんは腕のいい大工だから、きっと小さなボートを作ることくらいわけないことはわかる。けれどお誘いを受けたのが一昨日なので、それだとかなりの急ピッチで仕上げたことになってしまう。


「……造ったのは、もっと前だ」


 考えていることが顔に出ていたのだろう。カッシュさんは私が疑問に思っていたことを教えてくれた。


 だがカッシュさんは造ったのはもっと前というけれど、今日のために造っておいたとも言った。どういうことかと私は内心で首をかしげる。


「ずっと誘おうと思っていたんだ……」


 少し頬を赤らめたカッシュさんにつられて私の頬も瞬時に熱くなり、期待に胸が膨らんだ。


(ずっと……? ずっとっていつから……?)


 カッシュさんは無言で杭に結ばれたボートの縄を解き、ボートの上に乗った。


「リセ」


 名を呼ばれ、手を差し伸べられる。その大きく分厚い掌に己の手を乗せるのが、たまらなく恥ずかしかった。


 カッシュさんは私が腰を降ろすのをじっと見ていた。そして私が座ったのを確認してから、自分もゆっくりと腰を降ろす。少し揺れたけれど、ボートは安定していた。


(あれ? 体重差が……)


 しかし私はすぐに私の座った席の隣に置いてある、重しらしき袋に気が付いた。その私の視線を辿ったカッシュさんが、頬を緩める。


「俺は体格が良いから。重しがないとリセの座る側が宙に浮いてしまう」


「そっか……。そうですね」


 私はそこまで小柄ではないしお肉だって普通の女子よりはついていると思うけれど、さすがに身長も高く身体に厚みのあるカッシュさんとは比べるべくもない。


 私はちらっと、目の前に座るカッシュさんを盗み見る。

 

 元の世界での生活圏内では、ここまで体格の良い男性にはあまりお目にかかることはなかった。けれどこの世界ではカッシュさんくらいの体格の人にはまあまあ出会うことがある。まあ、人種が違うのだから当然といえば当然だ。


 岸が近い場所ではそろそろと慎重に、そして岸から離れた瞬間カッシュさんがオールを力強く一漕ぎした。その一漕ぎでボートはぐんと湖の中心に向かって進んだ。

 遠目からみると青い湖だったが、水は驚くほどに澄んでいる。結構深いだろう湖の底まで覗くことが出来た。


 じっと湖面を見ていると鯉くらいはありそうな大きな緑色の魚の群れが、ボートの下を横切った。


「すごい……大きな魚。……美味しそう」


 うっかり心の声を口に出してしまい、私はあわててカッシュさんの方を見る。食い意地が張っていることがバレてしまった。

 だが幻滅されるかと思いきやカッシュさんの表情は幻滅とは程遠く、むしろわずかに口の端が上がっている。まあ、笑ってくれただけマシだ。


「ここの湖の魚は食えるが、それほど美味くはないぞ」


「そうなんですか?」


「ああ。少し泥臭い。町でも取り扱っていないだろ?」


「確かに……」


「……リセは魚が好きか?」


「えっと……そうですね。私のいた国では魚はよく食べられていたんです」


 だがこの町では魚はあまり流通していない。ここの湖の魚が美味しくないというのなら、それも仕方のないことかもしれない。


 この地域ではパンを主食としている。あとは野菜、果物、家畜の乳や肉などだ。食べる物はあるのだから、わざわざ工夫をしてまで魚を食べようとは思わないのだろう。


(魚やお米がないなんて、異世界トリップの定番だよね……)


 こういう時だけ定番を持ってこないで欲しいと思ったが、こうやってカッシュさんと苦も無く話すことが出来るのも定番の自動翻訳機能が働いているからだということを思い出し、少しだけ留飲を下げる。


「もし……今度魚が手に入ったらリセにやろう」


 突然のカッシュさんの提案に、私は驚く。


「え? 手に入るんですか?」


「干した物にはなってしまうが……海の近くに住む知り合いがいるから、頼めば送ってくれるだろう」


「いえ……でも申し訳ないですし……」


 この世界は便利な宅配業者などいないため、行商が来た時に買うなら別だが、わざわざ何かを取り寄せるのにはかなりの時間とお金がかかってしまうのだ。

 

「気にするな。俺の物を取り寄せるついでだ」


「えっと……じゃあ、かかった費用を折半で……」


「贈らせてくれ。リセにはいつも世話になっている」


「いえ、お世話なんてしていませんよ! むしろいつもパンを買ってもらって、こちらがお世話になっています!」


 私がカッシュさんに対してしていることなど、お金の受け渡しの時に触れ合う手に、こっそり胸を高鳴らせているくらいだ。……むしろこちらがお金を払うべきかもしれない。


「いいんだ。リセが喜んでくれるなら……」


 そう言ってカッシュさんはまた静かに微笑む。


 ここまで言われてしまうと、さすがの私もあれ、もしかしてくらい思ってしまう。もしかして、カッシュさんは私が思っているより私に気があったりするのではないかと。


(うん。まあ、デートに誘ってくれた時点で憎からず想ってくれているんだろうなってことは分かってたけど……でも別に惚れられているとまでは自惚れていなかったし……)


 だってカッシュさんと出会ってからもう一年以上経っているが、これまで何のアプローチもされていない。


 この町の人は出会ってからそう時間が経っていなくても、気に入った女性はすぐにデートに誘う。私も何度かデートに誘われたことはあって、その中には出会った当日に誘ってくれた人もいた。


 けれどカッシュさんは誘ってくれなかった。一年くらい経った頃、私は期待することを止めた。きっと私はカッシュさんの好みではないんだろうなと思ったのだ。


 今回誘ってくれたのも、売り手と買い手という関係だけだけれどほぼ毎日会っていたから、もしかして親しみが湧いたのかな、だから友人としてデートに誘ってくれたのかな、なんて思っていたのだ。

 


――期待しすぎちゃだめだと思っていたのに。



「……リセ。事前に言っていた通り、日が暮れる前に町へは帰るつもりだ。けれどその後……俺の家に来ないか?」


 カッシュさんの言葉に私は息を止めた。聞き間違い、あるいは勘違いではないかと自分の耳を疑った。


 でも次のカッシュさんの言葉を聞いて、私の聞き間違いではなかったことを知る。


「俺の家が嫌なら、リセの家でもいい」


 町へと帰るのは日が暮れる前。けれどその時刻を少し過ぎれば、もう夜だ。独り者の男女が夜に相手を家に誘うということは、まあそういうこと。


 つまり、私とそういう関係になりたいのだとカッシュさんは言っている。


「あ……あう」


 突然のことにどう答えて良いのかわからず変なうめき声を出した私に、カッシュさんが追撃をかけてきた。


「リセ。俺はリセと特別な関係になりたい。一年以上我慢した。これ以上は無理だ」


 特別な関係。


 一年以上我慢した。


 カッシュさんの言葉。その意味を掴むのに時間がかかった。何故我慢する必要があったのかはわからなかったが、カッシュさんが私を選んでくれたのだということだけは、どうにか理解することが出来た。


――カッシュさんの女性の趣味は全く以て理解できないけれど。


「……私なんてぜんぜん、美人でも可愛くもないのに……」


「リセは可愛い。いつも元気だし、いつも笑顔だ」


 元気で笑顔でいる事と可愛い事は別じゃないのかな、なんて思ったけれど、カッシュさんの言葉が嬉しすぎて私の口から余計で卑屈な言葉が出てくることはなかった。


 ただ自分でもはっきりとわかるほどに、顔が熱くなった。今は昼間だから、私が真っ赤になっていることはカッシュさんにまるわかりだ。滅茶苦茶恥ずかしい。


「……私のこと可愛いなんて言うのはカッシュさんだけですよ」


 私の顔はのっぺりとしている。のっぺりとしているくせに、顔が主張していると言われる。アジアンビューティーと言い張ることも出来ないような、微妙な造形なのだ。


 元の世界ならそれでも髪型や化粧で誤魔化せたけれど、ここでは化粧品は高いし、あまり品質も良くはない。しかも顔に乗せる色といえば、原色がほとんど。私の拙いテクニックでは、残念ながら素顔でいた方がまだマシだった。


 ものすごく大雑把に言って、切れ長で奥二重。大きな鼻と小さな口の私の容姿は、この世界では明らかに浮いている。誰が見ても人種が違うのだとわかる容姿だった。


 紹介も兼ねてはじめてアンナおばあさんと一緒に町へ来たとき、出会う人間のほとんどにどこから来たのかと尋ねられた。ここらへんでは見たことのない顔だと。


 そんなときはいつも、遠くから来たと言って適当に誤魔化していた。


「この黒髪も艶があって綺麗だ」


 カッシュさんはそう言って私の髪を一房手に取った。


 確かに、パーマもカラーリングもしなくなった今の髪は自分でも驚くほどに艶々としている。


 ここへ来た時には肩口くらいまでしかなかった髪も、すでに腰の付近まで伸びている。ずっと切らずに伸ばして来たのだ。この世界の美人の条件の一つが、髪が長いことだと知ったから。


 しかもこの世界――というよりはこの町の付近では黒髪は珍しいから、せめて髪美人を目指そうとも密かに思っていた。


「肌も――滑らかで美しい」


 カッシュさんの太い指が、スキンケアの効果が出ているらしい私の頬を躊躇いがちに撫ぜた。


 カッシュさんて寡黙な割に意外と肉食系だなと思いながらも、先ほどから女扱いされていることが嬉しくて、私の警戒心はすでに遥か彼方まで旅立ってしまい戻って来る気配もない。


「それに―――」


 カッシュさんの灰色の瞳が、まるで内側から照らされたようにキラキラと輝いている。ああ、綺麗だなと思って見惚れているとカッシュさんが思いもかけないことを言った。



「リセは、落ち人だろう?」


後編は明日投稿します。

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